人間が建物を建てるには、
目的があると思います。当たり前ですね。
で、住宅の取材をずっと継続しているのですが、
家づくりの目的って、非常に複雑微妙な「目的意識」でもってなされていると気付く。
で、家づくりの目的って大きく考えると生きる意味と重なってくる。
生きていくための最大の「拠点」になっていくものなので、
それ自体は当たり前のことですよね。
多くの人の場合、というか8割以上の人の場合は、
むしろ圧倒的に平凡な、「普通の」人生を志向するので、
家も、平凡なものでいいのだと思う。
ただし、現代は石器時代でも縄文時代でも平安時代でもないので、
その「普通」には、現代世界という「常識範囲」が盛り込まれる必要はあるけれど。
で、そういったいわば、平均的なハコモノを考えるには
国土交通省による「指導監督」コントロールというのはあり得べきだと思います。
しかし一方で、
最近のひとたちの強い志向性として、
「個人主義的」な家づくり、というスタイルを感じる部分も強い。
個人主義、という言葉を使えば、ある誤解も生じるのだけれど、
もっと正確に感じた視点で言えば、
どちらかというと、自己と社会との分裂的な傾向があって、
より「閉鎖的」な方向で人生を考えていて、
家は、個人の内面世界を反映させる場を実現するためのものだと考える傾向です。
多少の誤解を怖れずに言えば「自閉症的な家」とでもいえるのでしょうか?
ちょっと前までは、そういった志向性の方は
「脱既製品」的な性向から、個別的な建築、一品生産的な住宅
たとえば建築家に頼むというような方向に向かったけれど、
そしてそれ自体はいまでも大きくはそうなんですが、
最近、頼む先はどこであっても、そういった傾向が必ずあると気付きます。
どんなローコストメーカーに頼んだ建て主さんでも、
「個人のプライバシー」を強く主張されるケースが増えてきている。
こうした傾向は、家づくりの動機において、
新しい傾向が出てきたと言うことかも知れない、などと考えたりもします。
個人の,社会への防衛シェルターとしての住宅というような概念。
わたしたち団塊前後の世代までには、そういう部分はごく少なかったと思うけれど、
それ以降、オタクと言われる人たちを生んだ世代に
そういった傾向が目に付くように感じられると言うことでしょうか。
こういう風に書くと、
そういった傾向に対して否定的な感覚を持っているのではないかと
誤解されるかも知れませんが、
そうではなくて、そういった傾向がある変化の表層を垣間見せているのではないかと
そんな風に捉えていると言うことなのです。
こういう志向に対しては、
国土交通省の家づくりの「指導監督」は、どうも違うかも知れない。
違和感を生み出して行くことになるかも知れません。