「仕口」は、構造部材である柱や梁、桁など2つ以上の部材を
組み合わせ接合する方法。 またはその接合箇所。
仕口はかかった力の伝達が的確に行われるようそれぞれに
「ほぞ」(突起)と「ほぞ穴」をつくり組み合わされる。
ここのところ、ライフワークの住宅取材について
過去20年間近い「遺跡復元建築」「古民家(移築や復元)」などの
追体験的な取材写真・整理整頓をしてきております。
そうすると見学取材撮影時に気付いていたけれど、それほどには
立ち止まって考えるのを忘却していたことがあらためて盛り上がる。
表題のようなことについて、根源的な疑問が湧いてきています。
きのうも書いた次第ですが、秋田の西方設計さんから
「吉野ヶ里を見ましたが、貫の復元が出土例がなく問題視されています。」
という指摘。興味を強く持たれたコメントをいただきました。
氏もこの「仕口」の初源について強い興味を持っているとのこと。
飛躍して「Replanでシンポジウム企画して」と想像を超える提案まで(笑)。
こういう「復元」プロセスについて吉野ヶ里を管理する佐賀県などの
該当ページなどでも、このあたりのことについての詳述はない。
おおむね3世紀を想定した復元で、卑弥呼と想定される「女王」の
居館をイメージした大型木造建築、物見櫓建築が復元されていますが、
貫という仕口の基本構造事例がこの時代「出土例」がないという。
日本の酸性土壌特性から考えると、そういう材の保存・出土が可能かどうか
大いに疑問ですが、あきらかに物証には乏しいのでしょうね。
一方できのうご紹介した竹中大工道具館展示では、「縄文中期」からは、
こうした仕口加工が認められているともされていました。
あるいは物証以外の証明から歴史認証されているのかも知れません。
このあたりの「仕口」の起源についてと、それ以前の架構について
どんどんと興味が深まってきている次第。
で、写真は三内丸山の高層櫓と大型木造建築の「構造材接合部位」。
仕口発達以前には、縄、もしくはつる状植物での縄接合で
「載せる・重ねる」という架構の固定化が図られている様子がわかる。
三内丸山はおよそ5,000年前が復元ポイントとされているので、
こういう架構方法を想像して復元したのでしょう。
まぁおおむね常識的に理解可能だと思いましたが、
よくみると櫓建築では柱に対して斜めの太い「枝」状の突起部位がある。
そこに太い横架材が載せられ、上階架構構造の起点になっている。
2階以上の「高層」建築の設計を想像すると、こういう「架構方法」が
初源により近いイメージなのではないか。
柱と横架材の組み合わせでより高層の建物を構想したら
最初に浮かんでくるアイデアは、こういう「枝」を利用して
そこに横架材を載せる方法が、自然観察からの人間思惟的に無理がない。
こういった架構であれば、石斧だけの道具段階でも建築可能だった。
ただし、少なくとも4−6本の同様の太さ、枝ぶりの自然木を
探し出して伐採、移動させてくる必要がある。けっこう太くて重い・・・。
さらに目をこらすと、補強として楔の初源のような端材も散見される。・・・
世界的にも稀有な木造構法である日本の柱梁建築技術。
弥生からだけではなく、もっと初源の縄文から訪ね歩く、
すっかり人類史・古代建築探偵団のモードになってきております(笑)。
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