A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

memorandum 502 時間旅行

2017-05-21 10:40:27 | ことば
きみをしあわせにする人が、世界にいる。そのことをぼくは知っています。
言い出せない悪いこと、見つからない小銭、ぼくたちがやり残した、たく
さんのいびつな過去が、しわ寄せをして、未来の模様を作っていく。
なにもせず死んでいくきみが好きだ。つなひき、なわとび、考えることを
やめて、宇宙の写真ばかり集める。きみに、名前なんてきっといらない。
いつかきみに価値が出ること、
いつかきみを愛する人があらわれること。
きみは犬みたいに信じて待つけれど
こない 未来に 約束されたさみしさが美しさというものです。

幸福やほほえみはいつだって地続きだ。
劣情や焦りに、逆転などありえない。
ぼくはきみになれないし、きみは永遠にぼくにならない。
美しい世界だ。
きみに愛を約束などしない。
きみを愛する人はどこにもいない、そんな予感が透明な色を空に塗って、
きみは今日もぼくのすばらしい友達。
恋に、最後の希望をかけるような、くだらない少女にならないで。


最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』リトルモア、2014年、68-69頁。



【ご案内】京都新聞2017年5月20日「ギャラリー」

2017-05-20 23:34:00 | お知らせ
本日の京都新聞朝刊の美術欄「ギャラリー」に展評を書かせていただきました。週末のご予定のご参考になれば幸いです。

山本雄教展(ギャラリー恵風 28日まで 月休)
金サジ・三田健志展(eN arts 28日まで 月〜木休)
むらたちひろ展(ギャラリー揺 28日まで 月休)
中澤有基展(Gallery PARC 28日まで 月休)
日置瑤子展(ギャラリー16 21日まで)
オガサワラミチ展(ルーメンギャラリー 21日まで)

memorandum 501 ヘッドフォンの詩

2017-05-19 10:38:01 | ことば
音楽がなくても生けていける
恋をしなくても友達がいなくても
夢がなくても才能がなくても生きていける
獣みたいに餌を食べて体育をして生きていける
私の名前 それをノートに書いて くりかえし自分で読んで
読んで 読んで はい、と答えて 私

最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』リトルモア、2014年、49頁。

私はヘッドフォン人生かもしれない。


memorandum 500 きえて

2017-05-18 23:37:53 | ことば
かなしくはないけれどさみしい、という感情が、ひとの感情の中で
いちばん透明に近い色をしているってことを、知っているのは機械
だけで、わたしは名前を入力しながらなんども肯定の言葉を抽出し
た。ゆめのなかで死んだひとが生きていることや、愛が実在してい
ること。都合のいい世界は破綻していつだってこわれていくことを、
音楽みたいにきいている。朝から夜までだれも迎えになどこない。
でんわがなると、そこに機械音が、きこえてくる世界で、わたしは
ともだちというものを探して歩いている。
ぼくらの星のてんさいたちは、全員生まれてくるのをやめて空の上
で料理を作っている。生きる前からしんでいるかれらはそのうち分
解されて酸素になるんだろう。70億人ふえたって、だれとも肩す
らふれあわないから、大勢が死んだニュースに涙すらこぼれない。

わたしが悪魔になったのはみんなが悪い。あかいろやあおいろの信
号しか見ていない。夜。昼。ともだちができなかった。それだけが
原因だった。ゆめのなかの幻覚に、つれさられて殺されたいと、願
うぐらいにさみしくて、かなしさだけが足りなかった。


最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』リトルモア、2014年、32頁。

私の存在は信号の点滅みたいに、消えてなくなるだろう。


memorandum 499 純未満の関係性について

2017-05-17 21:50:39 | ことば
もうわたしのことなど忘れてしまっているだろうけれど、と、言えばき
っと「そんなことはないよ」と言ってくれるだろう。けれどそう言うま
では忘れられているのと同じなのだから、これは、縁が切れたというこ
となのだ。簡単につなぎなおせるけれど、だれも動こうとしないから、
ぷちぷち切れていく縁というものが死と同じぐらいの頻度で地球上で起
きていて、それは、喧嘩よりもたちが悪い。永遠でないのに、臆病さ
が一瞬を永遠にしてしまっている。

純未満の関係性が今日もどこかで、絆に変わる。愛情のことや友情のこ
とを語りながら、簡単に、わたしたちだけの距離が、規格化される。乱
暴をされる。中途半端に空いていたお互いの距離に、それまでサンドイ
ッチを置いていたね。だれも理解できないことだった。だれもこの味を
知らなかった。わたしがかみさまなら、あなたとのこの関係性にあたら
しく名前を付けて、友でも恋人でもなく、あなたの名前をつけていた。
わたしがかみさまなら、あなたのことを、好きとも嫌いとも大事とも言
わず、ふと出会ったそのときに、いっしょに食事をとっていた。


最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』リトルモア、2014年、18頁。

かみさまだったら、いっしょに食事ができたのに。

memorandum 498 きみはかわいい

2017-05-16 09:47:59 | ことば
みんな知らないと思うけれど、なんかある程度高いビルには、屋上に常時ついて
いる赤いランプがあるのね。それは、すべてのひとが残業を終えた時間にな
っても灯り続けていて、たくさんのビルがどこまでも立ち並ぶ東京でだけは、
すごい深い時間、赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地平線が見られるの。

東京ではお元気にされていますか。しんだり、くるしんだりするひとは、きみ
の家の外ではたくさん起きるだろうけれど、きみにだけはそれが起きなければ
いいと思っています。ゆめとか希望とかそういう、きみが子供の頃テレビから
もらった概念は、まだだいじにしまっていますか。それよりもっと大事なもの
があったはずなのにと、貧乏な部屋の中で古いこわれかけのこたつにもぐって、
雪のニュースを見ながら考えてはいませんか。
きみが無駄なことをしていること。
きみがきっと希望を見失うこと。
そんなことはわかりきっていて、きみは愛を手に入れる為に、故郷に帰るかも
しれないし、それを、誰も待ち望んですらいないかもしれない。朝日があがっ
てくることだけが、ある日きみにとって唯一の希望になるかもしれず、死に
たいと思うのも、当たり前なのかもしれませんね。
当たり前なのかもしれません。
しにたくなること、夢を失うこと、希望を失うこと、みんな死ねっておもうこ
と、好きな子がこっちを向いてくれないことが、彼女の不誠実さゆえだとしか
思えないこと。当たり前なのかもしれない。
きみはそれでもかわいい。にんげん。生きていて、テレビの影響だったとして
も、夢を見つけたり、失ったりしていて。
きみはそれでもかわいい。
東京のまちでは赤色がつらなるだけの夜景が見られるそうです。まだ見
ていないなら夜更かしをして、オフィスの多い港区とかに行ってみてください。
赤い夜景、それは故郷では見られないもの。それを目に焼き付けること、それ
が、きみがもしかしたら東京に、引っ越してきた理由なのかもしれない。


最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』リトルモア、2014年、10-11頁。


赤い夜景を見に行こう。





memorandum 497 もっと動けば

2017-05-15 09:23:37 | ことば
 もっと動けばもっと良くなると、ひとはしばしば思いがちである。ひとは動きすぎになり、多くのことに関係しすぎて身動きがとれなくなる。創造的になるには、「すぎない」程に動くのでなければならない。動きすぎの手前に留まること。そのためには、自分が他者から部分的に切り離されてしまうに任せるのである。自分の有限性のゆえに、様々に偶々のタイミングで。
千葉雅也『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社、2013年、52頁。


何ごとも「すぎない」程度に動きたい。

memorandum 496 生きていくというのは

2017-05-14 23:33:41 | ことば
人生というのは、上から泥の塊が振り続けるようなものだろう。その泥は、実にさまざまで、ありとあらゆる種類の泥が降りかかってくる。人生を生き抜く鍵は、体に泥がかかったらそれを振りおとし、振り払った土を足の下で踏み固めて、しっかりと上にあがっていくことなのだ。誰の人生にもたくさんの問題が待ちかまえている。その問題のひとつひとつが、踏み固めて行かなくてはならないものなのだな。
北山耕平『地球のレッスン』筑摩書房(ちくま文庫)、2016年、166頁。

涸れ井戸に落ちたロバが最後まであきらめなかったインディアンの村の話から。短いながらも本書中で最も素晴らしい一編。
中国あたりの神話で同じような話があったが、土で埋まってしまう教訓話だった気がする。
人生を生き抜く鍵は、土をかぶるか、振り落とすかでかなり異なる。

memorandum 495 草

2017-05-13 08:03:15 | ことば
たとえ踏みつけにされようと、いつでも立ち直り、にこやかにそこに還ってくる緑の草。わたしたち人間も同じように他の人間を踏みつけにしたり、踏みつけにされたりすることがあるだろう。たとえいかなるときにも、自分と自分以外の人に対しての優しさを失うことなく、常に緑の草のごとく立ち直り続けなくてはならない。わたしたちが互いに面倒を見合わなければならないように、同じように緑の草を育て、肥料を与え、世話をする。草の葉の一枚一枚に裏と表があるように、わたしたち人間にもなめらかな面とがさがさしている面とがある。ときには鋭利な葉っぱの縁で手を切ってしまうこともあるだろう。わたしたちはそのことをしっかりと認識し、自分や他人を傷つけたりしないように誰に対しても優しくあらねばならない。
北山耕平『地球のレッスン』筑摩書房(ちくま文庫)、2016年、154頁。

草は、たとえ踏みつけられても、何度でも立ち直れる。