昨日までに読んだ、イスラム原理主義の教典ともいわれる、サイイド・クトゥプ氏の 、
イスラム原理主義の 「道しるべ」。
エジプトの貧富の格差に衝撃を受け、アメリカに留学させられてかえってその不信心な
社会に絶望したクトゥプは、原理主義といわれるイスラム同胞会の理論的指導者となって
いったようです。
その考え方は、イスラムは素晴らしいのだが堕落したために西欧のまやかしのキリスト教
文明に後れを取っている。本来のイスラムの素晴らしさを回復するには原点に返る事だ。
現在のイスラム国も堕落している。
イスラムとは唯一神アッラーへの絶対的な帰依と、全面的にコーランに基づく社会体制・
生活ある。唯一神アッラーの前ではすべての人が対等であり、人の上に人が立ってはなら
ない。貧富の差はあってはならない。
多神教徒などは(日本人を含めて)教化折伏(ジハード)の対象である。
純粋科学的なことは異教徒に教えてもらっても構わないが、自前で学者を養成することが
本来である。その時に進化論などという、余計な理屈を学んではならない。
など、社会正義の実現に向けた情熱の書、という趣です。
しかし人は平等、と言いながら、それは全知全能の唯一神アッラーに絶対服従する信仰を
持つ者だけの話です。社会正義はそんな神でなくとも実現できる。私は残念ながら、誰か
が思いついた全知全能の神などを信用する気は全くありません。だからジハードの対象だ
というなら、こちらもそんな馬鹿な妄想から目覚めるようお話してあげたくなります。
コーランに現世のすべての事が書いてあるわけではなく、結局聖職者が信仰の是非を判断
することになります。実際の統治も神の委託を受けた誰かが行うことになれば、キリスト教
が猛威をふるった西欧中世と変わらなくなります。
進化論さえ否定するようでは科学と言ってもコーランの範囲内でしか進められません。それ
では100年たっても500年たっても西欧文明を超えることなどできないでしょう。
救済の引き換えに絶対服従を要求する神と、衆生を救済することを念願とした阿弥陀如来
とはなんと違うのでしょう。親鸞の絶対他力の信仰の方が、はるかに深い意味を持っている
と思います。
原理主義の本を先に読んでしまって、イスラムについて偏見を持ってはいけないので、もう
1冊、「イスラーム教 異端と正統の思想史」(菊地達也)を読んでみることにします。