スミソニアン航空博物館の第一次世界大戦コーナーに、
ここで初めて実物大の飛行機の展示が登場しました。
The Royal Aircraft Factory FE8
英国の戦争省直轄の航空機研究施設である、
RAF(ロイヤルエアクラフトファクトリー、
のちにエスタブリッシュメント)
が第一次世界大戦時に設計した一人乗り戦闘機のレプリカです。
最初は偵察用でしたが、前方に機関銃を備えた戦闘機に仕様を変えています。
1915年10月時点で、F.E.8プロトタイプは最先端の設計でした。
王立飛行隊は操縦席からの広い視野が確保され、ルイス機銃を装備した
革新的なこのプッシャー式(推進式とも。プロペラやダクテッドファンが
機体後部に設置されている)戦闘機に多大な期待をかけていました。
しかし、ここで問題が。
当時のRAFにとってこの最新鋭の設計の製造は、明らかに
「Overcommitted」、つまり能力以上のことを引き受けるという
言葉そのままだったため、その結果、生産はかなり遅れることになりました。
1年後にようやく生産した飛行機が前線に到達したときには、すでに
その性能は新しい敵の航空機のほうが上回っているという状態。
というわけで、設計の段階で最先端だったF.E.8は戦線では時代遅れで、
しかもイージーキル、簡単に(パイロットを)殺すことができました。
それは「デス・トラップ」とすら(ここでは)呼ばれています。
って全然だめじゃん。
というわけで、ホームフロント(銃後)における生産の遅れが、
戦線でのパイロットの安全に直接影響するという好例?になってしまった、
とスミソニアンでは身も蓋もない評価ですが、それでも
全く活躍しなかったというわけではありません。
王立航空隊のエースの一人、フレデリック・パウエル(公認6機、
未確認9機)がこのFE8は2番目のFE8プロトタイプで、
1916年1月から3ヶ月の間に未確認含め6機撃墜しているのです。
このため彼はFE8の飛行隊長に就任もしています。
Edwin Benbow
また、FE8のエースといえば、
エドウィン・ルイス・ベンボウ大尉(1895−1918)
がいます。
彼はこの機体だけでアルバトロスを公式に5機以上撃墜して
FE8エースとなり、それだけでなく、あのレッド・バロンと
二回対決して、二回目に撃墜しているのです。
ベンボウ大尉の銃弾は相手のタンクを打ち抜きましたが、
リヒトホーヘンはこのとき不時着して命は無事でした。
これがベンボウ大尉の8機目の撃墜記録となっています。
しかし、翌年、彼はドイツ軍エースの
ハンス・エベルハルド・ガンデルドに撃墜されて死亡しました。
奇しくもベンボウ機はガンデルドの8機目の撃墜機でした。
蛇足ですが、あのヘルマン・ゲーリングも第一次世界大戦のエースで、
22機撃墜して「鉄人ヘルマン」とか呼ばれ、ブロマイドまであったとか。
中尉時代
そりゃこれだけ痩せてればねえ(´・ω・`)
航空搭乗員の飛行服
ところでいきなりですが、みなさん「トレンチコート」のトレンチって、
第一次世界大戦の時の塹壕のことってもちろんご存知ですよね。
トレンチコートは泥濘地での塹壕戦で耐候性を発揮したことからその名前となり、
一般的に用いられるようになってからも、軍服のデザインを色濃く残しています。
たとえば肩にボタン留めできるエポーレットは、もともと水筒や双眼鏡、
ランヤード(拳銃吊り紐)を吊ったり、ベルトをかけて留めることができ、
戦闘中に仲間が倒れてしまっら、ここを持って引っ張ると大変便利。
(引っ張ってもボタンが取れないようにできていたんですね)
デザインがハードで「正統派」なものほどこの名残が残っていて、
腰回りについているD鐶は、手榴弾を吊り下げるためのものでした。
襟はボタン留めした上で「チンストラップ」というベルトを
上からかけると寒風を防ぐことができますし、手首のストラップも同様です。
右胸に付けられた当て布、ストームフラップは、ボタン留めしたときに
雨だれの侵入を防ぎますが、もともとは銃を構えるときに銃床が当たる場所で、
ガンフラップとも呼ばれています。
軍服繋がりでなんとなくトレンチの話題から始めてみましたが、
ここはスミソニアンなので航空搭乗員の衣装についての展示です。
このコートの広告、言わずと知れたダンヒルのものですね。
初期の航空服は単にピッタリフィットするキャップとダスターコート、
そして手袋といったものでした。
しかし航空機の出番がふえていくにしたがって、防護を重視した
より機能的な服が必要とされるようになってきます。
1914年までにゴーグルと頭部を防護するヘルメットが登場しますが、
パイロットたちは自分たちで飛行服を工夫していました。
そういえば、映画「レッド・バロン」でも、「フライボーイズ」でも、
あの頃のパイロットは飛行機に乗る時に皆バラバラな格好だった気が。
リヒトホーヘンはボトルネックのセーターを着ていたし、
毛皮の襟のついたコートを着ていた人もいたし・・・。
飛行機に乗る時の決まった制服はなかったのね、とわたしなど
ファッションに目ざとい方なのでかなり昔から気付いていました。
そういうわけなので、何千人もの軍飛行士にいよいよ衣服を着せる必要が生じて
初めて、衣料品業界は飛行士用の衣服のデザインと製造を始めました。
この商機をなぜどこも早くから利用しなかったのか、という気もしますが、
飛行機というもの自体が世間とは乖離した存在だったため、
そこに特別の衣服が必要であるなどと誰しも思いつかなかったのでしょう。
そこで、ダンヒルの飛行服です。
WHERE FLYING MEN ARE FITTED OUT
「空飛ぶ男たちが装着する場所」
これは「それこそがダンヒルである」という意味のコピーライトです。
男前のパイロットが身につけているのは、基本トレンチコートのようです。
さすがは英国ブランド、飛行機でもトレンチコート。
襟のチンストラップをしっかりと留め、腰のベルトもしっかり閉めて、
襟を立て、毛皮をあしらった飛行帽を着用しています。
ズボンの上から編み上げ式のロングブーツを履き、
膝までをしっかり革で覆っていますが、これはいざという時
少しでも防護に役に立ったかもしれません。
なんというか、帽子以外は航空服としてふさわしいかどうか
はなはだ疑問ではありますが、当時はトレンチコートは気候の変化に対し
それだけ汎用性があるということになっていたんでしょう。
広告の文章も見てみましょう。
スペシャリスト
初期のモータリゼーションのシーンにおいて、最も厳しい条件下でも
防風性をもち全天候に対応してきたのが専用の衣装です。
Messrs DUNHILLSは航空任務に携わる将校の皆様のための
「ザ」・ハウスです。
私たちの航空衣装一揃えは、最高品質であることはもちろん、
耐久性においても高い評価をいただいており、
さらに、何点か組み合わせていただくことにより
大変お買い得なお値段でのご提供が可能でございます。
カタログには「フライングメンズ・キット」の詳細を掲載しておりますので、
ご希望の方はぜひお求めください。
おしゃれでこだわりのある将校は、やはりダンヒルで揃えたりしたんでしょうね。
我が帝国海軍の搭乗員も、お洒落さんは三越で搭乗員服とか
軍服をあつらえていた人がいたし、「ペチコート作戦」の少尉は
サックス・フィフスアベニューで特別に仕立てていたし、そうそう、
先日聞いた話では、海上自衛隊にもおられるそうですよ。
三越か何処かで制服を誂えておられるというお方が。
ダンヒルはこの広告にもあるように、元々はエルメスのような
馬具製造業から出発した企業でしたが、1902年、
「モートリティ」(motorities、MotoringとAuthoritiesを合わせた造語)
をキーワードに、自動車(オープンカー)に乗る人のための
ゴーグルやコート、レザー製品を販売するようになりました。
だいたい、ダンヒルというのはあまりにもいろんなものを売りすぎて、
何のメーカーだかよくわからないがとにかく高級ブランド、というイメージを
今でも持つ稀有な?企業ですが、このときもその流れで、
おしゃれな将校用スペシャルセットを販売することになったのでしょう。
ただし、すぐに軍の航空隊が制服を採用するようになったので、
この分野におけるダンヒルの商品はそれ以上発展しなかったようです。
ドンマイ。
エースとナショナリズム
冒頭に採用したドイツの1917年発行ポスターです。
凛々しい航空搭乗員が航空機のコクピットに立っている絵に、
Und Ihr? (そしてあなたは?)
戦時公債を申し込みましょう
このコーナーには
「犠牲が問われる」
というタイトルが付けられています。
ゲーリングやリヒトホーヘンのブロマイドが売られていた、
という事実からもわかるように、飛行機乗りの浴びる脚光は華々しく、
テレビのない時代、知名度は絶大でした。
そして、第一次世界大戦に参加していた各国はすぐに気がつきます。
エースというスーパースターのネームバリューと、彼らを使えば、
広告塔としてリクルートに役立ち、大衆は熱狂して公債を買うなど、
戦争に喜んで協力するのだ、と。
創造された伝説
ドイツとフランスは、おそらく勇敢な英雄としてエースを喧伝することで
抜きんでいていましたが、他の国にもこの傾向はもちろんありました。
多くの場合、パイロット自身の口から語られて広まった彼らのイメージは
政府とマスコミによってより増幅され、推進されて伝播し、
長くて激しい戦争の最中に、英雄を求める国民の「渇き」を和らげました。
大衆紙の役割
フランスの新聞も、エースのヒロイックなイメージを創造するという
重要な役割を率先して担っていました。
そもそも「エース」というタイトルが生まれたのは1915年頃で、
オリジナルはパリの新聞がフランスのパイロット、
アドルフ・ペグー(Adolphe Pegoud)が4機目の撃墜をした後、
「I'as de notre aviation」(我らの航空エース)
として登録?したのがきっかけということです。
George guynemer”The Purest Symbol of the race"
そしてこのメロドラマチックな絵のように、宗教的な香りを漂わせつつ、
時には政治的なメッセージを混ぜながら、言葉よりもカラフルに、
視覚に訴えるメッセージで、彼らの気高い士気を喧伝するのが常でした。
なぜなら広報の対象は字が読めない者にも及んだからです。
カラフルなイラストは、確実に新聞記事よりも広範囲にその魅力を訴えました。
こういった安価で広まりやすいイメージは、長い歴史の中で
常に民意に影響を与えてきたということができます。
象徴的な英雄のプロモート
戦争の費用が嵩んでくると、政府も、彼らの宣伝プログラムを
大衆が戦争を支えてくれるようなものへとフォーカスしてきます。
しかし地上の戦争からは適切な英雄は滅多に現れないので、
国としては、大衆の戦意を高揚させるために戦闘機のパイロット、
そのなかでもエースを宣伝に使うのが手っ取り早かったのです。
上の絵はわかりにくいですが、当時大人気だった
フランスのエース、
ジョルジュ・ギヌメール 1894−1917
Georges Marie Ludovic Jules Guynemer,
を称えて描かれたものです。
エースという存在は、生きている間はもちろんですが、
その最後が悲劇的であればさらに世界に名を知られるようになります。
たとえば上記の絵は、フランスでおそらく最も有名なパイロット、
ギヌメールが戦死してから描かれたもので、彼の魂が
天使によって天国に運ばれているというシーンです。
(わかりにくくてすみません)
添えられた文章も悲壮かつセンチメンタルなもので、
「最も純粋な飛行界のシンボル」
「不屈の粘り強さ、野生的なエネルギーと崇高な勇気」
「犠牲の精神と最も高貴な叙述を正確に示す不死の記憶」
などなど。
彼はフランス空軍第2位の54機の撃墜記録を持つエースで、
1917年ベルギー戦線で戦死しました。
彼がドイツ軍機に撃墜されて墜落したのは偶然墓地でした。
ドイツ軍は彼の死を確認し、遺体を運びだそうとしたのですが、
そのときイギリス軍の砲撃が始まり、戻ってみたらなんと、
不思議なことに、ギヌメールの遺体は消えていました。
彼の悲劇的な最後は人々に語られ、その遺体の謎に対する興味も相まって、
さらに英雄ギヌメールのロマンチックな伝説が作られていくことになったのです。
ところでこんな話の後になんですが、拾い物の新聞連載漫画、
「Captain Easy」を最後に貼っておきます。
続く。