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ハプスブルグ家の皇位継承と男系断絶(2)〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、前回に続き、ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しながら
ハプスブルグ家の皇統問題について語っていきたいと思います。

男子が生まれなかったので、自分の娘であるマリア・テレジアを
実質的なハプスブルグ家の「施政者」にしようとしたカール6世。

念のため、カール6世のwikiを引いてみたところ、こう説明がありました。

「ハプスブルク家最後の男系男子であり、
狭義には同家最後のローマ皇帝である」

カール6世はも血の繋がった娘に神聖ローマ皇帝の地位を譲るために、
自分を最後に男系を断つことを選択したのでした。

しかしこれを、皇帝ではなく一人の父親のしたものと見た場合、
婿となったフランツ・シュテファンのことは息子同然に気に入っており、
さらにフランツは、娘と相思相愛の仲だったわけですから、
この時の選択は公より私を選んだ人間的なものであったと解釈されます。

その後、マリア・テレジアは待望の男児を産み、その子は
のちのヨーゼフ2世となりますが、彼はハプスブルグの血ではなく、
ロートリンゲン家の男系男子として皇帝になったということになります。


◼️オーストリア皇位継承戦争

しかしながら、カール6世の選択は、諸国に反対理由を与え、それがきっかけで
全土に飛び火し8年にわたる戦争に発展することになります。

これがオーストリア皇位継承戦争(1740ー1748)です。


このオーストリアの継承戦争における諸国の反対理由は、
日本で女系天皇も女性天皇も一緒くたにした人たちが声高に叫ぶような、
「女性差別」などではありません。

もちろん、女性に基本的人権はなかったかもしれませんが、そもそも
「人権」などというのは、誰のに限らず、つまみにしたくとも
どこにもない時代です。

ジャン・ジャック・ルソーらの天賦人権説が生まれたのはやっとこの頃で、
この思想はやがてフランス革命に繋がっていくことになります。


諸国の女帝継承への反対理由は、ズバリ、男系が終了するからです。

ただし、それはハプスブルグ家の存続と弥栄を願ってのことなどではなく、
常にすきあらば権益を凌ぎ合う当時のヨーロッパ諸国にとって、
いちゃもんをつけあわよくば国益をかすめるための建前に利用されたのです。

この件を最大に利用して、ハプスブルグ家の弱体を狙ったのがフランスでした。

そして、一歩間違えていたら彼女が結婚していたかもしれないプロイセンの
フリードリッヒ2世は、マリア・テレジアの夫が即位することを認める条件に、
シュレージエン(シレジア)地方のいくつかの領地の割譲を求めてきました。

オーストリア宮廷がもちろんこれを拒否すると、プロイセン軍はバイエルン、
フランス、そしてザクセンなどの支持を準備して、1740年12月16日、
オーストリアの不意を突き、シュレージエンに侵攻を行いました。

マリア・テレジアはフリードリヒ2世の侵略に激怒します。

Friedrich2 jung.jpgフリードリッヒ2世

 

ちなみにこの時マリア・テレジア32歳、フリードリッヒ2世38歳。

前回なぜこの二人の婚姻が実現しなかったか、理由を説明しましたが、
改宗問題とマリア・テレジアに想い人がいたという阻害原因さえなかれば、
この結婚は成立したでしょうか。

答えはナインです。(一応ドイツ語で)

フリードリッヒ二世は若い頃、イギリスの王女と結婚させられそうになって
脱走を図ったことがあるのですが、この時に逃亡を手伝い一緒に逃げたのが
近衛騎兵少尉、ハンス・へルマン・フォン・カッテという人物です。

フリードリッヒ2世の側近であり「親友」でもあったという青年で、
この二人は同性愛であったとも言われています。

つまり、プリンツ・オイゲンに続き?このヨーロッパの武人として名高い
フリードリッヒ二世にも限りなくゲイ疑惑があるのです。

その後も結婚はしましたが、相手の女性には全く関心を示さなかったとか、
ヴォルテールに入れ込んでたとか、部下に膝枕してもらったとか、
目をつけられた部下はお声がかかったらお相手しないといけなかったとか、
本当かどうかはわかりませんが、そんな話はたくさんあったそうです。


ところで、息子の脱走事件に激怒した父フリードリッヒ・ヴォルテール1世は、
カッテ少尉を処刑し、それを見ることをフリードリッヒ二世に強要しました。

「許してくれ、カッテ!」

「私は殿下のために喜んで死にます」

窓から手を伸ばしているのがフリードリッヒ2世です。
その後、彼は父帝の命令で長らく幽閉されていました。

しかし、こんな父子の仲を取り持って、最終的に
息子が父の後継となれるようにしたのは、何を隠そう、
マリア・テレジアの父カール6世だったのです。

要するにマリア・テレジアの父もフリードリッヒ二世が
どういう性癖かよく知っていたことになるので、そんな男と愛娘を
結婚させるつもりは万に一つもなかったに違いありません。


とにかく、そんな二人を首長とする二つの国がぶつかり合うことになったのです。
マリア・テレジアは2万の兵を出兵させますが、結果はプロイセンの圧勝。

バイエルン、フランス、スペインの三国に加え、プロイセン、ザクセンが
同盟を組んで、オーストリアは八方塞がりになってしまいました。 

◼️オーストリア=ハンガリー帝国爆誕

ハンガリー女王マリア・テレジア

そこで彼女がどうしたかというと、ハンガリーに救いを求めたのです。

兵力を出してもらう代わりに自分が女王となって特権を与える、
というのはいまいちよくわからない同盟ですが、とにかくこれで
オーストリアは精強なハンガリー軍の兵力を手に入れることになりました。

そして 特筆すべきは、マリア・テレジアはこの頃、第4子である
カール2世を出産していたということです。 

 

オーストリア継承戦争は1748年のアーヘンの和約によって終結しました。

その結果、オーストリアはハンガリーと組んだのが幸いして、各国に勝利し、
侵攻された土地はすべて奪い返しました。
これによってマリア・テレジアは実質的な神聖ローマ皇帝位も確保したのです。

この時、フランスはここぞと相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やして
オーストリアの弱体化を図ったわけですが、逆に失敗し、それが
フランス革命で自らの滅ぶ遠因を作ることになりました。

イギリスなどもこの戦争において利益を得ることはなく、最終的に
一人勝ち状態だったのが
プロイセンのフリードリヒ2世です。

彼はこの戦争でシェレージエンをオーストリアから奪うことに成功した上、
数々の戦闘で軍事的才能を発揮し「大王」と謳われることになりました。

 

個人的にちょっと好きなので()もう少し書いておくと、フリードリッヒ二世は
哲学者でもあり、ヴォルテールと親しく、哲学書を著したのみならず、
芸術にも秀で、あの音楽家クヴァンツに薫陶を受け、サロンには名だたる音楽家を集め、
バッハ親子とも知り合いで、フルートをプロ並みに吹き、自分の楽しみのために
たくさんのフルート曲などを作曲したという才能の塊のような人物で、
ついでに大変な美食家でもありました。

ちなみに、セバスチャン・バッハの有名な「音楽の捧げ物」という曲集は、
バッハがフリードリッヒ大王に謁見した時にもらった「お題」をもとに
作曲されたものを集めています。

 

 

◼️ ヨーゼフ二世

いわずとしれたマリア・テレジアの長男。
神聖ローマ帝国皇帝です。

ヨーゼフ二世というとわたしが思い出すのが、映画「アマデウス」です。

「ヨーゼフ二世というと思い出すのが、映画「アマデウス」」の画像検索結果

これが似てるんですよね。本物に。 
映画は英語のセリフでしたが、特に皇帝が

「ふん・ふん↑?」

と鼻で返事するのが、なんとも皇帝っぽくて(英語ですが)最高でした。

ヨーゼフ2世とレオポルト2世

衣装はこの絵を参考にして同じデザインで作っていますし、
俳優は絶対この絵に似た人を選んでると思います。

ヨーゼフ二世に対する後世の評価は、

啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした
啓蒙専制君主の代表的人物であった。
その政策と思想はヨーゼフ主義と呼ばれ、その急進的改革ゆえ
「民衆王」「皇帝革命家」「人民皇帝」などのあだ名がある。(wiki)

など、決して悪くありません。

ただ、何がきっかけはわかりませんが、彼はフリードリッヒ2世の熱烈なファンで、
よりによって母親の天敵をヒーローのように崇拝していました。

マリア・テレジアにしたら、これは決して許せないところだったでしょう。



ところで、この大作には、下に一人一人の名前が全て記載されており、
全員が実在の人物であったことを表します。

右からハンガリー軍のアンドラス・ライヒスグラフ・フォン・フタク伯爵
エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン元帥
白馬に乗っているのがヨーゼフ二世
フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー伯爵(元帥)、
フランツ・ヨーゼフ1世リヒテンシュタイン公。

そして、一番左の少年は、のちの神聖ローマ皇帝フランツ2世です。

ヨーゼフ二世にも男子が生まれなかったため、甥にあたる
トスカーナ大公の息子である彼をフィレンツェから呼び寄せ、
後継者として教育していました。

フランツ2世は、のちにオーストリア帝国を再編し、自らを
フランツ1世と改名しております。

彼の業績で特に有名なのが、あの「ウィーン会議」を開いたことであり、
メッテルニヒを採用したことでしょうか。


 

◼️ヨーゼフ二世の命を奪った澳土戦争のマラリア

ヨーゼフ二世の時代、オスマン帝国との間に澳土戦争が起こりました。

オーストリアがなぜ度々トルコと戦争しているかというと、
地図を見ていただければお分かりのように、こ国土が隣り合っていたからなんですね。

この時、最前線のオーストリア軍はマラリアなどの病気に襲われ、
「エピデミック」の様相を呈し、軍の半分が罹患していました。

この時ヨーゼフ2世は戦時中は最前線にいたため病気に罹り、
これがもとで1790年2月20日に死亡しました。

澳土戦争時代に使われていた槍の各種。

軍楽隊の楽器も展示されています。

そしてここに展示されていた絵の一部。
前線になぜ女性や子供がいたのかはわかりませんが、
兵士が銃剣を突きつけているのは間違いなく平民です。

 

◼️ もう一度皇統継承問題

ハプスブルグ家

オーストリアハプスブルグ家の系図を改めてご覧になってください。
神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に始まった家系は、
マリア・テレジアとその夫フランツ1世で途絶えています。

彼ら二人のなした子供たちは、すでにハプスブルグ家の血を弾いておらず、
フランツの家系であるハプスブルグ=ロートリンゲン家に属することになり、

つまり彼らをもってハプスブルグ家は終わり、彼らから新しい家系が始まった

ということが一目でわかるでしょう。

 

最後に。

我が国の皇位継承問題について、特に現行の継承順位に物申す人たちに
ぜひ伺ってみたいことがあります。

現行の制度を改革し、

「男系論者を排除・打倒する」

というのは具体的に何をなさるおつもりなのでしょうか。

マリア・テレジアの時代なら戦争も辞さない不穏さです。
何しろ「打倒」ですから。

たとえそれが言論という手段を意味していたとしても、彼らが好む
まるで階級闘争のような物言いは、少なくともこの問題を論じるに相応しくありません。

政府見解として出されたのに同じく、

「皇室についての議論は静かな環境で行うべきではないか」

 と、わたしは臣民の一人として彼らに提言したいところです。

 

 

続く。