三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

律令時代の「交通」

2012年11月28日 05時42分09秒 | Weblog


写真は、ジオラマ展示による
律令時代の「下野国」国分寺・国分尼寺と官道・東山道の配置説明。
ほぼ上が北という方位感覚になっています。
国衙という国の「政庁」施設はこの官道・東山道を左に行って
やや南に折れていく場所に置かれている。
律令による国家支配と同時に「鎮護国家」という政策が導入されたので
こうした国分寺・国分尼寺は、たぶん、国家の正統性の保証機能や
人民支配登録機能・戸籍の管理などを司っていたのではないか。
この官道・東山道は幅が12mで、その両脇には側溝も備えられていた。
そして発掘調査によって、
中央部にわずかに陥没した様子が見られたりもするのだという。
活発にひとびとが行き交う様子がわかる。
Wikipediaで調べてみると
~庸調の利用などは陸路かつ人力での中央への輸送が強制されていた。
これは、車・舟などを持てるのは有力な地方豪族に限定されるために
車舟による輸送を認めると納税に豪族の介入の余地を生むこと、
更に民衆に都を一種の舞台装置として見せることで
民衆に国家的な共同幻想を抱かせる演出を図ったとする見方がある~
ということだそうです。
轍の痕跡なども予想以上に見られると言うことなので、
牛馬によるクルマに乗せての物資輸送なども活発に行われていたそうです。
こんな情報も重ねて考えてみると
そもそもこの道路の開削自体から、
たぶん農閑期に、労働動員させて道を作らされ、
また、通常の農繁期にはコメ作りなどで田畑に縛り付けられ、さらに
その道を通って都まで、反物などを持って行かされるという
民衆の日常生活が素描されてくるように思われる。
そしてその上、この時代には大仏の建立に向けて黄金の採掘が国家的な命題で、
ついに百済王敬福とその一党グループの手によって
奥州で大量に生産されるようになっている。
その国家的収奪行為が、現地の先住民とのあつれきを生んだことはあきらかで、
蝦夷への征伐騒動に発展していったに違いなく、
この道路を、坂上田村麻呂の軍が北上しつつ、
沿道各地から軍兵の徴用も苛烈に行われたに違いない。
こういった一連の「政策」が、ひとびとの反感を醸成していって
歴史を突き動かしていく原動力になっていった。

そんなような想像力がムラムラと、沸き上がってきます(笑)。
人間の営みの痕跡というのは
まことに深く、いろいろなことを教え諭してくれるようだと思いますね。

コメント
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