飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

武士道 死生観

2013年07月27日 11時58分06秒 | 歴史
あらゆる危険を冒し、自らの命を投げ出して、死ぬようなことが勇気と勘違いすることがある。
このような無謀な行為が不当に賞賛されるときもあった。
しかし、武士道においては、死に値しないことで死ぬことは「犬死に」と軽蔑された。

徳川光圀も言っている、
戦場に飛び込み死ぬのは簡単であって誰でもできることだ。
生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬのが、真の勇なのである。

蛤御門の変で、幕府軍に追いつめられ、鷹司邸で自刃した長州藩士久坂玄瑞も、死に際に、これは犬死になのかと述懐している。
行動の規範が武士道にあったのではないか。

プラトンの言葉。
恐るべきことと、恐るべきではないことを判別できること。

これが勇気。

この考え方は、吉田松陰の死生観に非常に良く似ている。
日本の歴史の中で培われてきた武士道の考え方は、不変のものがあることを実感する。

saitani
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