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ハプスブルグ家の皇位継承と男系断絶(1)〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しています。
前回のプリンツ・オイゲンのコーナーでは、そうと知っていたら、
オイゲンの着用していたという鎧などもちゃんと写真に撮ったのですが、
展示の説明がドイツ語の上、外国人には非常に読みにくいフラクトゥール
(亀の甲文字)であるため、概要すら理解しないまま見学し、
記憶の片隅にある知識を呼び起こしながら歩くという体たらくだったので、
写真を撮ったものもごくごく一部ということになります。

ちなみに展示写真は個人使用(ブログもOK)についてのみ許可されております。

その展示から、二回に分けてハプスブルグ家の皇統問題について語ってみます。

 

 ◼️マリア・テレジアが子供を多産した理由

プリンツ・オイゲンの時代(1700年)から進んで、次のホールは
オーストリアの偉大な女帝、マリア・テレジアの特集です。

女帝とその夫、フランツ・シュテファン、そして女帝の手を握っている
男の子が、のちの皇帝ヨーゼフ二世です。

マリア・テレジアについては、20代から40代にかけて、
とにかくお腹が空いている時期の方が少ないというくらい子供を産みまくり、
同時に執政を行なったと前回もここで述べたわけですが、彼女にとって
子作りとは、彼らをヨーロッパ中の王室と婚姻させることで縁戚関係を結び、
それをもって同盟を作り上げるという、「政治活動」だったのです。

この頃は子供を産んでも大人になるまで育つ確率が今より格段に低く、
無事に育ったとしてもいろんな理由でその目的に至らない可能性を鑑み、
いわば執政の一環として、自らの子を産めると言う機能を最大限に活かした、
というようにわたしは解釈していたわけですが、今回、また違う側面から
マリア・テレジアの戦略に止まらないある「願い」が見えてきた気がしました。

今日はそんなことをお話しします。

 

さて、このコーナーは三つのパートに分かれており、

カール6世

マリア・テレジア

ヨーゼフ2世

という三代に亘るハプスブルグ家の時代が俯瞰できます。

 

フランツ・シュテファンと結婚したマリア・テレジア(1708-1765)は、
偉大なる父親カール6世の死後、いわゆるオーストリア継承戦争(1740-1748)
ほとんどすべての隣国から国土を守るという重い任務を負うことになりました。

「マリア・テレジア」の画像検索結果

◼️初恋を実らせた奇跡的な結婚

サービス画像、マリア・テレジア芳紀16歳ごろ(想像)。
しかしのちの女帝は若い頃とんでもない美女ですなあ。
これがいわゆる「お見合い写真」に相当するものであり、肖像画家の
割り増しを差し引いたとしても、美しかったのは間違いありません。

ちなみに女帝の肖像画を見ると、彼女はこの肖像画のようなブルーグリーン、
深い緑がかった青のドレスを選んでいることが多かったようです。
上の家族肖像で着用しているのも、織りにブルーが入っています。

海外のドラマを見ていると、俳優たちが瞳と同じ色の服を着ていることが多く、
それがとてもお洒落に見えて羨ましいのですが、マリア女帝も
残された肖像画から察する限り、深いグリーンの瞳をしていたようです。
 

しかしここで改めて知って驚くのが、あのプリンツ・オイゲンが、
彼女とプロイセンのフリードリッヒ2世を結婚させようとした、という話です。
オイゲンは政治家として皇室の婚姻問題に積極的に関わっていたようですが、
この時の話はこのような理由で流れました。

まず、フリードリッヒ2世は、ハプスブルグ家と結婚するのに必要な
カトリックへの改宗ができなかったこと。

二つ目は「小さなレースル」ことのちのマリア・テレジア女帝は
6歳の時から婚約者となる9歳上のフランツに恋していたこと。

 

彼女の婚姻は当時の王族にはありえない奇跡的な「恋愛結婚」であり、
しかも相手は彼女の初恋の相手であったわけで稀少な例でした。

 

フランツ1世も彼女を憎からず思っている「相思相愛」でしたが、
その結婚生活は、次第に彼にとって面白くないものとなっていきます。

異国のフランスから嫁いで、じゃなくて婿入りしてきたがゆえに、
宮殿の人々にあからさまにバカにされ、無礼や嫌がらせを受けるなど。
公私にわたる屈辱を味わううち、彼はせっせと浮気に精をだすようになります。

女帝の夫としての「公務」である子作りの合間を縫って。

58歳で亡くなったときにもフランツ1世には愛人がいました。
当時のフランス宮廷などでは特に、恋愛というものは夫婦同士でするものではなく、
政略結婚をしておいて、他に愛人を作るのが「粋」という時代だったので、
誰が誰の愛人などという話は公然として皆の知るところとなっていました。

しかし倫理観というのが今日とは全く違うことをさておいても、愛人の正妻が
ハプスブルグ家の血の継承者で国のトップとなれば話はちょっと違ってきます。

案の定、葬式の席で、フランツの愛人であったその夫人は、周りが女帝に忖度して、
誰も近づかず遠巻きにされていたのですが、女帝は自ら近づいて彼女の手を取り、

「わたしたち二人は、お互いにとても大切な人を亡くしてしまいましたのね」

と声をかけました。

女性の施政者には、権力握ったらその力を利用してライバルを惨殺する
呂夫人や西太后みたいなのがいました(西洋にもいますよね)。
その相手が政敵や論敵ではなく「恋敵」であるあたりが権力の濫用です。

彼女はこのとき43歳、まだ若く、夫の浮気には心悩まされていたでしょうし、
相手の女性を憎む気持ちもきっとあったに違いないのですが、
女帝であるが故の誇りと抑制が、嫉妬を遥かに凌駕したのでしょう。

自分の言動がどんな小さなことも歴史に記されるものであることを、
何よりも自覚していなければできることではありません。

夫の亡き後、彼女はドレスを全て女官に与えて自分は死ぬまで喪服で過ごしました。

喪服のマリア・テレジア

◼️男系断絶したハプスブルグ家

ところで、ここからが本稿の本題です。

女帝とよく言われますが、マリア・テレジアは正式には女帝ではありません。
なぜなら当時女性が皇帝になることはできなかったからです。

 

これは今現在、我が国の皇室を巡って巻き起こっている議論と
まさに本質を同じくしている例なのですが、つまりこういうことです。

時の皇帝カール6世は男の子供をもうけることができませんでした。
そこで彼は、娘であるマリア・テレジアに皇位を継がせようと、
生存中に根回しをして、女子の相続を認める国事詔書を発布し、
フランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせようとしたのです。

しかし、やはりそれでも制度上女性が皇帝になることはできないので、
彼女が結婚したフランツ・シュテファンが即位する、ということにしたのでした。

つまり、夫を「お飾りの皇帝」に付け、娘であるマリアを
実質的な施政者にすえようとしたわけです。

これどういう意味かお分かりでしょうか。
カール6世の思惑によって、何が起こったか。

フランツ・シュテファンが皇帝になるということは、ハプスブルグ家は
カール6世が崩御した瞬間、

男系が断絶

して同時に王朝もそこで終了してしまうことを意味します。

 

◼️我が国の皇位継承問題について

ここで大変畏れ多いのですが、今我が日本国の皇室にこのことを置き換えて
ちょっと考えていただきたいと思います。

あくまでも仮定でありフィクションですが、今の日本で天皇陛下が
皇位継承に決定権を持っておられたとしましょう。

その陛下夫妻には皇位継承者の資格を持つ男児は生まれていません。
そこで、何が何でも自分の娘である親王殿下を時期天皇にしたい、
として、天皇陛下御自ら皇位継承の順位を変えてしまわれたとしたら?

カール6世がしようとしたことはそれと同じことでした。
自分の娘を、前例のない女性皇帝の地位に付けようとしたわけです。

カール6世にはカール1世である兄がいましたので、もし彼に男児がいたとしたら、
後継者は文句なくこの男児に決まっていました。

再び畏れながら現代の日本の皇統は幸運にも同じ形による継承者が決まっております。

しかしカール1世には男児は生まれず、自分の娘婿に皇位を継がせることを
「根拠がない」として退けましたから、こちらでも結果男系は断絶していました。

 

カール6世は自分にそのうち男の子ができるだろうと楽観していたそうですが、
年齢的にももうその可能性がないとわかった時、手立てを他に求めず、
安易に自分一人の判断で男系を終了させるという選択をしたことは、
なんというか、非常に見通しが甘かったという他ないでしょう。

現に、根回ししたにも関わらず、カール6世が急死した後、
ヨーロッパ諸国は女性が皇位を継ぐことに猛反対して、全土にわたる

オーストリア皇位継承戦争

が巻き起こる結果となったのですから。


ところで、余談のようですが、ついでにこの件についてもう少し言及すると、
昨今、我が国の皇統問題について、男系の保持を理由に女系天皇に反対する意見を、

「女性差別」

などという理由で「排除」しようとする

側から見ると革新的な自称保守

の方々がいます。
共産党や左派メディアなどがそれを後押ししているということで、
それだけでも「あ・・・察し」なのですが、それらを抜きにしても
どうもこの考えの人たちの言説は、

「男系カルト」「男系論者打倒」「議論を放棄するんじゃないよ」

などと、不必要にアグレッシブで挑発的なのがいただけません。
彼らの論理性にも言わせていただければちょっと問題があって、
あるジャーナリストを自称されている方などは、

「現在の皇位継承順位の変更を前提としなければ、
安定的な皇位継承など望めない」

などと主張しておられ、大変失礼ながらこれには呆れかえりました。

まず、なぜ「皇位継承順位の変更をしなければ皇位継承ができなくなる」のか、
そもそも現行の皇位継承順位に則ることの何が一体それほどの問題なのか、
わたしにはまずこの意味がさっぱりわかりません。

しかも、わたしに言わせればこの一行、前半と後半で見事に矛盾しています。
つまり、仮に彼らが望むような

「皇位継承順位の変更」

が実現すれば、その時点で現在の皇統は途絶え、

「安定的な皇位継承」

とやらは終わりを告げるのです。

女系天皇擁立論はその意味において一種の「革命思想」であり、
目的とするところは体制を打ち倒し、現在の皇室を実質消滅させるとイコールであると
気づいていないのか、それとも気づいた上でやっているのか・・・。



ところで、冒頭の「なぜマリアテレジアが子供をたくさん残したか」
ですが、これは政略結婚のためにその「胤」は多いほうがいいとする
この頃らしい戦略であったのは間違いないところですが、男系が断絶し、
彼女から新しい「王朝」が始まったと知ってこの件をあらためてみると、
こんな可能性もあるのではないかとわたしは思うようになりました。


つまり彼女は、祖となった自分とフランツの子孫、ロートリンゲン家を
せめて後世に末長く伝えるため、父の代で途絶えたハプスブルグ家の轍を踏まぬよう、
出来るだけ多くの命を世に送り出すことを決めたのではなかったでしょうか。

それはまさに、女性である彼女にしかできない方法で。



さて、次回はそのオーストリア皇位継承戦争と、彼女の息子である
ヨーゼフ二世についてお話ししてみたいと思います。
 
 
 
続く。