「キリスト教成立の謎を解く」 (バート D.アーマン、津森京子訳) 。
宗教を研究する人々の常識として、キリスト教聖書の各書には相互に矛盾することがとても
たくさんあり、些細なことから教義上の重要なことまで多岐にわたっている。聖書はつまり
神の啓示による完全無欠な書物ではなく、異なる人たちがイエスの死後300年ほどの間に
いろいろな所で編纂したもので、聖典として選定したのも人間である。
その主要な教義 (キリストの神性、三位一体、天国と地獄など) も、イエスの死後いろいろ
な教派との神学論争の中から確立したもので、キリスト教自体も人間が作りあげたもので
ある。「イエスの宗教ではなく、イエスについての宗教」 なのだ。
(なお処女懐妊、キリストの復活なども、各書の書きぶりは随分違っているそうです。)
しかし聖書が完全でなくとも、信仰には影響がない。一人一人がその良いと思う所を採り、
憎しみや復讐など納得できないことは捨てるのが望ましい。
と氏は言っています。
氏自身がもともと福音主義の敬虔なキリスト教徒で、聖書の矛盾にたいへん衝撃を受けた
が、信仰と知識は別物で信仰を捨てなかったそうです。その後数年たって棄教しましたが、
それは聖書研究の結果ではなく、世の中の悲惨な実態を放置する神を信じられなくなった
せいだとしています。
もともと信仰心の薄かった私は、この言葉で神の不在を確信するようになりました。慈愛
に満ちた全知全能の神がいらっしゃるのに、なぜ大災害が起こり、悲惨な戦争やおぞましい
ホロコーストがなされてしまったのか。試練だと言うけれど、生き延びた人はともかく罪も
なく死んでいった人たちはその試練から何を得ることができるのでしょう。神は承知の上で
罪もない人たちに死の試練を下すのでしょうか。しかしそれでは人の道に反するではありま
せんか。そんな神様はいない方がよほどマシです。
私は仏教をもういちど見直してみたい。全能神の一神教は基本的に迷妄だと思いますが、
氏の言うように、自分の信念で良い所を採り、間違っていると思う所は捨てることにしたい
と思います。