
横須賀フレンドシップデーのときに見学した三笠の写真をまたもや挙げます。
冒頭写真は記念館内に飾られていた巡洋艦ヴァリャーグの舵輪。
よくよく見ると
ROSEBANK IRONWORKS
BROWN BRO & Co. LT
などという文字が刻まれていますが、このフネが、アメリカは
フィラデルフィアの船会社によって造られたものだからです。
ヴァリャーグは日露戦争初日の仁川沖海戦で被害を受け、自沈しました。
この時の艦長はフセヴォロド・ルードネフと言い、彼はこの時の戦闘の
勇敢さを評価されて勲章を授けられ、明治天皇からも勲章が送られましたが、
日本式の「敵ながらあっぱれ」というこの惻隠の情も、
ロシア人にはあまり通用しなかったのか、
ルードネフ大佐は受け取ったこの勲章を身に付けることはなかったそうです。
まあ、気持ちはわからんでもない。 ルードネフ少将ご尊顔。
ソ連時代の切手です。
日本が「敵ながらあっぱれ。勇将には栄誉を与えるべく勲章を取らせる」
というまるで戦国時代みたいな調子であったのに対し、
ロシアの方はそういった「ブシドー」には全く無理解だったようです。
のみならず東洋の小国に負けたことがよっぽど悔しかったらしい。
戦後日本に進駐してきた真っ先にソ連が要求したのはこの三笠の「廃棄」でした。
狭い!心が狭いよ、ソ連さん。
っていうか、よっぽど彼らのトラウマになってたんですかね。日本海海戦。
ヴァリャーグは自沈後、引き上げられて修理を受け「宗谷」と言う名の練習艦として
聯合艦隊の所属になりました。
引き上げられているヴァリヤーグ。
練習艦になったのは、アメリカ製で日本海軍には使いにくかったためです。
11年後、第一次世界大戦がはじまったので「宗谷」は返却され、
再び「ヴァリャーグ」と言う名前に戻りました。
♪ ロシアにいるときはヴァリャーグと呼ばれたの
日本じゃ宗谷と名乗ったの
ウラジオストックに戻ったその日から(中略)
昔の名前で出ています♪
ということですね。
別に替え歌にしなくたっていいんですが、覚えやすいでしょ?
この舵輪は宗谷として修復した際、新しいのに取り替えたため残されたのでしょう。
ちなみにヴァリヤーグはせっかく昔の名前に戻ったのに、
返還後わずか3年で漏水のため着床してしまい、解体となりました。
合掌。
舵輪と言えば、ここにも。
勿論昔こんなところにあったわけはありません。
観艦式で「ひゅうが」に乗ったとき、電気系統が予備も含めて全部だめになったら、
「そのときは手動で動かします」
と操縦室の自衛官が説明していました。
手動。
そのとき、フネについてはとんと素人のエリス中尉は、「手動」と言われても、
全員がオールでフネを漕ぐの図しか思い浮かばなかったのですが、(←)
これがすなわち「手動用の舵輪」。
「三笠」においてもこの「いざとなったときの操舵」のための設備は
ちゃんと用意されていました。
動力と操舵性を失ったフネはただの「浮かぶ鉄」。
勝つことは勿論、母港に帰ってくることすらできないのですから当然
それを確保するために二重の保険をかけておかねばなりません。
というわけで、この舵輪は舵取り機械が故障した時、
手動でこの巨大な艦を操作するためのもの。
操舵、航行能力の維持のためのいろいろは前部艦橋にありますが、
もしそこが攻撃されダメになったときのために、この舵輪は
後部の舵機室(だき、で変換したらちゃんと出てきた@@)にありました。
何しろ人力でこれだけの巨艦を繰ることができるものですから、
艦橋にある舵輪よりもずっと大きなものになっています。
三笠には上甲板に20門の7,6cm速射砲が配備されていました。
何度も出してきますが、「三笠」HPからの写真。
これを見ると「三笠」のままであったのはフネの形だけ、
見事なほどに何も残っていません。
三笠復興運動のために声を挙げたイギリス人、ルービンが
「まるでカバのような・・・・・」
とこれを見て涙したといいますが、構造物全て、当然ながらこの
「武器関係」など、とっくの昔に影も形も無くなっています。
何しろ「日本人の心から『誇り』を根絶やしにして、復讐のための敵愾心を
あらゆる方法で連合国は殺ごうとしていたからです。
ルービンはこれを見て「日本人の誇りはどこに行った」と憤ったそうですが、
このさい言わせてもらえば憤る相手が間違っている。
それは日本人が「誇りを失った結果」そうなったのではなく、アメリカのGHQであり、
ルービンの故郷であるイギリスをはじめとする戦勝国が、日本人から
誇りを奪い取るためにしたことだったのですから。
それは連合国、ひいてはアングロサクソンが、日本の潜在能力に対する
怖れというものを根深く持っていたということの証左でもあります。
敗戦後、それでなくても生きていくのが精いっぱいであったこの時期。
かつての栄光と民族の誇りの象徴たる海軍の戦艦など、
はっきりいってどうでもいいというのがほとんどの日本人でしたし、
さらなる戦勝国のこのような「精神殲滅」にかかっては、
日本人の心から武士道的な誇りが危うく姿を消してしまう危機さえありました。
幸運だったことは、武士の精神を社会の手本とし、「士(さむらい)の心」を
拠り所にしてきた日本人からそれらを全て消し去ることは占領政府にもできず、
かろうじて国体とともにその精神的支柱が失われず残ったことです。
もっとも、このころから意図的に与えられた「自虐」は日本をかなり蝕みました。
ことに「教育」の分野で占領軍がなした「改革」は、実にうまく行ったと言えます。
その結果、「日本を嫌いな教師」がその思想を子供たちに教え込み、
卒業式に国旗国歌に反逆するという示威的行動を許し、
それをマスコミが擁護するというとんでもない構図を生むまでになりました。
これに限らず、近年に至って国民から「国を愛する」という背骨が失われ
危機的状況に陥ってしまった末、民主政権の誕生とその三年で
危うく壊滅的ともいえる国家崩壊が起こるところだったわけですが、
わたしはとりあえずこれからは決して悲観したものでもないと思っています。
同じ写真ですみませんが、下段の「副砲」に対し上層に見えているのがこの
40口径7,6cm単装速射砲です。
おもに相手の甲板上の兵員や構造物を狙うための砲で、
日本海海戦では大活躍しました。
速射砲についていた固定輪。
ここに胴体を入れて、艦の動揺や衝撃に耐えるのだと思いますが、
これ、ちいさいんですよ。
ちなみにTOは恥ずかしながらここに胴体を入れることができませんでした。
わたしは勿論入りましたが、胴の位置が異様に低く、脚を曲げなくては入れません。
「昔の人って、どんだけ小さかったのよ?」と驚いてしまいました。
その小さな人たちがあの大きなロシアを破ったわけです。
これは、どう考えても快挙というやつでしょう。
アジアのみならず全世界の被支配民族がこのニュースに狂喜し、
「日本にできるなら我々にもできるかもしれない」
という希望を抱いたことは紛れもない史実です。
こういうのを左翼は「歴史の美化」なんぞと言ったりするわけですが、
美化も何も、これが民族独立への大きなうねりへの最初の一歩、
「小さな人たちの偉大な一歩」になったことは確かではないですか。
大国の立場でいうと、この日本の勝利の日に、それまで存続してきた「支配する世界」
が終焉に向かい始めたということです。
旧ソ連はじめ、GHQが日本に進駐してきたとたん、その象徴である三笠を
このように蹂躙したのは、つまりそういうことなのです。
外は海。
海は海でも人波、というやつですね。
米海軍スプリングフェスタに参加しようと列を作る人たちの波。
しかし、この構造を観ると、この「ベルト」は、体でもって砲口の砲口を
変えるためのものだったのではないかと思われます。
その気になって照準で狙ってみる。
M字型の向こうから山形の照準が見えたとき、ファイアー!
この引き金を引いて
「射(て)-っ!」
とやるわけですね。
この速射砲は一人で操作したのでしょうか。
左手ではこのハンドルを操作します。
これを回すと、
砲口が上下します。
このハンドルで上下、体の向きで左右と目標を狙うというわけ。
きゅるきゅると回していると、下を歩いている人がたまに
「あれ?動いてる」
と立ち止まって見上げるのが面白いので(左画像下の人)
結構いつまでも遊んでしまいました。
隣はスカッパー。
何のことはないゴミ捨て場です。
ここを開けて豪快に海にごみを投棄します。
今なら到底エコロジー的に許されない行為ですが、当時は
地球環境なんて問題は存在しなかったので、これも無問題。
ま、今でも存在していない(ことにしたい)国も近くにいくつかありますが。
「流し場のあと」というプレートが見えますが、もしかしたらこのスカッパーは
三笠がすべてをはぎ取られ「カバのように」されていた状態のときも昔のままの、
つまりこのフネの構造物の中でも希少な
「日本海海戦を知っているスカッパー」
なのかもしれません。
『ヴァリヤーグの舵輪ですが、
ROSEBANK IRONWORKS
の右には
EDINBURGH
と読めます。
ということは、少なくともこの舵輪はスコットランドのエジンバラにあった
ローズバ ンク造船所で作られたと思われます。
確かに日本語版WIKIに、ヴァリヤーグはアメリカのフィラデルフィアで造られたとあることを私も確認しましたが、
果たして当時の米国造船所が、操舵システムを
製造できずに輸入したかどうか、少し疑問に感じるところです』
英語なので無条件にアメリカ製だと思っていましたが、
スコットランドの製造所だったのですね。
はたしてアメリカの船会社がわざわざ舵輪を輸入したのか?
これに続き、同じ方からの追加情報として
『ロシア語版wikiにヴァリヤーグのページがありました。
そこでも米国フィラデルフィアの造船所で建造されたとなっています。
どうやら操舵システム、あるいは舵輪のみがスコットランドから輸入されたようです
ね。
http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B0%D1%80%D1%8F%D0%B3_%28%D0%B1%D1%80
%D0%BE%D0%BD%D0%B5%D0%BF%D0%B0%D0%BB%D1%83%D0%B1%D0%BD%D1%8B%D0%B9_%D0%BA%D
1%80%D0%B5%D0%B9%D1%81%D0%B5%D1%80%29 』
舵輪とシステムはアメリカがイギリスから輸入していたということらしいですね。
今回の集中記事作成過程で、通信システムについて調べたのですが、
当時はイギリスとオランダ(大北)が技術独占していて、やはりイギリスが艦船技術のトップで、
アメリカはその技術を後追いしているような状態であることを知りました。
勿論このあとアメリカは工業力において世界のトップに躍り出るわけですが、
当時の、特に艦船に関する技術はあくまでもイギリスにあり、
アメリカと言えども技術の供与を仰ぐ状態だったのかという推測も成り立ちます。
小さいことから、いろんな歴史の痕跡が覗えて面白いですね。
またそういったことに目を向けるきっかけをいただきありがとうございました。
また父ネタで恐縮ですが、昭和30年代初期に海上自衛隊に入隊した父が、当時上司と三笠の見学があったそうです。、三笠復興のため募金を募っていたのですが、上司はわずかな額しか寄付をせず、憤慨した父は給料をすべて寄付したそうです。なんと三笠は「永久無料入場パス」を交付してくれました。(死ぬまで、財布にしのばせていましたよ。)
子供の頃、三笠の土産物店で文鎮を買ってもらいました。すぐマストが折れる粗悪品でした。
というか、それは一緒に行った上司への反発が大きかったのでは、と思うのはわたしだけでしょうか。
ところで、次の文章を読んでいただけますでしょうか。
『・・・ところが。
そこに三笠は見えませんでした。
再び探すと、そこに裸になって残骸を横たえている三笠がありました。
執拗なソ連の要求によって、マスト、砲塔、煙突、艦橋を撤去された、
まるで河馬のような三笠が。
憤然としたルービンは、筆をとり、火を吐く激しさでジャパン・タイムズにこれを訴えます。
日本人はこの国辱的仕打ちを看過するのか。
精神まで汚されて平気なのか。
日本人の忘恩と無自覚を問責したこの記事が書かれたのは、
昭和30年のことです』
これは何を隠そう昔わたしが「三笠を救った人々」というエントリに記した名文?ですが
お父さまが三笠を訪ねられた昭和30年代初期は、
このルービンの記事を受けて各方面が三笠復興のために動いていた時期でもあります。
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/3146de683bf43a3b23755b259a93ce20
お父さまが給料全額寄付したのはもしかしたら上司への反発があったのかもしれませんが、
三笠からの「永久パス」は十分その気持ちに報いてくれたわけで、
お父さまはさぞご自分ながらその行いを誇らしく思われたのではないでしょうか。
心がちょっと熱くなるような、素敵なお話をありがとうございました。
舵輪の件で追加お便りです。
『次のような勘ぐりをしたくなるのは私だけでしょうか。
すなわち、
「あの舵輪はヴァリヤーグのものではない!」
詳しい方がいらっしゃるのではないかと思うのですが、
素人的には、どうしても舵輪 ごときだけイギリスから輸入したとは考えにくいのです』
『そも そもヴァリヤーグは引き揚げられて「宗谷」として就役し、
その後ロシア海軍に 返還され、イギリスで擱座し廃船になったわけですから、
なぜ舵輪が日本に残ってい るのでしょうか。
旅順沖で引き揚げて修理した際に、舵輪を交換したのでしょうか?』
うーん。
そういえばそうですね。
日本がヴァリヤーグを貰い受けたときにそれまでのアメリカ製の舵輪を
海軍の使い慣れたイギリス製に変えるということならあるかもしれませんが、
そもそも最初の舵輪がイギリス製であれば、日本としては変える必要が全くなくなります。
なぜ日本にイギリス製の舵輪が残されたか。
考えられるもう一つの仮説は、こうです。
日本は、ヴァリヤーグを日本に持ってきて、乗れるように修理した。
その時に、一度沈没したヴァリヤーグの舵輪を、この際だからと
日本の手で使い慣れているイギリス製に交換した。
(海軍がこの艦を持て余したのもアメリカ製だったからだという話もありますし)
ところがその後ロシアに返還することに決まった。
イギリス製の舵輪は自分たちのために付けたものだから、わざわざ取り外して別のものを付けて返還した。
そして舵輪だけが日本に残った。
どうですか?
なんか、書きながらこれが一番ありそうな話に思えてきたのですが・・。
もっともこの説通りだとしたら、ヴァリヤーグの舵輪、ではなくて
「宗谷」の舵輪、ってことになってしまいますが。
この時代、というか帆船であった時代の戦艦は、皆砲郭が舷側についていたのですよ。
エントリの内容を先取りしてしまうので詳しくは言いませんが、帆に動力を頼らなくても良くなった時に初めて、砲郭ではなく砲塔が生まれてきたという歴史があります。
「三笠」の時代はいわば過渡期と言うべきだったのかもしれません。
中国の「ワリヤーグ」は、前にも話題にしましたが・・・。
まあ、「海賊」はシャレになってませんね。
またそういうシャレの分かる国柄でもないので。
ところで、大変失礼なのですが、というか前から思っていたのですが、
しんさんの文章、正直なところ、行を全く変えずに文章を打っておられるので、
目が滑って読みにくいのです。
句読点ごとに改行していただけるとかなり読みやすくなるので、お手間でなければぜひお試しください。