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「オカアサン」~松尾敬宇大尉の母

2011-09-17 | 海軍

何度もこのブログで語ってきた「平和への誓約」のなかの「松尾敬宇とその母」です。
シドニー湾を一望に見下ろす高みに立ち、

「よくこんな狭いところを通り抜けたものだ・・・母は褒めてあげますよ」

と言うまつ枝さんに、ロバーツ准将が「後悔していないのか」と聞きます。
「後悔しておりません」
と毅然と言う母に対し、思わず准将が敬礼するシーンです。


最初にこのアニメーションを取り上げたとき、
「戦争は悪いことですから二度と起きてはいけませんね」
というマスコミの質問に、まつ枝さんさんは答えなかった、と書きました。

今日はこの部分を再考してみたいと思います。

当時のオーストラリア軍が、松尾大尉らシドニー湾に突入し自軍を攻撃した敵国の潜航艇搭乗員を
最高の海軍葬で葬ったことは、両国民にとって戦後の友情のかけ橋となった出来事でした。

オーストラリア軍の目的には、勿論日本に対して
「オーストラリア軍の捕虜に対する処遇への考慮」を促するという意味もあったと考えられます。

この後、捕獲された潜航艇は、あたかも戦利品のごとく、国内を「巡業」し展示されました。
その目的は国民への危機意識の啓蒙と、戦時募金を募るための「見世物」だったと言われます。
ものごとには、ましてや戦時中の国家がらみの行動、そして外交の多くには一筋縄ではいかない
側面があり、一概に気高い意図だけであのような異例の葬儀が行われたわけではない、
というのも現実でしょう。

しかし、これをもってオーストラリアの二面性を非難するには当たりますまい。
実際には国民は、それにより日本に対する敵意を募らせたのではなく、松尾大尉らの勇気を
素直に称賛したのですから。

戦後、この潜航艇はオーストラリア連邦戦争記念館に展示されましたが、それにより一層その熱は高まり、
館長のマッグレース夫妻はわざわざ日本に来て、松尾まつ枝さんにそのことを伝え、
「御子息に会いに来てほしい」と、まつ枝さんを招待します。

そして、彼女は自分の息子の最終の地を訪問しました。
オーストラリア国民は熱狂してまつ枝さんを歓迎し、「オカアサン」と呼びました。
オカアサンは、かつての敵国の、しかし最高の勇気を持った戦士の母の代名詞となったのです。

このアニメーションで語られるいくつかの思い出、例えば出陣前に大尉が家族を呉に呼び、
旅館で最後の一夜を過ごしたときの様子などは、
まつ枝さんが戦後海軍兵学校の追悼録に寄せたものが元にされています。

「菊地千本槍」の短刀を父から受け取ったとき、大尉は
「これこれ」と低く呟きながらじっと刃に見入りました。
そして皆が床についてから
「久しぶりお母さんと寝るかな」
と言い、まつ枝さんの懐に入ってきたのです。

双方語るすべもなく手はいつしか肩にかかり彼も五体をひしとすり寄せてきました。
私はあまりのことにこみあげてくるものを奥歯でかみしめ息を凝らしていましたが、
これが最後の親孝行だったと思うと、今にして胸がつまる思いがします。


松尾大尉には婚約者がいました。
婚約を果たせず逝くことを詫び、後のことを頼み、そして最愛の部下都竹(つづく)正雄兵曹のことを
「最も信頼せる部下にて、真に優秀なる人物に御座候」といいながら、彼の故郷を訪ねて申し訳ないと伝えてくれ、
と遺書には遺されているのです。

最後に敏子(婚約者)の身につきては全く忍びざる次第にて
直接申し残し置き候も宜しくお願い申上候。
尚木下の御両親様にはよくよく不孝をお詫び下されたく候。


兵学校時代の松尾敬宇は、級友から見ても実に真面目な、いわゆる将校生徒の見本のような生徒だったようです。
「個性的な言動」とわずかに一人が記すのみで、どう個性的だったかについては述べられていません。
他の生徒にあるような愉快な逸話や、思わず笑ってしまうような失敗談には
ほとんど無縁の青年であったように思われます。
中学時代からの級友が語る松尾像も「背が高く、颯爽とした非の打ちどころのない優等生」です。

卒業の分隊写真では、階段に行儀よく並ぶ分隊員の中でたった一人、皆とは逆の方向を向き、
手を腰にして長い膝を(本当に脚が長く、長身のスタイル良しです)曲げたポーズが、
何ともいえず決まっていて洒脱ですらあり、真面目なだけではなかった様子が伺えるのですが。


さて、わたしが以前このアニメーションについて当ブログに書いたときの最後の文章はこうです。


しかし、まつ枝さんは「戦争は悲惨ですから二度とすべきではありませんね」
というメディアの問いかけに一言も答えなかったと言います。

「また戦わなければならないときは、私がそうだったように、息子のような勇士を送り出す。
それが日本という国なのだ」
まつ枝さんはそう言いたかったのだということです。

実はこの部分は、勿論アニメーションにはなく、巷間伝わる話にもなく、
保守政治家の西村眞吾氏のブログ(!)からの情報だったのです。

しかし、その後、まつ枝さんが本当に言ったことを、海軍兵学校の同期生が書きのこしているのを見つけました。

それによると、

メディアの問いかけにまつ枝さんは「答えなかった」というのはどうやら「捏造」であるようなのです。
まつ枝さんははっきりとこういったのだそうです。

「私は戦争は嫌いです。
しかし、皆さんが日本に無理押しをし、非道なことをなさるときは私たちはまたやりますよ」

この言が、何故か・・・いや、何故かではなく、当然のように日本では報道されませんでした。
居並ぶ報道陣が唖然としたというこの激しい言葉は、戦争に行った息子の死が「犠牲の死」ではなく、
国を守るための礎となるのに本懐を遂げたのだと心から信じている肉親のそれでした。
そして、この言葉が広く報道されることが無かったのにもかかわらず、
まつ枝さんと交流のあった海軍兵学校の同級生の間にはちゃんと伝わっていたもののようです。

「問題は向こうから攻めてくるときはどうするかである。
奴隷となるか戦うかの二者択一を迫られるばかりであることは確かである。
非核論争が盛んに行われている。
しかし、ただ一つ確かなことは、日本が核を持とうと持つまいと、そういうことにお構いなく、
日本列島が欲しい国はいつでも攻めてくるであろうということである。
従って私の直載な論理は、今のような平和論争も非核論争もうわっ滑りで
すべてナンセンスであるということである」

その同級生は、松尾大尉の母親の発言にこのような思いをかけてこのように語っています。
現在の日本の陥っている状況を考えると、この発言が昨日なされたものではないかと思うほどです。

オーストラリアのマスコミがこのまつ枝さんの言葉をそのまま報道したのかどうか、すでに資料はなく、
分かっているのはこの「平和」を訴える美談に水を差すこの言葉を当時の日本のマスコミが扱いかねて
「なかったことに」したという事実です。

松尾敬宇の母が真に偉大だったのは、戦後も息子の死の意味を語るにおいて時流に阿ることを決してせず、
その遺志を守り、つまり息子の尊厳を守り抜いたというその一事にあるのだとわたしは思います。

 

 



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