魔人の鉞

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古田氏の九州王朝説は説得力あり

2020-01-19 12:11:00 | 日本古代史

九州王朝の存在を主張する古田武彦氏の、「九州王朝の歴史学」 1991年、駸々堂。

古田氏説は何人もの歴史学者から手厳しく批判されていることがあり、以前から気になっていました。この人自身は学者育ちではなく、高校教師から在野の研究家となり、昭和59年に昭和薬科大学から歴史学教授に招聘されたという異色の経歴を持っています。本を読むと、従来の定説に捉われない自由な発想が随所にありますが、それは綿密な資料考証と分析に基づくものです。私も素人ながら天皇家の万世一系は作られた虚名だと考えるに至りましたが、古田氏は長年の研究に基づいての説ですから、得心することが多いです

この本ではじめて教えられたことはたくさんありますが、特に私が気になっている、なぜ倭=ヤマトと読むのかについて、ヒントがありました。雄略天皇御製と言われる万葉集冒頭の有名な一首では、

・・・虚見津 山跡乃国者 押奈戸手 吾許曾居 ・・・ (そらみつ やまとのくには おしなべて われこそおれ)

とあるように、ヤマト=山跡と書かれています。(93p)

万葉集でヤマトは、天智10年 (671) までは 「山跡、山常、八間跡」 と書かれ、そののちは 「倭」 と書かれている (97p)。また日本という国号 (ヤマトと読む) は、朝鮮の三国史記に670年に改号したとある (97p) 。

八間跡には驚きますが、「邪馬台」 と書かれた歌は一つもないわけです。知識人でも、魏志に「邪馬台」 が載っていることを知らなかったのでしょうか? また誰もトを 「台」 と書かなかったわけです。

天皇家が日本に国号を変更するのとほぼ同時に、ヤマトを倭と表記するようになったわけで、これは実に不思議なことです。古田氏はこのような経緯の理由については答えを出していません。

日本号は倭が雅でないのを憎んで変更したというのが通説ですが、旧唐書に言う、日本が倭を併合したという説も成り立つかもしれません。邪馬台国の倭国乱のころに、戦乱を避けて九州から近畿へ移動した一族が、奈良にヤマト国を立てて天皇家となり、のちに強盛となって九州を統合した、というストーリーです。

また、倭奴国が九州にあったことの証明として、新羅本紀の脱解尼師今記事に、彼が多婆那国生まれで、その国は倭の東北千里にある、と書かれていること、脱解王の即位は西紀57年でまさに倭奴国金印の年であること (76-77p)。

古事記の、大国主命が妻問に出かけるのをスセリ姫が嫉妬する場面で、「倭に上がりまさむ」 というのに島々をめぐる海路のやりとりが続くのは、ヤマトが筑紫にあると考えるほかない (78p) 。

また三国史記列伝第五にある朴堤上説話では、朴堤上が倭に人質になっていた新羅の王子を脱出させたが、王子は一晩で海を渡って倭から逃れたとある。倭が難波方面なら一晩で脱出するなどまったくあり得ず、やはり筑紫にあったと考えられる。これは新羅の訥祇王即位の年 (417)  の話で、倭はこの間ずっと筑紫にあったはずである、とします。

古田氏は、隋書に600年の「俀国」(たいこく) からの遣隋使の記事があり、書紀にはそれがまったくなくて607年の小野妹子が第1次遣「唐」使となっているところから、600年はチクシの九州王国からの遣使とみています。これがなかなか難しいところです。

景行天皇の九州征討が史実かどうかは措いて、磐井の乱が 527-528年です。磐井は筑紫君で火・豊両国を占領していますから、もし別に九州王朝があったなら、磐井に滅ぼされたか? あるいは磐井自身が九州王朝の後継なのでしょうか。そして結局 物部麁鹿火に征討されていますから、いずれにせよ王国としては滅んだと考えなければなりません。それでいて600年に「俀国」という九州王朝が遣隋使を送ったというのは、無理があるように思えます。

 

また、天下り先の筑紫の日向は福岡県の高祖山であると考証していますが、これはまた後日にしましょう。とにかく、常識に安住させない、たいへん刺激的な本です。

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