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天気晴朗ナレドモ浪高シ~三六式無線と日本海海戦

2013-05-22 | 海軍

日本海海戦で日本がなぜ勝利したか。
その理由を説明なしで箇条書きにしてみましょう。

■ 指揮統率と艦隊としての練度

■ 参謀、各艦艦長の人材の優秀さ

■ 戦術の成功

■ 新技術の活用


戦術の成功とは、

● 徹底した哨戒作戦

● 七段構えの戦法

● 丁字戦法

● 高速近距離射法、速射、斉射(一斉射撃)などの砲術

● 編隊の組み合わせによる適材適所

そして、最後の新技術
今日はこの部分についてお話しします。

日本海海戦で採用された最新技術とは、次のようなものでした。

○ 信管・・・・砲弾に鋭敏に感知する新型「伊集院信管」を採用

○ 爆薬・・・・爆速が早く破壊力のある「下瀬火薬」を採用

○ 汽罐・・・・宮原二郎が開発した汽罐

○ 海底ケーブル・・・日英同盟の賜物。これを敷いたことで敵の動きを把握できた

○ 三六式無線


海底ケーブル以外は日本人が生み出したといってもいいでしょう。
ことに、宮原式汽罐は世界中がその完成度に衝撃を受けたと言われ、

高速、強力、省エネ、小型、メンテが楽、しかも丈夫

日本人の「お家芸」である「発明はしないが徹底的に改良する」
後年の技術立国としての萌芽がここにも表れていました。


このなかで、海底ケーブルだけはイギリスからの輸入です。
のちに台湾総統府長官となった児玉源太郎が、九州―台湾間に敷設し、
日英同盟の同盟国であったイギリスのインド―アフリカ回線に接続しました。
このため、これを「児玉ケーブル」と呼んでいたそうです。

これで聯合艦隊はバルチック艦隊の大西洋インド洋での動きを
情報として手に入れることができたのですが、
それもイギリスと同盟を結んでいたおかげでした。



冒頭に箇条書きにはなっていませんが、
相対的な観点で言うところの日本の勝因のひとつには、この「日英同盟」があります。

なぜなら、これら最新技術のほとんどはイギリスから供与されたものだったからで、
イギリスから輸入された技術を国産化したのは単純に経費の節約が目的でした。

しかしながら、国産化においては「極める」情熱を人一倍持っていた民族ゆえ、
ただのコピーに終わらずオリジナルを上回るものを作ってしまったいうあたりは
日本人として誇っていいかもしれません。

日英同盟の恩恵はそういった科学技術の輸入だけではありませんでした。
当時ロシアと同盟を結んでいたフランスにイギリスが干渉したせいで、
バルチック艦隊はフランスの植民地(アフリカ)に寄港することができず、
艦隊の動きがかなり封じられたということもありました。

そして「海底ケーブルでの敵艦隊補足」は、
同盟国であるイギリスの連携なくしてはありえなかったのです。


もっとも、同盟を結んではいてもイギリスの日本人に対する人種偏見は凄まじく、
当時イギリスにいた孫文によると、日本がが勝利したというニュースを聴いたとき、

「イギリス人は誰も喜んでいなかった。
ロンドンはそのニュースを受けて通夜のように静まりかえった。
彼らはむしろ白人の国が黄色人種に負けたことに激しくショックを受けていた」


って話ですが(笑)
これが、「白人の支配する世界の終焉の緒」を目の当たりにした
支配側の人種、イギリス人の不安と焦燥の表れであったことは間違いありません。

「坂の上の雲」でも、西田敏行扮する高橋是清が

「英国世論は黄色人種に肩入れすることを嫌っとる。
そもそも英国王室はロシア皇帝とは親戚だ」

などと言っていましたね。
卑近な譬えで言うと、現在朝鮮半島で北と南に分かれて戦争してますが、
敵対するはずの北に対してより、かつて統治された日本を「千年恨み」、
同盟国のはずの日本を北朝鮮への連携から締め出そうとし、
日本が独自に北朝鮮と会見を持てばあれこれ非難して、北朝鮮から
「何も知らないのに勝手に非難するな」なんて言われるようなもんですね。

え?何が言いたいのかわからない、って?
つまり、「血は水より濃し」ってことですよ。




さてこの海底ケーブルで得た情報を艦隊の動きに反映させたこと、
そして最後の三六式無線を開発し搭載したことが、
実は勝利に大きな貢献をしたという話をしましょう。

三六式無線は 三四式と言われる初代モデルの次期タイプで、
1903年(明治36年)つまり海戦に先立つこと二年前に制式になりました。

今までの三四式が70海里(約130メートル)の通信範囲だったのに対し、
最低でも80海里の距離は必要であるということで開発が検討されたのですが、
案の定(笑)先見の明をもつ秋山真之参謀が、これを採用するべく上伸を繰り返すも、
トップがなかなかその必要性を理解してくれなかったという経緯があります。

いつの時代も、偉い人たちというのは革新より保身なんですね。

この三六式無線の開発に当ったのは木村俊吉
東京予備門から東大を出て、ハーヴァード・イエール両大学に学びました。

木村は幕末に咸臨丸でアメリカに渡った木村摂津守の二男に当ります。




海軍に奉職し、海軍教授・無線電信調査委員になった木村は、
秋山真之の進言によって開発が決まった新型無線の研究を任されます。

「三年以内に、80海里の通信距離を持つ無線を開発せよ」

これが木村に与えられた指令でした。

(BGM 「地上の星」)

木村のチームは、それから間もなく80海里の距離をクリア。
さらなる限界を求めて、寝食をも犠牲にするほど改良に邁進し、
ついに200海里の通信を可能にしたのでした。



なんだか中学生が技術の時間にする工作みたいですが、
これが当時の最新鋭型無線。



三笠の見学をする人は、まずこの通信下士官の後ろ姿を見ることになります。
舷門を上がってすぐ右手にある通信室。

実はこの通信室、実物をそのまま忠実に再現しているのだそうですよ。
三笠に見学に行かれる方は、次から心してこれを見るように。

ところで、最初に見たとき、この通信人形は顔が造られておらず、
きっとのっぺらぼうに違いない、と思ったのですが・・・



かすかに唇がアクリルのケースに写っているこの写真を見て、
かれに顔があることが判明しました。
すみませんでした。(←人形に言ってる)

ツートントンしているのが送信用電盤。
向こうに三枚プレートがありますがその一つに

「インダクションコイル」

という字が見えますね。
このインダクションコイルは開発当初日本で量産できなかったのですが、
ここでも日本のモノつくりパワーが炸裂。
安中電機製作所が、この国産化に成功します。

安中電機製作所、現在のアンリツです。

それからもう一つ、「リレー」という字があります。
リレーとはその名の通り、継電気システムで、
有線電信において、伝送路の電気抵抗によって弱くなった信号を
「中継」(つまりリレーですね)するために発明されたものですが、
この機器をドイツのシーメンス社製を採用し、性能は安定しました。

もうひとつ「火花」という字も見えますね。

この三六式は、火花式(間隔を開けた電極間に高電圧を印加し
火花放電を起こすと電磁波が発生する事を応用した電磁波の発生装置)
で送信をし、そして



彼の左奥にある「コヒーラ検波器」と呼ばれる黎明期の電波探知機で
電波を受信していました。

コヒーラとはガラス瓶に金属粉と電極をいれたものと言われますが、
この写真によるとガラス瓶は見当たりません。


それにしても驚くではありませんか。

マルコーニが無線を発明したのは1894年のこと。
製品化されて間もないのに、日本海軍はこれらの採用によって、
当時通信設備に駈けてはトップレベルにあったということです。

それもこれも、天才参謀秋山真之の強力な提言があったからです。

さらに、その際必要になってくる電力ですが、ご安心ください。
島津源蔵が日本初の鉛蓄電池の開発に成功しています。

島津源蔵。
島津製作所の二代目社長で、日本の発明家です。


このころ日本の勝利に寄与した新技術を支えた企業はそのほとんどがその後
日本の技術力の推進役となって、今日にその命脈を伝えているのです。



それでは、後半でこの三六式無線の活躍についてお話ししましょう。





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1 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
無線機の通信範囲 (フリーマン大佐)
2021-02-27 19:15:03
(非公開希望)
無線機のまとまった解説ありがとうございます。いい話だと思いながらなんか違和感があるなと思って読み直してみると。

「今までの三四式が70海里(約130メートル)の通信範囲だったのに対し、」

中尉殿、単位はキロメートルです。
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