三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

眺望といごこち

2013年07月30日 10時18分47秒 | Weblog



都市生活というのは、人類の本然に基づくことなのかどうか
人間という存在は、ヒトという字に「間」と書いて表現される。
そのことはそのまま、人間というものが社会的な関係性の中でしか
生き延びていくことができない動物であると言うことを表しているのでしょう。
ある意味でアリやハチのようなコロニー的な共同体、もしくはそうした共同幻想性が
生きていることの価値観の中でもっとも大切と考える生き物だといえるのかもしれません。
そうでありながら、DNAにはその出自であるに違いない
類人猿時代からの森林生活という「環境記憶」を持っていることは明らかで、
人間の「癒やし」には、緑や森の視覚刺激がもっとも効果的なのだとも思います。
一方で、コロニーを感じさせる「社会的な抱擁」の安心感、利便性を求めて、
「都市的環境」を深く欲しながら、
もう片方で、それとは対峙的な森や緑への強い憧れも存在する。
わたしたち、現代人はその両方のここちよさの間にたゆとうている存在なのでしょう。
まぁ、東京都心中心部にいらっしゃるファミリーは別として(笑)。

大多数のわたしたち都市生活者を基本にすると
ひとつの憧れとして森の眺望、そこに抱かれるここちよさが導かれますが、
建築では本来、こうした環境の中では志向性は2つに別れるでしょう。
それは、定住的に住んでいく場合と
そうではなく、スポット的に非定住的に別荘として利用するように建てる場合と。
それは端的に、眺望としての森への考え方で決定するでしょうね。
先日、東大雪の大自然の中でレストランを自営されている方の兼用住宅を
拝見しましたが、そこでは森への眺望はほとんど顧慮されず、
当然ですがむしろ、人間らしいもてなし、の方に力点が置かれていると感じました。
「いごこち」の方に大きな関心が寄せられているのだと思います。
環境はもちろん豊かなのですが、
それは家の外に行けば存分に感受できるのであり、
その自然には同時に抗いがたい暴力的な猛威もあるわけで、
それから基本的には人間を守る、という要素の方に関心が大きく向けられる。
そのように考えていったとき、
やはり自然や森、緑とどのように建築は向き合うべきなのか、
その用途によって、大きく考え方は別れるのが自然なのでしょう。
写真の建物は、そのような意味合いから言うと、
いま都市環境にいる人間の論理に基づいて考えられた建物だと思います。
生活的に森を見るには、開口部はここまで必要ではない。
観光的に「見せる」のに適した開口部配置であることは明白ですね。
それがこの建物の趣旨に合致しているかどうかは、わたしにはわかりませんでした。

目的によって、建物は大きく様相を変えるべきもの。
森の中にある建物から、そんな雑感を抱いているところであります。


コメント
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