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チェンバース艦長の決断〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-09-23 | 軍艦

 

空母「ミッドウェイ」の艦橋の真下に当たるデッキには、
「フラッグオフィサー」、つまり自分自身の指揮官旗を持つ
偉い人たちの居住区があります。

この指揮官旗というもの、海軍に入って艦隊勤務になれば、
自分一人のために揚げてもらえる訳で、最初にその配置になり、
自分のためにはためく旗を見ることは、軍人として

「俺もついにここまで来たか・・・」

としみじみするものらしいですね。
自衛隊でも同じことで、配置が変わり、旗が揚がったのを見て
感激した、という話をわたしは当の自衛官から聞いたことがあります。


あと「俺もついに」の感慨を起こさせるイベントというのは何でしょう。

自分のためにサイドパイプが「ホヒーホ〜〜」と吹かれたとき?

自分のために副官が配置されることになったとき?

艦内で一人部屋がもらえ、自分のためのお風呂があるのを見たとき?

色々ありましょうが、何と言っても海軍軍人がもっとも感慨深いのは
「艦長」(発音は艦↑長↓ではなく、艦→長→で)と呼ばれた日ではないでしょうか。

アメリカではご存知のように艦長は「キャプテン」あるいは「スキッパー」です。
いうまでもなくその船で絶対の最高権力者であり、
航海で起こり得るすべての責任者となります。

アメリカ海軍では「コマンディング・オフィサー」とかCOと言われることもあります。

艦長室も近いこの一角には、海兵隊員に守られるように、
歴代艦長の実に立派な写真コーナーが設置されています。

上段中央には、ここでもお話しした、ベトナムからの脱出劇、
歴史的に言うところの

「頻繁な風作戦」(オペレーション・フリークェント・ウィンド)

で「ミッドウェイ」上空に飛来したセスナに着艦許可を出した

「ローレンス・”ラリー”・チェンバース」艦長

がいます。

今回サンディエゴに行って「ミッドウェイ」を再訪し、
前回見残したところと、疑問だった部分などを
現地の説明も聞いて確認して来ましたので、今日はもう一度、
このベトナム戦争時に行われた民間人脱出作戦について、お話ししておきます。

脱出までの経緯については、当ブログですでにお話ししておりますので、
ご存知ない方はぜひそちらをお読みください。

四月のホワイトクリスマス〜空母ミッドウェイと「頻繁な風」作戦


当時「ミッドウェイ」にサイゴンから往復40分のフライトで
ヘリが次々に難民を輸送していました。
定員12名のヘリコプターから80名の難民が降りて来たこともあったそうです。

そのうち「ミッドウェイ」甲板には、ベトナム軍の飛行機が無許可で降り始めました。
救出劇が始まって、収容された難民の数は3000名を超えたそうです。

「ミッドウェイ」の艦長が救出の命令を受けたのは、
脱出が始まった4月29日の2:30のことでした。
空軍の飛行機はすでにサイゴンと「ミッドウェイ」を往復して、
脱出するアメリカ人とベトナム人をシャトル飛行で運んでいました。

もちろん「ミッドウェイ」の艦載機もこの搬送に加わり、
1000人以上の脱出者たちを運んで来ています。
不眠不休で働いていながら、水兵たちは自分の寝床を子供達に提供しましたし、
6000食が脱出して来た人たちに振舞われ、その時には
「ミッドウェイ」の医療施設は難民のためにフル稼働しました。

最初の日に甲板に降り立った人々に対し、乗員たちは簡単な審査を行い、
「ミッドウェイ」のゲストとしてできるだけ心地よくいられるよう心を砕きました。

特に、同じ年頃の子供を祖国に残しているクルーは、
ベトナム難民の子供たちに大変シンパシーを感じ、
心を動かされた様子だったといいます。

翌日4月30日。

難民たちを他の艦に移す前に、「ミッドウェイ」は新たな任務のために
その航路を西に向けました。

タイの沿岸沖に52名のベトナム人兵士を乗せたジェット機が
サイゴンから脱出する途中で海面に不時着していると知らせを受けたのです。

この任務に向かう途中にも、「ミッドウェイ」は漁船から84名を
救出してもう人員はオーバーもいいところでした。

しかし、「ミッドウェイ」はベトナム人たちを全員を掬い上げたのみならず、
彼らをグアムまで送り届けています。

こんな「思わぬ和解」もありました。

脱出が始まる前、左上の写真のように、
空母に着艦したことがない空軍のヘリパイロットなどは、
前もって着艦の練習をしてそれに備えました。

右下の写真は「ミッドウェイ」艦上でかつての呉越同舟、しかし
同じ困難に立ち向かう仲間として和気藹々の空軍&海軍のパイロットたち。

いうまでもありませんが、空軍と海軍航空隊は平和な時には犬猿の仲です。

 

かくのごとく難民とアメリカ国民が「ミッドウェイ」に運ばれ、
アメリカ大使館を守っていた海兵隊員が最後に「ミッドウェイ」に着艦した
その1時間後、大使館は北ベトナム軍によって占拠されました。

そこに現れたのがベトナム軍人ブワン軍曹と妻、六人の子供を乗せたセスナだったのです。

上空に飛来したセスナからは

「着陸許可をくれ。飛行機のガソリンはもう少ししか持たない」

と書かれた紙が落とされました。

南ベトナム空軍の士官は、ブワン軍曹のように自分の家族を
航空機で脱出させようとしましたが、侵攻してきた北ベトナム陸軍兵士に
殺害されるということもあったのです。

直ちにこれを許可した「ミッドウェイ」ではセスナを着陸させるための準備に入りました。
飛行機の進路に対し艦体を順行させ、艦上のヘリなどを海に投棄する大決断が行われたのです。

WestPac 1975 with Operation Frequent Wind

17:30くらいから、ヒューイを投棄するためにパイロットが海に飛び込み、
その直後機体がその真横に墜落するシーンが見られます。

パイロットですから自分の落下水面にヘリが落ちてこないように
ある程度コントロールしてから飛び込んだのだと思いますが、
ローターの長さもありますし、見ているだけで背筋が寒くなります。

 

セスナに着艦許可をためらいなく出し、甲板から何機ものヘリを捨てることを命じ、
そしてテールフックのついていない機体のために、艦首を風上に向けて
全速力で「ミッドウェイ」を航行させることを選んだのが、
チェンバース艦長と当時のエア・ボスでした。

歴史的な脱出作戦について語るチェンバース元艦長。

この容姿からは日本人にはあまりわかりませんが、チェンバースは
アフリカ系アメリカ人です。
海軍兵学校を卒業したアフリカ系アメリカ人は彼が二番目で、
のみならず、アフリカ系としては

● 初めて海軍空母部隊(VA-67)を指揮

● 初めて空母の艦長となる(ミッドウェイ)

● 初めて搭乗員出身の中将となる

● 初めて艦隊指揮官となる(第三艦隊)

という初めてづくしのレジェンド軍人でした。

そして当時の「ミッドウェイ」エアボス、ヴェーン・ジャンパー氏。

ビデオでは、二日目の脱出作戦の日に起きたセスナの着陸について
「ミッドウェイ」艦上で語っている映像が流れていました。

着艦を成功させた「ミッドウェイ」乗員の何人かは涙ぐんでいたそうです。

「アメリカン・ドリームが叶う」

というタイトルで、こう書いてあります。

避難民はその後グアムに移送され、それからカリフォルニア、アーカンサス、
ペンシルバニア、フロリダに設置されたキャンプにまず移住しました。

そこで彼らは英語を学習し、仕事ができるように技術を学び、
アメリカ合衆国の国民になるための準備を行いました。

最終的には13万人以上のベトナム人がアメリカ人となっています。

この写真は、難民としてアメリカに来たある大家族の現在。
白黒の写真は、アメリカに来てすぐ、キャンプで撮られた写真です。

今は全員がアメリカ市民となっています。

ちなみにこの家族の孫は、アメリカ空軍士官になりました。


最後にこの写真をご覧ください。

VIETNAM WAR HERO’S FLIGHT TO FREEDOM REMEMBERED

後ろのアロハがチェンバース、飛行機のコクピットにいるのが

家族を乗せてセスナを操縦していたブワン・リー軍曹、
二人の間にいるのはリーの妻で、あとは娘、息子と孫という写真。

リー氏ももちろんのこと、「フリークェント・ウィンド」のあと
アメリカに移住し、その家族はアメリカで根を生やしているのです。


「ミッドウェイ」の「オペレーション・フリークェント・ウィンド」の
展示コーナーでオーディオによる解説を聞くと、音声では
この時にセスナで「ミッドウェイ」に降り立った六人の子供のうちの一人、
アメリカ名「ステファニー」さんが、このセスナと再会した時のことを
こう語っています。

「わたしは飛行機の前から4時間、動くことができませんでした」

彼女は今、「ミッドウェイ」のボランティアとして、自分の経験を
見学者に語ることもあるそうです。


歴史的な決断が守った命、そして未来に繋がっていく命。

ブワンの子孫に囲まれたチェンバースは実に満足そうです。

チェンバースは英雄ですが、エアボスのジャンパー中佐や、エアクルーたち、
身を粉にして難民たちのために働いた水兵たち・・・。

「ミッドウェイ」乗員全員の力と意思があってこそ、あの歴史的な偉業を
成し遂げることができたことは、チェンバース自身が一番よく知っていたでしょう。


続く。


 



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1 Comments

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歴史の1ページ (Unknown)
2018-09-23 15:17:39
ベトナムからの撤退や5年後のイラン・テヘラン大使館人質救出作戦の失敗はアメリカの退潮を思わせる出来事でした。

ベトナム撤退の二年後の1977年からはシリーズで最大数となった「はつゆき」型12隻が5年で予算化され、米海軍では1978年から最初のイージス艦「タイコンデロガ」級の建造が始まり、イラン革命の1979年にはソ連のアフガニスタン侵攻が始まり、海上自衛隊におけるP-3C導入や航空自衛隊におけるF-15導入(共にそれまでの主力機数を大幅に上回る数を導入)もこの頃です。

防衛出動には国会承認が必要ですが、有事の際に国会を開いている余裕はない。国会承認が得られない場合、自衛隊の独断専行による「超法規的措置」での防衛出動が有り得ると発言した統幕議長が解任されたり、秘密のベールに包まれ、西側には中身は一切知られていなかったソ連空軍MiG-25の函館空港への強行着陸もこの頃です。

我が国を含め世界は東西衝突の危機に扮していましたが、ベトナム撤退から14年後の1989年には冷戦終結が宣言され、その翌年の湾岸戦争ではわずか250余人の戦死者を出したのみでアメリカはイラクに圧勝し、ベトナム戦争での屈辱を晴らしました。

湾岸戦争当時の司令官クラスはほとんどベトナム戦争当時の中隊長や船の科長クラスで、一度失われた国民の軍への信頼は勝ち戦で取り返すしかなく、湾岸戦争では絶対に失敗出来ないという強い意識を各軍種の垣根を越えて共有していましたが、あまりにも短い戦いで、わずか250余人しか戦死者が出ず、見事に国民の信頼を取り戻しました。

楽勝だった湾岸戦争当時の中隊長や船の科長クラスが第二次湾岸戦争(アフガニスタン侵攻やイラク戦争)当時の司令官クラスで見通しが甘く、戦争が泥沼化したことは歴史の皮肉です。
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