大竹まこと✕室井佑月:日本人から巻き上げ米に貢ぐ売国法案! ゴールデンラジオ2018年7月6日
Hawaiian Volcano Observatory says Kilauea’s Fissure 8 continues to be very active
前川氏講演会の後援拒否 広島県・市教委のおかしな言い訳
広島県のNPO法人が9月30日に県内で開催する前川喜平前文科次官の講演会の後援申請に対し、広島県と広島市の両教育委員会が共に拒否していた。 講演会を企画したのは教育支援を行うNPO法人「フリースクール木のねっこ」。「対談講演 前川喜平さんと語る!~今変わりつつある教育と法~」と題し、不登校や憲法・道徳教育について、前川氏と教育関係者や弁護士が対談する予定だ。 市教委は後援拒否の理由について、4月に山口県下関市教委が前川氏の講演会の後援を拒否したことを挙げ、「各自治体によって判断が分かれているので、積極的に後押しすることはできない」とした。 県教委は教育長を含めた幹部で協議し、後援拒否を決定した。「内規で特定の宗教や政党を支持する事業は後援しないこととなっており、前川さんの場合、講演内容が政治的でなくても、メディアに政治的に切り取られる恐れがあるため」と説明。その場の発言を聞く前から、前川氏が講演会に出るだけで「政治的でNG」と判断するとはオドロキだ。元文科官僚で広島県教育委員会の教育長も務めた寺脇研氏はこう言う。「政治的な内容だと後援できないというのはおかしな話です。広島では原爆に関する講演は政治的な内容であろうと後援してきた。原爆がOKで前川氏がダメというのはダブルスタンダード。政権からにらまれたり、ネット右翼から嫌がらせを受けるのが面倒だったのでしょう。自治体が政権に忖度してしまっている」 いい加減、政権に忖度する役人の風潮はもうウンザリだ。
共闘訴えに「そうだ!」
富山・小矢部 笠井氏迎え党演説会
(写真)参院選・小矢部市議選の必勝を訴えた(右から)青山、笠井、砂田、堀内の各氏=3日、富山県小矢部市
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-07-05/2018070504_04_1.html
市議選が29日に告示(8月5日投票)される富山県小矢部市で3日夜、日本共産党小矢部市委員会が笠井亮政策委員長・衆院議員を迎えて演説会を開きました。笠井氏は、国会で公文書の改ざんや隠ぺいを続ける一方、「残業代ゼロ制度」を強行し、賭博(とばく)を合法化するカジノ法案などの成立を狙う安倍政権の暴走を厳しく批判。「平和憲法を生かしたうそのない政治、8時間働いてまともに暮らせる社会をつくるために市民と野党の本気の共闘を広げましょう。参院選での勝利と市議選での2議席実現で、安倍政権にノーの審判を下しましょう」と呼びかけました。青山りょうすけ参院選挙区予定候補は「野党共闘を進めて、来年の参院選で自公と補完勢力を少数に追い込む」と訴えました。市議選(定数16)で議席増をめざす、砂田よしあき=現=、堀内あきよ=新=の両市議予定候補が決意表明。9期目をめざす砂田氏は「2議席を獲得し、国保税の減免を実現させる」と力説。地域で戦争法反対などの運動に取り組む堀内氏は「平和憲法を守り、働く人の味方として頑張る」と語りました。各弁士の力強い訴えに、聴衆は「そうだ!」と声を上げ、共闘を進める決意を固め合いました。
Hawaii Volcano Eruption Creates 555 Acres of New Land as Big Island Becomes BIGGER
ハワイ火山噴火により、ビッグアイランドが555エーカーに拡大。ハワイ火山噴火は、500万エーカー以上の新しい土地を造る溶岩で永遠にビッグアイランドの景観を変えました。Kapoho湾として知られている島の美しい角は、それが海に注ぐように溶岩で完全に満たされています。その結果、海水と接触する溶岩の結果として有毒な亀裂が空気中にぶつかる有害な領域に変わった。米国の地質調査所(USGS)は、「海の入り口で、溶岩は555エーカーの新しい土地を作りました。
LIVE 🌏 山本太郎 議員 内閣委員会質疑(14:30~15:05メド)
大飯原発控訴審 司法は判断を放棄した
http://www.chunichi.co.jp/article/column/
住民の「人格権」を尊重し、関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを認めた一審の判断は、いともあっさり覆された。「原発の是非は政治に委ねる」という裁判所。一体誰のためにある? 「福島原発事故の深刻な被害の現状に照らし、原発そのものを廃止・禁止することは大いに可能であろうが、その当否を巡る判断はもはや司法の役割を超え、政治的な判断に委ねられるべきだ」と名古屋高裁金沢支部。結局は判断の放棄であろう。福島の悲惨な現状を認めた上で、判断を放棄するのであれば、「司法の役割」とは何なのか。二〇一四年の福井地裁判決は、憲法一三条の幸福追求権などに基づく人格権を重んじて「具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ」と言いきった。福島原発事故のあと、初めて原発の運転差し止めを認めた画期的な判断だった。高裁はこれを「内在的な危険があるからといって、それ自体で人格権を侵害するということはできない」と一蹴した。内在する危険に対して予防を求める権利は認められないということか。あまりにも不可解だ。控訴審では、耐震設計の目安となる揺れの強さ(基準地震動)の妥当性、すなわち、原発がどれほどの揺れに耐えられるかが、最大の争点とされていた。元原子力規制委員長代理で地震学者の島崎邦彦東大名誉教授は法廷で「基準地震動は過小評価の可能性があり、大変な欠陥がある」と証言した。それでも高裁は「高度な専門知識と高い独立性を持った原子力規制委員会」が、関電側がまとめたデータに基づいて下した判定をそのまま受け入れた。そして「危険性は社会通念上無視しうる程度にまで管理・統制されているといえるから、運転を差し止める理由はない」と断じている。ここでも規制委と関電の主張を丸のみにした判断の放棄である。それにしても、今や原発の危険性を測る“ものさし”になってしまった「社会通念」。その正体は何なのか。避難計画の不備や核のごみ問題などどこ吹く風と、政府は再稼働に前のめり。司法が自らの責任を棚に上げ、政治に委ねるというのなら、もはや「追従」と言うしかない。「内在する危険」に対する国民の不安は一層、強まった。
国立大合格でもバイト生活、結婚もできない27歳の「マイルド貧困」
格差や貧困問題の是正が放置されているうちに、「アンダークラス(パート主婦を除く非正規労働者)」が900万人を突破、日本は「階級社会」への道を突き進んでいる。中でも「中間階級」が崩壊、「新たな貧困層」が生まれてきた。それは、生活に困窮するほどではなく、好きなことに多少のお金を掛けることはできるものの、上の階級へ這い上がることができず、将来に希望が持てない「マイルド貧困」とも呼べる新たな階級だ。そこでDOL特集「『マイルド貧困』の絶望」第1回は、地方国立大学に合格したものの2年で中退し、アルバイト生活を渡り歩いている27歳の男性の実態に迫った。(取材・文/ライター 横山 薫、ダイヤモンド・オンライン編集部 田島靖久)
手取りは18万円でも
カードゲームに興じる金はある
都内のキャラクター関連ショップに、3年近く勤めている遠山健二さん(27歳・仮名)。以前はキャラクター関連のカフェで働いていたが、新規開店スタッフの募集を見つけ、新天地で頑張ろうと応募し採用された。雇用形態はアルバイトで、時給900円からスタートし、今ではバイトリーダーのようなポジションで1200円台まで上がったという。「主な業務は販売、接客、レジ、荷物管理、電話対応などの店頭業務全般に、キャラクターに関するイベント設営・運営なども行っています。9~17時で働いて、残業もたまにします。それで額面23万~24万円、手取りは18万円くらいですね。築35年、3DK(44平方メートル)、家賃12万円の部屋に彼女と同棲しています」
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手取り18万円は決して多くはないが、彼女が定職に就いており収入があるので折半していて、収入の中でうまくやり繰りしているという。
「僕の支出は家賃6万円、携帯代1万円、光熱費1万円弱。それ以外に共通の食費や生活費、自分の食費などで消えますが、毎月3万~5万円くらいは残って、その範囲内で自由に使っている感じです。残ったら翌月に持ち越したり、貯金に回したりもしています」

遠山さんは、自由に使えるお金のうち1~2万円を、幼少期から好きな「カードゲーム」のカードの購入に充てているという。
「DSもWiiもプレイステーションも持っていて、人気ゲームはだいたい購入して遊んでいますが、今ハマっているのがカードゲームです。1~2ヵ月に1回、新キャラクターが出るから、そのたびに購入していますね。レアカードが出るまで数万円買ったりしたこともあります。スマホゲームの“ガチャ”と同じですよね。でも、形に残るだけマシかなと思っています。友達と対戦しているときが一番熱くなれます(笑)」
彼女との結婚を考えると
正社員登用されたい
好きなキャラクターに囲まれて仕事をし、好きなゲームに興じて暮らしている遠山さん。しかし、将来に対しては漠然とした悩みを抱えている。
「3年付き合ってる彼女と将来は結婚も考えているけど、先の見通しは分かんないですよねぇ。僕の貯金は20万円弱。早く100万、200万と貯めて、指輪とか結婚式の費用をつくりたいと思っているのですが、手取り収入からの資金繰りを考えると、全然足りないんです…。そのためにも早く社員登用試験を受けて社員登用されたいし、将来は店長を目指しています。いずれは、本社勤務で企画などに携わりたいですね。親の面倒とかは、大変なのかなぁって漠然と思いますが、10年、20年以上先のことなんで、真剣には考えていません。あまり意識もしていませんよ」
ただ、たまに連絡を取る地元や大学時代の友人の話になると、どこか偏屈さを感じさせる。
「大学を卒業した地元の友人の中には、公務員や大手企業で働いている友だちもいるけど、ソイツはソイツ、僕は僕です。僕は働いてきた経歴から、周りにはバイトとか、バイト上がりの社員とかが多いから、そんなに焦りは感じていませんよ。ただ、数年ぶりに友達と電話して、“昔と変わっていない”のを知ると、ちょっと安心する自分もいますね」
かつての若者の貧困問題と比べると、遠山さんはわずかながら自由なお金もあり、生活にさえ困るような深刻な困窮状態には陥っていない。しかし、仕事や結婚といった将来への不安は感じつつ、「考えても意味がない」と真剣に考えることは避けている。これこそが、新たな問題として生じている「マイルド貧困」の実態である。
きっかけは大学中退
一念発起して上京するが…

遠山さんが、こうした状況に陥った原因は大学時代にある。遠山さんは西日本のある地方で生まれ育ち、地元の国立大学に進学する優秀な高校生だった。ところが、大学でサークルにのめり込みすぎて勉強がおろそかになり、2年生が終わったときに留年するか退学するかの選択を迫られたという。
「これといって大学で学びたいこともなかったし、留年したら学費が余計に掛かるから、退学することを決断しました。漠然と『このまま地方にいてもダメだ』『今の状況から脱したい』『人と同じことはしたくない』との思いから、中退して1年間フリーターをやって、上京資金を貯めたんです」
遠山さんの両親は、準公務員と保育士の共働き世帯だが、決して裕福な家庭ではない。そのため、100万円の上京資金は実家に住みながらアルバイトで貯めたという。
「割烹料理店とチェーン系飲食店の掛け持ちで週5日、働いていました。割烹といっても調理補助で、盛り付けたり、配膳したり、食材の説明をしたり。料理なんてしたことなかったんですが、チェーン系の飲食店だったこともあってすべてがマニュアル化されており、それほど難しくはなかったので苦になりませんでしたね。昼間の時間帯はチェーン系飲食店で、その後18時から23時まで割烹で働いて月16万~17万円、多いときで20万円くらい稼いでいました。それで年間100万円を貯めたんです」
遠山さんは、100万円が貯まった段階で思い切って上京する。
「もともと東京に行こうと考えていたわけじゃないのですが、アニメキャラクター関連の専門学校の広告を見て、『これだ!』と。ただ、引っ越し代と学費で、100万円では足りなくて…。親に相談したところ、『やりたいことをやれ』と不足分を援助してくれたのは、ありがたかったですね」
手元資金はほぼゼロの状態で、東京での生活をスタートさせた。東京ではカラオケ店でバイトをしながら専門学校で学び、無事2年で卒業。卒業後はキャラクター関連のカフェに就職することができたが、やはりここでも雇用形態はアルバイトだったという。
「正社員にはあまりこだわっていませんでした。小さいころからアニメやキャラクターが好きだったので、関連する飲食店で働けるという喜びだけでしたね。夢をつかんだような。しかも、立ち上げスタッフとして入店したため、まだ誰も接客や発注業務の経験がなかったんです。そんな中、発注業務や接客マニュアルの作成を任され、アルバイトという立場でしたが、やる気に満ちていました(笑)」
売り上げ状況を見て、翌日にどんな食材をどれくらい仕入れなければいけないかなど、すべて手探り状態。ところがこの発注業務において、地元の割烹料理やとチェーン飲食店で働いていた経験が生かされたという。
「定職に就いたことがない僕ですが、アルバイトの経験だけは人一倍多い。それが生かされるとは思ってもいませんでした。3ヵ月もすると店長代理みたいな立場でリーダー的存在になり、多くの仕事を任されるようになって満足でした」
キャラクター関連のカフェでやりがいを感じ、3年間働いた遠山さんだが、あるとき、冒頭で紹介したキャラクター関連ショップが新規開店することを知って応募した。今は、小さいころから好きだったアニメキャラクター関連ショップで働くことができている遠山さん。
「人手が足りず忙しかったり、人間関係の板挟みにあうこともあったり、つらいこともあります。でも、小さいころからの夢だったし、と自分に言い聞かせて頑張っていきたいですね」
困窮するほどではないが
這い上がれない「マイルド貧困」
「1億総中流」と呼ばれた時代は、はるか昔。「格差社会」も通り越して、今の日本には「現代版カースト制」さながらの「階級社会」が到来している。生まれた家庭や、就職時期の経済状況によって「階級」が決まり、しかも固定化してしまう。「格差社会」どころではない状況だ。
早稲田大学の橋本健二教授によれば、一握りの富裕層である「資本家階級」(254万人、就業者人口の4.1%)を頂点に、エリート層である「新中間階級」(1285万人、同20.6%)、ホワイトカラーであるものの所得が低い「労働者階級」(2192万人、同35.1%)、そして最下層の「アンダークラス」(929万人、同14.9%)という階級が固定化しているという。
シビアなのは、資本家階級を除き、今は新中間階級や労働者階級であっても、滑り落ちる可能性が極めて高いこと。そして、「大学をきちんと卒業し、新卒でいい会社に就職し、正社員として働き続ける」という“レール”から一度でも外れると、元に戻ることは難しいという、やり直しがきかない社会であることだ。
こうした階級に加えて、『ダイヤモンド・オンライン』では、生活保護を受けるまでではないものの、その“予備軍”である「マイルド貧困」という階級があり、確実に増えているのではないかと考えている。橋本教授の区分でいえば、「労働者階級」の下の層と、「アンダークラス」の上の層とを合わせたイメージだ。
ぜいたくこそできないものの、困窮するほどは切羽詰まってはおらず、趣味や好きなことに多少のお金を掛けることができる。だが、いったんこの階級にはまってしまえば、最下層に落ちることはあっても、社会構造上、決して上の階級に這い上がることはできない。それこそが「マイルド貧困」だ。
ある意味で夢をつかんだ気もする。そう思い込みたい――。
そう言い残して去って行った遠山さんの言葉から、新たに生まれた「マイルド貧困」の根深さが感じ取れる。今日、明日を生きることはできる。しかし5年後、10年後の将来は描くことができず、目を背けてしまう。そんな「マイルド貧困」の実態を、さまざまな角度から取り上げていくことにする。
クローズアップ現代+「“息子が介護”の時代▽経験者が語る知恵やヒントを生かせ」
介護する家族の割合はここ数年で息子が嫁を抜いた。女性の社会進出や少子化で介護の担い手が減ったためという。番組ディレクターも息子介護を行うようになり、自身の介護生活をSNSで発進し意見などを求めた。2000件ほどの投稿から、介護離職したという男性は自分で背負うしかない、自分の母親とどう接するかがしんどかったなどの意見が寄せられた。介護の悩みを解消するための知恵・ヒントなどを後ほど紹介する。番組を作るディレクター・大野も息子介護を行う。母親は79歳、要介護5。2年前までは食事を作るなどしていたが、転倒し頭を台の角にぶつけ出血。ストーブの前でだったため脚をひどくやけど、風呂にたどり着くも力尽き大野が帰るまで裸で震えていた。2ヶ月後は要介護1、入退院を繰り返し要介護5まで悪化。入れ歯の不具合があり、食が細くなり急速に弱っていった。大野は、予兆に気付けなかったことに対し後悔していると語る。大野は仕事から戻ると傷の手当を行う。朝5時に起床し2時間で家事をこなす。便秘がちの母をトイレに誘導し生活リズムをつける。その間に朝飯の準備を行い、同時進行で洗濯・掃除を行う。飲み込むことが苦手な母が食べる食事には繊細な配慮が必要だが、料理が苦手なため難しいと語る。むせてしまった場合背中をさすっても治らない。会社までの通勤は1時間半、時間に追われており母親の緩慢な動作に苛立つこともあるという。1度だけ声を荒げたこともある。母親は大野に対し、仕事が出来ないだろうから申し訳ない、気の毒だと思っている話す。息子介護についての意見を紹介。不満が募り暴力的になり、人に頼らず社会から孤立するパターンが多いという意見、現実の状態を受け入れられず理解できない方が女性より多く感じるなどの意見がある。一方、育児・家事・介護が女性という時代は終わりという男性からの意見なども。20年以上母親を介護しながらKAIGO LABの編集長を行う酒井氏は息子介護の傾向について、SOSを出せない・うまくいかないと自分を責める・完璧を求めすぎという3点を挙げた。根本的な理由として、自立の意味を完全に誰にも頼らない状態と勘違いしているのではと指摘。依存先を分散させることが自立であり、親などのためにどれだけ選択肢を残せるかが重要という考えを述べた。大野は介護の情報に乏しかったため、介護保険サービスを積極的に利用した。ケアマネジャーは介護計画・ケアプランを建ててくれる。月~木はデイサービス、金曜は妹やヘルパーの力を借り乗り切っている。昼食は作り置いた豚の生姜焼きをヘルパーが刻み直してくれた。訪問歯科サービスも利用し、体の状態を左右するという入れ歯のかみ合わせなどをチェックしてもらう。口の状態低下から低栄養になり、筋力が落ち基礎代謝が下がる。また、管理栄養士の訪問指導も利用、母の好きな卵料理の簡単レシピを教えてもらった。料理の写真を写真で送ると、栄養バランスなどが適切かどうかをアドバイスしてくれるサービスもある。最後まで生活の楽しみである食を維持するのはその人の人生の中で非常に大切と歯科医が説明。。と解説。介護はみんなでやらなければ自分が追い詰められるだけとヘルパーが語る。足が悪い母のため、訪問医療サービスも利用。チームで介護にあたれば体力低下を食い止めることが出来ると、専門家の力を感じたとコメント。要介護4の母親の一人暮らしを通いながら支える鹿児島の男性からも意見が寄せられた。子育ての最中のため、育児・介護の負担を考え自分が通い介護を行っている。実家は自宅から車で15分、毎日朝2回・夜2回火曜。母親は6年前にレビー小体型認知症を発症。症状が進み最近は息子を認識できないこともある。感情的になったこともあるが、気持ちの暴発を防ぐために母に他人の感覚で接している。男性は母親が徐々に色々できなくなっていくことは複雑と話す。2年前から自宅で認知症カフェを開始、近所の人や福祉関係者を招き、母のことや介護状況などを赤裸々に打ち明ける。母親があるきまわっても地域で見守ってくれるようになり、介護する息子にも励ましの言葉が届くようになった。宮城・石巻市でアルツハイマー型認知症と診断された母を同居で8年前から介護する男性は62歳独身。母と共に、母や妻の介護をする男性らが悩みを打ち明け合う男の介護教室に通っている。人とのつながりが心の余裕を保つ助けになるという。更に、母親に気軽に話しかけコミュニケーションを楽しみ、母親の受け答えがズレていても尊重し受け入れようとしている。ケアされる側が穏やかになり、介護が楽になる。母が存在することの幸せを感じることを思いながら介護していると語る。紹介した3組からは、「カギはチームプレー」「尊重することで穏やかに」「他人の感覚で接する」というキーワードが見えた。酒井は3ケースについて、依存先を分散させるという意味の自立がうまく出来ていると評価。大野Dの母や介護プロにお願いするまで息子に申し訳無さを感じていたがそれが薄れていたことが良いとした。介護の目指す先は受ける人が生きていてよかったと思う瞬間があることであり、自分の親などを理解することが重要だとした。親を尊重する、他人だと思うということに対し、父母というのは役割の名前だと解説。どういった名前を持つ個人なのかを考えるのが重要とした。酒井は現役世代である我々が気をつけることとして、「『親』を知り、『制度』を知る」「”プレーヤー”ではなく”司令塔”に」「人生観を見直すチャンスに」という3点を挙げた。いつか介護をしていた事実を振り返ると人生における仕事・家族などに向き合えるチャンスとなるのではなどと語った。
↑凡人には、出来ないね。無理難題だ。私見ですが完全介護(老人ホーム)の普及にしか頼れない。国、介護行政の義務だと思う。つまりベーシックインカム社会の導入だと思う。憲法25条の遵守だよ(笑)
「平成とは何だったのか」(7) 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長 2018.7.3
リテラ > カルチャー > 音楽・舞台 > 亡くなった森田童子の素顔を語る
伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった…親交のあった劇作家が素顔と音楽を語る
4月に亡くなっていたことがわかった森田童子。森田といえば、1975年にファーストシングル『さよなら ぼくの ともだち』を発表して注目を集め、当時の若者からカルト的な支持を受けていたフォークシンガーだが、その素顔は謎に包まれていた。本名は非公開、人前ではサングラスを外さず、アルバム7枚、シングル4枚を発表して、1983年に事実上の引退。1993年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマ『高校教師』(TBS系)の主題歌となり、シングルCDが100万枚近くのリバイバルヒットとなったが、そのときも表舞台に出てくることはなかった。そして、森田が伝説のまま逝ってしまったいま、その音楽をリアルタイムで感じたことのある人も少なくなっている。いったい彼女は当時の若者にとってどういう存在だったのか。そして、その素顔は……。森田の歌のファンで彼女と親交があった劇作家の高取英に話を聞いた。高取が森田童子と知り合ったのは、森田がデビューしたすぐあと、1976年から1977年のことだったという。「『音楽全書』(海潮社)という音楽誌で森田童子について書いたのですが、彼女のマネージャーでイラストレーターの前田亜土さんから連絡がありまして。前田さんと親しくなって、それから付き合いが始まったんです。公表してませんでしたが、前田さんは森田童子のパートナー、夫でもあった」以後、高取は森田のライブに足しげく通い、ライナーノーツも執筆したり(『森田童子全集Ⅲ a boyア・ボーイ』などに収録)、森田も高取の演劇の公演に顔を見せるようになった。そして、お互いの音楽、演劇に批評文を寄せ合う関係になったという。「私が作った芝居『少年極光 (オーロラ) 都市』の音楽を作っていただいたこともあります。僕の詩に曲をつけるのに、『私、人の詩に曲つけたことないんですよねー』って言うから、『好きにしていいですよ』と、彼女のいいと思う形に変えてもらって、3曲作ってもらいました」高取は当時、自分たちが森田童子に強く惹かれた理由について、こう分析する。「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1〜2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が“弱さ”に光をあてていたことだった。「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」
森田童子引退の理由は? ドキュメント映像で語っていた消えていく覚悟
また、森田は、当時、まだ根強く残っていた「男は強くたくましく」「女はおしとやかに」という性の固定観念からも解放してくれる存在でもあったという。「当時はさまざまな価値観が大きく転換し始めた時期ではありますが、まだ、男らしさ、女らしさという意識は残っていました。そんななかで、森田童子の歌の内容は、センチメンタルというか、ある種“女々しさ”と呼ばれるようなものだったかもしれない。でも、その女々しさを堂々と歌い上げたことで、男女の性差を超えて、孤独感のある人、友人をな無くした人、運動に挫折した人、そういう、やさしくて弱虫かもしれないという人たちに響いた。『さよなら ぼくの ともだち』という歌の中にも『弱虫でやさしい静かな君を僕はとっても好きだった』という一説があるんですが、そんなことを歌う人はこれまでいなかったんですよ。強がっている人はたくさんいるけど、強い人なんて実はいない、弱虫であること、それが好きだったといってくれた」森田の音楽を“女々しさ”という言葉で説明する高取だが、実は森田の側も高取の作品に同じく“女々しさ”を見ていた。高取の代表作『聖ミカエラ学園漂流記』を批評する文章の中で、森田はこう書いている。
〈『聖ミカエラ学園漂流記』の高取英の劇作法は、拙い少年少女の肉声を惜りることによって、高取英の女々しい反逆の試みは、確かに不思議な説得力を持ち得た〉
ふたりが表現で深く繋がっていたことを物語るエピソードだが、しかし、その高取も、森田の素顔についてはよくわからないままだったという。「サングラスを取った素顔は、わたしも見たことがありません。カーリーヘアもおそらくカツラでしょうし、素顔は一切隠してましたね。プライベートなことも一切話さない。前田さんと結婚していることも、本人たちは一切話しませんでした。それに物静かで、とつとつとしか喋らない人なので、感情の動きもよくわからなかったし、曲のイメージそのままでした」1983年、彼女が音楽活動を引退する直前には、こんなこともあったという。「『聖(セント)ミカエラ学園漂流記』(群雄社出版)の出版記念パーティーに来ていただいたんです。それで、『スピーチをお願いできますか?』って言ったところ、彼女はイヤだとははっきり言わないで『え、え……』って。そのあと、3分ほどしたらその場から消えていました。スピーチの話を急に言われてとまどったのでしょう、悪いことしたなって」森田らしいエピソードだが、それからまもなくして、森田は本当にすべての表舞台から完全に姿を消してしまった。「引退の理由を出産とか病気とかいう人もいましたが、そういったことではなくて、音楽活動をするなかで、自分が言いたいことはもう言いつくしたという感じだったんじゃないかな。80年頃、森田童子の屋外ライブの企画から実現までを追った『夜行』というドキュメント映像があるんですが、その中で森田が『私たちの歌が消えていくさまを見てほしいと思います』という言葉を口にしています。やることをやったら消えていく、最初からそういう覚悟があったんでしょう」しかし、彼女の歌と記憶はそれから30年以上たったいまも、1970年代に青春を過ごした人々の心の中に強く刻まれている。7月19日には、高取も出演する追悼イベント「夜想忌 ~さよならぼくのともだち~ 追悼 森田童子」が開催される予定だ。
(敬称略)(高橋南平)
Hawaii Volcano Eruption: SHOCK New Video Shows DEVASTATION as Kilauea Continues to Erupt