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「(たおさ)の船」~ペルシャ湾掃海部隊派遣隊員家族のための小冊子より

2015-06-15 | 自衛隊

ペルシャ湾への掃海派遣については、戦後初めての海外派遣となったため、
自衛隊にはあらゆる面で初めての試みとしての気遣いが求められました。
国民にその活動を正しく報道してもらうために報道関係に関してもそうでしたし、 
何より、現地に家族を送り出すことになる派遣部隊家族への広報は大事でした。

派遣部隊の隊長は以前にも何度かここで書いているように、沖縄戦における
海軍陸戦隊の司令であった太田實海軍中将の息子であった落合(たおさ)1佐の名をとった

「TAOSA TIMES」

という隊内新聞で、活動報告ならびに隊員からのメッセージを海上自衛隊新聞や朝雲新聞など、
関係紙に投稿したり、留守家族に対してビデオや写真集などの配布を欠かさず行い、
さらに地方総監部による現状説明会や親睦会などを通じて、遺漏のない連携を図りました。

その一環として、海幕は、防衛課が中心となって隊員家族のためにパンフレットを作りました。
新人記者の夏子が、父との対話によって国際貢献の意味を模索するという

「夏子の冒険」

そして、掃海部隊司令官である落合一佐の人となりについて紹介する小冊子、

「落合」

です。




自衛隊の歴史にとって大きなマイルストーンともなる海外派遣に、

どんな指揮官を立てるかということは大きな問題でした。
ことがことだけに、当初海将補がその任を負うのが適当、という意見も中から出ました。

海部内閣はそのとき、まだ最終的な派遣の決定を決議していませんでしたが、
地方選挙が喫緊に控えていたため、事態は全くとどまったまま、自衛隊は準備だけを進めていました。
選挙後に派遣が決定されるとしても、それから現地に向かった場合、すでに動き始めているはずの
米独英伊各海軍の活動に、大きく遅れをとることが予想されたのです。

通常、作戦は安全な海域からまず取り掛かるものなので、海上自衛隊が遅れて到着する頃には、
もっとも困難な海域が残っているだけ、という可能性もでてきました。
もしそうなった場合、先行している他国の軍の海軍大佐、あるいは中佐クラスの指揮官と連携、
悪くすれば(?)実質、指導のもとに作戦を遂行することになってしまうのです。

海上自衛隊が『装備は三流だが人は一流』なのは自他共に認めるところでしたが、
であらばこそ、こうした事態が予想される作戦に海将補を出すのは恥であり、
また不必要だという意見が通りました。

海上幕僚長はまた、この時の選定において問われたとき、

「人を選ぶ必要はない、安定した艇とエンジンに留意を」

と回答したということです。
また、

掃海艇の健康診断(水中放射雑音・磁気特性など)は、性能に劣る点はあっても
機密保持のため、ペルシャ湾進出後も自前で行い、決して他国海軍で行わないこと

米海軍との連携は、イラクの使用したイタリア製の「マンタ機雷」に対して
ヘリコプターによる掃海が必要となってくるので大変重要である

などが内内で取り決められたりしました。



海将補では他国海軍との釣り合いが取れず1佐を隊長にすることになりましたが、

厳しい条件下で、安全に、かつ確実に任務を遂行するためには、
指揮官には優れた判断力と統率力が要求されます。

このような重責を任すに足ると海自が判断した落合1佐とは、どんな人物だったのか。

どんな隊長が掃海部隊を率いているかは、掃海派遣に我が子や夫を送り出す家族にとって
何よりの関心事であり、求められる情報です。
家族のために作られたパンフレットの内容はどんなものだったのでしょうか。


「大田中将(当時少将)は、海軍における陸戦の第一人者であった。」

この一文で始まるパンフレットは、あの

「沖縄県民斯ク戦へリ、県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

という最後の中将の言葉を引用してその功績と人物を語ったのち、

「沖縄県民の間には、大田少将の名を知らないものはなく、また、
軍に反感を持つ人々の間でも大田少将だけは特別だ、とする人が多い」

とその段を締めくくっています。
次の段の、落合1佐に対する部分は、これをそのまま掲載しましょう。
同じことの繰り返されている部分、その他煩雑な表現はこちらの判断で省略、訂正してあります。



落合1等海佐は、海軍中将太田實の三男として昭和14年、横須賀に生まれた。

大田家は、4男7女の大家族であり、三男「」は9番目の子供であった。(中略)

落合家の養子となったは、高校を卒業すると、
防衛大学校に第7期生として入校し、その後、海上自衛隊に進んだ。

当時の彼の人物評は、

「一見してみるとどこにでもいるような青年で、凄まじい迫力を
感じさせることもなかったし、
また話し上手で人を笑わせたりするようなこともなかった。

しかし、温厚・誠実で多くを語らなくても人を惹きつける何かを持っている青年であった」

という。


2等海尉になって間もなく、第101掃海艇所属の掃海艇第5号の艇長となった。
大きさ僅か50トンの浅海面専用の小型掃海艇で、「小掃」とか、
口が悪い連中は
「毛じらみ艦隊」と呼ぶようなものであるが、しかし、
小さいとはいえ当時は同期のみならず、
先輩、後輩からも羨ましがられたという。


他方、彼だからできるという信頼感もあり、人事に口を挟むものはいなかった。
このころからすでに彼は、周囲の信頼を勝ち取っていくのである。


彼は、5号艇長としての職務をよく果たした。
若干27歳の彼よりも年上の部下も多かったが、彼は決して艇長という役職を振りかざして
仕事をしたことはなかったし、決して部下を怒鳴りつけることもなかった。
かといって部下は彼を軽く見ていたわけではなく、訓練を重ね、
彼の人格に接するに従って、彼に心服していった。


掃海艇が荒天に揉まれ、いつ転覆するともわからないときでも、
彼は常にその温和な顔を崩さなかった。
そんな顔が乗員達を落ち着かせ、安心させた。

「どんなに危険なことがあっても、この人が艇長なら絶対に安心だ」

という確信を皆が持つようになったのである。

一方、この時期はかれにとって、人格だけでなく掃海のプロとしての腕を磨く絶好の時期でもあった。

「掃海はいつも命がけだ。そこには戦時も平時もない。生きるも死ぬも我々の腕次第だ」


普段温厚な彼も、こと掃海のこととなると、徹底して厳しかった。


は、これ以降、掃海艇「いぶき」艦長、機雷敷設艦「そうや」敷設長などを歴任し、
「掃海のことならなんでも俺に聞け」という自信を持つようになった。
その自信の裏には、厳しい訓練で身に付けた技量と経験があったことは言うまでもない。


このように順調に進んでいった彼の人生にも、やがて大きな壁が立ちはだかることになる。
それは父の巡り合わせとでも言おうか、まったくの偶然であろうか、
彼の父、太田中将が玉砕した沖縄に彼が着任したときのことだった。




昭和47年5月15日、沖縄が米国から返還され、防衛庁はその年に
那覇防衛施設局と沖縄地方連絡部を置き、自衛隊の開隊の準備を進めることになった。


同年7月、1等海尉落合は、沖縄地方連絡部に着任した。


地方連絡部とは、地元住民の中から自衛隊員を募集することを主な役割としているが、
他方、地域社会と自衛隊を結びつけるパイプ役をも務める。
特に沖縄のように、新たに自衛隊を開設する際には、地域社会との関係が重要であり、
その意味で地方連絡部の役割は極めて大きい。


しかしながら、先に述べた通り、沖縄住員の軍に対する反感は根強いものがあり、
自衛隊の開設に反対して連日連夜デモや抗議行動が続いた。

特に地方連絡部では、周りをデモ隊に囲まれ、日常の業務など全くできない状況にあった。

落合はこの状況を見て愕然とした。
今まで、制服を着て街を歩き「税金泥棒!」と言われたこともあった。
しかし、それとこれとは全く次元が異なっているのである。
沖縄県民の「軍」に対する感情は人に聞いただけでは理解できないとよく言われるが、
まさに彼はそれを痛感したのであった。

「自衛隊反対!」」「即刻沖縄から出て行け!」「軍国主義反対!」

と凄まじいばかりのシュプレヒコールを連日聞き、さすがの彼も心底から疲れ果てた。
これが父が戦った沖縄なのか?父が命をもかけて守ろうとした沖縄なのか?

は、いろいろと住民との対話を試みたが、まともな話ができる状態ではなかった。
しかし、このようなことがあっても、は決して沖縄住民を恨まなかった。
そして、自分の無力さを痛感し、絶望感に苛まれて、ある日、父の元に出かけていった。
父のもととは太田中将が自刃した小緑の海軍壕である。


月の綺麗な夜であったという。

は、壕の前に一人座り、父と酒を汲み言葉を交わした。
も父の血を受け継いでか、酒は相当いける。
奇妙なことに親子で呑むのは今夜が初めてであった。
しみじみと呑み、時には悲しみがこみ上げてきて号泣した。
が父に何を問い、何を話したかは定かではない。
父との対話は一晩中続いた。

その姿を見ていた者がいた。
彼は沖縄のある地方新聞社の記者だった。

「あ、あなた、ここで一体何をしているんですか?」

「父と酒を呑み交わしているんです」

彼は、自分が太田中将の息子であること、地連に着任したことを淡々と語った。
翌日、地方新聞に海軍壕での落合1尉の記事が載った。
その後、信じられないことが起こったのである。

太田中将の息子が地連にいるとわかって以来、デモ隊は、地連前でのデモを行わなくなった。
沖縄全体から自衛隊反対のデモが消えたわけではなかったが、地連の前だけはなくなったのである。

その後も、住民との話し合いで行き詰まったような場合、彼が出て行くことによって、
大方の問題は解決することができるようになった。


このことは落合1尉自身が、父の偉大さを初めて知るきっかけにもなった。

しかし、彼が太田中将の息子であるということだけだったら、こうはならなかったであろう。
彼は自分から出自を明らかにすることはなかったし、沖縄でどんな苦境に立たされても、
父の威光でそれを解決しようとしたことはなかった。


海軍壕で記者が感動したのも、彼の私心のない心と、人を惹きつける魅力にだった。

彼はたしかに父、太田中将の人格と「無私の心」を受け継いでいる。
しかし、彼はそれだけではなく自衛隊での様々な経験を通し、太田中将の息子ではなく、
海上自衛官「落合」として大きく成長したのである。


大田中将を父に持ち、父の守った沖縄で大いなる貢献をした彼は

今回、わが国初の海外派遣部隊の指揮官に選ばれた。


「の船」はいつも和気あいあいで、しかも活力に満ちていた。

事実、彼の部下だった多くの乗員が、

「あの人の下でならどんな苦労も苦にならなかった」

という。
そしてペルシャ湾での掃海には、まさにこの「の船」の雰囲気が必要なのである。

掃海には多くの危険が伴うことから、特に指揮官には掃海に対する深い知識や
経験に何事も動じない肝っ玉が必要であり、彼がそれを備えているのはもちろんであるが、
何ヶ月もかかる派遣に乗員が堪え、立派に任務を遂行するためには、
何よりも乗員の士気を高めるための艦内の雰囲気が問われるのだ。

そのためにも、落合一佐はまさにうってつけの指揮官である。


彼なら必ずやる。彼なら、絶対に、任務を全うできる。
なぜなら、彼には人格と技術と、そして何よりも大事な「運」がついているのだから。

 完


ペルシャ湾の掃海部隊派遣からすでに22年が経過しました。
派遣の決定にあたっては案の定、野党左派その他有象無象の鬱陶しい横槍が入りましたが、
それが一旦「船出」したのち、世間の目も、マスコミの当初粗探しをするような調子も、
全てが変わっていき、何よりも国際社会の日本に対する目は大きく変わりました。

掃海派遣は地域の安定化という命題と、日本の国益を守るためという副題の元に決定されましたが、
同時に最も重要なことは、それが日本の矜持を守るための戦いであったということであり、
掃海部隊はもとより、当時の海幕、自衛艦隊、各地方総監部など、
海上自衛隊全体が一丸となってその戦いに挑み、勝利を勝ち取ることができたということでしょう。


掃海部隊のことについては、いずれまたお話ししていきたいと思います。
 







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5 Comments

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海上武人 (お節介船屋)
2015-06-15 09:30:47
大田中将は陸戦の第一人者、落合海将補は1級の海上武人と思います。
聞くところによれば、掃海隊群司令はまだ移動時期ではないのを落合司令に替えたとの事ですが?
平時の軍隊は行政手腕の秀でた方が立身出世をするようですが、良く海上自衛隊がこのような海上武人を育て、適職に配置したと感心します。
当時の故佐久間一海上幕僚長が絶大な信頼を置いていたとの噂ですが。

昨日の「なんでも言って委員会」で志方俊之氏が言われていましたが自衛官は命令されたら実行するとの事ですがこのような指揮官には権限移譲し存分に活躍をさせ、責任は引き受けるくらいの度量のある法律、政治家、高級士官がいないのかな?

今国会の審議について、安保法案の細かい規定、野党の代案を出さないでの全く重箱の隅をつつく批判、本当に南シナ海の危機等考えているのかな?
日本の大動脈たる海上交通路に大きな脅威、それを考えて下さい。
ましてや自衛官のリスクとは?(政治屋が心配もしてないのに、道具として使うな!)
細かい規定がリスクを上げているのでは。過去の国会で機関銃1丁、2丁で不毛の審議をやったのでは。
ほんとうに政治屋とは自分の事ばかり。向上心もない、過去のやった事の反省もない。

ど素人でも過去の歴史を紐解けば、戦いは想定とおりいかないし、時間との競争になるのが分かるのに!
脱線してしまいました。

落合司令あってのペルシャ湾派遣部隊であり、511名全く事故なく任務を完遂した一人一人に感謝し、日本の誇りです。

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日常生活 (昭南島太郎)
2015-06-15 11:58:25
日々色々な情報に接しますが、憲法問題、沖縄問題、故郷広島の平和運動にしても一部かもしれませんが、思考が硬直している人が多いように感じますね、日本は。。。やはり色んな利害利権がまとわりついているのでしょうかね。
日本より資源のないここ小国昭南島では、日々の
生活必需品を輸入に頼らざるを得ない状況です。かつて鳥インフルで隣国馬来西から鶏や卵が輸入できなかった時などチキンライスが食べれない、と騒ぎになりましたが(笑)まあ、庶民はそれなりに順応していくものです。。。
最近、昭南島でのシャングリラダイアローグではここの首相がかなり残念な演説をしてましたが、ペルシャ湾にしても南支那海にしても海上輸送の安全確保が日常生活の上で生命線だともっと認識した方がいいと思います。
私の愛読雑誌マモルでは「世界の現場から」とヂブチや南スーダンなど世界で活躍する自衛隊の報告欄があります。派遣隊員には一人も犠牲者を出すことなく無事に帰還して欲しいです。

長男は東京、次男は馬来西で静かな日常の太郎でした。

昭南島太郎
返信する
派遣掃海部隊 (雷蔵)
2015-06-15 21:03:01
機雷による被害を受けることはあっても、人を殺すことはなかったと思います。もっと辛いのは、最悪、人を殺めることになる可能性があるアデン湾派遣海賊対応部隊ではないかと思います。

派遣掃海部隊は、今となっては「戦歴」なので、堂々と語れますが、アデン湾派遣海賊対応部隊は現在進行形なので、まだ語ることは許されていません。落合さんも任務のことを公の場で語ったのは、任務終了から約十年後です。
返信する
掃討未だ成らず (筆無精三等兵)
2015-06-16 00:38:00
てつのくじら館にて自衛隊の掃海の歴史に触れた記憶の新しい筆無精三等兵です。

機雷は防衛に使えば安価でありながら、効果的な手段ですが、攻撃的に使用すれば無慈悲極まりない兵器です(地上での地雷もそうですね)。
貧弱な装備しかなく、時には試航という無謀な手段で掃海を行っておられた最初期に比べ、無人掃海具や高性能な探知機を用いる事のできる現在においても、浮遊機雷、係維機雷の処分は人の手でしか確実におこなえないようです。
そんな機雷が未だ日本近海に297個も潜伏しているそうです。

無力化の手順がある程度確立されているとはいえ、何かの拍子に暴発するとも限りません。
特にほぼ制海権を手中にしていたとはいえ、敵の目の前で行わなければならなかったペルシャ湾掃海での神経の損耗度合いは、私達の想像の及ばない域にあったことでしょう。

一個のもしくは何十何百という人間の命を己が手で滅さねばならない心痛は、日本で生活している一般人である私の想像の及ぶ所ではありませんが、一寸の呵責もなく自分の命を奪う心を持たぬはずの機雷の向こうに透ける何者かの悪意に向き合う心労も量り知れないものがあるものと思います。
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士は己を知る者のために死し (ハーロック三世)
2015-06-16 02:46:01
中国の古書「史記・刺客伝」の「士は己を知る者の為に死し・‥‥」というくだりがありますが、まさに武人を表す言葉だと思います。

落合氏こそまさに真の武人であり、部下の信頼を一身に集めておられたのでしょう。

私も常にそうありたいと考え、日々自問自答しています。

統率者たる者、「部下の行動は全て己が責任。功績は部下のもの。」と心得て職務に当たるようにしたいものです。

私も人間ですのでイラッとくる時もありますが、部下には決して見せないように努め、責任は全て自分が取るので、安全を最優先させた上で自分がベストだと考える方法でやってみなさいと指導しています。

おかげで部下の間では仏の◯◯と呼ばれ、「怒ることがあるんですか?」と聞かれたりしていますが、その実はめちゃくちゃわがままで短気です(笑)

太田中将のように(?)自宅ではやりたい放題。

小さな人間ですので、それでやっと精神の平衡を保っている情け無い状態です。(涙)

妻が苦労しています。
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