飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

知識は誰かのために使って初めて知性となる

2023年12月24日 05時44分24秒 | 教育論
人は話す時に、本当に相手のためになるのか?と考えているだろうか。
1度立ち止まって考えてみる。
ただ単に知識を披露したいだけ、ただ自分の主張をきいてもらいたいだけになっていないだろうか。
時々自省してみる必要がある。

例えば、自分がコーヒーに詳しいとする。
その男性が女性とカフェに行き、オーダーするとき。
もし女性がカフェオレを注文しようとしているとする。
そこで男性は次のように言う。

カフェラテとカフェオレの違いって知ってる?
カフェオレはドリップコーヒーとミルクが5:5だけど、カフェラテは、エスプレッソコーヒーとミルクが2:8の割合なんだよ。

こんな話は単なる知識の披露に過ぎない。
賢いふりをして、「すごいね」と言ってほしいだけ。
しかし、女性が「デカフェってないんですかね?」と聞いたとする。
こんなときこんな話をする。

もし、カフェインが苦手なら、カフェオレよりカフェラテのほうがいいかも。
カフェオレよりカフェラテのほうがカフェインが少ないはずだから。

同じようなことを言っているのに、印象はだいぶ違ってくる。
単なる知識をペラペラ喋る人間を人は嫌う。
しかし、自分の欲している、知りたいと思っている知識を教えてくれる人には良い印象をもつ。
だから、その知識は相手が欲しがっているかどうかが知性との境目ということができる。

とはいえ、人間には本来持った承認欲求という基本的にもっている欲求がある。
だから、知ったかぶりをすることも当たり前といえばそうだが、その話を相手が欲している知識がどうかは考えもみる必要がある。


saitani
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