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「ネルソンの遺髪」と「正気放光」〜第一術科学校 教育参考館展示

2019-04-12 | 博物館・資料館・テーマパーク

またもや江田島第一術科学校見学について書きます。

大講堂の貴賓室に始まり、赤煉瓦の生徒館「モッくんロード」を
通り抜けると、案内コースは教育参考館の前にやってきます。

観桜会でも卒業式でもだいたいそういうコースですが、
一般公開のツァーでも、兵学校同窓会の時でも、生徒館の廊下は
通りぬけることができませんでした。

海軍兵学校の同窓会では赤煉瓦の廊下を通行止めされた
元兵学校生徒たちが、

「同期の桜を見に行こうとしたら止められた」

と文句を言っていて、これを不思議に思っていたのですが、
その時赤煉瓦の一階で候補生の座学が行われていたからだったのです。

というか、中に入れない訳は案内の自衛官から最初に説明されたはずですが、
みんなその頃にはすっかり忘れていたってことなんですね。

この日、普通に卒業前の候補生たちが変わらぬ1日を過ごしていましたが、
授業の時間ではなかったため、わたしたちは廊下を歩き、あまつさえ
候補生たちがさっきまでいた教室を見せてもらったりしました。

そして、教育参考館前の「大和の主砲」前までやってきます。

こちらは「三景艦主砲々弾」とあります。
三景艦というのは日本三景の「松島」「厳島」「橋立」からその名前をとった
「松島」型防護巡洋艦で、日清・日露戦争の頃の軍艦です。

「大和」砲弾の半分くらいしかないように見えますが、これでも
「定遠」「鎮遠」など清国の軍艦を相手にしていた頃には、
圧倒的に大きかったといわれています。

「松島」型の主砲は1門しかありませんでしたが、この
カネー社の「32cm(38口径)砲」を搭載することで
清国艦隊の主力艦を一撃で撃破することができるようになりました。

この砲弾に「三景艦」としか表示がないのは、どの間で使われたか
はっきりしていなかったものかもしれません。

 

さて、そののち当時の一術校長による案内で、教育参考館の見学になりました。
教育参考館内は写真撮影禁止なので、いつも説明ができないのですが、
特に印象に残った展示物について、卒業式の日(一術校副校長の案内による)
要点をメモに残しておきました。

今見ると案の定走り書きした文章は解読不明な箇所が多数ですが(笑)
主なものを書き出してみます。

💮 三人の提督の遺髪

昔は靴を脱いで上がったという大理石の階段の上には、
東郷元帥にまつわる著名なシーンを表した銅の扉があり、その後ろには
東郷元帥、ネルソン提督、山本元帥の遺髪が納められています。

なぜネルソン提督の遺髪がここにあるかも説明を受けました。

1911年に英国でジヨージ5世の戴冠式が行われたとき、
随行していった東郷元帥がネルソンの遺髪入りの額を持ち帰り
海軍兵学校に寄贈して海軍兵学校では生徒の拝観が許されていたのです。


しかし終戦後、その遺髪は進駐軍(連邦国軍)に接収されてしまいます。
イギリスに返されたと日本側は考えていたのですが、そうではなく、
誰がどこに持っていったのか、今でも行方が分からないままだそうです。

それでは今ここにあるネルソン提督の遺髪はどこからきたのかというと、
1981年、当時の海幕長が渡英して英国海軍から贈られ持ち帰ったものです。

それにしてもどうしてイギリス海軍は、一度ならず二度までも
日本の海軍軍人に
ネルソン提督の遺髪をくれたのか。

あまりに気前が良すぎるというか、ネルソンの遺髪ってそんなにいっぱいあるの?
と思わずwikipediaでご本人(の髪の毛の有無)を確認してみました。

42歳、死去5年前のホレーショ・ネルソン

あー、まあこれなら他にも遺髪はたくさん残っていそう。
少々なら他の国にあげてもいいかも。ですね。

 

余談ですが、提督が亡くなったのはご存知トラファルガー海戦でのことです。

当時海戦で戦死した人はすぐさま海軍葬で海に葬っていましたが、
ネルソン提督の場合、この人のおかげでイギリスの海軍力は保っていた、
とまで言われる軍神なので、当時としては異例の措置で、その遺体は
保存のために樽に入れお酒でひたひたにされて持って帰ることになりました。

と こ ろ が (笑)

偉大な提督にあやかろうとした水兵とただ単に酒を飲みたかった水兵が
皆で競って棺から盗み飲みしてしまい、帰国時にはすでに酒は無くなっていました。
酒の種類や棺か樽かについて真偽には諸説あるこの逸話ですが、
遺体の浸かった酒を皆が飲んだことだけは事実だったらしく、
現在でもイギリスではラム酒のことを

「ネルソンの血」

と呼び、たくさんのメーカーが同名で商品を出しています。

Nelson's Blood

 

ちなみに現在、第一術科学校では遺髪室の前に、
内部の遺髪の写真が展示されています。

遺髪室の反対側にも秘密の小部屋があって、ここには
かしこき辺りの方々の軍服等が永久保存されており、遺髪室とともに
基本的には非公開となっています。

海保の卒業式に来訪した安倍首相はやはり中畑一術校長の説明で
実際に遺髪室とその隣の部屋も見学されたと思われます。

 

遺髪室の鋳造された一枚板の扉の正式名は

「東郷元帥記念堂扉」

であり、下絵は東京美術学校助教授の伊原宇三郎が描き、
長崎平和の像を製作した北村西望が彫刻を手がけました。


💮 広瀬中佐の血のついた軍服

今回久しぶりに来てみて、展示室そのものが改装され改装され、
展示もかなり見やすくなっているのに驚きました。
大まかな説明のところには、日本語英語はもちろんのこと、
何と中国語にハングルまであります。

遺髪室のあるホールから展示室に入ると、最初に
小栗忠順、坂本龍馬、西郷従道、勝海舟などの
海軍創建の「立役者」といった人々の写真に始まり、
有名な将官だけでなく、「勇敢なる水兵」の三浦虎次郎などもいます。

中でも大きな扱いをされていたのが広瀬武夫

旅順港閉塞作戦において脱出する際、帰らぬ部下を気遣って船内を探すも
ついに見つからず、脱出するボートに乗り込んだ瞬間、広瀬は被弾。
その体はわずかな肉片を残して四散したといわれます。

ここには、その時ボートの隣にいた武野啓治のシャツが展示されています。
年月を経て、既にうっすらという感じになっていますが、目を凝らすと
広瀬中佐の血のシミの跡が確認できます。

 

前に旅順港閉塞作戦について当ブログで書いたとき、広瀬を失った
報国丸の部下たちが帰還した時の写真を挙げましたが、あの写真で
戦死した二人の棺に囲まれて簀巻きになっていた人がいたでしょう?
あれが武野さんで、この時に着ていたシャツが展示されているのです。

隣で広瀬中佐が爆死し、返り血を浴びたということは、おそらく同時に
本人も骨折するくらいの怪我を負ったのでしょう。

 

それにしても、いかに広瀬中佐が日本人から敬愛されていたとしても、
広瀬コーナーの資料は他と比べてかなり充実しています。

それはそれは広瀬中佐が軍神となった理由と無関係ではないと思います。

兵学校では終戦の報を受けるや進駐軍の手に渡したくない展示物を
あるものは寺などに隠し、書類などは焼却処分しています。

しかし、部下を案じて戦死した広瀬中佐にまつわる資料などは
おそらく連合軍といえど手をつけることはあるまい、と判断し、
写真も遺品も全てが戦前のままに残されたのではないでしょうか。

 

ところでその充実したコーナーには広瀬中佐の写真も多数あるわけですが、
その中で謎なのがブリーフ一枚で拳を握りしめた広瀬の写真です。

当時の日本人、とくにに軍人は全員褌だったはずなんですが、
軍神広瀬、なぜこの時代、わざわざブリーフ一枚で写真を?
そもそも当時こんなのどこで売ってたの?

見れば見るほど謎が深まる写真です。って何の話だ。

 

 

💮 横山大観「正気放光」 

大講堂二階の貴賓室には横山大観の「富士山」がありましたが、
あとで中の方に聞いたところ、レプリカだったそうです。

横山大観 正気放光 

世の中にレプリカはこれほど氾濫しているとわかるわけですが、
第一術科学校教育参考館のものは紛れもない本物です。

東大文化財データベースによると、横山大観は昭和17年10月、
第29回院展に出展していたこの作品を海軍省を通じて海軍兵学校に寄贈しました。

絵を見ていただければわかりますが、「正気放光」は大観の富士山の中でも
とくに大きく、そして画風に横溢するのは一言で言って「厳しさ」です。
富士の手前に太平洋が波打っていますが、富士の後ろに見えている波は、なんと
日本海の荒海なのだとこのときに伺いました。

昭和17年というと、6月のミッドウェー海戦でそれまでの軍事的優勢が逆転し、
夏にはアメリカ軍のガダルカナル上陸を許し、ソロモン海戦によって
それを迎え撃つ兵力の投入にも失敗するなどといった戦況でした。

民間人である横山大観にも、海軍の危機的状況は他の国民と同じく
全く報道を通じても知ることはなかったとは思いますが、それでも
この富士山からは、当時の日本の置かれた厳しい局面が反映されている気がします。

そのような時こそ、「正気」=国民の気を一つにするべき、という気持ちで
大観はこの絵をわざわざ兵学校に寄贈したのかもしれません。

ちなみに「正気放光」の英語名は「Japan、 The Shining」となっていました。

このときの説明によると、横山大観の絵は1号が1億円するそうですが、
「正気放光」は125号の大きさだそうです。

 売却されることは未来永劫ないので、値段などいうだけ野暮というものでしょうが。


💮 藤田嗣治の戦争画

「正気放光」のある一角には、その他兵学校時代からの所有である、
藤田嗣治の「漢口突入」という戦争画もあります。

戦前、エコール・ド・パリの代表的な画家で、モンパルナスに住み、
独特の乳白色の肌の女性を描き(絵の具に日本製の天花粉を入れていた)、
パリ画壇の寵児とまでいわれた藤田が、戦争中は画家として派遣され、
戦争画家として日本では多くの作品を残しているのですが、その一つがここにあります。

ところで巷間言われる、

「藤田嗣治が戦後パリに行き帰ってこなかったのは、戦争画家だったことを
『軍に協力した』と責められ、日本が嫌になったから」

という説を確かめるため、昔読んだ

菊畑茂久馬著「フジタよ眠れ〜絵描きと戦争」

によると、昭和20年10月、終戦後2ヶ月の段階で、あの朝日新聞は、

「藤田、猪熊、鶴田吾郎、彼らが陸軍美術協会を牛耳り、
戦争中ファシズムに便乗した人たち」

「芸術至上の孤塁を守って戦争画を描かなかった画家たちを
非国民呼ばわりしたのは誰たちであったか」

「自分の芸術素質を曲げて、通俗アカデミズムに堕し、軍部に阿諛(あゆ、
へつらうこと)し、材料その他でうまい汁を吸った茶坊主は誰だったのだ」

いう痛烈な宮田重雄の言説を掲載しています。
これに対し藤田は、

「画家は自由愛好者で軍国主義であろうはずは断じてない」

「国民としての義務を遂行したまで」

などと反論しました。
一方勝った方のアメリカの占領軍関係者は、この騒ぎに対し、

「どこの国でも芸術家が国家に協力するのは当たり前」

と切って捨てたそうですが、戦後の「軍国パージ」を行ったのは
むしろこれを利用したい日本人だったということを証明するかのように、
朝日新聞は藤田、そして横山大観を含む「戦争協力画家」たちを

「軍部と手を結んで意識的に戦争熱を駆り立てた」

と昭和21年に紙面で臆面もなく糾弾しました。

横山大観は実際の絵の寄贈以外にも、帝国陸軍に

「大観号(愛國445号)」

という97式爆撃機を献納したこともあったため、戦後は戦犯容疑で
GHQから取り調べを受けたそうですし、(勿論不問となっている)
藤田も訴追を恐れてか戦後は自分の作品をかなりの数処分しています。

(ちなみに『大観号』を検索すると、献呈式に参加する大観とパイロット、
『愛国445号』の写真を見ることができますが、それを無断引用しているのは
どれもこれも『戦犯大観』と口汚く罵るサイトばかりで悲しくなってしまいます)


戦後のある日、藤田嗣治は新たな日本美術会創立メンバーとなった
かつての「戦争画家」、内田巌の訪問を受けました。

藤田と仲の良かった内田はこう言い放ったそうです。

「あなたを戦争犯罪画家に指名しました。
今後美術界での活躍は自粛されたい」

晩年の藤田が

「わたしは日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」

と言ったわけが内田の一言に凝縮されていますね。


こういうのを見ると、戦争中の「権力と芸術家の蜜月状態」と、戦後の
「権力者
GHQと東京裁判史観あるいは平和思想への阿り」(とあえて言う)
とは敗戦を境として表裏一体全く同じ形をしているような気がします。

あたかも双頭を正反対に向けて立つヤーヌス神のように。


しかしながら、戦後、江田島から一時市内の某所に避難させて没収の難を逃れ、
ほとぼりが冷めてからここ江田島に帰ってきたという「正気放光」は、
そんな人の世の芥のようなしがらみなどまるで受け付けぬように、
教育参考館の一隅で、変わらぬ凛とした光を放っています。

 

続く。