ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」、
SSMMの南北戦争の展示には、冒頭写真のリンカーンのデスマスクがあります。
南北戦争の時代にだけ存在した「古残兵部隊」についてご紹介した時、
リンカーン大統領の暗殺者とされる女性を含む4名を処刑したときに
執行をおこなったのは傷病兵から成るこの部隊から派遣された4名だった、
という話をしましたが、今日はリンカーン暗殺そのものを取り上げます。
主犯・ジョン・ウィルクス・ブース
1865年4月14日の夕方、有名な俳優で南軍に共感するジョン・ウィルクス・ブースが
ワシントンDCのフォード劇場でエイブラハム・リンカーン大統領を暗殺しました。
ブースは有名な俳優の家に生まれ、自分自身もシェイクスピア作
「リチャード三世」などの舞台を経験しています。
南軍に共感していたにもかかわらず、ブースは南北戦争の間北にいて、
俳優としてのキャリアを追求しました。
そして戦争が最終段階に入ったとき、彼と数人の仲間は大統領を誘拐し、
南軍の首都リッチモンドに連れて行く計画を立てたのです。
しかし計画決行の日にリンカーンは待っていた場所に現れず失敗。
2週間後、リッチモンドは陥落し、ロバート・リー将軍は降伏しました。
ブースはこれに諦めがつかず、南軍を救うための「計画」を思いついたのです。
フォーズシアターのリンカーン
4月14日にワシントン DCのフォード劇場で行われる演劇「我がアメリカのいとこ」を
リンカーン大統領が観覧することを知ったブースは、暗殺計画を首謀しました。
彼と共謀者たちは、リンカーン、副大統領のアンドリュー・ジョンソン、
国務長官のウィリアム・スワード、つまり大統領と彼の後継者の2人を
同時に暗殺すれば米国政府を混乱に陥らせると考えたのです。
リンカーンは開始時刻に遅れてここにある写真のロッキングチェアに座って
途中から鑑賞しましたが、上機嫌で、このコメディ上演中に笑い、
心から楽しんでいるように見えました。
この椅子はリンカーンが暗殺された劇場の同型の別の椅子で、
本物は別の博物館に展示されていますが、よく見ると血痕が確認できるそうです。
リンカーンと一緒にステージの上のプライベートボックスで鑑賞していたのは
メアリー・トッド・リンカーンとヘンリー・ラスボーンという若き陸軍将校、
そしてラスボーンの婚約者で上院議員のイラ・ハリスの娘であるクララでした。
リンカーン暗殺
10時15分、ブースはリンカーンのいるボックスに滑り込み、
44口径の単発デリンジャー銃をリンカーンの後頭部に発射しました。
同型の椅子の座部には、このときと同じ銃が置いてあります。
すぐに彼に向かって飛びかかろうとしたラスボーンの肩をナイフで突き、
ブースは観覧席からステージに飛び降りて、
「”Sic Semper tyrannis!」(シック・センパー・ティラニス)
と叫びました。
これはいかにも彼が現役の役者であることの「本領発揮」でした。
「ジュリアス・シーザー」にはブルータスのセリフとして
シーザーを倒した後、この言葉が使われました。
このラテン語は、英語ならば"thus always to tyrants "、
「暴君は常にこのようになる」という感じでしょうか。
この劇中写真でそのセリフを言われている左のシーザーを演じているのが
他ならないジョン・ウィルクス・ブースです。
いきなり舞台に飛び降りてきた男がラテン語を叫んだので、
当初、観客は展開中のドラマの一部と解釈していましたが、
バルコニーから響き渡るファーストレディーからの悲鳴から
確実に何か事件であることを皆が察した時には、
ブースは劇場を抜け出した後でした。
彼は舞台に飛び降りたとき足を骨折したのですが、なんとか
馬に乗ってワシントンから脱出していたのです。
観客の中にチャールズ・リールという23歳の医者がいて、発砲音と
リンカーン夫人の悲鳴を聞くやいなやボックスに駆けつけたところ、
大統領は椅子にぐったりとくずれおちて体を麻痺させ、
すでに呼吸困難の状態に陥っていました。
リンカーンの死と剖検
アンドリュー・ジョンソン副大統領と彼の親しい友人の何人かは、
下院の大統領のベッドサイドのそばで待機していました。
ファーストレディーは大統領の隣の部屋のベッドに横になり、
長男のロバート・トッド・リンカーンが付き添っていました。
銃撃事件の翌日の朝1865年4月15日午前7時22分、
リンカーン大統領は56歳で死んだと宣告されました。
大統領の遺体は一時的な棺桶に入れられ、旗が掛けられ、
武装した騎兵隊によってホワイトハウスまで護衛されて運ばれたのち、
外科医は徹底的な剖検を行いました。
検死の際、メアリー・リンカーンは外科医に、
夫の髪の毛の束を切り取ってもらうよう要求するメモを渡しています。
陸軍の外科医であるエドワード・カーティスは、検死の過程で
死体の脳を除去した際、脳を収める金属の皿に弾丸が
ガチャンと音を立てて落ちたと証言しました。
彼によると医療チームは一様に弾丸から目を逸らしたそうです。
国家による追悼
大統領の死のニュースはすぐに伝わり、その日のうちに
おそらくアメリカ全土が半旗を掲揚し、企業や店舗は閉鎖され、
南北戦争の終結に喜んでいた人々は衝撃と悲しみに見舞われました。
4月18日、リンカーンの遺体は国会議事堂に運ばれ、安置台に乗せられました。
3日後、遺体は彼が大統領になる前に住んでいた
イリノイ州のスプリングフィールドに列車で運ばれています。
数万人のアメリカ人が鉄道の路線脇に並び、遺体を乗せた列車を見送って
倒れた指導者に敬意を払いました。
リンカーン大統領は、1862年に腸チフスのためホワイトハウスで亡くなった息子、
ウィリアム・ウォレス(「ウィリー」)とともに葬られました。
ちなみにリンカーンの嫁のメアリー・トッド・リンカーンは憔悴しきっており、
何週間も床から離れず、葬式に出ることもできませんでした。
ここで悲しみに暮れる残された妻を酷評するのもなんですが、このメアリーというのが
経済観念がないうえ嫉妬深く、ヒステリー持ちの結構な悪妻で、
「リンカーンにとって、暗殺より結婚生活の方がずっと悲劇だった」
と言い切る伝記作家もいるというレベルだったのです。
おそらく夫婦仲も冷えていたのではと思われます。
リンカーン夫妻には4人の息子がいましたが、長男を除く3人が若くして死んでおり、
元々精神的に不安定なところがあった彼女は、夫の暗殺を目撃し、
さらに末の息子であるタッドを18歳で無くすと、ますます異常をきたしたため、
長男のロバートにより精神病院に入れられ、息子を恨みながら亡くなりました。
犯人の捜索
ジョン・ウィルクス・ブースの捜索と逮捕
国民が嘆き悲しむなか、北軍はジョン・ウィルクス・ブースの大々的な捜索を
軍を挙げて行いました。
首都から逃げ出した後、彼と共犯者のデビッド・ヘロルドは
アナコスティア川を渡り、メリーランド州南部に向かっています。
ブースの骨折した足を治療するため、まず彼らは医者のサミュエル・マッドの家に立ち寄りました。
(マッドはこのため終身刑となっている)
その後、南軍のエージェント、トーマス・ジョーンズに保護を求め、
その後、ポトマック川を渡ってヴァージニアに向かうボートを確保しました。
4月26日、北軍はついにブースとヘロルドが隠れていた
バージニアの納屋を取り囲み、発砲しました。
ヘロルドは降伏しましたが、ブースはそのまま火のついた小屋に残り、
炎が激しさを増す中、北軍の軍曹がブースの首を撃ち、
ブースは重傷を負った状態で建物から運び出されました。
そして3時間後に亡くなる前、自分の手を見つめ、最後の言葉
“Useless, useless.”(無駄だった)
を発しました。
裁判
このときブースと共謀し国務長官を同時に襲ったルイス・パウエル、
ジョンソン大統領を襲撃をブースに命じられたジョージ・アツェロット、
デイヴィッド・ヘロルド、そして彼らのアジトとされた下宿の女将である
メアリー・スラットの4名は暗殺の罪で有罪判決を受け、
1865年7月7日に絞首刑に処されました。
処刑されたうちの一人の女性、メアリー・スラットは、宿屋を経営していて、
そこがブースらの「溜まり場」になっており、彼女は計画を知っていて
幇助したという罪に問われたのです。
彼女はリンカーンの暗殺については全く知る由もなく、自分は無罪であると
最後まで訴えたにもかかわらず、死刑判決を受けることになりました。
ブースの骨折を治療した医師が終身刑だったにもかかわらず、彼女が死刑になったのは
彼女の宿の下宿人だったルイス・ウェイクマン(ヴァイヒマン)という男が
「医師は彼らとは面識がなかった」
「彼女が暗殺グループのために武器を用意していた」
と証言したのが決め手となったようです。
下宿には何度も南軍のエージェントが出入りしており、現に彼女の酒場には
銃や弾薬が隠してあったこともわかっているので、彼女が「何も知らなかった」
というのはおそらく嘘であろうと思われるのですが、それにしても
実行犯と一緒に絞首刑になるほどの罪でしょうか。
ウェイクマンはメアリーの息子のジョン・スラットの友人でもあったのですが、
この証言については、彼が南軍政府でいい仕事をもらうために
北軍側の証言者という立場から内部情報を流していたのではないか、
という疑惑が裁判中から起こっていました。
しかし、それを証明する手立てがないままにスラットは有罪判決を受けます。
9人の裁判官のうち5名が、彼女が高齢の女性であることを理由に
大統領令で寛大さを求める判決を出したのですが、
アンドリュー・ジョンソン大統領はそれを行いませんでした。
のちにジョンソンは減刑についての嘆願は受けていないと言っています。
これが本当か自分の身を守るための嘘かはわかりません。
なぜならこれは世間の意見が女性に対する死刑に対して厳しくなってからの発言で、
「確かに嘆願を大統領に伝えた」という人の証言も存在するらしいので、
かれがこの件が新大統領の地位に影響があると判断し、保身を行った可能性が大です。
処刑
7月6日、メアリー・スラットは翌日に絞首刑にされると通知され、号泣しました。
収監生活で彼女の体調は悪化し、苦しんでいましたが、二人の司祭と
娘に付き添われ処刑までの時間を過ごす間も、無実を訴え続けていました。
執行日の朝、娘は最後にホワイトハウスに行き助命嘆願しますが、拒否されます。
写真では何人もが傘をさしていますが、この日の処刑場の気温は33°を越す猛烈な暑さでした。
処刑を見守っているのは政府高官、米軍のメンバー、被告人の友人や家族、
公式の目撃者、記者を含む1,000人以上でした。
執行前の判決を読む間、彼女は立っていることができず、
二人の兵士と司祭に体を支えられていました。
この場になって、パウエルが叫びました。
「スラットさんは無実です。彼女は私たちと一緒に死ぬに値しません」
パウエルは裁判でもスラットは無実であることを証言していました。
縄を首にかけている執行係に彼女が拘束具で腕が傷ついたというと、執行係は
"Well, it won't hurt long." (まあ、もう少しで痛くなくなるよ)
と(実にアメリカ人らしい)軽口を叩きました。
彼女の最後の言葉は、
"Please don't let me fall." (突き落とさないで)
でした。
彼女は最後まで命乞いを続けていたのでしょうか。
それとも最後の瞬間くらい自分の意思で死への一歩を選択するという意味だったのでしょうか。
メアリー・スラットは連邦政府によって最初に処刑された女性になりました。
続く。