ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アスぺルンのライオン〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

「ナポレオニックウォー」と英語で訳されるところの、
ウィーン軍事史博物館の展示物をご紹介しています。

 

◼️フランス革命軍航空部隊の航空兵器

フランス革命後、ナポレオンがヨーロッパの覇権獲得のために起こした
一連の戦争を「ナポレオン戦争」といいますが、この博物館には
そのときに用いられた武器なども展示されています。

銃や火砲などはもちろんですが、特に目を引くのがこの気球です。

ところで皆さん、世界で初めて航空部隊を所有したのはどの国で
それはいつのことだったと思われますか?

それは人民革命時のフランスで、発明されたばかりの気球を使う
「compagnie d'aérostiers」(カンパーニュ・ダエロスティー)
という偵察を目的とした航空部隊を所有していたのです。

新しい発明があると、軍事利用によって技術は昇華され、発展していく、
というのは世の常ですが、フランスもまたこの新機軸の気球を自在に操縦し、
意のままに動かして軍利用することを考えました。

そして企画者は、ジャン・マリー・ジョセフ・クーテルという化学者を
プロジェクトのために軍に派遣しますが、軍司令官

ジャン=バティスト・ジュールダン

は、

「オーストリア軍の攻撃が差し迫っている時に
必要なのは気球ではなく大隊である」

これを嘲笑し、導入を拒否しました。

しかしその後、関係者の熱意によって、実験はそれなりの成果を出したため、
1794年、ついにフランスは航空部隊を創設する法律を作るまでにこぎつけ、
化学者クーテルとその助手は、自動的に陸軍将校になりました。

ここでウィーン軍事史博物館所蔵の気球を改めて見てみましょう。

よくまあこんなものが空を飛ぶことができたなという重々しさに満ちているのですが、
これでも一応空に浮かんだのは、炉で発生させた水素を浮力にしたからです。

開発責任者が科学者でなく化学者だったのは、つまりそういうことだったんですね。

さて、というわけでフランス航空隊の航空兵器、気球は完成しました。
いよいよ実戦投入です。

1794年5月、フランスの航空部隊は、かつて気球のプロジェクトを嘲笑した
あのジュールダン司令の部隊に気球とともに合流しました。

現場で水素を発生させる炉を建設し、敵の砲撃の偵察に投入するのです。

ただし合流するまでがもう大変。
気球は20人ばかりの兵士に引かれて50kmほどを陸上移動し、運ばれました。
その様子が絵に残されています。

気球移動中。

左下の横顔のおじさんが、開発者の化学者クーテルさんですね。
今や肩書きは「コマンダン」となっているのにさりげなく注意。

これ、もしかしてというかもしかしなくても、50キロという距離を
こんな感じで運んでいったってことですよね。

しかも、運んでる人、皆走ってませんか?
いつの時代も兵隊は辛いものだのう。

50キロ歩こうと思ったら、平均時速5km/でも10時間。
きっと朝早く出発して着いたのは深夜だったんだろうと思います。

現地に着くと、気球は三日間にわたって上空から敵地を観察しました。

四日目に戦闘が始まると、クーテルと助手は気球に乗って敵地の偵察を行い、
それをメモして地上に落とし、連絡を行いました。

気球の偵察は9時間にわたって続けられたということです。

気球戦闘参加中。

気球は無事に上がり、偵察も首尾よく行うことができて、デビュー成功、
そしてこのフリュリュスの戦いにフランス軍は勝利しました。

しかし、

その勝利が気球のおかげだったかどうかは、微妙なところでした。
具体的に偵察報告がどう戦果に寄与したかどうかの記録がないので、ここは
現場の意見を聞いてみましょう。

ルイ・ベルナール・ギトン(化学者)

「 大変効果はあったと思います。
でも、私ならもっといい気球が作れます」

ジャン・バティスト・ジュールダン(司令官)

「あんなものなくても我が軍は勝てた。
大した効果はなかったし、偵察で役に立った情報もそんなになかった。
最初から私は胡散臭いと思っていたんだ」

ちなみに、ギトンは戦闘が終わってから円筒形の気球Martialを製作し、
航空部隊に与えたが、不安定で使えなかったというオチつきです。

 

航空部隊は、その後本隊とともにベルギーに転戦しましたが、
運用の労力の割に大した活躍はできなかったといわれています。

しかし、航空隊関係者は地道に航空隊の拡張を続け、
補充兵を訓練する学校も組織されるなど、地道に努力を続けました。

 

ところで、ここまでお読みになって、どうしてフランス航空部隊の気球が
ここウィーンにあるのだろう、と思われませんか?

 

1796年9月に行われたヴュルツブルクの戦いで、フランス軍は
オーストリア軍に敗北したのですが、その際、一緒にいた航空部隊も
捕虜になってしまたので、自動的に気球も鹵獲されてしまったのです。

というわけで、この気球mL'Intrépideは、それ以来
ウィーンの軍事史博物館で大事に保存され展示されています。

会場の気球模型の横には、綺麗な状態の気球が畳んで展示されています。

航空隊はその後、1798年にナポレオンのエジプト遠征に参加しましたが、
気球の設備を積んだ輸送船がナイルの戦いで沈んでしまったので、
航空部隊は何かはわかりませんが、別の仕事をしていたということです。

この件で、運用が大変な割に役に立たないという評価が固まったせいか、よく年
気球部隊の解散をさせる法律が作られ、エジプト残存部隊が帰国した3年後、
気球を使った航空偵察部隊は解散することになりました。

 

◼️カストラム・ドロリス

あまりにも展示物が多く、その全てを写真に撮るわけにいかないので、
なんとなく目についたものだけをご紹介しています。

このランプのような髑髏をあしらったものは、説明によると

「カストラム・ドロリス」

という葬祭用の装飾のようなもので、元々は霊廟のように
中央に遺体を安置するものから始まったということです。

「1814年と1815年、ライプチッヒとドレスデンで戦って死んだ者のために」

とあり、ナポレオン軍を迎え撃ったライプチヒの戦いの戦死者を
顕彰して制作されたことがわかります。

 

◼️ナポレオン二世

この右側の絵は流石にナポレオンで間違いないとおもっていましたが、
ドイツ語でも「ナポレオンと息子」と書いてあったので安心?しました。

ナポレオンはウィーンにとって敵、前回そのように書いたわけですが、
平沼首相の言うように欧州情勢の複雑怪奇なところで、ナポレオンの息子は
ハプスブルグ家の血を引いており、敵の息子でありながらオーストリアの皇子。

ナポレオンそのものの彫像や絵画はありませんが、ナポレオン2世のだけは
このように展示があるというわけです。

 

ところで単純な疑問ですが、ナポレオンはなぜ、マリア・テレジアのひ孫にあたる
オーストリアの皇女と結婚したのでしょうか。

その理由は単純で、まず古女房のジョゼフィーヌに子供が生まれなかったこと。
そして、ハプスブルグ家と血縁になって血統に箔をつけたかったからでした。

もちろんハプスブルグ家の方はナポレオンを毛嫌いしていたはずですが、
戦争で勝った勢いでメッテルニヒを味方につけ、彼を仲介にして
ナポレオンはマリー・ルイーズを差し出せと迫ったため、彼女は
泣く泣くかつての敵の嫁になってフランス皇后の座に着いたのでした。

ところが、男女の仲というのはわからないもので、結婚してみれば
この二人、相性が良かったのか、愛し合うようになり、
大変仲の良い夫婦に(いっときとはいえ)なったというのです。

そんな二人に生まれたのが、このナポレオン二世、フランソワでした。

ただし、マリー・ルイーズ、ちゃっかりしているというのか、ナポレオンが
落ち目になってエルバ島に流されてしまうと、あっさり彼を忘れ、ついでに
その息子のフランソワにも、全く関心がなくなってしまいました。

パルマ公国の統治者として再婚し、子供まで作った彼女は、実の息子フランソワが
21歳で結核に罹って死んだときも、周りが頼むまで顔を見にもきませんでした。

一般的にこと終わった恋愛に関しては女性の方が切り替えが早いといいますが、
自分が産んだ子供にも関心がなくなるものかねえ、という気がします。


フランソワ・ボナパルトが亡くなったのは、シェーンブルン宮殿の一室で、
亡骸はウィーンにあるハプスブルグ家の霊廟であるカプツィーナー寺院に
納められていたのですが、1940年になって、ナポレオンに心酔していたヒトラーが、
ゲシュタポを寺院に送り込んでかなり強引に、フランソワの遺体を強奪していきました。

ナポレオンの遺体が亡くなったセントヘレナ島からパリに返還されて
ちょうど100年経ったので、親子を一緒に葬ってやろう、という
ヒトラーの「好意」から出たことで、フランソワはその後も
父の傍らで永遠の眠りについています。

カプツィーナー寺院公式サイト

ちなみに、ウィーンのカプツィーナー寺院は観光名所にもなっています。
今回行けなくて少し残念だったのですが、ほぼなんの知識もなく見るより、
今回ハプスブルグ家についてある程度調べて知識を得てから
見学した方が、ずっと意味があると思うことにしました。

このホールには、シュバーロフのコートと言われる展示があります。

パヴェル・アンドレイエヴィッチ・ シュバロフ
はロシアの外交官です。


絶頂期を極めたナポレオンがマドリードで初めての敗戦をしたのを見て、
オーストリアは巻き返しを図り、抵抗を強めていく一方、
ロシアが封鎖令を破ってイギリスと貿易を始めたので、
ナポレオンは怒ってあのロシア侵攻を決行します。

ロシア軍の司令官は隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフ
老獪な彼は、いまナポレオンと直接戦えば確実に負けると判断したため、
広大な国土ひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧を
すべて焼き払う焦土戦術を取って、フランス軍を疲弊させ、敗退に追い込みます。

それを見たパリではクーデターが起こり、各国はここぞと反ナポレオンに動きました、

ライプツィヒの戦いではナポレオン軍は同盟軍に包囲されて大敗し、
フランスへ逃げ帰ったのです。

しかし、同盟軍がフランス国境を取り囲む大包囲網を築き上げ、
1814年ついにパリ陥落。

ナポレオンは将軍連に反乱を起こされて、結局エルバ島に追放になりました。
このとき、フォンテーヌブローからエルバ島までナポレオンを護衛したのが
このシュバロフ将軍でした。

シュバロフは、ナポレオンが人目につかないようにロシア軍の将校のコートを
彼に着せて、移送を行なったのですが、そのコートがここに展示されています。

 写真を撮り忘れましたが、ここにはウィーン郊外の
アスペルンという街にあるライオン像のオリジナルがあります。

"Löwe von Aspern" (アスペルンのライオン)

と呼ばれているこの像は、ご覧のように横たわるライオンがモチーフなのですが、
このライオンの表情をアップで見てください・

このライオン像は、1809年の5月20日、21日にここで繰り広げられた
"アスペルンの戦い"で亡くなった戦士たちを
追悼するために建造されました。

フェルナン・コルモン005.jpg

破竹のナポレオン軍をオーストリア軍が初めて破った戦いであり、
ナポレオンにとってもフランス皇帝の座に就いて最初の敗北でもあります。
この戦争の指揮を執っていたのが、先日お話ししたあのカール大公でした。

この戦いの戦死者は、たった二日間で4200人という激しいものでした。
負けたフランス軍の死者は5631人に上ります。

このライオン像は、戦争から40年ほど経ってから、カール大公の息子、
アルブレヒト大公が父のために制作を行ったものです。 

このライオンは、一説によるともう生きておらず、戦いに斃れた
亡骸となってなお、このような苦悶の表情を浮かべているのだそうです。


  

続く。