
やっとドラマ「白洲次郎」について書く日がやってきました。
なまじ時間をかけて資料を読みすぎたのが災いして
なかなか取りかかれなかったのですが、リクエストしてくださったしんさんに
あくまでも「ドラマ」についてでいい、と言っていただき、気楽に始めることにしました。
ところが、観艦式以後、すべて参加イベントの写真を掲載するエントリーが続き、
しばらく絵を描かないうちに、どういうわけか以前のソフトがおかしくなっていました。
しばらくその対策について製造元とメールのやり取りをしていたりしたのですが、
案の定それも面倒になり、アップグレードバージョンを買うことにしました。
というような裏の諸事情を経て、やっとのことで本日載せる絵を急いで描きあげ、
ログ制作に取り掛かっているというわけです。
(わたしはいかなる稿も、先に挿絵ができていないと全く書けないのです)
さて、このドラマそのものに入る前にいつもの愚痴です。
わたしはこの番組をリアルタイムで観ていませんでしたので、ソフトを購入しました。
何が悲しくて国民の皆様から視聴料を集めて作ったドラマをDVD化して販売する
エネーチケーのあくどい販売戦略にまんまとかからなくてはならないのか。
業腹なことに、国民の皆様の視聴料で作ったドラマにもかかわらず
こういうDVDは販売はしてもレンタルには一切出さないときている。
いつまでたってもスクランブル化しないしする気もないこの放送局。
もしスクランブル化で「見たい人だけが見る」ことになれば、たちまち立ちいかなくなる、
つまりは作っているもの、報道することが信用されていないことを自覚しているからでしょうが。
先日訴訟問題について書いた記事が何者かによってずたずたにされて以来、
それがどのような事情でそうなったかは断言できないままに、
はっきりと「エネーチケーは敵」と認識することにしたエリス中尉ですが、
もちろんこの局のすべてを否定しているわけではありません。
(知り合いもいることだし)
このドラマ「白洲次郎」を制作したこと、このドラマそのものは評価できると思っています。
しかし、しつこいようですが、この憂うべき体質の国営放送の販売戦略にかかり、
不本意ながらもこれを購入しなければならなかった悔しさもまた否定できません。
このドラマについて語るという大テーマがなければ、おそらく一生観なかったでしょう。
と、ながながと前口上で愚痴ってしまいましたが、ドラマそのものについてです。
相変わらずにべもない言い方をさせていただければ
「秀逸である。ドラマとしては」ということになろうかと思います。
ドラマは三部に分かれており、
一、白洲次郎の少年時代、ケンブリッジ留学と帰国後の近衛公との出会い、
二、戦中、田舎で農業をし、思想弾圧を受ける吉田と近づいていく次郎
三、吉田の側近として戦後GHQと渡り合い、「ラスプーチン」と呼ばれる次郎
妻である白洲正子との出会い、結婚、そして奇妙ともいえる結婚生活。
ロンドンの親友、ロビン(ストラッドフォード伯爵)との交流。
そんなことを横軸にしながら、話は進められます。
この白洲次郎を演じたのが伊勢谷友介。
少年期は高良健吾、老年期は神山繁が演じましたが、
実のところ、この二人のほうが造形的には白洲本人に似ています。
特に神山繁演じる老境の次郎が、機密書類を燃やす最初と最後のシーン、
写真に残る晩年の白洲次郎そのままで感心しました。
高良健吾の演ずる白洲が、「将軍」と言われた大資産家の父親、
奥田瑛二に追放される形でイギリスに留学したとたん、伊勢谷に交代します。
どちらかと言えば丸顔で、白洲に似ている高良から、いきなり細面の伊勢谷。
どうせなら高良くんにケンブリッジのシーンもやらせてあげたほうがよかったんじゃないかしら。
ついでに正子との出会いシーンも、あの有名な、
Masa: You are the fountain of my inspiration
and the climax of my ideals
と書かれたポートレイトの写真も、高良のほうが似ています。
伊勢谷が悪いとは言いません。
いい演技をしていると思いますし、伊勢谷でないといけない理由も、
おそらくドラマ制作内部的にはあったのだと思いますが、
ここのところ、白洲次郎について書かれたものや写真を見てきたわたしに言わせると、
伊勢谷友介という特別にシャープで鋭利な雰囲気をもつこの俳優を起用したことで、
「白洲次郎という個人の、特別にかっこいいところだけを抽出した」
という、悪く言えば「作り物」感が満載のドラマとなってしまっている気がします。
もちろん、白洲次郎が外見風貌、そのダンディなスタイルから英国仕込みの立居ふるまい、
そしてなにより自らの「プリンシプル」に忠実な流儀を押し通した、
筋金入りの「かっこいい男」であったことは疑いようもない事実です。
それを百も承知の上で、このドラマは「白洲を特別なヒーローとして世に知らしめる」
という制作の意図が透けて見え、また、見ていて恥ずかしいような
「flushy」な白洲次郎が作り上げられているように思えてなりません。
しかも、まだ若い白洲を演じているうちは「flushy」で済むのですが、
中年以降は(個人的意見ですが)伊勢谷・白洲は全くイケていない。
白洲次郎について読めば読むほど、知れば知るほど、
彼の魅力というのは人生の後半ほど際立って光ってきていることがわかります。
確かに若いころの写真を見ると、生まれ持っての優れた容姿に、
知性と自信、意思の表れたその力強いまなざしは十分に人を惹きつけます。
しかしながら、後年の白洲次郎の持つ、凄味のあるかっこよさというのは、
この若いときの「普通の美貌の青年」(とはいえ世間的にはまったく普通ではありませんが)
などは「まだまだ及ばない」別次元に到達しています。
若いころの白洲は、つまりは高良であろうが伊勢谷であろうが、
演技がうまい美男俳優なら演じることのできる存在です。
翻って、占領政府と渡り合うころからそれ以降の白洲を演じる伊勢谷は、
本物の白洲の持つ「本来人間は老いれば老いるほど美しくなるはず」と
随筆家の妻白洲正子が書いたような「積年の美」を体現しているようには見えません。
天皇陛下からのクリスマスプレゼントを「その辺に置いてくれ」
とぞんざいに言い放ったマッカーサーに対して
「日本は戦争に負けたが我々は奴隷になったわけではない」
とドラマでの白洲は決め台詞を投げつける。
このドラマのもっとも有名なシーンであり、白洲次郎らしさを表すこのシーン。
痺れるほどかっこいいのですが、実はこのとき白洲は本当にこういったわけではありません。
そして、良くも悪くも伊勢谷的白洲はこのイメージに終始します。
あまたの白洲次郎の写真の中で最もかれが光り輝くようにかっこいいのは、
わたしに言わせれば、東北電力の社長時代。
国を背負って占領政府とやりあい、しかしそれが済めばあっさりと田舎に引っこみ、
百姓仕事をしながら趣味の家具つくりに精を出す、
そんな生活を経てまたもや社会の第一線にでてきたころ、
顔のしわや、白髪と少し後退した生え際すらそのかっこよさに何らの影も与えず、
むしろそれが勲章のような男の装飾となってかれを引き立てている。
このときの白洲が体現する、これも正子の言葉を借りれば
「いずれが上というわけではないが、
全く無知な者のそれとは違う、知恵に溢れた者の美しさ」は、
失礼ながら一俳優である若い伊勢谷が、白髪にし皺を増やしたところで
全く表現でき得るものではない、と思わざるをえません。
このドラマによって、今までどちらかというと
「随筆家白洲正子の夫として認識されていた白洲次郎」が脚光を浴び、
白洲を知る人々もブームの渦中に巻き込まれるという現象が起こり、
あらたに日本人は白洲を知ろうとするようになりました。
しかし、知れば知るほど、このドラマにおける白洲は
「芯の通ったかっこいい日本人」という、皆に受けそうな
白洲次郎だけをドラマ仕立てにしたに過ぎない、という気がしてくるのです。
白洲が果たした占領下の日本での本当の仕事。
ひいては吉田茂の果たしたことと、占領下の日本で新憲法を作るとき、
そこになにがあったのか、そして新憲法への一連の改正作業の間、
缶詰め状態であった白洲が、すべてが終わり帰宅するなり
「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」
と吐き捨てるようにいったこと。
そしてできた憲法をあくまで独立国になるための「暫定的なもの」としていたこと。
そういった「微妙な」、しかし重要な事実については、
案の定、この国営放送局は全く触れることをしません。
そしてまた、苦々しく見たのが、中年期に入った正子と次郎の間に、
誰の回想にも随筆にもない「夫婦の言い争い」が創作されたことです。
青山次郎に『テリア』と呼ばれた正子が、何者でもない自分を自虐し、
「こんな女と結婚して後悔してるんでしょう?家事も何にもできないわたしと」
などというのを、次郎が抱きしめ、
「おれにはきみが必要だ。マサは素敵なライバルなんだ」
などと、なぜか英語の会話で行う、という(文字通り)臭い芝居。
正子本人のどの随筆を読んでも、娘の桂子の本を読んでも、
正子が自分の妻としての在り方にこのようなコンプレックスを感じていたことなど
全く書かれていないどころか、北康則の「占領を背負った男」によれば
この夫婦は次のようであったといいます。
文芸評論家河上徹太郎が目撃したところによると、
朝帰りの正子を早朝から農作業をしていた次郎は
「あら、おはよう」と飛び切りの笑顔で明るく迎え、
そのまま何事もなかったように野良仕事に戻っていった。
温厚そのもの。めったに怒鳴ったりはせず、夫婦仲はすこぶる良かった。
正子の活動にも全く干渉せず、相手の人格を尊重し、
そこは自己責任だと割り切っていた。
「自分探しのために随筆や骨董の世界にのめりこんだ妻とそれを理解する夫」
というストーリーは、なんのために加味されたのでしょうか。
そしてそれはいったいどのような意図で?
そして、いまひとつ、不思議な部分がクローズアップされています。
白洲次郎が徴兵を回避するために、辰巳栄一(吉田内閣の軍事顧問)に
口利きを頼んだことです。
わざわざ、「自分はこの戦争に自分の一片たりとも差し出す気はない」
というために、農業を教えてくれた青年が出征し戦死する、という創作を加えています。
実在の人物をドラマにするのは、いずれにしても難しいものです。
この夫婦喧嘩以外の個々のエピソードは、ディテールはともかく、
白洲本人がどこかで書いていたり、周りのものが語ったりしたことから取られ、
決して「真珠湾からの帰還」のように、ねつ造創作はされていませんが(笑)
それでもやはり家族から見ると「これ、誰のこと?」状態であったようで、
生身の人間を描くのに実相からある程度乖離することは避けがたく、
もし白洲本人が生きてこれを見たら
「いったい誰の話だよ」
と苦笑いして言うに違いない、とわたしは思うのですがいかがなもんでしょう。
このドラマに精彩を与えているのは、なんといってもベテラン俳優たちです。
吉田茂の原田芳雄。次郎の父白洲文平の奥田瑛二。
そして近衛文麿を演じた岸部一徳。
今年の夏、2012年7月にがんで亡くなった原田ですが、
このドラマの撮影が行われた2009年には、すでに本人に余命告知はされていて、
それを知って観ると、この大宰相を演じるに十分の気迫、声音や笑い方まで
研究し自分のものにしたらしいその渾身の演技には感じ入ります。
そして、原田と同じく、実物にしか見えなかった岸部の近衛公。
「戦前は弱腰だといわれ、戦後は戦争犯罪人だと罵られ・・」
と詠嘆する、この悲劇の貴公子の、その弱さ、脆さ、繊細さを、
岸部にしか演じられないような迫真の近衛像をもって演じています。
憲法を改正するにあたり、一度は近衛を重用したマッカーサーは
「少年院の規則を決める人間にガンマンを選んだようなものだ」
と、戦犯扱いするアメリカの新聞記者たちの批判をうけて、
なんとその憲法調査会を解散させてしまいます。
かつて一国の首相を務めた人間を、風向きによってあっさりと切り捨てる。
こんなマッカーサーの独断に振り回される形で近衛公は戦犯指名され、自殺します。
白洲次郎と近衛公のことについてはまた別に書きたいと思っているのですが、
白洲がマッカーサーをこの件だけでも憎悪していたことは想像に難くなく、
戦後も何かの用事でGHQが接収していた第一生命ビルの前を通るとき、
決してそちらを見なかったということです。
ドラマで採用された「我々は戦争には負けたが奴隷になったのではない」
というのは、白洲の口癖だったようです。
天皇陛下からのクリスマスプレゼントをぞんざいにあしらったマッカーサーを、
白洲が血相を変えて叱り飛ばし、マッカーサーも慌てて謝った、という事件は、
もちろん、占領下の気骨ある日本人たる白洲の真骨頂であり、その気概の表れでした。
しかしながら、このとき白洲は、
近衛を振り回した挙句死に追いやったマッカーサーの横暴に対する
抑えようのない義憤があったからこそ、次郎はこの絶対権力者に対して
大胆にも声を荒げて怒ったのだ。
(北康則)
と解釈するのが、より妥当だと思われます。
このドラマの占領時代における白洲は、この例のように、
どこか大上段に立った理想主義者のような面が強調されすぎている、
と考えるのはわたしだけでしょうか。
それもこれもすべて、ドラマという表現媒体の持つ「対象の純化、英雄化ありき」
を斟酌すればいたしかたないことなのかもしれませんが。
それはそうと、この「白洲次郎」、第三回「ラスプーチンの涙」では、
戦争中思想犯として投獄され、その後敗戦国が独立した時の首相として、
サンフランシスコ講和条約で演説をした吉田茂が語られます。
この放送が、当初あの悪夢の政権交代の前日に予定されていたのですが、
「どうしたことか」選挙日が公示されたとたん、放送予定が変更になった、
ということをご存知でしょうか。
ようやくのことで解散になった衆院ですが、任期中日本のためになることは
何一つしなかったといっても過言ではない民主党に政権を取らせるため、
マスコミが当時、総出で応援していたのは記憶にあたらしいところです。
(個人的ソースは毎日新聞社員の『俺たちの手で政権交代してみせる』という言葉)
解散した自民党の総裁がこの吉田茂の孫であることと、この放送日変更には、
なんの関係があってどんな配慮が働いているのだろう、
とわたしは意地悪くこのニュースを見ていました。
これは、ドラマです。
観る者に共感を与え、感動させることが第一義のドラマで、
感情に訴えるセンチメンタリズムを加味することはドラマツルギーの基本です。
このドラマは、文字文献から白洲次郎を多く知ろうとした人間が見ると、
このセンチメンタリズム以上に、製作者および製作元の思想、
なかでも政治的イデオロギーがいやでも目に付いてしまうのです。
「徴兵を回避するため口利きを頼んだ白洲にアリバイ的言い訳をさせる」
「近衛公に『我々は軍人の手から政治を取り戻すために頑張っている』と言わせる」
「リベラリストとしての吉田をあくまでも善、とのみ描く」
(この描き方がアダとなって、選挙前日に放映できなかったのなら笑いますが)
このようなメッセージを、実に感動的なシーンとセリフによってドラマにしてしまう、
このあたりは「やっぱりいつものエネーチケーだわ」と感じて、うっすらと鼻白んでしまいました。
あ、それから、私の好きな奥田瑛二が演じている次郎の父親、文平ですが、
当時にしてハーヴァード大学を卒業し、ドイツに留学した人間。
綿花で儲けて大金持ちで、しょっちゅうよそに子供を作るほど女癖が悪く、
ステーキをくちゃくちゃ音をさせて食うような野蛮で下品な男であったなどという話は
今回読んだどの本にも出てきませんでした。
まるでその下品な傲慢さに反発したからこそ海外に留学したような創作は、
白洲次郎に対しても非常に失礼ではないかと苦言を呈させていただきます。
というわけで結論ですが、このドラマ「白洲次郎」を見て感じたことは、
ドラマは真実を語るにはあまりに真実がなさすぎる。
真実はドラマにするにはあまりにドラマがなさすぎる。
ってことで。
もちろんドラマとしては非常に面白かったです。(爆)
畏れ入りました。
わたしはその点、一度通して観て、そのあとは絵をかくためとセリフを確認するために飛ばしながら観ただけですから。
1、以前、T-33Aの事故について「同じ新聞記事に触れても立っている思想信条の位置によってはその記事が全く違う意味に捉えられることの不思議」について書きましたが、まさに今回そんな感じですね。
どうもわたしはその二つのセリフを(聞いてはいましたが)重要なセリフとして捉えていなかったようです。
「エネーチケーだから」というフィルターがかかっていたようですね。
2、近藤正臣。いいですね。わたしがPならそうしたかも。
ただ、白洲次郎の最晩年、亡くなる4~5年前の写真(ハンチングをかぶってポルシェに乗ろうとしている写真は特に容貌雰囲気はあのままです。
確かに少し太りすぎかなという気もしますが。
神山繁はもともと白洲にも負けず劣らずすらりとした上背のある体格だったと記憶しますが、ああなってしまったのでしょうか。
余談ですが、神山繁が海軍経理学校卒ってご存知でした?
今回検索していて知ったのですが。
ははあ、英語力、ですか。
うーん、それがあるから役者の選択が限られてしまったのかな。
確かに高良が高校時代英語で教師に文句を言うシーン、下手だったわ(笑)
考えてもみませんでしたが、非常に納得できるお話です。
白洲文平が破産した後も、という話ですが、全盛期がものすごいですからね。
白洲次郎は一度に今の三千万円くらいは仕送りされていたという話ですから。
その仕送りができなくなったから日本に帰ってきたわけですが、もし世間的に普通の生活でもよければ、イギリスに残ることはできたと思います。
帰れと言われたのと同時に、親を支えてやらねば、という気持ちから帰国したそうですね。
文平が新婚の二人にプレゼントしたランチャ・ラムダですが、決して余裕の産物ではなく、債権者の取立てから隠し通した残りの全財産で購入したようです。
彼は正子を気に入り、「良縁や、めでたい」といって精一杯の心づくしをしたつもりだったとか。
ちなみに白洲次郎は晩年まで関西弁はまったくしゃべらなかったようです。
何かのはずみに娘さんが耳にする程度だったとか。
日本語はどちらかというととつとつとして、英語のほうが流暢だったといううわさもあります。
・・・反論1、ですか。怖いなあ(笑)
それから、わたしが憂うこの公共放送の現状は、ここ20年くらいの間に芽を出し、悪化してきた体質にすべての原因があると思っています。
お父様のお仕事されていたころの、お固くて面白くはないが信頼性のあった、あの融通の利かないテレビ局にもう一度立ち返ってほしい、と心から願っています。
年末の選挙の政見放送に番組の時間が取られて困る、などと公言しているふざけたニュースを見て、さらにいっそうそう思いました。
単なる思い付きですから。
どちらにしても、ドラマはカテゴライズすると「芸術」です。芸術としての表現をもって、実際に起こったことあるいは実在の人物の実相を伝えることは「事実」という観点から判じると必ずしもうまくいくものではないのが宿命だとおもいます。
(もちろんそれを否定するものではありませんが)
伊勢谷友介という俳優についてわたしは多くを知るわけではないのですが、本文でも言うように、あるいはメイキングフォルムにおける彼の役に対するアプローチを見ても、彼がいい俳優であることに疑いを持つものではありません。
ただ、とにかく白洲次郎本人が特殊すぎるのです。
人生のどの時点の白洲をこのドラマは一番語りたかったか?というと、おそらく晩年ではなく、ケンブリッジからあのクリスマスの夜まででしょう。
実際の白洲はあのクリスマスの時には40台半ば。
しかし、ドラマではあの啖呵を切る白洲はどう見ても30代。
伊勢谷にすべてを演じさせたことで「若い白洲次郎」ばかりがイメージされてしまうのが「テレビだけ観て白洲を知った人たち」であり、わたしが若干の違和感を感じるのもここなのです。
伊勢谷はせめて近衛と会うころまでにして、これ以降の中年の役者を(誰かふさわしい俳優がいれば、ですが)もう一人立てればどうだったかな、などと考えます。
でも、いますかね?
40代後半で白洲次郎を演じられる役者。
②「近衛公に『我々は軍人の手から政治を取り戻すために頑張っている』と言わせる」
③「リベラリストとしての吉田をあくまでも善、とのみ描く」
①についてですが、辰井さんに御願いした徴兵逃れ、ある大学教授が怒り心頭、ご自分のブログにそのことを書いて、袋叩きでした。つまり、帝国国民一丸となってセンチへ赴いている時に、どんな理由があろうとも、みっともない!と言うことですが、ドラマ構成的には、まったく問題がなく、(そうだよ、その通りだよ)と普通は思うところです。②について、いいじゃないですか、近衛公は自由主義者で通っているんですから。ただ、お坊ちゃんだったので国を仕切れなかったのだと思います。③吉田茂は、天皇崇拝者でした。国の為、国民の為、と言うより、天皇のために国体を守ろうとしました。それでも、結果的に日本国を有る程度守った人だと思います。外務省出身者にしては良くやったと思いますよ。今の外務省の役人は(略)。でも、結論的には良くできたドラマかもしれませんね。追加の反論です。「温厚そのもの。めったに怒鳴ったりはせず、夫婦仲はすこぶる良かった。」ですが、ドラマを見る限り、まったくその通りだと思いました。ドラマに描かれている白洲夫婦、実に羨ましい夫婦関係に思えますが。けんかする時は、英語。ところで、神山繁氏、海軍主計学校なんですか・・・。わが父も、銀行員から、志願して海軍横須賀鎮守府の主計係でした。主計担当は食糧に困らず、良かったらいいですね。数少ない軍隊時代の写真を見ると、ほっぺがふっくらした紅顔の少年が写っております。白黒ですが・・・。また、反論いたします。敬礼!
何かの暗号かと思いました。
それはともかく、1ですが、わたしは個人的に白洲の意見には全く同感です。
役に立たない人間が戦場に行ってどうする、そして自分は日本にとってなすべきことがある。
そして、そういうコネを持っていたらそれを使って何としてでも徴兵を拒否する人間の気持ちは理解できます。
ただ、いくら行きたくなくても行くしかない、死にたくなくても特攻に赴いた人たちが現実にいる限り、この行動を「卑怯」と謗る人たちがいてもこれまた当然のことであろうと思います。
ここでの問題は、本来本人が公言していなかったこの徴兵拒否をどうしてわざわざドラマで語らせたか、です。
本人がそのことを戦後も公言しなかったというのは少なからずそのことに忸怩たるものをもっていたからでしょ?
信念はともかく、それが世間的には卑怯と呼ばれることであるのは本人が一番よくわかっていたはずですから。
「徴兵逃れをした」という、本人にとっての「汚点」に、わざわざかっこいい言い訳をさせて英雄談、美点として持ち上げる。
この構図がどうしても「この局のイデオロギー」に端を発するものに思えてしまう、というのがわたしの感想です。
2と3も同じく、両者のそういった面を描いたから悪いとかいいとかいうのではなく、いずれの人物も政治家であったからには一面的に語れないはずであるにもかかわらず「ある方向のイデオロギー」について歓迎される部分ばかりに光を当てすぎているのではないか、という意味で申し上げました。
吉田が反戦主義で天皇を守ることを使命としていたこと、近衛公が日中戦争の不拡大をとなえていたことももちろん承知していますが、たとえば近衛は不拡大を唱えてすぐ陸軍も要求していなかった北支派兵をいきなり決定したりしているわけですよ。
すべて一筋縄では語れるものではないのが現実だと思いますが、それにもかかわらず、ドラマというのは「こう語りたいということだけを語る」ものだという意味で書きました。
「「ドラマは真実を語るにはあまりに真実がなさすぎる。真実はドラマにするにはあまりにドラマがなさすぎる。」
思い付きの結論でしたが、やはりしょせんはドラマ、語り手のバイアス抜きでは何も語れない、という意味で実は我ながら正鵠を射ているのではないかとちょっぴり自画自賛しております。
だからこそ、あの正子の取ってつけたような「わたしのことを笑ってるんでしょう」というセリフが奇異に思われるのです。
今回正子の本も何冊か読みましたが、書かれていることを読む限り、「自分探しのために創作や骨董にのめりこんだ」というようなつまらない女性にはとても思えません。
自信にあふれ創作や美の世界に打ち込みすぎるくらい打ち込む妻と、その人格を尊重して見守る超一流の夫。
なぜ製作者はあんないさかいをわざわざ創作するの?
って話です。
ただ「変わった夫婦」じゃだめだったんでしょうかね?
文字で会話するというのは感情が伝わりにくいときがありますね。
こんな時のために絵文字があるのかも?
しんさん!
これでは反論になりません!
こんな感じですかね?