2016年慰霊の日点描
2016/06/28 に公開
chie mikami
祈りなしには平和は作れない
~71年目の慰霊の日~
http://www.magazine9.jp/article/mikami/28965/
なぜ6月23日なんだろう。恨めしく晴天を睨む。毎年この日は不思議なくらい雨にならない。これが1月23日ならこんな殺人的な暑さに苦しまないで済むのに、と熱中症寸前の頭で詮ないことを考える。沖縄で取材活動をして22年、毎年炎天下をうろうろしている。しかしこの暑さは、自分に繰り返し刻み込まなければならない暑さなのだ。1945年の6月23日に、沖縄戦を闘った第32軍のトップ、牛島満中将が自決し、組織的な戦闘が終わったとされる。国内唯一の地上戦で住民の4人に1人が犠牲になった沖縄県ではこの日を「慰霊の日」とし、公休日にしている。実際に牛島が自決したのは1、2日前だったという説が有力で、また23日以降も離島や山間部では戦闘や特攻も続いていた。だから23日の意味を突き詰めると空虚なのだが、それでも毎年学校は6月に合わせて平和教育をし、メディアは特集を組み、各地の慰霊碑の前は花と線香で一杯になる。激戦地・摩文仁の丘に総理大臣までやってきて黙祷をする。12時にはショッピングセンターでも事業所でも同時に黙祷をする。やはり71年経過しても、6月23日は沖縄にとっては特別の日だ。沖縄戦で亡くなったすべての人の名前が刻印された「平和の礎」。猛暑を避けるため、日の出と共に遺族たちが水や花を手に訪れる。あの激戦を奇跡的に生き延びた方々は、もうかなりの高齢になっている。しかし参拝者が減っているかというと、そうではない。子や孫の世代がひ孫を連れて手を合わせに来る。この強い光、地獄のような地熱と湿気の中、死線を彷徨った親や祖父母の体験を重く受け止めようとやってくる今の沖縄県民の姿を見て欲しくて、今回の動画は主人公を決めず「慰霊の日の点描」とした。18分もあるけれど、私たちのカメラチームがみなさんにお見せするために、熱中症と闘いつつ早朝から夕方まで撮影したものなので、是非慰霊のつもりで涼しい部屋でゆっくり見て欲しい。大きくため息をついて、近所の一家6人が全滅したと説明してくれた男性。彼の姉は陸軍病院の看護婦だったのだろうか、ひめゆり学徒の生徒達の指導にあたっていたという。北から攻めてきた米軍に対して、もしも牛島司令官が首里城地下にあった司令部で降伏していたら、首里から南の地域は戦場にならなかった。ところが作戦上の勝ち目はなかったにもかかわらず、本土防衛の持久戦で時間を稼ぐという目的のために、日本軍は最南端の摩文仁の丘まで撤退した。中部・北部に比べ、南部にはたくさんの住民が避難していることは百も承知だった。この男性が言うとおり、日本軍が南部に撤退さえしなければ住民の犠牲者の8割は助かったという数字もある。軍隊は国(国土・国体)を守るための作戦に従うのであって、戦闘地域になってしまった場所の住民を守る機能はない。沖縄住民を救ってくれるはずもなかった。もっと言えば、第32軍自体が最初から持久戦の後に玉砕する運命だった。沖縄県民同様、本土防衛のために捨て石になった部隊だった。物資、食料の補給もなく、住民から奪うほかなかった。その結果、沖縄で軍隊はひどく残酷な存在になった。
日本軍は
住民を助けなかった
住民から逃げ場を奪い(壕を追い出し) 食料を奪った
住民がスパイになると言って殺した
住民同士で殺し合うように「集団自決」に追込んだ
戦闘の邪魔になるので強制移住させ、マラリア罹患死させた
沖縄戦についてはいくつも番組や特集を作ってきた。知れば知るほど、軍隊の論理の残酷さに震えることばかりだ。まさに皇軍のなれの果て。きれい事ではない。大小の離島で構成する沖縄県では、日本軍が駐留していた島にばかり犠牲者が出た。陣地があるから攻撃されるし、兵士がいるから戦闘になる。軍の機密があるから殺される。軍隊のいなかった島の住民はあっけなく捕虜になったので、命は取られなかった。沖縄戦の体験者が「軍隊は住民を守らない」と異口同音に言うのは、動かしがたい実際の体験があるからだ。しかし、どうだろう。今また「となりの国が怖いから自衛隊に守ってもらおう」「沖縄は中国に近いから、軍備をしっかりしないと」という人が激増した。沖縄戦の教訓を知らないのか。軍隊が居れば安心という論理なら、なぜ日本は攻撃されたのか。軍隊が住民を守ってくれるなら、71年前、日本で唯一10万人余の兵力で固めた沖縄県の人間ばかりが死んだのか説明がつかないではないか。25%の住民が死ぬ羽目になった県がほかにあるのか?
「まだ戦は終わっていない」
「また戦に向かっているようで怖い……」
戦後71年も経ってから、こんな言葉を聞くことになるとは。例えば昭和が終わる頃、30年前の私が、2016年の未来にこんな台詞を多くのお年寄から聞く世の中になると思っただろうか。有事法制、特定秘密保護法、安保法制、これはかつての国家総動員法と軍機保護法という戦時体制を確立させた法体系の再現だ。そしてついに憲法改正が掛かった今回の国政選挙であるが、国の根幹が揺らいでいるという危機感は残念ながら感じられない。昼の12時の黙祷を挟んで開かれる県の追悼式典は、VIPが出席しNHKが進行する。個々人が死者を追悼する姿は撮影していて心が動くが、こちらはどうも苦手だ。遺族会が菊のご紋をデザインした旗で行進してくるのも、複雑な気持ちで見つめる人もいるだろう。全戦没者だから、米軍も、昔の日本軍に敬意を表する自衛隊も参列する。ある意味、画期的な式典の形とも言える。しかしこういうのを嫌う人々は、名もない野ざらしの遺骨を積み上げた骨塚である「魂魄の塔」の慰霊祭に向かうのだ。平和祈念公園から近いので、私は毎年そちらに顔を出している。でも今年は自衛隊の配備に揺れる石垣島を取材中なので、今回は石垣で慰霊の日を過ごすことにした。私はこのところ、石垣島のある女性に夢中だ。78歳の山里節子さん。少女のような純真さと英語の資料も読み解く聡明さ、権力と闘う時の強さとしなやかさを両方持っている女性だ。しかも私の大好きな八重山の歌「とぅばらーま」の歌い手なのだ。15年前に観光開発問題でインタビューをしていたが、今回の自衛隊問題で再会。彼女の強い信念に敬服した。石垣島の登野城に生まれた節子さんは、戦争当時7歳。マラリア有病地帯に押し込まれて母と祖父を失った。米軍が上陸したら作戦遂行上、住民は足手まといだ。当時は死の病だったマラリアにかかることがわかっていながら日本軍は移住を命じ、住民はことごとくマラリアに苦しみ、およそ3700人が命を落とした。たまたまマラリア蚊がいたという問題ではない。軍事作戦上、緩やかな集団死に追込まれたのだ。節子さんは「軍隊は住民を守らない」と書かれた横断幕を持って、自衛隊の石垣島配備に反対している。軍隊の本質を知る者として黙っていられないのだろう。しかしそれだけではない。彼女は戦後、琉米文化交流の名の下に石垣島にできた文化センターで英語を学び、18歳の時にアメリカの学者たちと共に、島の地政学的な調査研究の助手に抜擢された。通訳兼地元の案内人として、リュックにたくさんの石を入れて、学者の踏査について回った。やがて英語がぺらぺらになり、海外キャリアのキャビンアテンダントに採用される。アメリカ人の友人もたくさんでき、小さな島から世界を見つめる中で、自分が協力した米軍施政権下の調査は、ほかでもない、軍事利用目的の調査だったことに気付く。再び自分の島を軍隊に差し出すための手伝いをしてしまった。長くその後悔に苛まれたという。日本からも、アメリカからも、常に沈まぬ空母としか見られない生まれ島。だからこそ、またしても軍事要塞にされ自衛隊に島の運命を変えられてたまるかという危機感が節子さんにはあるのだ。節子さんは、今年の慰霊の日、今こそ「おばあ世代」が反戦平和に本気になるときだと考えて、官製の慰霊式典ではなく自分たちで「戦争マラリア」の悲劇を受け止め、平和を祈る儀式をすることにした。二度とこの島を戦場にしない。その約束を死者たちと交わしたいと仲間に参加を呼びかけた。「御願(ウガン)」をして、「新世節」と「月桃の花」の2曲を歌うこと。そのあと語り合うこと。それだけだが、早朝から10人が集まった。
「祈りだけでは平和は来ないかも知れないけど、祈りなしでは平和は来ない」
神頼みだけでは平和は作れないけれど、祈る心の中に、平和を作る種があると節子さんは言った。彼女が選んだ歌「新世節(アーラユーブシ)」は、戦後、新たな平和な世の中になった事を祝う歌で、「戦世(イクサユー)」ではない平和で豊かな世界を「昔世(ムカシユー)」「神ぬ世(カンヌユー)」と表現している。八重山で盛んに使われる言葉に「弥勒世(ミルクユー)」というのがある。節子さんはそれこそが「戦」の対極にある言葉だという。平和というよりもっと満ち足りた、過不足のない幸せな状態を指す。八重山では弥勒菩薩が変化した「ミルク神信仰」が盛んで、まつりでは豊穣の神「ミルク神」がもたらす「弥勒世果報(ミルクユガフ)」が満ち満ちている「弥勒世(ミルクユー)」が早く来ますようにと祈る場面が多い。もうひとつ「世ば直れ(ユウバナウレ)」という呪文のような言葉が島にはある。とても素敵な言葉だ。これは宮古島でも「ユヤナウレ」として様々な神歌に共通して繰り返し出てくる。直訳すれば「世直し」だが、理不尽な苦しみから解放され、不条理な世の中が正しくなおっていくさま、待ち望んだまっとうな世界に近づいていきますように、という祈りの一節だ。また、節子さんが言うように、会合がお開きになるときにも「ユウバナウレー」と言って別れる。これはすべてがうまくいきますように、Good luck! のような使い方だろう。言葉は祈りから生まれたというが、予祝の言葉を掛け合う文化は古今東西にある。それは言葉の呪力を信じるから。祈りの力が実際に幸せを引き寄せると信じるからだ。
「世ば直れ(ユウバナウレ)」
争いのない、貧困も飢餓もない、豊かで満ち足りた世界。それが遠くない未来に島にやってくると言う具体的なイメージを歌い、祈り、ことばを掛け合ってみんなで共有することが共同体には必要だったのだろう。しかし今の日本はどうだろう。安全保障の名の下に戦争を企んだり、中身のない貧困対策をぶち上げたり、「アベノミクスの果実」を期待させたり、この国は、国民が理想のイメージを結ぶこともできない哀れな国になってしまった。しかし沖縄だけではなく、地方の村々には日常に溶け込んだこうした祈りの言葉が、お互いの幸せを呼び合う言葉がいくつも残っているはずだ。現代社会、我先に経済や情報に通じることで世の中は豊かになったのだろうか。みんなで祈るという行為の持つ潜在力を、今こそ取り戻していく必要があるのではないだろうか。同じ幸せのイメージを共有しあった人間は、武器を持って闘おうとは思わない。祈ること。理想の世界を共に描き、繰り返し共有することが、実は平和への早道だと思う私は夢想家すぎるだろうか。でも慰霊の日にみんなが心に誓った世界は、同じ形をしている。
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三上智恵監督新作製作のための
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『戦場ぬ止み』のその後――沖縄の基地問題を伝え続ける三上智恵監督が、年内の公開を目標に新作製作取り組んでいます。製作費確保のため、皆様のお力を貸してください。
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