三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【テレビメディアとの関係・自分史】

2016年11月24日 06時19分20秒 | Weblog
きのうは自分史にスポットを当てる地元ローカルテレビ番組の放送。
自分のことを聞かれるという経験は初めてだったのですが、
番組パーソナリティを兼務する福津京子さんのリードに乗せられて、
楽しそうにしゃべくっている自分がテレビの中にいました(笑)。

みなさんはテレビに出た経験はありますか?
日本人とテレビって、戦後の力道山プロレスの時代から
いわば「大衆社会化状況」の象徴的なものとしてあったと思います。
日本でのテレビ放送は、1951年GHQの要請により電波監理委員会メンバーが
視察のため渡米。アメリカから3人のコンサルタントが来日。
軍事戦略のひとつとして占領国でのテレビ放送利用を
重要視していたアメリカの圧力によりスタートを切ったとされる。
で、1953年からNHKから放送が開始された。
ということなので、63年という時間が経っている。
わたしの年齢はほぼそういった時間と重なっている。
当初はもちろん、街頭テレビとして力道山のプロレスがブームを牽引した。
そういう創成期にはもっぱら受け止めるメディアだったけれど、
放送内容が多様化するにしたがって、「テレビに出る」ということも
どんどんと大衆化していったと思います。
わたし自身のことで言うと、小学校5年、10歳くらいの時、
ですから1962年当時に、札幌の街中の小学校だったこともあり、
NHKローカルで、子どもたち出演の討論番組のようなものに出たのが嚆矢。
たぶんNHK札幌に比較的近いということで小学校に協力要請があって
それに応えて出演したのだろうと思います。
高校3年17歳の時には、学生運動をやっていてアジ演説していたけれど、
その様子を映画研究会の友人が番組に編集してNHKに売り込んだらしく、
なんの事前予告もなく、その様子が「高校生の政治運動活発化」というようにして
NHK朝のニュースワイドみたいな番組で流されてしまった。
それまで親には「どうも学生運動しているみたいだ」と疑われていたのが、
どうにも動かぬ証拠映像として、食事しながらいっしょに見るという
なんとも居場所のない状態になった記憶がある(笑)。
逃げ出すように学校に出掛けていった。
で、星霜を経て、住宅雑誌リプラン創刊当時・28年前1988年には、
雑誌の宣伝のために「TVリプラン」というオリジナル番組を制作運営していた。
そちらの方で主に宣伝をやっていたけれど、
結局、住宅番組と言うことで番組内容まで全部引き受けざるを得なくなって、
その番組継続は制作企画進行が物理的にムリになってしまった。
その後、地元TBS系列HBCの昼ワイドショーで、住宅情報コーナー番組として
そのコメンテーター、番組企画運営などをさせてもらった。
ほぼ月一回程度の頻度で、実例住宅映像とわたしのコメント解説という
そういった番組を都合3年くらい継続していた。
テレビは即応性が要求される世界なので、コメンテーターには自在性が不可欠。
いい経験をさせてもらったと思っています。
どうしてもやや、テンションを上げ気味に対応する必要がありますね(笑)。
ということで、自分とテレビ54年の付き合いだなぁと少し感慨に浸っていました。
コメント
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