魔人の鉞

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「大乗仏教入門」 に想う

2014-01-31 20:19:07 | 宗教

今日は仏教書、大乗仏教入門 (竹村牧男、平成15年)。平易な入門書です。
大乗仏教は部派仏教への批判の中から、仏陀の衆生救済・慈悲と涅槃の教えの根本に帰り、
教理を発展させたものとして生まれたそうです。乱暴ですが以下私なりにまとめてみました。

○ 般若心経でいう空、また諸法無我とは、森羅万象は一切が空であり、本質がない。だからこそ
  縁起によって事物が生起する。色即是空だからこそ空即是色であり、諸行無常である。

○ 大乗仏教の基本理念である唯識論では人の認識によって万物が存する。認識がなければ一切が
  存在しない。(岸根卓郎氏の 「月も見る人がいなければ存在しない」 というのは唯識に通じて
  いたわけです。)

○ 衆生には如来蔵、つまり如来の素質が備わっている。「一切衆生悉有仏性」 ともいう。
  華厳経に、如来が衆生には如来蔵があるのを発見して自ら 「奇なる哉、奇なる哉」 と感嘆した
  という。(身分・人種差別当たり前の古代にあって、全く驚くべき着想です。)

○ 万物は輪廻する。輪廻は必ずしも悪ではなく、ブッダは前世からの徳行があってこそ仏となった。
 
○ 涅槃というと悟りきった安楽な境地と思われがちだが、そこから衆生の救済活動へ進むのが
  菩薩であり、涅槃に安住しないのである。

○ 菩薩は三阿僧祇劫の修業を経て仏となるとされる。阿僧祇劫 (あそうぎこう) とは800里四方の岩
  を天の時間で3年に1度 (人の時間では3千年に1度とか) 柔らかい布で撫でてその岩が磨滅する
  時間ということで、それが3回だからほとんど永遠の時間がかかる。(思うに、それでは宇宙が誕生
  する前からの修業の積み重ねが必要になってしまいますが・・・)
  これでは修業しても仏になれるかどうかいつまでたっても分からない。それで初発心時便成正覚、
  つまり最初の発心の時にもう仏となることが約束される、発心すなわち正覚、という考え方が生ま
  れた。(これがさらに進んで、念仏だけで往生できる、という信仰になっていくのでしょう。)

○ 修業は六波羅蜜、十善戒など、凡夫には難しいことが少なくない。そこで諸仏の 「本願」 に頼って
  救いを得るという信仰が生まれた。阿弥陀仏の本願を頼むのが浄土宗・真宗になる。(救いたければ
  黙って救えばいい、という 「マインド・コントロール」 の岡田尊司氏の疑問に応えるような信仰です。)


以上、感じた所をまとめてみました。

唯識論は徹底した唯心論で、私はそうした論理に納得できません。また輪廻は古代インドの基本思想で、
ケルト人もよく似たものを持っているようですが、それは人間を含む森羅万象を理解する捉え方の一つで、
証明することができません。だから信仰だ、といえばそうですが、輪廻だけでは人が生きる指針とはなり
得ないでしょう。

如来蔵、つまり 「一切衆生悉有仏性」 が大乗仏教の核心ではないでしょうか。それを科学的に証明する
ことはできないが、そのことを信じ、その仏性を実現することが涅槃でしょう。すべての人は信仰の前に
平等であり、自らの仏性を実現するために努める。涅槃に至った仏はそれを助ける。
こんなことを言うと怒られそうですが、衆生救済に努める諸仏の本願、空の理論や輪廻や地獄も、その
「方便」 にすぎないのではないでしょうか。

大乗仏教はたいへん知的ですが、やはり信仰が必要です。それは一神教的な神が提示した選択の余地
のない契約ではなく、自らが選び取るものです。だから素晴らしいと私は思います。

それにしてもほんとに不思議ですね。一神教の契約は一方的に神から出される条件で、交渉が許され
ません。契約でいうと、独占企業がつくった定型契約書で変更が認められない、とうような感じです。
       (わが家で  2014年1月31日)

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「大乗仏教入門」 に想う

2014-01-31 20:19:07 | 宗教

今日は仏教書、大乗仏教入門 (竹村牧男、平成15年)。平易な入門書です。
大乗仏教は部派仏教への批判の中から、仏陀の衆生救済・慈悲と涅槃の教えの根本に帰り、
教理を発展させたものとして生まれたそうです。乱暴ですが以下私なりにまとめてみました。

○ 般若心経でいう空、また諸法無我とは、森羅万象は一切が空であり、本質がない。だからこそ
  縁起によって事物が生起する。色即是空だからこそ空即是色であり、諸行無常である。

○ 大乗仏教の基本理念である唯識論では人の認識によって万物が存する。認識がなければ一切が
  存在しない。(岸根卓郎氏の 「月も見る人がいなければ存在しない」 というのは唯識に通じて
  いたわけです。)

○ 衆生には如来蔵、つまり如来の素質が備わっている。「一切衆生悉有仏性」 ともいう。
  華厳経に、如来が衆生には如来蔵があるのを発見して自ら 「奇なる哉、奇なる哉」 と感嘆した
  という。(身分・人種差別当たり前の古代にあって、全く驚くべき着想です。)

○ 万物は輪廻する。輪廻は必ずしも悪ではなく、ブッダは前世からの徳行があってこそ仏となった。
 
○ 涅槃というと悟りきった安楽な境地と思われがちだが、そこから衆生の救済活動へ進むのが
  菩薩であり、涅槃に安住しないのである。

○ 菩薩は三阿僧祇劫の修業を経て仏となるとされる。阿僧祇劫 (あそうぎこう) とは800里四方の岩
  を天の時間で3年に1度 (人の時間では3千年に1度とか) 柔らかい布で撫でてその岩が磨滅する
  時間ということで、それが3回だからほとんど永遠の時間がかかる。(思うに、それでは宇宙が誕生
  する前からの修業の積み重ねが必要になってしまいますが・・・)
  これでは修業しても仏になれるかどうかいつまでたっても分からない。それで初発心時便成正覚、
  つまり最初の発心の時にもう仏となることが約束される、発心すなわち正覚、という考え方が生ま
  れた。(これがさらに進んで、念仏だけで往生できる、という信仰になっていくのでしょう。)

○ 修業は六波羅蜜、十善戒など、凡夫には難しいことが少なくない。そこで諸仏の 「本願」 に頼って
  救いを得るという信仰が生まれた。阿弥陀仏の本願を頼むのが浄土宗・真宗になる。(救いたければ
  黙って救えばいい、という 「マインド・コントロール」 の岡田尊司氏の疑問に応えるような信仰です。)


以上、感じた所をまとめてみました。

唯識論は徹底した唯心論で、私はそうした論理に納得できません。また輪廻は古代インドの基本思想で、
ケルト人もよく似たものを持っているようですが、それは人間を含む森羅万象を理解する捉え方の一つで、
証明することができません。だから信仰だ、といえばそうですが、輪廻だけでは人が生きる指針とはなり
得ないでしょう。

如来蔵、つまり 「一切衆生悉有仏性」 が大乗仏教の核心ではないでしょうか。それを科学的に証明する
ことはできないが、そのことを信じ、その仏性を実現することが涅槃でしょう。すべての人は信仰の前に
平等であり、自らの仏性を実現するために努める。涅槃に至った仏はそれを助ける。
こんなことを言うと怒られそうですが、衆生救済に努める諸仏の本願、空の理論や輪廻や地獄も、その
「方便」 にすぎないのではないでしょうか。

大乗仏教はたいへん知的ですが、やはり信仰が必要です。それは一神教的な神が提示した選択の余地
のない契約ではなく、自らが選び取るものです。だから素晴らしいと私は思います。

それにしてもほんとに不思議ですね。一神教の契約は一方的に神から出される条件で、交渉が許され
ません。契約でいうと、独占企業がつくった定型契約書で変更が認められない、とうような感じです。
       (わが家で  2014年1月31日)

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