Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

カウラの日本兵墓地

2013-03-06 | Weblog
『カウラの班長会議』で描かれるのは、オーストラリア・カウラ捕虜収容所で、一一〇四名の日本兵捕虜が集団脱走を遂げ、二三四名の命が奪われた事件である。収容所跡地の近くに、彼らの墓はある。戦時中オーストラリアで死亡した日本人五二二名の墓もカウラに集められ、現在のような墓地ができたのは一九六四年一一月という。私がその地を訪れたのは七年前である。綺麗な芝生に、まったく同じ色のプレートが何列か並べられている場所。プレートにはアルファベットの文字と数字が刻まれていた。私はそのアルファベットが、ローマ字の日本名であること、記された数字が「5-8-1944」という、まったく同じ数列であること、そしてその「5-8-1944」が、何百と並んでいることに気づいた。不思議な場所に迷い込んだと思った。「5-8-1944」は日付けである。一九四四年八月五日。「カウラ・ブレイクアウト」で亡くなった人たちの命日である。あらためてそこが殺された者たちの墓だと認識した時、微かに聞いていた脱走事件の記憶が蘇り、頭がきーんとしてきた。カウラの住民や退役軍人たちは、敵兵にもかかわらず、自国の兵士同様に、日本兵を手厚く葬った。事件で犠牲になったオーストラリア兵たちの墓地の隣である。日本兵の墓の幾つかは、名前のないプレートであった。アンノーンソルジャーズ、身元不明の墓たちである。捕虜たちは、名前があっても偽名を通した人もいたはずなので、ひょっとしたらその遺族の方々も、彼がカウラに来たことさえ知らないということがありうる。捕虜体験者の半数以上が、妻子にすらその事実を隠していたというのである。脱走で命を落とした日本兵死者の数は、二三四名。それだけ多くの人たちがほとんど同時に命を落とすというのがどういうことなのか、その時の私には、そして今の私にも、想像はできるが真の意味では理解できていないという気がしている。その時墓地で受け取ったと感じた大きな宿題を、『カウラの班長会議』という劇で、ようやく実現しようとしている。
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