少し古い本ですが、「古代を考える 邪馬台国」平野邦雄編、吉川弘文館、1998年。
この中に三角縁神獣鏡の製作地について、笠野毅氏が「六、考古学から見た邪馬台国 (二) 三角縁神獣鏡は語る」で諸説を丁寧に分析しています。呉工人来日説もきちんと紹介されています。中国製説にも一理あるのですが、なぜ尚方=官営工房作という銘がある鏡がごく稀で陳氏の銘が多いのか、について笠野氏は、陳氏が尚方所属の工人だった、という説を唱えています (161p) 。しかしそういう例があるとしても、官営工房作なのに個人銘だらけ、というのはにわかに信じられません。
魏皇帝の下賜品ではなさそうだ、という根拠は幾つもあります。
① 品物がわりと粗末で、優品ではない。
笠野氏自身が 「通有の中国鏡と比較すれば、いたって粗製である」 (146p) というほどです。魏の天子が金印紫綬を授与する相手に下賜する品物とは思えません。到底あり得ないでしょう。水野敏典氏によると、三角縁神獣鏡は同范・同型技法を併用しており、それは 「多少のキズは度外視したうえで、鋳型の数を最小限にして最大の枚数を制作するのに適した技法である」 とのことです。大半は模造品で、いわば粗製乱造です。
(「邪馬台国」洋泉社編集部 2015年所収、「三角縁神獣鏡を科学する」 (水野敏典、222p)
② 尚方=官営工房作という銘がある鏡がごく稀である。 (上記)
陳氏などの作者が尚方に所属していた、という説は明白な証拠がなく、やや苦し紛れで、にわかに信じがたい。個人銘は天子の下賜品にふさわしい感じがしません。
③ 中国で三角縁の鏡はまったく出土していない。
それで全くの特注だったという説があり、当時作られていない型式の鏡をわざわざ特別誂えで作ったというのです。1回限りで、その後も作られなかったわけです。しかし器物制作は技術の継承があるはずで、前後の時代に類似のものがまったくないというのはおかしい。魏は薄葬令が出ていて、石碑建立や副葬品をしなかった (154p) といいますが、その時期はたった30年間ほどです。三角縁の鏡が盛行していれば、その前後の時代で発掘されるでしょう。
④ 特別誂えの下賜品が安物だった、などということは信じられない。
⑤ 三角縁神獣鏡は100枚どころか、700枚以上知られている。
未発掘のものを考えれば数千枚も存在していたと考えられ、あまり有難味がない。一時の流行商品のようなものかもしれません。
⑥ 三角縁神獣鏡は大事に扱われていない。
葬式の花輪のような感じで、「三角縁神獣鏡はみな棺の外に置かれていて、棺の中にあるのは間違いない中国製の鏡」 だそうです。服属の証に下賜した威信財などというものではないようです。
(「卑弥呼と神武が明かす古代」 内倉武久、ミネルヴァ書房 2007年。)
こうしたところから、三角縁神獣鏡が卑弥呼がもらった鏡だという説はほとんど誤りだと思います。しかし今では前方後円墳と三角縁神獣鏡がセットになって、ヤマト政権の威信を象徴するということになっています。キズがある鏡をキズがあるままに複製して、どうしてそれが威信財になるのか、ちっともわかりません。どうも学会というのは恐ろしいものです。素人の疑問にさえ答えられない説が通説になってしまうのです。
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