飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

吉田松陰命日

2013年10月27日 22時03分03秒 | 歴史
安政6年10月27日(1859年11月21日)は、吉田松陰の命日 。
辞世の句として有名なものは「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」である。
これは処刑される前夜に吉田松陰が書いた遺著「留魂録」の冒頭に書かれたもの。

もうひとつは、「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」。
自分としては、こちらの句が松陰の人間らしさがでているような気がする。

自分の故郷にも、吉田松陰に関する史跡が残っていることに最近気がついた。

詳細は次のようである。

下田街道に面した大仁郵便局敷地北側にひっそりとたつ石碑がある。
誰もその石碑の存在には気がついていない様子で通り過ぎていく。
そしてその石碑には「吉田松陰先生御宿泊跡 安政元年4月11日」と刻まれている。
安政元年(1854)と言えば、前年に黒船が来航し、そしてこの年再来し、3月3日、日米和親条約が締結された年である。
これをきっかけに日本中に尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ、明治維新に向かって突き進む始まりとなった年でもある。

そして安政元年4月11日、この日に、韮山代官である江川坦庵が、吉田松陰に面会に訪れたという言い伝えが残っていることを知った。
なぜ、正式な文書に残っていないのかと疑問に思った。
その理由は、江川坦庵は江戸幕府の韮山代官という役職である。
すなわち徳川家の役人である。
その役人が、わざわざ国禁を犯し、海外に渡航しようとした大罪人である吉田松陰のもとを訪れるなど許されるはずがない。
したがって内密で面会にやってきたのだと言う。
この史実は、現在大仁郵便局の敷地となっている場所に江戸時代にあった名主杉村友右衛門の家人の話として伝わっているだけある。
 
幕府官僚である江川坦庵と幕末の志士に大きな影響を与えた吉田松陰が、そのときどのような話をしたのかは、まったくわからない。
しかし、動乱の幕末にあって、日本の将来を憂い、純粋な志で意見を交換したことは想像できる。
 
時は安政元年(1854)4月11日、下田を出て二日目、江川坦庵54歳、吉田松陰25歳であった。
そして、江川坦庵は翌安政2年1月16日、幕府より勘定奉行を命じられたため病をおして上京し、江戸屋敷で急死する。

saitani
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