A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記1185 『美術と批評』

2016-05-21 23:55:40 | 書物
タイトル:美術と批評
並列署名:Art and criticism
シリーズ名:慶應義塾大学アート・センター/ブックレット; 24
編集:應義塾大学アート・センター
発行:東京 : 慶應義塾大学アート・センター
発行日:2016.3
形態:80p : 挿図 ; 25cm
注記:巻末に英文抄訳あり
内容:
はじめに 渡部葉子

25時の美術と批評 峯村敏明
ポスト・モダン批評と言語の牢獄 沢山遼
批評家ボードレール -享受者への意識- 遠山公一
コンセプチュアル・アートが生まれるとき -ローレンス・ウィナーの『ステイトメンツ』- 平野千枝子
河原温《浴室》シリーズについて 南雄介
英文要旨

購入日;2016年5月21日
購入店;NADiff a/p/a/r/t
購入理由;
 職場に届いた本書を見て興味を惹かれて中身をみたら峯村敏明氏の論考を見つけた。これは購入してじっくり読まねばと思い、たまたま東京に行く用事があった際に購入。
 つねづね思うことだが、芸術のあるところに言葉はある。芸術に言葉はいらないという人がいるが、人は言葉で思考し、言葉でコミュニケーションする生き物である以上、視覚芸術においても見たものを言葉にし、理解、伝達するものである。
 よく昔は批評があり、今は批評(家)がないという。確かにメディア環境や美術誌などの掲載は少なくなった。だが、そうだろうか。個展やグループ展の展覧会カタログ、リーフレットの発行などは以前に比べれば多く刊行されているし、ましてやウェブサイトを通じて展覧会、アーティストの活動を知ることは容易にできる。それらにテキストはあるし、私もたびたび執筆させていただくこともある。
 だが、残念ながら日本では略歴やカタログ表記の統一がとれておらず、せっかくテキストを寄稿しても、アーティストの略歴、参考文献に表記・掲載されないのである。キュレーションも同様に、略歴上に「企画:〜〜」や「キュレーション:〜〜」と表記されることはほとんどない。これでは、ないも同然である。ネットで検索してヒットしなければ「ない」とされる時代、たかが一行であろうと表記されなければないことになる。会場配布資料ともなれば、会期後にギャラリーやアーティストのホームページに掲載されなければ読めないし、そのような資料があったことさえ知られることがない。
 展覧会カタログでは、海外の美術館であれば、冊子の形態を問わず、参考文献として記載され、ウェブサイトのURLも含まれる。対して、日本の展覧会カタログでは紙媒体しか対象とされておらず、その紙媒体も多くは雑誌や出版社刊行による物が中心で、ギャラリーやアーティストが発行する自費出版によるリーフレットなどは含まれていないことが多い。どうか作家の自己申告だけに頼らず資料調査をして欲しいものである。どうか、作品、作家に寄せられたテキストをきちんと明記してほしい。展覧会レビューは言葉による記録だと考えてほしい。レビューがないということは、展覧会の記録がないということだ。言葉がなければ、検索してもヒットせず、さまざまな媒体で引用、参照、参考されることがないということだ。。つまり、歴史に残らない。なぜ、写真クレジットについては撮影者クレジットを義務のように課しているのに、テキストはないことにされるのだろう。書いている者としてあまりにヴィジュアル優先、テキストへの排外的な姿勢だと思う。そう思うのは私一人だけなのかもしれないが、批評を絶滅に追いやっているのは、実は美術界なのだ。ときどきアーティストが批評がないと嘆くが、批評を排除しているのはアーティスト本人でもあるということを自覚してほしいと思う。