飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

一つの目標

2024年08月17日 05時54分03秒 | 教師論
森信三は師範学校の学生に向かって言う。

そこで私は、諸君に対して、ここに一つの中間目標を掲げてみましょう。
それらは諸君らは一つ四十になったら、必ず一冊の本を書く覚悟を、今からしておいて戴きたいのです。
そしてその頃まだ私が生きていたら、ぜひ一冊頂戴したいものです。
マア、私のことはあてになりませんから、どうでもよいですが、とにかく諸君らは、四十になったら一冊本を書くんです。
そして、その決心を、今日からしっかりと打ち立てるがよいと思うのです。

突然、教授からこんなことを言われたらどんなふうに考えるだろう。
残念ながら、自分の場合はこんなふうに言ってくれる先生はいなかった。
でも、心のどこかで退職までには自分の教師人生を記録した本を一冊でいいから書いてみたいと思っていた。
その夢は、少し叶ったと思う。
これまでの教育観や実践をまとめた本を四冊製本して、心ある先生方に読んでもらっている。
その一つ一つは、本当に人様に読んでもらえるようなものではない。
しかし、自分の教師人生の一端を表現したものにすぎないが、自己満足だがこうして何かに残すということは意味のあることだと考える。

しかし、本を書けと言っても、何をかけばいいのか。
それには、日々の実践を残しておく必要がある。
でないと、教育実践というものは消え去る運命にあるからだ。

森信三は次のようにつづけている。

では、どういう本を書くかということになりますが、諸君は本を書くなどと言えば、それは学者の仕事であって、われわれ師範学校を出たくらいの者の、することではないと思われるかも知れません。
しかし私から言えば、そこですなわち志の狭小なるゆえんであって、意気地がないというのです。
人間が二十年も歳月を一つのことに従事して、その程度のことのできないということがあるでしょうか。
できないというのは、本当にする気がないからです。
では、どういうことを書いたらよいかというに、それにはちゃんと書けるような事柄があるのです。
たとえて申せば、尊徳翁とか松陰先生のような方の精神を、一つの学級において実現しようとした自分の努力の足跡を、ありのままに書いてみたらいかがでしょう。
これなら、いやしくもそうした努力をした人なら、誰にだって書けないというはずはありません。
それは、必ずしもむずかしい学理を書くには及ばんからです。
そういうことは、世間で学者と言われている人達に委せておけばよいのです。

ぜひ20代の若い先生方には、中間目標として20年後には一冊の本を書くという志を持っていただきたい。
そうすることによって日々の実践のあり方が変わり、教師の成長も訪れる。

saitani



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