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目黒・防衛省~海軍技研跡潜入記

2013-07-15 | 自衛隊

目黒の防衛省には防衛研究所図書館資料閲覧室があって、
オンラインで公開されていない資料を見に、何回か来たことがあります。

勿論そのときは、全く私用での資料利用が目的ですので、
周辺駐車場に車を停めてから歩いていくわけですが、
この目黒区近辺、何しろ駐車事情が劣悪なのです。

狭くて高い(青山近辺より高い)コインパーキングにやっと空きを見つけたら
不可解な場所にわざわざ立てられた鉄の柵に開けたドアをぶつけたり、
超絶狭い路地奥の駐車場で、車の角をこすったり、何しろ今までにしたことのないような
過酷な駐車体験を強いられる「魔のゾーン」でした。

「関係者」となってこの広大そうな敷地に車のまま入っていけたらいいのになあ、などと、
一度はこのブログでもそんな実現性のなさそうな願望を語ったものです。

しかしながら、願望というものはなんでもとりあえず口にしてみるものですね。

このたび、ある事情で、目黒の防衛省の中に許可を得て車のまま浸入するという、
エリス中尉的には「アガリ」ともいうべき僥倖に恵まれたのでございます。


その主眼たる主な目的については、おいおいお話していくつもりですが、
今日は、せっかく潜入したので、車を走らせながら撮ってきた写真をご紹介しつつ、
ここに昔あった海軍技術研究所について調べたことを書いていこうと思います。



まずは入口から。
ここは公道に面した一つしかない正門なので、誰でも見ることができる部分。
資料室に来るときには、もちろん歩いてここまでやってきて、



この右側にある守衛室で入館許可を書くわけです。
そうすると、入館者にはもれなく首からかけるタグを渡されるので、
それを付けて入口近くの資料室に向かいます。
ちなみに、一般利用者は、他のところに行くことは許されません。

しかし、一度ですが、資料室に行ったときに自衛官対象の講演があるのを知り、
一般人も聴講が可能であると確かめて、別の棟にもぐりこんだことがあります。
ハーヴァードで講師をしていたとかそういう人物の日米安保についての講義でした。

かなり期待して聴講するもこの講義、はっきり言って突っ込みどころが多すぎ、
もし時間があれば全く部外者であるのも忘れて実際に突っ込んでしまうところでしたが、
まあその話はどうでもいいのでさておき。

要するに一般人が入り込んで、たとえ他のところにいたとしても咎められるような
そういった厳重な警戒をしているような雰囲気ではなかったということです。

何が言いたいかというと、こうやって内部の写真を公開しても、いいよね?
この内部、軍秘とか部外秘じゃないよね?ということです。



映画に出てきそうな雰囲気の、時間が止まったような建物。

ペリーの浦賀来航をきっかけに「外敵」に対抗する、つまり「国防」にいきなり目覚めた幕府は、
ここ目黒の「おとめ山」に砲薬製造所を作りました。
明治政府になってから、ここは目黒火薬製造所として、黒色火薬(火縄銃に使う)
が作られていましたが、何年か後に海軍の火薬製造所となります。

海軍は当初築地に技術研究所を持っていたのですが、関東大震災で被害を受けたため、
その後、この目黒の地に組織を移転させます。
そのときに海軍唯一の統一技術研究所がここに誕生したのでした。


ここには当初

理学研究部

電気研究部

造船研究部

の部門があり、たとえば昭和11年現在、理学研究部では
 暗視装置、つまり暗中測距装置などの開発や熱線応用観測装置の研究。
電気研究部では電波伝播(シャレ?)を逓信省と協力して研究していたようです。

この資料(海軍技術研究所資料一般・防衛研究所図書館資料閲覧室所蔵)では

「三菱水槽」「逓信省水槽」

と帝大の船舶工学科が協力して、などという文言が見えます。

しかし、ここにも水槽がありました。



グーグルアースでキャプチャーした目黒防衛省の俯瞰図です。

画面上に見えている口の形の建物が幹部学校。
緑の長い長い屋根は、グーグルアースで見てもすぐにここの所在が分かるくらい
目立っているのですが、「よく養鶏場でもあるのかと聞かれる」というこれ、
「目黒水槽」といいまして、1930年には完成していたという船形実験のための水槽です。

本土空襲のときにこの水槽は破壊されてしまったということですが、
B-29のパイロットもこの海軍技研は見つけやすかっただろうなあ・・・・。
この長い屋根(360mあるらしい)のおかげで。

円形水槽など、いろいろな形の水槽があったらしい、ということはわかりましたが、
戦後、1956年(昭和31年)、この長い水槽が復元されたときに、
こちらも同じように復旧され、ほとんど当時の形のまま現在も使われているということです。

空から見た写真だと、どこが水槽だかわかりませんね。




こんな看板を発見!

船形試験水槽は1909年にはすでに築地に設置されていましたが、
この水槽の設置と同時に海軍技研が成立しました。

「実験水槽」の歴史は海軍技研の歴史でもあったというわけです。

ここである人物を紹介しましょう。


「造船の神様」とまで言われ、戦艦大和の設計にもかかわった、
初代海軍技研造船研究部長、平賀譲です。

平賀が目黒に設置されて最初の造船研究部長になったのは1925年のことですが、
このときの最初の仕事というのが、震災で壊滅した艦艇型試験水槽を
ここ目黒に再建することでした。

目黒水槽が完成するのは5年後の1930年のことです。
しかし、平賀は、このブランクの期間、

「大水槽完成迄数年間を空しく拱手するの不利を慮り、
且つ研究に従事するものの士気振興の良策たらしめんと思ひ」、

研究所内に「平賀水槽」と呼ぶ仮設の水槽を早くも一年後には作ってしまいます。
そしてそこで船舶流体力学の専門家である徳川武定(とくがわ・たけさだ)らとともに、
船体模型の動揺試験、抵抗試験などで一定の成果をあげました。


ちなみにこの徳川武定は、水戸徳川家の男爵ですが、のちに自費でロンドンに留学し、
潜水艦について研究し、また技研を平賀とともに世界有数の海軍研究所に育てました。

築地に技研があったころ、徳川は毎日のように魚市場で魚を眺め、
新造艦についてのアイデアをそこから得ようとしていたということです。

昭和の初期に日本が潜水艦の分野において非常に優れていたというのは、
この徳川の働きによるところが大であるということです。

1930年に目黒水槽が完成すると、主要船型に対する旋回実験や
各種の系統模型実験など行われるようになります。

その成果の一部は赤崎繁によって学会誌に発表され,なかでも蛇圧お
よびその中心位置を求める実験式は広く用いられるようになりました。

赤崎繁「船の直圧力とその中心に就て」




この、いかにも昔に作られたような、歴史の重みを感じる看板。
この右上の「何かを外した跡」は・・・・・・。


この錨のシルエットが微かに見える部分には、斜めになった錨にロープ、という
以前の技研のマークに見えるのですが。

因みに現在のはこれ。



フローノイズシミュレータにおける流体計測技術論文

この論文の頭に、この「外した跡」のマークが残っています。
上マークと併用しているようですが、今では使用されていないということでしょうか。



というわけで、目黒の海軍技研について、また近いうちに続きをお話しします。
水槽内部の写真を発見しましたので、次回の「予告編」として最後に貼っておきます。





 



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