人の生き死には、人間にとっての一番の関心事であるはずだけれど
日本の明治以来の基本政策である
「富国強兵」「経済大国」という路線では
日本の伝統的な人口政策を見直し
農家の次男三男層を、「都市の労働者」に変えて
大量の「会社員」を生産することに目標を定めてきていた。
それが、日本の発展の道筋であると固く信じてきた。
住宅政策も、必然的に「核家族化」が推進され、
なによりも家の存続を優先させる伝統的「家意識」に替わって
個人主義が推奨され(たかどうかは別にしても)、大いに普及させられた。
こうした現代日本の行ってきた基本政策によって、
実は、死者との「つながり」とか、先祖観が大きく変容してしまった。
もともと、都市労働者としての階層が
農家の次男三男を基軸に据えていたからか、
「仏壇」を背負って移転する、というような「家の重さ」が希薄だった。
それよりも、単位面積的な合理主義と
欧米的生活スタイルへの憧憬の刺激が優先された。
公団住宅的な、何LDKという間取り区分け思想が主な住宅概念として
喧伝され続けてきた。
そこには、いわば「2間続きの和室」にたたずむ仏壇や神棚、
っていうような長期にわたって日本人のDNAに刷り込まれてきた
「家」の存続性の核心的部分が欠落し続けた。
そういう意味では、自己批判的ではあるが、北海道の伝統のなさが
もっとも先んじてきた部分であるかも知れない。
それがインターナショナルな部分にも連なっていく部分であるかも知れないが
しかし、さてどうなのか、
現代の死のかたちの異形性をみるとき、日本人の心の部分は、
大丈夫、持ちこたえられるのだろうか?
っていうような局面に、いま、立ち至っているのではないか。
国交省の「長期優良住宅」の審議委員には
こうした日本人の永く培ってきた家の精神性についての意見を具申する
そういう立場の人間は存在していない。
省庁の中心であり、同時に審議委員の中心となる、
「東大工学部」自体にそういう専門性がないといえる。
むしろ、「長期優良住宅」を考えるのであれば、
「日本人にとって家とは何か」
という論点から論じなければ、そもそも論議の視点が大きく狂う。
むしろ、住宅問題についての「人間」視点の立場こそが決定的に必要だ。
家は人間が主役の、生きる場所であり、そこで死ぬ場所なのだ。
それなしで、いわば「モノ」や「経済的観点」からのみ
こういう問題を論議するのは明らかにおかしい。
たとえていえば、どういう住宅を作るのかを
人間としての施主をほっぽり出して、
建てる職人や、図面師たちだけで枝葉の論議にはまりこんでいる。
ドイツや、ヨーロッパの住宅論議が、黒い森問題やチェルノブイリを
論点のスタートとしてきた、と言われるのに対して
どうもいまの日本の住宅の論点のレベルの低さに、思いを致さざるを得ない。
きのう書いたブログに、
ある方からの意見をいただき、そこから抱いていた思いに気付いた次第です。
写真は、昨日と同じ、五百羅漢。