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日米開戦と日露戦争の「反省」

2015-06-27 | 日本のこと

当ブログは、制作する時に思い出していれば、海軍的なイベントが起こった日に
そのテーマで書くことが時々あるのですが、先日5月27日の海軍記念日には
全く関係のない内容だったので、肩透かしを食ったように感じた方が約1名いたそうです笑)

何か関連記事をアップしたいと考えなかったわけではないのですが、
2年前のこの季節に、結構集中して日本海海戦について書いたので、
ネタが無くなった書きたいことをとりあえず思いつかず、失礼しました。


さて、5月27日が海軍記念日となったのは、今更ですが、日本海における
帝国海軍聯合艦隊が、バルチック艦隊に勝利した日を記念しています。

しかし、実際に決戦が雌雄を決したのは5月28日であり、鉄火お嬢さんのご報告によると
東郷神社の今年の記念祭はこの日に行われたとのこと。


というわけで、このエントリは5月28日の制作でお届けしております←こじつけ
 



日本は近代になって二度、大国と戦いました。
日露戦争、そして大東亜戦争です。
日露戦争で東洋の小国日本が大国ロシアと戦って勝ったことは、世界に衝撃を与え、
トインビーのいう、白人優生のそれまでの世界の「終わりの始まり」となったのです。

それがちょうど今から110年前のこと。

奇しくも今年は戦後70年と日露戦争110年が同時に来る年です。
つまりロシアに勝利したきっちり40年後に、日本はアメリカに負けたということになります。

この40年間に日本は、そして帝国海軍はその記憶をどう止め、それは後世に生かされたのか。
今日お話したいのはそういうことです。



日本が対米戦争に踏み切った理由を一言だけいうなら、皆さんもご存知のように、
「外圧によって資源を絶たれたため」に尽きると思います。
米国によって石油を禁輸されてしまい、ABCDラインで経済封鎖されたこと、なおかつ
最後まで戦争を避けるために行われていた対米交渉が決裂したことが直接の理由ですが、
それでは日本はいつからアメリカを「仮想敵国」にしていたかご存知ですか?


わたしも最近まで知らなかったのですが、実は

日本は日露戦争の2年後には
アメリカを仮想敵国に決めていた

ことがわかっているそうです。


先日映画「機動部隊」について書きましたが、海軍提督主催のパーティ席上、

主人公のゲーリー・クーパー演じる大尉が、空母など要らないと主張する新聞王に、

「何処と戦争になるというんだね」

と聞かれて

「日本が不審な動きをしています」

と答えたところ、野村大使と五十六海軍武官がそれを聞いていたというシーンがありました。

日本が1923年のこの頃、戦争をしたがっていたわけなかろうが、と突っ込んだのですが、
この説によると、1907年からアメリカは日本の「仮想敵国」だったわけですから、
「日米もし戦わば」が日本側でシミュレーションされていたということになります。

もっとも自身の駐米経験からアメリカの国力を知悉していた山本五十六は、
日米開戦には慎重論者であり、野村大使はギリギリまで政治交渉で戦争を避けようとしたのですから、
「戦争を企む意図を見透かされて狼狽する二人」というのはあくまでも映画的表現にすぎません。
念のため。


ところで山本五十六を「開戦に反対した」という面でのみ語る媒体がありますね。
ひどいのになると「反戦司令官」とまで言ってしまう向きもあるくらいです。

「連合艦隊司令長官山本五十六ー太平洋戦争70年目の真実ー 」(長いんだよこのタイトル、
といつも通りつっこみますが、1968年制作の『連合艦隊司令長官山本五十六』という映画と
タイトルがかぶるため、後ろにいらん言葉をくっつけたようです。誰得)
ではそれが顕著だったわけですが、 そんな単純なものじゃないでしょうと言いたい。

山本五十六は開戦に慎重でしたが、その理由は戦争が嫌いだったとか反戦派だったからではありません。
(誤解を恐れず言えば、全ての軍人は”戦争が嫌い”であると思いますがね)
勝てる見込みのない戦争をするべきではないという、軍人として当然の考えです。

戦史叢書第10巻「ハワイ作戦」には、「山本長官の対米戦回避」という項があり、

「聯合艦隊司令長官として万一の海戦に備え、対米作戦準備の完遂に
努力しながら、心では米国との戦争は回避すべきだと考え続けていたことは確実」

という一文で締められています。




また、昭和16年の初頭に、連合艦隊司令長官であった山本が、

海軍大臣及川古志郎にあてた戦備に関する意見のなかに、こんな一文があります。

「累次図演等の示す結果を見るに帝国海軍は未だ一回の大勝を得ることなく」
「図演中止となるを恒例とせり」

つまり、何度図演をやっても日本が勝てないままいつも中止となる、と言っておるわけです。


しかしそれでもやれと言われれば、勝てそうなやり方を模索するのも軍人のお仕事です。
そこで色々と「必勝プラン」を練ったりするわけですが、これにさかのぼる
軍縮条約の時にも、山本は開戦を念頭に日本の艦艇保有率をなんとか
自分の考えるギリギリの線まで確保するべきだと強硬に主張しているのです。

 
軍縮条約を巡って、その条約の結果を受け入れるべきだとする「条約派」と、
その反対の「艦隊派」の間に抗争が起き、「条約派」が粛清されたということがありましたが、
山本はこのとき「条約派」でもなんでもなかったので、無事だったどころか
その後連合艦隊司令長官になっているわけです。

つまり、「条約派」=「反戦派」、艦隊派=「開戦派」という決め付けは
実に乱暴な二元論にすぎないことがわかりますね。



このときの山本は、軍縮会議に随伴して、 そのときの全権だった文官の若槻禮次郎が
対米6,975%の補助艦艇保有と、3分の2の潜水艦保有に合意したことに不満を唱えています。

前回のワシントン軍縮会議では、戦艦の保有は希望7割に対し6割に抑えられていますが、 
これも「対米戦」をシミュレーションしている海軍の「中の人」以外は、
戦争するつもりでもないのなら今更1割くらい、という認識だったでしょうし、
当時文官の若槻にも理解できなかったように、今の我々が考えても、
そもそも国力差がありすぎる相手に7割が6,975割になったところでそれが何か?というところです。

しかし、このラインを勝ち取れなければ、席を蹴って帰って来るとまで
海軍の「艦隊派」 (この際山本含む)は考えていたので、若槻の合意に激怒したのです。

なぜ山本らは、このわずか0,025%にこだわったのでしょうか。

 


これは、その1割が、0,025が、そしてなにより潜水艦保有の3分の2が、
日米開戦のシミュレーションの結果、


「圧倒的な国力差を作戦で覆せるだけのぎりぎりのライン」

を下回っていたからという理由に他なりません。


ところで、アメリカに戦争を挑む時、海軍は、というか山本五十六は、
前回の勝利であった日露戦争をどう考えていたかという話に移りましょう。

つまりそこに日露戦争の「教訓」はあったのか?



昭和16年11月の大本営政府連絡会議では、

「対米英蘭将戦争終末促進に関する腹案」

と称する書類が提出されています。
始まってもいないのに終末促進か?という気もしますが、とにかく
どうやって終わらせるかは「どうやって勝つか」でもあるわけです。


それが、米英海軍の根拠をやっつけて主要交通線をとりあえず確保し、
自給自足の道をつけて持久戦にも備えるというものですが、持久戦といっても、

「長期持久的守勢を採ることは聯合艦隊司令長官としてできぬ。
海軍は一方に攻勢を採り的に手痛い打撃を与うる要がある。
敵の軍備力はわれの5ないし10倍である。
これに対して次々に叩いていかなければ、どうして長期戦ができようか。
常に敵の痛いところに向かって猛烈な攻撃を加えねばならない。
しからざれば不敗の態勢などは持つことはできない」

つまり

「凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅する勉む」

その劈頭に

「誘致し」

つまりどこかに誘い出してそこで艦隊決戦をする、と考えていたことがわかります。
日露開戦の際、バルチック艦隊を日本海で撃破したように。

今まで図演で勝ったこともないのに、実際に開戦して必ず勝たなければならない。
そのためには初戦で主力艦隊(空母含む)を「猛撃撃破して」、米国海軍と米国民をして

「救ふべからざる程度に其の士気を沮喪せしむること」

というのがこのときに出された腹案です。
そして同じ腹案の中にこのような一項が見られるのです。(現代語に翻訳しました)


我々は日露戦争において幾多の教訓を与えられた。開戦劈頭における教訓は次のようなもの。

一、 開戦劈頭敵主力艦隊急襲の好機を得ることが必要である

二、 日露戦争における開戦劈頭の日本軍水雷戦隊の士気は必ずしも高くなかった。(例外はあったが)
   技量も不十分だったことを反省せねばならない

三、 旅順港閉塞作戦の計画と実地については失敗だった。
   こういった成功例、失敗例をできるだけ善処して日米戦に臨まなくてはいけない。
   勝敗を第一日目で決する覚悟が必要である。

水雷戦隊の士気が低かった、というのは、上村艦隊がこれを破るまで、
ウラジオ艦隊(浦塩とある)に旅順港を取られ、そこを根城にやりたい放題されたことを言います。
濃霧でウラジオ艦隊を逃した上村大将の自宅に、心ない国民が投石したという話もありましたね。

 
というわけで、これらの教訓から得た作戦実地要領とはどんなものだったか。

一、 敵主力の大部分が真珠湾に在泊するときを狙って飛行機隊でこれを撃破し、
   なおかつ同港を閉塞す

二、  敵主力が真珠湾以外に在泊していたとしても同じ。
   このため、第一、第二航空戦隊(やむを得なければ第二航空戦隊のみ)をもって
   月明かりの夜または黎明を期して全航空兵力をもって全滅を目的に敵を強襲(奇襲)する


山本の作戦が特異だったのは、実は「航空兵力で奇襲」という部分でした。
アメリカの映画「機動部隊」でも、日本が空母で奇襲をかけてきたことが驚きを持って語られます。


結果としてアメリカとアメリカ海軍は奇襲に激怒し、日本の通告の遅れを利してこれを非難し、
「意気阻喪」どころか猛烈な闘志を燃やして逆に全力で反撃してきたわけですが、
もし「通告の遅れ」がなかったら、アメリカはあれほど激怒しなかったのではないか?
という仮定には、わたしは残念ながらNOだと言わざるを得ません。

もしそこに至るまでのアメリカの態度を見ていれば、(囮をしかけて先に撃たせようとしたり) 
日米開戦は「既定路線」だったことは明白だからです。

それより、ここであらためて驚くのが赤字の部分、「真珠湾を閉塞」という文言です。
ここで閉塞作戦が、もしうまくいきさえすればかなり有効な手段であることを、
日露戦争の考察から海軍はかなり期待を持っていたということが読み取れるのです。


そして、山本は

万一ハワイ攻撃のときの我が方の損害の大きさを考慮して守勢を取り、
敵の来襲を待つようなことがあれば、敵は一挙に帝国本土の急襲を行い、
日本の都市は焼き尽くすであろう。
そうなった場合、たとえ南方作戦である程度の成功を収めたとしても、
我が海軍は非難を浴び、国民の士気の低下は避けられないのは火を見るより明らかである。
(日露戦争で浦塩艦隊が太平洋を半周した時の国民の狼狽ぶりはどうだったか。
笑い事ではない

と書いています。
具体的に海軍のプランとは、劈頭に敵を撃滅し、米国が意気阻喪している間に
とにかくライフラインとなる南方を制海権もろとも抑えてしまって、
これをもって自給の備えを確保しておいて講和の道を探るというものでした。


「山本愚将論」(以前お話を聞いた兵学校卒の方もそう言っていましたが)
を唱える人には、開戦してからの明らかに失敗だった作戦指示はもちろん、
この真珠湾攻撃自体をその論拠にする向きもあるようです。

しかし(どこまでアメリカ側が知っていたかはさておいて)、それでは山本以外に

この稀代の攻撃を実行(そしてとにかく成功)させることができたかどうか。
航空本部長を務め、これからは航空だと確信していた山本ならばこその航空攻撃を。



しかし、日本側の「終戦プラン」は大幅に予測を外しました。
真珠湾の成功は、なまじ米国にとって被害が大きく講和で済ませるような状態でなかったため、
士気を沮喪させるどころか、国民は怒りと戦意を猛烈に掻き立て、

結果としてアメリカと日本をその後の不幸な結果に引きずり込むことになります。



いつも言うように、歴史にはイフはありませんが、もし日露戦争で日本が負けていたら、

戦後日本が世界に台頭することも、それによって危機感を覚えた欧米による
「日本叩き」「日本いじめ」が始まることもなかったはずで、ということは
日本が真珠湾を攻撃するということも起こらなかったのです。

(そして世界は、21世紀を迎えてもまだ支配被支配が存在する大国主義だったかもしれません)

極論ですが、つまり、日露戦争に勝った瞬間、アメリカと戦うことは決定し、
40年後の敗戦も、そのときに定められた運命となって確定していたといえるのです。


その伝でいうと、日露戦争で勝った「から」、次の戦争を行うことになった日本ですが、
勝った戦争に対する「反省」(左派の言う反省ではなく、次の戦争をどう勝つかという意味の)
が結果に生かされなかったのは、アメリカの「意地」を見くびっていたことをはじめとして、
全てにおける見通しの甘さであったということなのでしょう。


「甘さ」というなら、帝国海軍がアメリカ相手に日露戦争でさえ失敗した「閉塞作戦」を
あわよくば実行しようと(腹案とはいえ)、考えていたらしいことそのものに、
わたしは、一度得た勝利の記憶のなせる楽観的なものを感じずにはいられません。