推理作家松本清張氏の、「吉野ヶ里と邪馬台国」 1993年、日本放送出版協会。
少し古い本なのでどうかと思いつつ読み進みましたが、少しも古くないのに驚きました。いくつが印象に残ったところをピックアップします。
まず、里程問題。氏は1万2千里は長安から絶遠という観念的里数だとします。漢の都護府管轄下の楼蘭、干蘭などは1万里以下。管轄外の諸国はみな1万⒉千里内外で、特にカシミールのケイヒン国とウヨクサンリ国はともに万2千2百里となっているが、ウヨクサンリ国が倍も遠い、とします。(93p) その他傍証は色々あります。それですから邪馬台国まで1万千里として、倭人伝の記事から理数を計算してもあまり意味がない、とします。(もちろん、長里や短里という話も同様です。)
「一大率」は魏・帯方郡が伊都国に置いた官職で、「女王国以北」の7国を監察する。「女王国以北」の7国は帯方郡の属国ではないが監督下にあり、女王国とは立場が違っていた、とします。一大率は「皆 津に臨んで捜露し」、女王の使者や郡使の文書・物品を女王や各所に差配する、強力な権限を持っています。(182-183p) 一般には一大率は卑弥呼が任命したと考えていますが、卑弥呼の一官吏が上記のような広範な権限を持つことは考えにくい。卑弥呼は共立された名目的な女王で、強力な武力を持たないはずなので、その官吏である一大率を諸国が「刺史の様に忌憚す」ることはあり得ない、というのも納得できます。
卑弥呼の塚 径百余歩。この百を実数として、巨大な墳墓を探して箸墓に比定したりしていますが、これも 「多数」 の代名詞にすぎないとします。(238p) 銅鏡百枚、百余人など皆同様と論じます。そうとすれば卑弥呼の墓はもっと小さい可能性が高い。
邪馬台国への途中の描写や都の様子が具体性に欠けるということも書いています。(185p) 侍女千人などあり得ず、陳寿の観念であろう、としています。
伊都国は 「世々王あるも、みな女王国に統属す」と読んでいますが、松本氏は伊都国が女王国を「統属」=統率してきた、と読めないか、と提案しています。(189p) 「統属」は自動詞か他動詞か? (中国語としてはどちらにも読めるようです。) もし清張流なら意味は全く反対になります。世々王がいて、王墓の副葬品は素晴らしく豪華で、たいへん繁栄していたと思われる伊都国ですから、共立されただけの女王国が伊都国を統属してきたというより、ずっと分かりやすくなります。卑弥呼が立つ以前の 「女王国」 は倭を代表する大国ではなかったはず。
これまでの邪馬台国論争をばっさり切って捨てる、松本清張氏の快刀乱麻。このような議論には、原典を勝手に書き換えてはならない、という史学者の反論が浮かぶのですが、論理的に納得できる方が重要でしょう。清張氏の立論は明晰です。もう一度見直してみる必要を感じます。
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