飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

教師十戒

2023年09月01日 06時33分58秒 | 教師論
なぜ、教師になったのか。
教職にある人間だったらいつも考えることだ。
その理由は人それぞれ様々でいい。
なんとなく教師になって、教育という営みをしていく中で、なぜ自分は教師になったのかを見出す人だっていていい。
どんなに社会が変わろうとも教育には不易がある。
それはどんな考えなのだろうか。

長野県に毛涯章平という教育者いた。
教師であるなら一度は聞いたことがある名前だと思う。
毛涯章平は、40年間長野県で小中学校の校長先生や教育委員長を歴任した。
そして、1983年に教職を去った。
彼が書いた随筆集『肩車にのって』(第一法規・刊)の冒頭に書かれているのが「教師十戒」である。
教師生活を通じ自分の中に凝集してきた自戒の言葉だ。
表現は少し古いと感じることもあるが、教育の本質を正確に言っている。
読むだけでも教師としての心のどこかに響く言葉だ。

「教師十戒」 毛涯章平著 『肩車にのって』より

1 子どもをこばかにするな。
 教師は無意識のうちに子どもを目下の者と見てしまう。
 子どもは、一個の人格として対等である。

2 規則や権威で、子どもを四方から塞いでしまうな。
 必ず一方を開けてやれ。
 さもないと、子どもの心が窒息し、枯渇する。

3 近くに来て、自分を取り巻く子たちの、その輪の外にいる子に目を向けてやれ。

4 ほめることばも、叱ることばも真の「愛語」であれ。
 愛語は、必ず子どもの心にしみる。
  ※「愛語」…相手の身を思いやって語ることば

5 暇をつくって、子どもと遊んでやれ。
 そこに、本当の子どもが見えてくる。

6 成果を急ぐな。
 裏切られても、なお信じて待て。
 教育は根くらべである。

7 教師の力以上には、子どもは伸びない。
 精進を怠るな。

8 教師は「清明」の心を失うな。
 ときには、ほっとする笑いと、安堵の気持ちをおこさせる心やりを忘れるな。
 不機嫌、無愛想は、子どもの心を暗くする。
  ※「清明」…自然で明るく、ゆったりすること

9 子どもに、素直にあやまれる教師であれ。
 過ちはこちらにもある。

10 外傷は赤チンで治る。
 教師が与えた心の傷は、どうやって治すつもりか。

saitani


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