《ただいま》
第七回・由香の一人語り・5
※主な人物:里中さつき(珠生の助手) 中村珠生(カウンセラー) 貴崎由香(高校教諭)
ただいま~ と声をかけて入ると、もう始まっていた。
私は、このごろ他のカウンセリングの先生のアシもやるようになった。でも珠生先生がメインなんで、由香先生の時間になってきたのでもどってきたのだ。
珠生先生は、時間を掛けて由香先生に時間を遡らせる。眠った由香先生の唇が動き出した。私は、急いで速記用のパソコンに付いた。
秋の終わりに再び熊が出た。
今度は被害者は出なかったけど、警察は猟友会に依頼。脚が悪く、まだ幼い熊が射殺された。
ショックだった……。
町に買い出しに行っていた田中さんは、全てが終わってから、そのことを知った。
二日ほど塞ぎ込んでいたが、三日目には役場に出向き、なにやら直談判……グロテスクでもミゼラブルでも、ここに根を生やさなければ……そんな気迫を感じた。
その後、熊に関する問題は起こっていない。
村は、少し変わり始めたようだ……やっぱり田中さんは凄い!
嬉しい変化は、雪解けと共にやってきた!
オーナーは強気に出た。
今年は、春から客が見込めるとにらみ、念願のパートを増員することにしたのだ!
けっきょくは、あたしと同じ住み込みになるんだけど……幸子さん、あなたがやってきたのです!
美貌の二十二歳。作家志望の女子大生……え、歳はいいって? ハハハ。
幸子さんがやってきて、ペンションは、さらに変わりました。
月並みな言い方だけど、パッと花が咲いた感じ。ロシア文学好きってのもシブイ!
あたしとは、三つ違うだけなんだけど、女の魅力というやつ。
あたしが、このペンションで働き始めた時、オーナーの奥さんは、こう言ったものだ。
「女の子が来たんだから、身だしなみとか気をつけてください。お客さんの手前もあるしね。あなたも田中さんも」
奥さんの忠告は、ほとんど無視された。
さすがに、お客さんの前では控えていたが、薪割りや荷運びで暑くなると、平気で上半身裸になったり、ゲップをしたり。時にはパーテーション一枚隔てただけの事務所の中で、オナラの競い合いをしていたり、鼻毛を抜いては灰皿の縁に植えたり。
それが、ピタリと止んだ。
オーナーなんか、いつも襟付きのシャツを着て、オーデコロンなんか付けるようになり、間違ってもオナラの漫才や、鼻毛の植え付けなどはしなくなった。
奥さんは、前とは違う意味で忠告するようになった。
一番大きな変化は田中さんだ。
あの、ブッキラボウズの田中さんが、お喋りになった。と言っても、あくまで以前の田中さんと比べてということで、けして明石家さんまのようになったという意味ではない。
仕事が一段落したときなど、幸子さん相手に小説やら外国の話をしていたり、互いの身の上話をしたり。ただし、身の上については、双方どこまで本当かは分からない。
あたしと幸子さんが二人でいるときも、わざわざ幸子さんの方だけ声を掛けたりしていた。
二人の話は、いつも面白く、新発見や驚きに満ちていたが、あたしは幸子さんのように田中さんと対等に話すことができなかった。
不勉強と人徳の差。
あたしは、ただ子どものように大笑いしたり、涙を流したり、怒ったり、ビビッたり。
ただ、素直な賑やかさで反応する聴講生でしかなかった。
あたしは、ときどき、その高度な大人の会話に嫉妬した。
幸子さんは、そんなあたしには気を遣って……いなかった。
遠回しで意識的な気遣いは、かえって人を傷つけることを知っていたから……。
ある晩、いつものように大人の会話で盛り上がって……そう、七夕のちょっと前くらい。その日は、あたしには着いていけない文学的な激論になり、あたしは早々と部屋に戻った……うん、あのとき、あのとき。
くすんで拗ねた心と体をベッドに押しつけても、七夕に近い空と同じくらい目が冴えて眠れずにバルコニーへ。
頬杖ついたあたしの横……。
いつの間にか幸子さんがやってきて、ココアをかき回しながら、こう言った。
「わたしと田中さんが喋るのはね、仲が良いからじゃないんだよ。喋ることで互いにガードを張ってるんだ。時々、わたし経由で、ユカちゃんに話しかける。気づいてた? ユカちゃん反応がいいから、田中さん喋るんだよ。あの人は同調よりも感動を共有したいんだ」
「え……?」
「このワカランチン……ユカちゃんの方なんだよ、田中さんが好きなのは」
「今日は、そこまでにしときまひょ」
「今まで、ボンヤリしてたけど、田中さんの顔がはっきりしてきました……でも、この先が思い出せない。幸子さんが、あんなにはっきり言ったのに……」
「核心に近こなってきましたな……」
「田中さんと……なにがあったんだろ……やだ、なんだか、あたし震えてる」
「そやけど、目の輝きは戻ってきましたで。これからは、ええことと悪いことが、いっぺんに出てきまっしゃろ。これ、あげまひょ」
「万歩計?」
「次まで、日に一万歩……」
「歩くんですか?」
「走りなはれ。呼吸が荒ろなったり、心臓がバクバクすんのに慣れなはれ。カウンセリングも胸突き八丁。体から慣れときまひょ」
「はい、ちょっと怖いけど」
窓の下を見ると、門から走っている貴崎由香先生が見えた。ちょっとハラハラした。
「この仕事は、クランケに付かず離れず。マラソンの伴走者みたいなもんだす。あんたも、そのつもりでね」
「はい」
「ちょっと、おいしいコーヒー買うてきてくれる」
「はい」
ドアを閉めると珠生先生の、可愛いクシャミが聞こえた……。