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ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

パリ祭

2008年07月14日 | 旅の話
7月14日はパリ祭。
「きょうはパリ祭だ」と、何年もまえに田舎の破れ部屋で言った男がいる。
当時の巴里は、はるかに遠い國だったが、その部屋は特別な空気が立ちこめていた。
子供の時、その話をきいていた当方、いよいよ、パリの空の下、セーヌが流れる景色を眺めに海を渡ったが、おのぼりさんとしては、路上のスタンドに立ち寄って記念になりそうな新聞を物色していると、店員が「タダで読マナイデ」と言った。フランス語、読めない当方にむかって、それはかいかぶり。
『ムーラン・ルージュ』に行きたかったが、満席で、『リド』にまわった。
一番よい席は、舞台のそばの食事付テーブルらしいが、ワイン1本だけの外野スタンドに節約した。
日本の伝統芸では、歌舞伎座のようなものだろうか、ストロボライトに踊り子がストップ・モーションする意外なショーだった。
パリ祭なら、遠くで思うものでよいかと、タンノイでイブ・モンタンを聴く。

☆そのむかし『ウィンドウズ3.1』と格闘していたある深夜に突然電話が鳴り、訝って受話器をとると「きょうはパリ祭だ」の御仁からの「30年ぶり」の電話であった。
或る人物の消息を知りたいと言っているが、中学のころ一度見て以来の伝説の人間が電話の向こうにいた。
その1メートル90はあろうかという巨人が、ジャンパーの肩を少しすぼめて歩いているところを思い出すと、ついでにモーツァルト40番が聴こえる。
この巨人の部屋の蓄音機で聴かされた人がハミングしていた40番。





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言問橋

2008年05月13日 | 旅の話
こと問いダンゴを食べながら『ジュニア・マンス』を聴くという手もある。
江戸湾から隅田川を遡ると、最初に勝鬨橋が見えて、永代橋や両国橋をくぐって14番目の橋が言問橋である。
この水戸街道が隅田川を渡る言問(こととい)橋に「こと問いだんご」があり,昔おさななじみが住んでいたので、だんごを食べに訪ねたことがあった。
だんごの代わりにいろいろな手料理を供されて、夜も遅く、最終電車に間に合うようにご主人が車で浅草駅まで送ってくださった。
そのとき話がはずんで、言問橋を下ったところの広い交差点をぴゅーっと渡ってから、アレ、いま赤信号だったね、と運転していた御仁は首をすくめた。
赤信号を渡ったのはその一度きり。
浜美枝嬢とひさしぶりに電話で話したとき、言問橋夫人の最近の様子をきいてみた。
「彼女、先日、胸が痛いと検診したら再検査ですって、真っ青です。」
診断の出る前に浅草の神社まで二人でお参りに行きました、と当人は深刻だったのか。
「結果は何事無く、よかったねお礼参りにいかなくちゃと勧めたら、違うところにお食事にでもいきましょう、って...ほっほほ」
人生に何度か引っ越しがあるが、6回目の引っ越した先の或る日、ご近所の老婦人がお見えになった。
店先で失礼とは思ったがお茶をお出しすると、ご自分のこれまでを、秩父に生まれた子供時代のお話や、浅草言問橋の近くに住んでいた思い出も話されたが、訪ねてきたのはその一度きりで、そのあとは道であってもちょっと挨拶をする程度のことで、あれはわざわざ先方から自己紹介に来てくださったと知った。言葉によどみなく気品のあるひとであった。
だんごは花より良いのか、一関には、かっ○うだんごやごま○りだんごがあるので、北上川を船で下りながら言問だんごとゆっくり食べ比べをやってみたい。
ジュニア・マンスは50年代にダイナ・ワシントンの伴奏もつとめていたが、レイ・ブラウンのベースが、オスカー・ピーターソンのときとくらべ、マイクを10センチ近付けたようなサウンドが聴こえスイングの違っている。


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アウトバーン

2007年09月29日 | 旅の話
Dusseldorf Hiltonでバスタブに浸かっているとき停電があった。
それで、所在なく薄暗いバスタブの湯に浮かんで一日のことを漠然と思い返したわけである。
「このトンネル横手に、戦時中の飛行機格納庫があります」ガイドが言った。
WWⅡのプラモデルマニアにとって、アウトバーンのトンネルに造られた秘密格納庫の話は耳をそばだてる。
バスは無情にも、あっというまに封鎖された壁穴横を通りすぎた。停まっては危ない。追突されるので。
組立工場とも聞くが、いずれ、あの穴の中からメッサーシュミットが出てきて、自動車道路を滑走路にして飛行機が飛び立つのである。フロントガラスの先にひろがるシュバルツバルトも、パイロットからあのように見えたのだろうか。
気分が同じはずはないけれど。
幼稚園にあがるまえの記憶で、父親と自転車に乗って国道を平泉に向かっている。
頭の上の方からオヤジの声がする。「掴まっていろ、ハンドルに」
平泉の外れの国道に飛行機が不時着したという情報をどこから聞いたのかオヤジは、幼時の当方を乗せて20分も走ったのだろうか、そのとき東北本線の側の白い国道の先から離陸したと思われる物体が、ババババと爆音を響かせて、上空を飛び去って行くところに遭遇した。
たぶん昔の飛行機は、こまかいことを言わなければ直せてしまうのであろう。
乗員が手を振っている黒い機影を記憶に残して、その場をUターンしゆっくり家に戻った。
日本の国道も、電柱が離れているところではなんとなく離着陸ができたのだ。
バスルームの明かりは停電ではなく、ライトが消えていた。
日本の高速道は、アウトバーンをモデルにしたといわれ、東北道では岩手山が綺麗に見える場所がある。
『オールド・タイムズ・セイク』でも聴いて走れば、それは芭蕉の知らない景色だが。

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オクトーバー・フェスト

2007年09月23日 | 旅の話

静かにビールを味わう季節になった。いまころミュンヘンでは『オクトーバー・フェスト』が始まっている。
1974年秋のミュンヘン『ロウエンブロイ』の大テントに入った。
そこには数千人の観光客や市民が、中央の舞台の軍楽隊が吹き鳴らすババリア舞曲のしり上がりに煽りたてる音楽に揺れて、ゴーッという騒音とビールの泡で遠くが霞んでいた。
「ハポンか?」と近くの席の男女が、長椅子をずらして我々を座らせてくれた。
どんどんいこう、と言われて、さっそく回してもらったジョッキを掴んだ静岡人が、小柄な人であったから、大男、大女のドイツ人の間に挟まれて「キンダー?」と可愛がられている。
普段は生真面目なドイツ人も、男も女も太い腕を巻くって、皆ノドの奥までビールに浸かり、陽気に上気した顔でジョッキを傾けていたが、ガイドは「ドイツでは自分の腹の下を見て、足の爪先が見えるようならまだ一人前ではないんだ」と言った。
パルス、ビルゼナー、ヴァイスの大テントをのぞいて陶然として夜道を歩くと、上空のあちこちの柱に備えられたジーメンスのスピーカーから、勢いのよい音楽が聴こえてくる。
公園の一角に即席遊園地がつくられて射的や回転ブランコ、覗き小屋で賑わっていた。
高速ブランコで、毎年、何人も怪我人がでるのは、フラフラで乗っても誰も止めないからだという。
この1974年は「カモメのジョナサン」が翻訳されて話題になり、ビル・エバンスがエディ・ゴメス、マーティー・モレルと日本に遠征し、M・J・Qが解散コンサートで驚かせた年だった。
ラスト・コンサートのLPジャケットは、どれもみな同じに見えても、中のLPは再販なら音に差があって心外だ。

☆ラスト・コンサートをタンノイで聴いて、ピアノやベースの音像定位をイメージする暗黙の了解がある。
マイクロフォンの位置を写真で見ると、位相も含めて楽器をステージにどうやって定位させるのか、感慨が深い。



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ローマの橋

2007年09月17日 | 旅の話

テヴェレ河に架かる小さな石積の橋を渡ろうとしたのは、二度目に泊まったホテルから遠くない所にあるという雑貨屋に向かったときのこと。
薄闇のなかを、行き交う人もなく歩いていると、道の先に、そこだけが明るい橋のたもとの街灯の光の端に、威張った人が立っていた。
黒い服に短いスカートの、バルドーに似たような濃い目鼻立ちの姿は、貴婦人とすぐに察した。
ドキン。
すれ違うにはなぜか狭い、チャオと言うのか?挨拶がわからず、一対一であることが足どりを鈍らせた。
.....ゞ§☆▽♯〆*。
申しわけありません。

オットリーノ・レスピーギのローマ三部作を、まだタンノイで聴いたことのない人は幸運だ。
ミューズの微笑が、三つも待っている。


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ローマのレストラン

2007年09月16日 | 旅の話
我々の通されたレストランは、そこも古い石造りの部屋で、天上まで開けたガラス窓の外に、古代ローマの遺跡『カラカラ浴場』の大きなシルエットが見えた。
二間続きの広い部屋に大きなテーブルが何組も置かれ、旅行客でごったがえしている。
そのレストランで注目すべきは、窓際に置かれた一畳ほどのがっしりした事務デスクで、デスクを中心に移動する目配りの只者でない三十代の白シャツ姿の男が、この店を束ねているらしかった。
大勢のウエイターがその男に恐縮して腰を低くしている姿は、いささか古いローマ時代のようだ。
当方が、男の隙をみて、書類等の置かれている机の側まで行ってみたのは、日本のレストランではなかなか見ることのない、ボスの席が一般客の食卓の傍に置かれている不思議に、表敬の気持ちがあったのだが。江戸時代の帳場と少し機能が似ているのだろうか。
されど、それほど間を置かずに戻ってきたその男が、ゆっくり接近してきて、じっと当方を見ているのが残念だ。
こちらは二十代の若造で咎めだては無いけれど、しかしそれ以上近寄ることもままならず、席に戻った。
それはジャズ喫茶の世界で言えば、話に聞くところの、旅行客が『B』の奥に置かれた丸テーブルに接近したときのような、間合いと緊張かな。
そのあと、ローマのレストランではお定まりのカンッオーネの一団が登場する。
カラカラ大浴場がローマ市民のために賑わっていた頃、日本は邪馬壹国の卑彌乎が国造りに忙しかった。


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ローマのフェリーニ

2007年09月01日 | 旅の話
そういえば、ローマに泊まったホテルは、アルキメデス通りにあった。
古い遺跡のような大理石の建物は、何百年も経つように古めかしく、我々一行の貸し切りにつき、しーんとして他の客をみることはなかった。
フロントでドルをリラに替えようとしたら「リラは無い」といわれた。日々、貨幣価値が下がる当時のイタリア人には、自国通貨を持つことはあぶない。
国家は破綻しても、ドルをふところに国民は優雅に振る舞い、ケインズもローマでは旅人だった。
食堂の大テーブルに着いた我々を、黒と白の服を着たウエイターが十人くらいで取り囲んで、前菜のスパゲッテイを「おかわりするか?」と、ナポレオンそっくりの給仕が大皿を持って当方に迫ってきた。
大きな部屋が三室も続く空間をあてがわれて迷惑したが、余ってるのと、このホテルに小さな部屋は無いらしかった。
その窓際に置かれていた丸テーブルが記憶にある。
『フェリーニ』が座れば、いい感じだが。
フェリーニは新聞記者をしていたことが有る。

イタリアの建物にもタンノイは似合った。しかし『ソナス・ファベール』がそれを遮っている。
波形の忠実な変換器であるはずのスピーカーは、楽器のような強い個性を持っている物が、時代を経て珍重されているのがおもしろい。

☆到来物のブランデーケーキを三個味わったら前後不覚に眠ってしまった。
☆世田谷に盛岡ジャージャー麺が進出したと聞いて、いちど食べてみたいが、スパゲッティナポリタンのようなものかと思う、秋の入り口。


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フィレンツェ 1

2007年07月21日 | 旅の話
テレビで、フィレンツェのニュースを見た。
そういえば、フィレンツェというところに、行ったことがある。
ヨーロッパ中世の石畳の街、日本の安土桃山時代にはダビンチやミケランジェロがここに暮らしていた。
「モナリザ」が、あるときルーブル美術館から忽然と消え震撼させられたが、2年後にこのフィレンツェで発見された。絵は里帰りしていたのである。
この歴史の街を究めようとすれば、何年住むと気がすむのか。
ホテルでの夕食後、散歩に出て、気が付いたときには迷子になった。
通りかかった痩せた男に道をたずねると、その笑わない大学生に黙って或る広場に連れていかれた。
そこには、腕に刺青をした不気味な男女の革ジャン集団がオートバイに跨り、ブルンブルン円卓会議の最中で、ぎょっとした当方「かんべんしてよ」。
男は、そこに当方を導き、ホテルの道順を聞き出そうと、何かを喋っている。
ウタマロか空手か、一斉に上から下までジローッという男女の視線が、レントゲン光線のように爆音を伴って照射してきた。
見る旅人が、見られる旅人になったあの瞬間のことは、忘れられない。
その大学生は一緒に案内して来たが、最後まで一言も喋らなかった北イタリアである。

☆ジャズ好きの客が、羽田の奇妙な煉瓦の建物の写真を見せてくれた。旅客機の飛行角度が、今は物議をかもしそうだが。


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ナポリ

2007年04月20日 | 旅の話
『ナポリ』というところを、東洋の島国からはるばる見物に行ったことが有る。
観光バスでいよいよナポリに入ったとき、幼時から花のパリとナポリのあこがれをB氏に聞かされていた当方は、先を越したなんともいえない満足感に、じゃっかんひそかに興奮したのである。道端の草花でも証拠に1栞手帳に挟んで持って帰ってあげようか。
だが、ナポリの何を見ろ"Vedi Napoli, e poi muori!"と諺に言うのか、イタリアならどこにもある煤けた石造りの街並みをグルグル廻りながら疑問はつのるばかりだ。
すると、それまで日本人ガイドアルバイトにまかせっきりで沈黙を守ってきたナポリっ子ガイドから何かお言葉があるという。全員注視してジョゼッペ氏の口元を見た。
立ち上がった彼は喋れるのであった。しかも饒舌な巻き舌で。
「カメラを持っている者は、みな右の窓に寄って、シャッターを切る合図を待て。おもしろいものを見せる」と、お言葉は通訳された。
「あー」という一瞬のうちに通りすぎたそこは、残像によれば、アパートとアバートのあいだにロープが渡されて洗濯物がいっぱい翻っている、健康的なのどかな光景だが、それがどうしたというのであろう。一斉に切られたシャッターを満足そうにジョゼッペ氏は、再び沈黙の人になった。
あとで、日本人ガイドをつかまえて、ジョゼッペ氏のこだわりの風景に解説を求めた。
ジョゼッペ氏は、あのアパート住民群とライバル関係の土地っ子で、ロープの洗濯人種を世界中の笑い者にしたいのだ、とのことである。ナポリ人は手強い。
やがてバスが小高い丘に上がったとき、紺碧の地中海と弓形の湾が眼下にどこまでも展望して、遥かにベスビオス火山が見えた。
坂道の途中にて、バスを待ちかまえている屋台のおやじさんが売っていたアメリカンチェリーをつまみながら、歴代のローマ皇帝が好んだ絶景を見て、一句と思ったが、気分がなぜか芭蕉にならないのが不思議だ。
ガイドブックにこう書いてあった。
"Tutte le strade portano a Roma." 全ての道はローマに通ず
"Se son rose, fioriranno." もし(それが)薔薇ならば咲くだろう

☆当方がイタリアを訪れた2年後の69年と72年にエバンスはヨーロッパツアーでイタリア興行をし、そのときの放送局テープが後年発掘されて話題になった。再び渡ったとき伊フィロロジー盤をついでに探して、買ったのはナイキのTシャツ千円だった。
☆多賀城市から『LE-8T』を愛聴するジャズ好きが登場した。シェリーマン・ホールの『Round Midnight』を聴きながら、古代日本の陸奥の国府と長安の都を想った。そうとうな隔たりではあるが、いつか七重の塔のあった街を探検してみたい。

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岩魚、山女

2007年02月05日 | 旅の話
平泉の奥に、おそろしい魚の棲む沼があるときいて、ある天気のよい日に出発した。
地図にもないような道を分け入って、車は野を越え山を越え、「意外に遠いね」などと道に迷って、畑仕事をしている人に尋ねながらついにたどり着いたそこは古い分校の跡で、敷地の奥まったところがキャンプの人のための釣堀兼養魚場となっていた。
誰も釣っていないのは、穴場なのか?
棚田のように3段に分かれた沼は、魚の成長に合わせて住み分けられているらしい。
我々は魚釣りは趣味ではない。
ただの風光明媚をめでる野次馬であるが、恐ろしい魚という風聞に惹かれ、昔B氏にいただいた職人造りの釣竿というものを、やっと使うチャンスがきたと弁当を持ってこうしてやってきたのだ。
管理事務所らしいところに挨拶に行くと、釣竿と餌を貸してくださった。
ところが、沼の縁にいよいよ立ってみたが、これはなんだ?
魚がザワザワと寄ってくる。
餌をつけた糸を垂らすとパシャパシャッとすぐ魚がかかった。
釣り上げたその魚といったら、黒にシロのブチの獰猛な顔でこちらを睨んでいる。
だれもが、ギャッといって、その魚を掴もうとしない。皆で譲り合って、しかたなく大きな木の葉で顔が見えないようにやっとのことで針をはずした。これほどの怖い魚があろうとは。
なさけないことに、もう、だれも針に餌をつけようとしなかった。
いちおう糸を垂らしかっこうをつけると、魚が争って金属の針に食いついてくる。
どうなっているのだ。
もう誰も糸さえ垂らさず、じっと沼の深みをなすすべなく眺めているだけであった。
はやり釣りというのは、鯛や、フナが、20分に1匹くらいかかってくるのが良いのではなかろうか。
ほうほうの体で、事務所にもどり釣った1匹の料金を置いて帰ろうとすると、「ちょっと、お待ちください」若い衆が魚をビニールにくるんでドライアイスまで入れて持たせてくださった。
家に戻って焼き魚にしてみると、これは、かってないほどおいしい。もっと釣ってくればと、口々に反省した。
魚は怖いけれど「ぜひ、また行こう」と。
帰りの道で、白い髪を靡かせた人と、車ですれ違ったような気がする。

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モナリザ

2007年02月02日 | 旅の話
絵はモナリザ、スピーカーは『タンノイ』がよい。
音楽は、タンノイの音にこだわる。
リズムとメロディとハーモニーを楽しむのに、ラジオがⅠ台あればよいが、『モナリザ』は至宝と子供の頃からきかされて、パリに行けば一目見よう。
その美を誤解して、写真に眉まで描いてみたモナリザは、ルーブル美術館で、厳かなガラスのケースに収まって以前より遠くなっていた。
モナリザの前に立ち、謎といわれる微笑をしばらく見て、そこで思ったひとつは、自分がいつのまにかモナリザより年上になっていたことで、これには意外に驚いた。待ってみるものである。
謎の微笑を隠したモナリザに、タンノイのサランネットとチークのフレームがかさなり、タンノイの、はまってしまう魅力が人騒がせで。
アンプを替え、電源を吟味し、巷間に唱えられる薬石をならべて試す。
遠路をいとわず他人を訪ねては聴き耳をたて、アトリエまで建ててみる。
すべて心の『モナリザ』のためなのか。
わずか5ミリの厚さのレオナルドのモナリザに、人は長蛇の列をつくったが、笑えまい。こちらのモナリザの厚みは50センチ。
レオナルドが生涯アトリエの奥に隠して一人で眺めていたモナリザとの対面は、できればクルー館で、レオナルドに案内されて実現したかった。

☆ このモナリザに、べつのバージョンがスイスにあるとテレビで放映されて、新しいタンノイが登場したときのように心騒いだものである。
☆ 水戸のタンノイ氏は大型タンノイの所有者だ。先日、函館に3軒のジャズ喫茶をはしごされたそうで、それぞれの装置の音色を伺い印象をきかせていただいた。
かって、山形に行かれたときも、腰を上げるだんになって「LPも、かけることがありますか?」と未練が残ってたずねたそうだが、「はやく言ってくだされば...」と。音と店の様子と一つのフレームに収めて、黙って、あるがままを聴くのは楽しい。

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箱根彫刻ノ森美術館

2006年12月06日 | 旅の話
千里に旅立て、路粮を包まず。
三更月下無何に入と云いけむ昔の人の杖にすがりて、
貞亨甲子秋八月、
江上の廃屋を出ずる程、風の声そぞろ寒気也
「野ざらしを 心に風の しむ身かな」

芭蕉の『野ざらし紀行』は箱根の関を越えて始まったが、
天下の嶮の上に、その彫刻群はあった。
眼に見えないジャズやクラシックの気分を、眼で見ようとする。
物言わぬ造形が、永遠の時間を一瞬にとどめてゴドーを待ちながら
そこに佇んでいるようだ。

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ポンペイ

2006年12月04日 | 旅の話

ポンペイの広場はベスビオスの火山灰の下から姿を現して、歴史の記憶を蘇らせた。2千年前の街のまだ三割は土の中に安眠しているが。
村の食堂で昼食のナポリタンをとっていると、どこからともなくヴァイオリンと打楽器を持った老人達がテーブルのそばに来てトリオで演奏を始めたではないか。
こ、これは、チップはどうなってるの?食べていても気がきではない。
だが、なかなか良い気分だと気がついた。
どんどん、お願いします。
こんな演奏でホントにいいのか?と彼等はニコリともせず恐縮して演奏しているので、ノセるのに皆で苦労した。あきらかに近所の普通の村の人であった。

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東大寺梵鐘12月30日

2006年12月02日 | 旅の話
巷に雨の降るごとく、ヴェルレーヌの鐘も、良寛の鐘も、ノートルダムの鐘も雄弁に喋っている。
チャイコフスキーの1812年の鐘は軍艦マーチのようだ。
眼の前の、日本三銘鐘といわれる「東大寺の梵鐘」は、明日の六根三世の煩悩を吹き払う大働きをまえに、微塵の興奮もみせず落ち着き払っていた。
そっと触ってみると、わずかに振動しているように感じるが、指の鼓動であったかもしれない。
タンノイのユニットも、振動して歴史を創っている。
すべてを、振動宇宙というそうだ。


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唐招提寺講堂

2006年12月01日 | 旅の話

奈良の都も、年末には人がいなくなる、という話は本当だった。
或る年の12月30日平城宮跡に立つと、もと官庁街であったところはポンペイの遺跡のような記憶も大地に留めず、あまりに印象が薄い。
唐招提寺の講堂が、朝集殿(霞ヶ関ビル)を移築したものときいて、足を伸ばしてみた。誰もいない。
当時の御役人の勤務時間は、朝の四時から昼の十二時までであったそうな。
天平時代の木造弥勒菩薩坐像、持国天、増長天立像と三体がいわばジャズ・トリオで静謐な空間に、濃厚な無音の存在感をみせている。
土門拳は「キミね、仏像は走っているんだよ」とシャッターを切る心を述べたが、たしかに仏像はスイングしているようだ。
夕刻、ホテルを抜け出して、駅前の市場に食料の買い出しに出掛けた。
暖房の風をまともに浴びて、風邪をひいてしまったが柿が美味しかった。

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