ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

習志野駐屯地・空挺館~「空の神兵」

2014-02-01 | 陸軍

空挺館の「空の神兵」についてまず書こうとしたところ、
いきなり「陸海軍読売遊園対決」という、エリス中尉好みのネタを掘り当ててしまい、
つい順序が後になってしまいましたが、今日は王道の「空の神兵」についてです。

ところでいきなり余談です。

空挺館初回で、「降下塔と跳出塔を見たい」と書いたのですが、検索の段階で、
習志野駐屯地の夏祭りに行けば、降下塔広場にお店が並び、
自衛隊員手作りの焼きそばを食べながら施設見放題、ということが分かりました。
ただし、例年夏祭りは8月第一週頃。
まずそのころ日本にいないわたしには当分無理なイベントです。

それにしても、写真を見て「跳躍塔」とやらが飛行機から飛び出すための訓練施設で、
見たところビルの三階位の高さは裕にありそうなのにびびりました。
下にクッションとか敷くんでしょうけど、生身で飛び降りるんでしょうか?


昔の空挺団の映画によると、跳出塔の下は砂地で、せいぜい(といっても高いけど)
2メートルくらいの高さから姿勢を正しく飛び出す訓練をしていましたが、
クッションの素材の開発に伴って跳び出し訓練の高さも上がっていた、ってことなんでしょうか。


さて、冒頭写真は空挺館の階段踊り場にある「空挺隊員の像」です。



だれの作品なのか、いつ作られたのか、どこを探しても見つからないのですが、
実際はとても小さなものです。
入り口にある「空の神兵の像」がポーズといい雰囲気といい勇ましいのに比べ、
この像は落下傘の器具を付けた降下兵は小さいでなく、
おそらく航空機のシートに座って降下の瞬間(とき)を待っているにしては
あまりにも穏やかな、まるで仏像のような佇まいをしています。

この像を作った作家の名と、なぜこのような像を造ったのかを知りたい・・。

 

空挺館一階の階段下部分には、こんな模型がありました。
これはどうやら旧軍の挺進連隊時代の訓練設備を、
空挺団OBなどが模型にして寄贈したのではないかと思われます。

4つまでの落下傘が降下きる塔に・・・、

 

映画で観た跳出塔。
そして・・



あれ?

今習志野駐屯地にあるのと同じ高さの跳び出し塔がある。 
ということは、クッションを敷いて飛び降りるためのものではなさそうです。

そこでよく見ると、この模型には日の丸のはちまきを付けたキューピーさんが、
なにやら紐を付けていまにも跳ぶ姿勢ですね。

・・・・・いや、 これがキューピーの基本姿勢なんですが、それはともかく、
紐を付けて飛び降りる?

バンジージャンプなら分からないでもないけど、1941年当時、バンジーに使えるような
弾力性のある素材はなかったはずだし・・・。

この疑問にたまたま(というかこのために)観たDVDが答えてくれました。

空挺団の訓練で、腰に紐を付けてこの跳出塔から隊員が 飛び降りると同時に
そのロープの端が二股につながれており、二方向から他の隊員たちが引っ張る、
というものをやっていたのです。

下にはクッションも網も何も敷かれていませんから、もし隊員たちが縄を放したら、
両手両足を開いて空中に跳び出した者は確実に地面に激突して死亡です。

事故のないようにロープを二本に分かっているのでしょうが、
跳び出す方はかなり最初は度胸が要るものだと思われます。


 

おそらく戦時中に描かれた戦争画の一つでしょう。
なんだか銃はさっき空挺団の訓練で見たのに似ているぞ。
挺進隊の銃は分解可能な二式小銃だと思っていたのですが、
ここでは九九式軽機銃を使っているようですね。

陸軍挺進隊の武装は、この九九式と、重機関銃では92式が基本でした。



官品の降下用帽子。
鉄兜では降下するのに重過ぎる、しかし降下後戦闘行動があるので防御性も必要である。
という観点から制作された革製の降下帽。
ラグビーボールのような縫い目で、なかなか凝っています。
今なら日本製・ハンドメイド・天然皮革で超高級品ですね。

この降下帽が最初に支給されたときの様子が、映画「空の神兵」にありました。

多分「やらせ」だと思うのですが、訓練のあと練習生が休憩室で
思い思いに過ごしているとき、

「降下服一式支給」

の号令がかかります。
この兵隊はそれまで髪を刈ってもらっていたので、肩にケープをかけていますが、
さっそく貰ったばかりの降下帽をかぶり、それまで使っていた鏡を覗き込み、
皆には

「おお、よく映るぞ」

と声をかけられています。
展示してある降下帽には耳当てもついているのですが、折り込んでいるので見えません。



「模範的な跳び出し」

飛行機を模した跳出口から跳び出す訓練。
降下の際の「よい姿勢」の見本は

「くの字状になるまで背をそらし、足はまっすぐ」 

であることがわかります。
現在の空挺においてもこれは踏襲されているのでしょうか。
それとも、これはこのころの落下傘の仕様に則した、
「もっとも事故の少ない」
跳び出し方なのでしょうか。



「空の神兵」より。

高さはやはり2メートルというところでしょうか。
見ていると簡単そうですが、二メートルの高さから全く下を見ずに跳ぶ、
というのはなかなか最初は怖いことのように思われます。 

 

旧陸軍空挺部隊に使用されていた落下傘の装具一式が展示されていました。

落下傘にも制式名がついていて、一式落下傘といいます。
予備傘がついていて、これで高い安全性を誇りました。

落下傘の操作は、肩に吊り帯が二本着いており、
これを操作して落下傘を操縦したり進行方向を変更しました。

この習志野駐屯地の地図を先日上げたときに、
敷地内に「落下傘整備場」があって、どうやら自衛隊では、
傘のメンテナンスや調整は専門の部署が行なうことになっているらしい、
と書いたのですが、映画「空の神兵」でも描かれていたように、
当時の落下傘兵は、一人一つ、自分の落下傘を与えられ、
それを自分で包装(たたむことをこういうらしい)したのだそうです。



傘を揃えるのにきっちりと定規を使ったり・・・



吊索は確実に絡まずにほどけるように、細心の注意を払って包装しています。


こういう話を聞くとつい考えるのですが、
飛行機の事故における整備のように、もし空挺団で落下傘の事故が起きた場合、
やはり傘の調整をする部署は原因がどうあれ責任を感じるのではないでしょうか。

割と最近、フリーフォールの訓練で傘が開かなかったという事故があったようですが、
これもなぜ予備傘までが開かなかったのか、などと考えると、
傘の整備調整に果たして不備はなかったのか、と整備する部署(部隊?)では
きっと気が気ではなかったでしょう。

その点旧軍は兵士一人に負担も責任も負わせていたということで、
良くも悪くも自己責任、で終わってしまっているあたりが凄い。

しかも、この傘、やはり開発当初の欠陥もいろいろとあったようです。

一式落下傘は、輸送機から跳び出すと真っ先に傘が開く、

「傘体優先方式」

だったため、傘が開いたときに受ける衝撃が大きく、また、後から放出される紐、
吊索(ちょうさく)が人体に絡まり、訓練中に死亡事故が起きました。

「空の神兵」より

これは最初の訓練生の降下訓練ですが、この写真を見ると、
背中からはまず真っ先に落下傘本体が出て来ていることがわかります。
この映画の頃はまだ傘は開発前で、事故も起こっていた頃だと思われます。

この事故は、2009年に自衛隊第一空挺団で起こったものそのままです。
死亡した隊員はヘリから飛び出した際、
ロープが首に巻き付いて宙づりになってしまっています。

ロープの端はヘリに固定されており、通常は飛び出した際の重みで傘が開き、
ロープもヘリから外れる仕組みであるはずなのですが・・・。

いずれにせよこの事故の原因は「先に傘が開いたこと」ではなく、なぜか
自動索が切り離されなかったことにあります。

現代の科学技術によって安全性を考慮された落下傘でもこんな事故が起こるのですから、
もしかしたら、黎明期の挺進部隊ではこのためかなりの殉職者を出したのかもしれません。

いずれにせよこの死亡事故を受けて、傘の開発は重ねられました。

 

それがこの図の「吊索優先方式」です。
最初に傘ではなく吊索が引き出されることによって、 
体に索が絡まる可能性を減らしたものです。



この落下傘を作っていたのは女性たちでした。

女子報国勤労隊と呼ばれる彼女らは、製造を一手に請け負った藤倉航空工業で、
24時間ノンストップ体制による作業による落下傘製造に携わっていました。

この藤倉工業という会社は昭和14年に創立されたばかりで、
翌年の15年に、陸軍からの依頼で落下傘の大量生産を始めました。
戦後は民需品の生産に転換していましたが、昭和26年からまた落下傘生産を再開。
現在はその名を「藤倉航装株式会社」として、第一空挺団の使用している
696MI(フランスのエアルーズ社のライセンス生産)、60式空挺傘(ろくまるしきくうていさん)
はいずれもこの会社によるものです。


さて、昭和17年3月、パレンバン空挺作戦が大成功を収め、世間は彼らを
「空の神兵」と讃えました。 
そのニュースを見て、ある意味一番驚いたのは、藤倉航空工業で連日連夜、
パラシュートの製作にあたった女子報国勤労隊の女性たちだったにちがいありません。

何しろ、彼女らは、自分たちが作っていたものが南方作戦でこのように使用された、
ということを、そのニュースを見て初めて知ったのですから。

 



 


映画「燃ゆる大空」~陸軍航空機総出演

2013-12-16 | 陸軍

この映画は、皇紀2600年記念に陸軍省が協賛して制作したため、
陸軍航空部の全面協力により、陸軍機がこれでもかと出てきます。

主人公の少年飛行兵の訓練シーンから、次々とそれが現れるのですが、
今日は登場した飛行機を紹介しながらストーリーを進めていきましょう。

 

訓練がどのように行われるか、整列からシーンは始まります。



まず、訓練性の点呼と、本日の訓練目標の確認。



とても少年飛行兵に見えない一番機、行本生徒。
こりゃーどう見ても大尉の貫禄です。



一斉に編隊を組んで飛び立つのは、

九五式一型練習機

練習機としての性能の高さを評価され、飛行学校で広く使用されていた
陸軍の主力練習機です。
骨組みは主翼に木材、胴体に金属を使い、羽布張りの外皮を持ちます。

 

白黒なのでわかりにくいですが、実は色は赤。
「赤とんぼ」という名称で呼ばれていました。
米軍のコードネームは「スプルース」。
もみの木のことで、前にも一度書きましたが、米軍は練習機全般に木の名前を付けていました。
「立ったまま」つまり攻撃してこない、という意味ではないかと推測してみたのですが、
本当のところはわかりません。

しかし、大戦末期に250キロ爆弾を搭載した九五式で特攻が行われたこともあり、
これを「赤とんぼ特攻」と言います。

 

キ1九三式重爆撃機

飛行訓練のシーンですから、爆撃機も練習機が登場。
この九三式は、ユンカースK−37双発軽爆撃機をモデルに作られました。
その特徴は外板が波型であることで、これはユンカースと同じです。
日中戦争で初陣を迎えましたが、エンジントラブルが多く、また出力が少ないので、
双発機にもかかわらずいざとなると片舷飛行が出来ないなどの問題多発のため、
実戦部隊からは大変評判が悪かったそうです。

それもこれも、新型爆撃機導入が急務だったことから、飛行審査で指摘された
問題点を解決しないまま実用に踏み切ったからだということです。

急がば回れを絵に描いたような教訓ですね。

ちなみに、この重爆撃機には、歌手の灰田克彦演じる佐藤生徒が乗務しています。




上級練習機として登場した

九一式戦闘機

陸軍初の国産戦闘機で、中島、川崎、三菱、石川島の4社に競合させ、
その結果中島の試作機が採用されたものです。
複葉機甲式四型戦闘機の後継機として、フランス人技師を招聘して設計されました。

採用されたのが満州事変の最中で、しかも参戦してすぐに停戦になってしまい、
敵機との交戦記録はなく、「実戦未参加」扱いとなっています。

この機体はたった一機が現存しており、それは現在所沢航空発祥記念館に展示されています。
なお、この機体は航空遺産一号機指定となっているそうです。



速度、運動性能、操縦性すべてがバランスがとれていたそうで、
これといった性能の証明をせず消えてしまったのは残念というか。




訓練後講評する飛行学校教官の山本大尉。(大日向伝)
一人一人に注意点を指示します。

とつとつとした演技が、やたら本物らしい。



講評の後は、機銃掃射演習。



曳航機に引かせた射的を狙います。
これがまた本物っぽい、と思ったら、九七戦のコクピットに実際にカメラを据えたのだとか。
これすなわち、パイロットの視線でもあると思えば実に感慨深いシーンです。



このシーンは思わず食い入るように見てしまったんですが、海の上に
座布団のような浮かぶ射撃の的が三枚あり、それを狙って機銃掃射する九七戦を、
真後ろから追いかけて掃射の瞬間を何度も撮影しています。
そして、最後にはカメラを設置した機が銃撃。

カメラにアガッてしまって失敗した射撃のフィルムは採用されなかっただけかもしれませんが、
百発百中です。


さて、この訓練が終わった後、山本大尉がいきなり、

「近頃お前たちの訓練を見ておると、熱意と信念が欠如しておる。
焦燥の様子が見える」

と説教をします。
まったく真面目に百発百中の射撃訓練をしているのに、どのあたりが焦燥なのか、
話がすっ飛んでいてわからないのですが、この理由は後に判明します。
ともかくもこのお説教が、

「人間が立派に死ぬということは立派に生きるということだ。
これこそ日本武士道の精神であり、宗教で言う生死一如の信念である。
その精神が神の心である」

という訓示につながる訳です。
そして最後に 

(精神の動揺に直面したときには)
「謹んで御勅諭を拝誦し、日本武士道の精神を高揚するように」

と、つまり物語のラストシーンの伏線ともなる台詞が出てきます。



そしてあっという間に二年が経ちました。
この字幕が絵画の上に書かれているのがなんとも時代を感じさせます。

 

中国戦線の仁礼部隊に山本大尉が到着しました。

着任の挨拶のため大股で司令室に向かう山本大尉。
皮の長靴に陸軍マントをなびかせて颯爽と登場です。



着任の報告を受ける部隊長。

高田稔が演じています。
1953年の映画「戦艦大和」では、伊藤整一中将を演じていましたし、
「潜水艦イー57浮上せず」「明治天皇と日露大戦争」(山県有朋役)
若大将シリーズにも出演した大物俳優です。

2~3シーンしか出番がないのにこんな大物を使うとは、さすが陸軍協賛作品。



山本大尉は今や一人前となって前線で戦っている元教え子たちと再会します。
しかし、早くも元教え子の一人、田中生徒は戦死してしまっていました。


「教官殿がきたら鬼に金棒だな!」
「明日から気合い入れてやろうぜ!」

と、元教官を迎えてやる気を出す飛行兵たち。

 



九七式中爆撃機

佐藤生徒、いやすでに兵曹長となった佐藤が乗っています。


この九七重は、完成度が低かった九三式重爆の後継機として開発されました。
三菱製で、米軍コードネームは「サリー」。

その日高性能から日中戦争時には各爆撃隊に配備され活躍しました。
大東亜戦争初中期までは陸軍の主力重爆でした。






九七式戦闘機


陸軍最初の低翼単葉戦闘機。
海軍の九六式艦上戦闘機を手本にして中島飛行機が開発しました。
軽量化と抵抗現象を徹底した結果、本家九六戦をしのぐほどの運動性能を獲得し、
海軍の搭乗員にはしばしば羨ましがられたほど。
特に水平面での格闘戦では能力を発揮したと言われています。

日中戦争時の陸軍主力戦闘機として、多くの戦闘隊で活躍しました。
ちなみに、この飛行機が競合試作の結果中島飛行機に決まったことで、
以降「海軍三菱、陸軍中島」の緒となったとも言われています。
この映画には本物の整備員も出演しています。(上写真)



この映画のタイトルロールには円谷英二の名前があり、特撮が採用されているはずなのですが、
実際には実機が多く使用されていて、一体どこに特撮が?と思ったら、このシーンでした。
この上画像は模型じゃないんですが、この一連の空戦シーンはどうやら実機と特撮の混合だったようです。


しかし、特撮がうまいせいか、そもそも画質そのものがあまりよくないせいか(笑)
実写の多いこの映画に挿入しても違和感がないというか、
何となく見ていると本物だと思ってしまう程度によく出来ています。

これは、最初のヤマ場である、中国軍の地上部隊を攻撃したあと、
燃料漏れで山村(ヘンリー大川)の飛行機が不時着するシーンです。



油を頭からかぶって不時着させた飛行機を呆然と眺めていると・・・



銃声が聞こえて思わず地面に伏せる山村。
びびっていると、戦友の行本が戦闘機を着陸させて救助にやってきます。
 




銃声の中、二人で地面を這いずりながら近づいて、
伏せている間地面に置いていた煙草を拾って二人で回し飲みします。
ここ、何でもないシーンなんですけど、ぐっときました。

かれらにとってのタバコというのは、特別な意味を持っているのだなあと。

 

せっかく描いたのでいじましくもう一度出してくるタイトル画。
実は、一番印象に残ったのがこのシーンでした。 



飛行機を置いていかねばならない二人、
焼却処分することにして、機体を銃で撃ち燃料を撒いてから、
翼の下に火をつけて戦闘機を燃やします。



「地獄の一丁目からかえってきた顔を見せてくれ!」

そういわれて照れる山村。
生きて帰ってきた彼のために急遽部隊では祝賀会が開かれました。

「ああ、今夜は愉快だった」

そんなことをいいながら星空の下、腕を組んで夜道を歩く三人。
ところが!

「よし、もういい、もうここまでで送らんでいい」
「大丈夫か貴様」
「佐藤は絶対大丈夫だ。絶対不時着はしやせんぞ」

うわああああ、なにこの思いっきり不吉なセリフ。
なぜここで不時着した山川じゃなくて佐藤が?




夜道を歩きながら美声で(灰田克彦ですから)、

「夕空晴れて秋風吹き~」

と「故郷の空」を歌いながら歩いていく佐藤。
笑いながらそれを見送る山村と行本。

これは、あまりにもわかりやすい戦死フラグではありませんか。




続きます。 

 


市谷・防衛省ツァー~旧便殿の間と恩賜の銀時計

2013-04-08 | 陸軍

この建物はかつてはA棟庁舎のところにあり、
「一号館」と称していました。
極東国際軍事裁判が行われたため「負の遺産」
であることから取り壊しを求める声や、逆にだからこそ
保存を求める声が右から左から喧しかったそうです。

ごもっとも。

どちらの意見も尊重した、というところかもしれませんが、
歴史的な意味のある部分だけを資料館として残し、
コンパクトに作り変えたというわけです。



わたしのような「現物主義」には、
このような「作り直されたもの」を見ても、
心底感動できないのも事実。
例えば三島事件の現場なども窓の桟やドアはそのままでも
後は壁も天井も新たに作ったものですからね。



まあ愚痴はほどほどにして。
これは前にもお見せした「大本営表札」。

三島事件の現場とドアを通じてつながっている部屋が
かつて天皇陛下の休憩所であった

旧便殿の間

この「旧」というのがいつからついた名前なのか
いまいち不明です。
昔は「便殿の間」と称していたということでしょうか。

因みに三島事件の現場になったのは、
旧陸軍大臣室で、事件の10年前からここに置かれていた
東部方面総監部の総監室でした。

総監室で総監を人質に取り、一号館の前に自衛官を集めさせ、
総監室からすぐに出られるバルコニーから彼らに語りかける。

今にして思うとこの計画はいろんな意味でビジュアル的にも、
機能的にも完璧だったのではないでしょうか。

ここまでは。

三島がマイクを用意せず、自衛官のヤジとヘリの音に
その声をかき消されて、全く言いたいことが伝わらなかった、
というあたりから「計画失敗」の感は拭えません。

前も言ったようにサラリーマン的に「専守防衛」が身についていた
自衛隊員がそもそも蹶起する可能性はなかった、
という最大の「計算違い」は仕方がないこととしても、
事件後の自衛官へのアンケートではほとんどが
「三島の意見には賛同できる」と答えたと言いますから、
もう少し計画を最後まで詰めて実行していたら、
少しくらいは結果が変わっていたのではないかと思います。

三島はどちらにしてもその日の朝、車の中で

「あと数時間で死ぬなんて信じられない」

と言ったとされ、自衛官たちの反応がどうであったとしても
切腹による自決という幕切れに変わりはなかったと思いますが。



さてそれはともかく、その隣の部屋、旧便殿の間。
ドアは外開きです。
天皇陛下専用の休憩室だったので、

「陛下が客を迎えることは決してない」

という理由から、ドアは外向き。
そういえばこういうドアは大抵内向きでしたね。



ガイドさん

「ドア上部の網の小窓をご覧くださいませ。
この部屋の壁は非常に分厚くなっていますが、
実はそこは空洞になっていて、地下の冷たい風を送り込み、
この小窓から冷気を出して部屋を涼しくしていました」

クーラーなど無い時代の心遣いです。



窓の桟は材質が紫檀でしょうか。
つやつやとまことに美しい艶を今でも放っています。

この窓の角近く、上部に小さな四角い網が見えますね?
これもまた地下からの冷気を出していた「空気穴」。

すごい省エネ工法です。
全ての家がこのような「地下冷気冷房」を採用したら、
クーラーの排熱は減り、電気の使用量はだだ下がり!

これからの住宅メーカーはこんな工夫もしてみては?



鏡の下はヒーター。
当時最新式のセントラルヒーティングだと思われます。

女性が写っていますが、足元を見てお分かりのように
この記念館は土足厳禁。
皆入り口でスリッパに履き替えます。



光ってしまってちゃんと撮れませんでしたが、
この部屋に掛けてある

「陸軍大演習の全員写真」

ガラス乾板写真だ、と聞いた気がします。
特に高画質の写真を要求されたため、
ネガを原寸大に焼き付けたとかなんとか。

というわけで、一番後ろにいる人も
「完璧に顔がはっきりと写っている」のだとか。
海軍兵学校の入学写真に是非もこれを採用してほしかったです。

そして、並び方ですが、写真の隅から隅までびっちりと、
真四角になるように人が並んでいるでしょう?
これは、実際は後ろに行くほど人数が多い「扇形」
に整列して撮っているのだそうです。



特別ゲストらしい海軍軍人がところどころ見えますね。
カメラは特別に設置された高い台から撮影していますが、
全員視線はカメラではなく真正面に向けられています。



山本五十六発見。
緑色の光はガイドさんの持っているレーザーポインター。

「演習に参加した士官が全員写っています」

という説明に横にいた年配の方が

「じゃ、下っ端の軍人も写ってるんだ・・・・ええと少佐じゃなくて」
「少尉ですね」

これはエリス中尉。

反射的に隣から口を出してしまいました。(てへっ)
えっ、と驚いたような顔で顔を見直されました。

それより、昨今ではこんな年配の人でも
軍隊の階級のことなど全く知らない人がいるんですね。

(と自分の数年前のことを棚に上げるエリス中尉である)




おお、これは。

これが噂の恩師の銀時計

陸士で主席次席の二人に与えられる優等賞です。

明治時代から日本では、帝国大学、学習院、商船学校、
陸軍士官学校や陸軍騎兵学校等軍学校において、
各学部の成績優秀者(首席と次席)に対して、
天皇からの褒章として銀時計が授与されました。
元々は陸士などの軍学校がこの制度の発祥だそうです。

裏返せばこの時計には「恩賜」と刻まれています。

成績優秀者に贈られるものは銀時計だけではなく、
海軍兵学校では恩賜の短剣でしたし、
陸士陸大も「恩賜の軍刀」が授与されました。

初期の陸大では「恩賜の望遠鏡」だった時代もあったそうです。
(ツァイス製かしら)

貰えた者は「将来の栄達」が約束されたということで、
これらの授与者を「恩賜組」と称しました。

でも、「ハンモックナンバー」でもお話ししたように、
陸軍海軍問わず恩賜組が必ず順調に出世するわけでもないらしい、
というのもまた人の世の現実です。



さて、いろいろ見たものについてお話ししてきましたが、
防衛庁の見学記、最終回としてあと一回、
ちょっとした雑感などを挙げたいと思います。


 


 


市谷・防衛省ツアー~南郷少佐と戦時の英雄たち

2013-04-03 | 陸軍




市谷の防衛省ツアー、記念館の展示についてもう少し。

これは南郷茂男像。
金属供出の嵐が日本中を吹き荒れたときも、
この銅像はどうやら接収を免れたようですね。
胸像としては物凄く大きいので「接収し甲斐があった」
と思うのですが、陸軍としては「これだけは」という思い入れで
どこかに隠していたのかもしれません。

さて、この南郷さん。
「日本軍史上初、兄弟そろってのエースパイロット」
とウィキペディアには説明してあります。
これが茂男なのかお兄さんの茂章なのか、
写真をちゃんと撮らなかったので確認していませんが(←)
飛行服が陸軍のだからたぶん茂男さんだと思います。

それにしても、兄弟がそろって陸と海のパイロット、
しかもどちらも航空隊で図抜けた技量を持っていたという・・・。

やはりこういうのは「才能」「素質」がものを言うのでしょうか。

お兄さんの茂章さんは1938年中国戦線で、
弟さんは1944年1月、ニューギニアでそれぞれ戦死しています。



軍服も本物が。

一番右はネイビーカラーですが、これは
陸軍中将の制服です。
袖の詩集が特殊なので、おそらく皇族用ではないかと。
(これも未確認)



終戦に際し自決した阿南陸相の軍服。



陸軍マント。
フードがお洒落です。
やっぱり軍人さんのマントは陸海問わずよろしおすなあ。
このマントからブーツがすっと伸びて。

ああ、そうだ。

陸軍は、ブーツが「萌え」ポイントなんですよね。
栗林中将も、あのバロン西も。
スタイルの良さがいっそうブーツ姿を際立たせていました。



ロシアのお金。



秦中将とは関東軍参謀秦彦三郎
ロシア通として知られ、ロシア語を堪能に繰りました。
終戦時は瀬島龍三(どこかで聞いたなこの名前)とともに、
極東ソ連軍総司令官と停戦交渉に当たりました。

どうも上のロシア貨幣も秦中佐の私物であった模様。



戦闘で働きを上げて亡くなった少尉をこのように顕彰しています。
この新聞記事の内容を少し読んでみると、加藤少尉は24歳、
長城戦つまり中国戦線で戦死した小隊長で、
その戦死の模様を戦友が新聞記者に語っています。

「あゝ なんと気高い心構えであろう。
自身は一兵でも多くを欲するときでありながら、
隊の兵力の不足を憂い、健在者六名を復帰せしめた
少尉の崇高な決意に誰か泣かぬものがあろうか。
隊長も機関銃隊長も敵弾熾烈の元で鍔を上げて泣いた」

「隊長は『加藤よ、甘んじて隊のために死んでくれ。
今一押しだ。君の努力で敵はもう浮足立ったようだ』
と傍に居る人に言った」

「血染めの地図を示しながら
『お前は戻って○隊長は生存者六名とともに山上を死守する、
敵は約300名だと報告せよと命じられました』
と涙にむせびながら戦況を報告した。
誰一人声を発するものは無い。
上等兵は遂に耐え切れず『アッ』と泣き伏してしまった」

「加藤少尉以下の壮烈無比なる戦死は皇軍の光彩として
戦史に永久に残るであろう」


当時から新聞は「事実をそのまま伝える」のではなく、
書き手の感想と世間に「こう煽りたい」ということだけを書く、
ということをしていたのだとよくわかる記事ですね。

現在、この加藤少尉について調べても、
何の資料も検索にはかかってきません。
このときその戦死を麗々しく称えた世間が、
加藤少尉の名前を忘れるのは非常に早かったようです。



「加藤喜兵衛少尉」。
今回、この名前で検索しても、ある陸士出身の方への追悼文が
ひとつヒットしただけでした。



歴史的資料。
真ん中の英文の降伏要項は1945年9月付です。
どうやらフィリピンに駐留する軍に出されたものである模様。
(ちゃんと読んでいないので推測。てへぺろ)



先日認識票(ドッグタグ)が話題になっていましたが、
日露戦争の認識票発見。
金色というのは真鍮でしょうか。
それにしても全く劣化していませんね。
まるで小判のようです。



ああびっくりした(笑)
ガラスケースに横たわるこの義足、
実際に見ても本物そっくりです。
皇后陛下から賜ったというものなのですが、さすがというか、
職人の手の入れようが半端じゃありません。

おそらく義足義手に掛けてはトップメーカーが
これを依頼され制作したのではないかと思われます。

肌の色とかシミまで再現されて、もうこれは芸術品。



日露戦争で片足を負傷した歩兵少佐、木下秀四郎。
この人についても少なくともインターネットでは
なにもヒットしませんが、義足を皇后陛下から賜ったのは
この一歩兵少尉(勲4等功4級)であったようです。

なぜこの人だけが、という気もしないでもないですが、
彼もまた「作り上げられたヒーロー」だったのかもしれません。


展示されていたものについて、もう少し続けます。




市谷・防衛省見学~栗林中将の絵手紙

2013-03-21 | 陸軍


安倍新内閣になって名前を呼ばれるとつい注目してしまう閣僚が
二人います。
小野寺五典防衛大臣と、新藤義孝総務大臣。


中国との関係が緊張を加える中、この一軒物腰穏やかな、
しかし真に強さを秘めた清廉な人物を防衛省のトップに据えたこと、
そして先日からも問題が噴出しているようにNHKを筆頭とするメディア、
ことにテレビの暗部に踏み込んでいくことが喫緊の課題になっている
政権運営において、この「栗林中将の孫」である新藤氏と、
女性保守の筆頭である稲田朋美議員を総務の担当にしたこと。

このことは安倍内閣の「覚悟」を見るような人事であると思っています。




栗林忠道大将(死後昇進)は陸海軍硫黄島守備隊を総指揮し、
硫黄島の戦いで昭和20年3月26日、
総攻撃を下命したのち戦死しました。


戦史家などには非常に評価の高かった栗林中将ですが、
ほとんど個人的なエピソードが伝わっていなかったところ、
クリント・イーストウッド作品「硫黄島からの手紙」で渡部謙が演じ、
その名が世間に知られることになりました。

この市谷には、極東国際軍事裁判の法廷である市谷記念館があり、
そこにはここに伝わる軍資料などが展示されています。

その中に、栗林中将が硫黄島から送った絵手紙が多数ありました。




この栗林中将と言う人は非常に愛情こまやかな人物で、
さらにアメリカに駐在武官でいた経験からスマートな紳士でもあったようです。
写真に残る中将はピカピカに磨かれた長靴を付けた長い脚を
じつにエレガントに組み、軍服を素晴らしくかっこよく着こなしています。

新聞記者志望であったほどで非常に文章がうまく、また絵も達者でした。


そんな栗林中将の絵手紙。

イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は、もともとこの
栗林中将の手紙から着想を得たのではないかと思っています。


この市谷の記念館は、基本的に映像以外写真を撮っても構いません。
展示物を傷めるため、フラッシュだけが禁止されていますが。

と言うわけで、この絵手紙、全部撮ってまいりました。

とても読みにくかったですが、文章も抜き書きしてみました。



2月16日 お父さんより

こちらは大変暖かだから
子供たちは皆外へ出て大騒ぎをして遊んで居ます。
これは道の真ん中でスケートをやっているところです。
(アメリカの道は皆コンクリートだから)
太郎君は渋谷で見たスケートを覚えているかね


どうもアメリカ駐在中の手紙のようですね。


この子供の服装は
夏、太郎君にはごくよろしいと思ったから、
念入りに前、後を見せるように書いて
お母さんの参考にする


なんと、「絵を参考にお母さんに同じ服を作ってもらいないさい」と。
何たる細やかな心遣い。
こんな旦那様を持った奥様は幸せ者ですね・・・。

子供のセリフは

「そら行くぞ そらそらそら」
「やってこーい!」

まあ、アメリカの子ですから

「ヒアアイカム!」
「ヘイカモーン!」

って感じでしょうね。

左のラインは

「ああもうすっかり腕を出した女もあらわれたな
夏気はい(気配?)だ もー」

この頃のアメリカ女性も「腕剥き出し」だったんですね。
日本女性のつつましい夏服を見た目には
アメリカ人の露出は少し刺激的に見えたかもしれません。



太郎君へ 12月9日 父より

これはお父さんが ある寒い晩
自動車の機関部を凍み割られて
しまったところなんだよ

「や、や、や・・・・・ついにやっちゃった
こりゃどーも でかい損害だ
100ドルくらいで済めばいいがな

早く50万出してアルコールさしておけば
こんなことはなかったにな
ほんとに しゃくだな・・・・・

壊れたところは太郎君も知っている
「あわいよー」の中なんだよ


息子との会話で何かこの部分について語り合ったのですね。
他人には全くわからないけど、家族にはすぐ通じる、
そんな言葉がこの家族にもあったようです。

因みに栗林中将が駐在武官でアメリカにいたのは
昭和2年から三年間のことです。

左上

お父さんは 外がどんなに寒くても
元気に運動しているよ

(ぴゅーぴゅー)

寒いからって家の中にばかり居るのは
よくねーことだ
それに歩くのはなかなかいー運動だ

寒い日が来ると新兵教育を一生懸命
やったころを思い出すな

栗林中将、「よくねーことだ」とか「イー運動」とか、
割と面白い文章を書いておられます。
子供さんに宛てているのでわざとでしょうね。



お父さんは夜になると日本から持ってきた浴衣を着て
勉強するんだよ

「この点が少しおかしいな・・・・」

セリフ入りです。



お父さんより

太郎君へ

お父さんは今度こんないい自動車を買ったの

外出したたんびに坊に買ってやったのと違うだろ
もっとも、高いのだよ

お父さんは今自動車を自ら運転しているの

坊がいればいくらでも乗せてやるのだがな

どーだ? 乗りたいかね


最新品、四人乗り、色も形もこの通りです
(この絵は見本図から切り取ったの
坊に見せようと思った)


栗林中将、とてもかわいいです・・・・。(萌)

今なら「カタログ」と言うところですね。
カタログから一生懸命車の形を切り抜いてノリで貼って。

坊に見せたい、乗せてあげたいというのは勿論ですが、
どうやら栗林中将、このピカピカの新車を運転できるのが
心から嬉しかった模様。

子供のようにはしゃいでおられます。

そして、中将は太郎君とお出かけするたびに、
おもちゃの自動車を買ってあげていたのですね。
親子そろって車好きだったんですね。

あ、上で「凍み壊れた、しまった」って言っている自動車は
これだったのか!



太郎君へ お父さんより

お父さんが今度来た女中の角刀とり御婆さんと
話をしています

この婆さんの夫はお父さんが今いる
連隊の下士官です


アメリカ人の太った女性は見かけより若いですから、
栗林中将が「婆さん」言い切っているけど実は同じくらい
だったりするんですよね。
そしてその婆さんいわく。


「キャプテン」は「我が陸軍」(傍点あり)はどう思います?
「キャプテン」は奥さんがありますか?
美しいかね?
なぜ連れてこないのかね?
子供もあるって?まあ二人も?

私の夫は陸軍伍長だよ なかなかいい男だよ(傍点あり)
子供はどーもないね・・・・・・

目方?32貫あるんですよ・・・・

これ?
この刺青は若い時分やったのだよ

女中かね?
軍人さんの家ばかり渡り歩いて
ちょうど30年務めたことになるね

日本はいいところかね・・?

私ダンスはなかなか素敵なんですよ
若いときは全くうまかったんですよ
(時々力を入れて言いました)

お父さん腹の中で
『まるでポンチ絵(漫画)だね
これでも断髪73分けか(当時の流行)
それにまた良くしゃべる婆だ
英語のケーコになったりウサになったり
丁度これはいいわい』


栗林中将、むちゃくちゃ辛辣です。
32貫ある、ってこれ120キロのことですね。
これ、中将が聴いたからこう答えたんでしょうね。

「ハウマッチどぅゆーうぇい?」

って聞いたんでしょうね。

しかし、この御婆さん、この後アメリカが日本と戦争を始め、
自分の旦那がいるアメリカ軍が(もう退役していたでしょうが)
日本と戦うことを知ったとき、あの、
自分の体重をズケズケ聴いたスマートなキャプテンのことを
思い出したりしたのでしょうか。



×月27日 バッファロー 父より
太郎君へ

栗林中将はアメリカから帰国後、カナダにも駐在します。
バッファローと言うのはナイアガラの滝を見に行った方なら
聞き覚えのある地名でしょう。
この名前の空港もあります。


じーさんがこの家の庭の芝に水をやっているところ

お父さんは今それを見ながら
じーさんに日本の話をしてやっているところ



日本語なら
「それ行け行けいけ行け!」

これはアメリカの(傍点あり)子供が遊んで居るところです
このへんは三輪車が大流行です
お父さんは子供がこうして遊んで居るのに出会うと
ちょっとしばらく立ち止まって見ています
太郎君もこうして元気よく遊んで居るかと思って

太郎君へ

御飯をどっさり食べること
近所の子供等とよく遊ぶこと




太郎君へ

11月33日 フォートラーシー 父より

お父さんは体操をしています
外は雨だが家の中は夏も全然だ
(次の一文解読不能)

オイ一、二、オイ一、二
モーたいそうやったからもうよすとしようか
太郎は体操をやるかな?



これはお父さんは何を考えているのでしょう?
『日本酒一升でひと月楽しめ

(この部分も解読不可能)

『これだけはいくら呑みたくても
今しばらく我慢して太郎君の誕生日の分と
しような』

『それにしてもカリホルニヤから醤油来る
カンカン(解読不能)買い込む
どーも我慢はできかねるな・・
しかしそこを一辛抱だ」

このあたり、全く意味が分かりませんが、要するに
「飲みたいけど我慢するために、
自分で自分にいろいろ言っているってとこですか。

雪がどっさり降って自動車の屋根にたくさん積もりました




珍しくひらがな表記の手紙です。

右上から

(近頃帽子はなかなか被らないのだ)
学校へ出かけるところ
「今日も××は熱いなあ」

ポカァーッと町を眺めているところ

太郎君にやろーとして
郵便いれているところ



下宿で勉強しているところ

公園のベンチに腰かけて
ボンヤリ休んでいる

お風呂にはいっているところ





太郎君へ 10月27日 父より フォートライレイにて

アメリカの将校の処のカアチャン達は
乗馬で来ています

あああいつ等は毎日暇なものだから
ああして馬に乗っているんだな

日本の将校の細君などは馬になど乗る者は
まるで無い様だが大いに違っているわい

父さんの食事中です

よくのべつにしゃべる好きだな
全く驚き入るな・・・・
犬もこーしゃべりながら食べるのが本当だな

それだのに日本では余り黙り過ぎているわ
「しゃべりはちょ」の太郎は喋りながら食べているだろーかな
純日本娘のオフクロがだまりやだから
そんな様に一生懸命しつけているのではないだろーかな

これはトウモロコシかまたジャガイモ、
いつも同じものを食べさせるな
まあ考えると日本人の食事は相当贅沢なモノさ


べちゃべちゃべちゃべちゃ

今夜の肉はよいわね
べちゃべちゃべちゃべちゃべちゃべちゃ

むにゃむにゃ
べちゃべちゃべちゃべちゃ



マア日本はモロコシをご飯で食べないんですって?
御芋ばかり食べるのは貧乏人ですって?
ま、また随分ご冗談がじょうずになりましたね
(お父さんが言ったのは冗談だと思っている)


栗林中将、ここでも辛辣です。
アメリカ人がコーンとポテトばかり食べているのは
昔からだったんですね

アメリカでは特に「ディナー」はしゃべるところですから、
無理にでもこうやって口を開くのですが、
日本人の栗林中将にはどうしても
「食事中にしゃべるのは行儀が悪い」
という感覚がぬぐえないようです。

そういえばうちも、食事中は「あまりしゃべるな」
というしつけをされていた覚えがあります。



そのほかにも残されていた栗林中将の写真。
硫黄島の作戦本部での様子です。



右が栗林中将でしょう。
その佇まいからは戦地にあってなお静けさすら湛え、
この人物の高潔な人柄さえも覗える気がします。



玉砕したのが20年の3月。
この頃はまだ米軍も影も形もないころですから、
栗林中将はじめ参謀の表情にも明るさが見えます。



若い士官たちと。
建物のガラスに飛散防止のテープがあることから、
これは内地で撮られたものでしょう。
お利口そうなシェパードの首を抱いています。




「散るぞ悲しき」

この栗林中将の電文は「士気が殺がれる」
と言う理由で「口惜し」と直して発表されました。
遺族にはこの訂正前のものが渡された、というのが
せめてもの慰めでしょうか。


栗林中将、玉砕前総攻撃を記す最後の電文。

一、戦局は最後の関頭に直面せり
二、兵団は本17日夜総攻撃を決行し敵を撃砕せんとす
三、各部隊は本夜正子を期し各当面の敵も攻撃後
後の一兵となるもあくまで決死敢闘すべし
大君(三語不明)て顧みるを許さず
四、余は常に諸子の先頭に在り


以下は日本に向けて打たれた惜別の電文です。



戦局最後の関頭に直面せり
敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり

特に想像を越えたる量的優勢を以てす
陸海空よりの攻撃に対し
宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは
小職自ら聊カ悦びとする所なり

然れども 
飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ 為に御期待に反し
此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは
小職の誠に恐懼に堪えざる所にして 幾重にも御詫申上ぐ

今や弾丸尽き水涸れ 全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り
熟々皇恩を思い粉骨砕身も亦悔いず

特ニ本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思い至り
縦い魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す
 
茲に最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共に
只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
永えに御別れ申し上ぐ

尚父島母島等に就ては
同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも
断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく申上ぐ
終りに左記駄作御笑覧に供す
何卒玉斧を乞う」


国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ

醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ

 


この決別の電文は本土最北端の
海軍大湊通信隊によって傍受されました。

通信員は泣きながらこの電文を大本営に送付したと言われています。



栗林中将は突撃決行のその日、同日付で特旨をもって大将に昇進。
五三歳の彼は史上最年少の陸軍大将として
最後の突撃を行ったのでした。





映画「野戦軍楽隊」

2012-08-13 | 陸軍

「乙女のゐる基地」
という映画について書いたことがあります。
この映画に出演した、と言って出撃していった二人の特攻隊員のことは、
知覧の特攻平和基地で購入した鳥浜トメさんの娘さんの手記で知りました。

さっそく映画を観たくなったのですが、この超マイナーな、しかも戦中の作品が借りられるわけもなく、
購入できるサイトを探しまくった挙句、見つかったのがなぜか台湾のDVD取扱店。
日本と台湾はリージョンコードも同じなので、日本映画ならどこの販売でもいいだろうと
購入したのですが、これが微妙に失敗でした。

このDVDは三本セットで売られており、「乙女のゐる基地」「ハワイ・マレー沖海戦」、そして、
今日お話しする「野戦軍楽隊」が入っていました。

いずれも戦中の作品なので、画質、音声共に最悪です。
おまけに台詞の言いまわしが甚だ理解しにくく、何を言っているのかわからない部分が多いのは
仕方がないこととしても、この台湾バージョン、DVD化にあたって中国語の字幕がつけられていて、
その間違いが気になってしまうのです。

例えば「乙女のゐる基地」で、主人公の婚約者の妹だか姉だかが、
「有閑婦人みたいに思われるでしょ」
みたいなことを言うのですが、この「有閑マダム」は当時の流行り言葉みたいなもので、
中国語の翻訳者がこれを知らず、「勇敢夫人」と字幕が出ていたのには笑ってしまいました。
勇敢では全く意味が通らないので、台湾の人々は皆「?」になったことでしょう。

この映画にも、当然ながらこのような字幕間違いが多々あります。
勿論わたしは中国語は少し勉強したことがあるくらいなのですが、そこは漢字ですから。
この映画の主人公、上原謙演じる菅上等兵は、「すが」と発音するのですが、タイトルロールに
「菅」と書いてあるにもかかわらず、字幕では「須磨」が最後まで連発されます。
細かいところは気づかないだけでもっといろいろあるのでしょうが、何と言っても映画の、
いちばん最初の字幕が、これ。

 

・・今、これを読んだ人たち全ての
「ちがうっ!」
という総突っ込みが聞えてきました。
いきなりやめてどうする。射撃を。

でも、いちいちこういうことに拘わっていたらきりがないので話を先に進めます。

映画は、軍楽士官である園田少尉が、(絵では中尉になっていますが、これは中国語字幕に
そう書いてあったための間違い)中国にある部隊に隊長として赴任してくるところから始まります。
戦争映画によくあるパターンで「Go For Broke!」(日系部隊)や、零戦黒雲一家、
最近のものではイラク戦争の爆破処理を描いた「ハート・ロッカー」もそのパターンですね。

ここで結成された21名の軍楽隊を一人前にするためです。
この21名が、どういう経緯で軍楽隊員になったのかは語られないのですが、
何しろ驚いたことに21名中12名が楽器の経験が全く無い素人です。

残りの11名にしたところで、ちゃんと音大をでた菅上等兵以外は、
三味線弾きだったり、趣味でハーモニカを吹いていただけだったり。
「経験がある」というのは「会社のブラスバンドに入っていた」という程度だったりします。

こんな素人集団に、三か月後に演奏会をさせろ、と大佐は無茶を言います。
笑ってしまったのが

「三ヶ月は無理か」

「はあ」
「でも、大丈夫だ」

って、何を根拠にこれが大丈夫なことになってしまうのか、全くわからんのですが、とにかく、
無茶を可能にするのが軍楽隊であるということだと理解しました。

何しろ半数が素人なのですから、園田少尉は「対番制度」でマンツーマン練習を採用。
経験者と未経験者を「夫婦」としてペアを組ませ、

「貴様らは夫婦だ。音楽は貴様らの子供だと思え」

と怪しげなハッパをかけます。
夫婦にされてしまったカップルは早速猛練習に励みます。

 トランペット。

三味線の師匠であった眼鏡の新井上等兵。大阪弁でいい味出してます。

トロンボーン。

音どころか、持ち方からやっているんですが・・・。
この「試看看」は、「ちょっと試してみろ」ですかね。

 ハーモニカ。

ハーモニカすら吹けない者が軍楽隊で管楽器を吹けるのか?



ヘアカットしながら歌唱指導。
三味線のチントンシャンを、ドレミになおして歌うテスト。

 楽典の指導も行われます。

知っている歌(雪の進軍)を音階で歌う練習をしている・・・・のはいいのですが、
この指導、教える方もかなり怪しくて、明らかに二か所音名を間違っております。
映画スタッフも誰ひとり気づかなかったようです。


それにしても、こんなレベルで人前で演奏になるのか?
人ごとながら心配になってきたぞ。



そしてこの二人です。
右、菅上等兵(上原謙)。音大卒。左、佐久間上等兵(佐野周二)、経験無し。
二人はクラリネットを割り当てられます。
しかしながら、佐久間はなぜか菅を毛嫌いし、まともに教わろうとしません。



この「音だし練習」のときも、園田隊長が見周りに来て、「ちゃんと聴け」と言われると
菅の吹くのを聴くふりをしますが、行ってしまうとすぐさま、またそっぽを向く。



字幕は「おれによくよく教えさせろ」みたいな感じですかね。
普通の人間ならとっくにキレて園田隊長に言いつけたりするのでしょうが、菅は根気よく
佐久間を説得します。
っていうか、この映画、どうして佐久間が菅を嫌うのか、全く説明がありません。
「虫が好かない」
程度で、ここまで反発するという意味がわからないまま、映画はどんどん進行します(笑)

しかもその反抗というのが

「なあ、やろうよ」

「やだ!やだやだやだやだ!」

・・・・・子供かあんたらは。

二人の確執は続き、ついにある日、佐久間が手に持った楽器を
菅に思わず振りおろそうとするに至ります。



菅は思わずその手を押さえつけ、異常接近する二人。

「楽器は・・・・兵器なんだぞ!」

見つめ合う二人。
二人の間に何かが生まれた一瞬でした。(本当か?)

菅上等兵、さすがです。
しかし、いくら音大を出ていても、専攻が声楽の菅上等兵にはクラリネットは吹けないのでは?
と根本的なところで突っ込んでしまうわけですが・・・。

そんなある日、大阪弁の新井上等兵が中国人のお手伝いのあかちゃんを抱いてあやしていると、
(軍のそこここになぜか中国人従業員多数。日本軍に虐殺されずにすんだんですねー(棒))
そこにいきなり園田隊長登場。
やっとやる気を出して練習を始めた佐久間のクラリネットを取り上げ、子守唄の一節を奏でると、
あら不思議、今まで泣きやまなかった赤ちゃんが、ぴたりと静かになるではありませんか。

「どうだ、佐久間。泣きやんだな。
いいもんだろ? 
これだよ。
強いばかりが日本軍人じゃないぞ。

これだよ。
これが、音楽の力だ」


と決め台詞の園田少尉。
・・・ええまあ、ごもっともですが、赤ちゃんが泣きやんだくらいでこんなに得意になられても。

このストーリーは、一般公募された「入選作品」なのだそうですが、この程度なら、
小学校2年のとき、クリスマス会の出し物のためにエリス中尉が書いた人形劇、
「森のなかまのクリスマス」(担任が絶賛して母親に報告)や、
エリス中尉の息子が10歳のときに書いたハードボイルド小説、
「20年前の犯罪」(担任が絶賛して母親に報告)の方が、
まだひねりが効いているのではないか、という気がしました。
(感想は個人差があります)

それはともかく、園田少尉のパフォーマンス効果はてきめん。
すっかりやる気になった佐久間、こんどはいきなり菅に「教えてくれよ!」と激しくアプローチ。

「今までのこと、怒ってるのか?なんなら殴れ!」
「よし!」

言うが早いか、佐久間を柔道で投げ飛ばす菅。
やっぱり怒ってたのか・・・。



「本当にやるんだな?」「ああ、やる!」

見つめ合う二人の心に、アツい何かが生まれた瞬間でした。(もうええって)

 

そして、いよいよというか、いきなり練習の成果を発揮する演奏会の日がやってきました。
曲目はご存じ「愛国行進曲」

見よ東海の空開けて~♪

音大声楽科卒の菅上等兵、女性歌手と共にこの曲を独唱しています。
この人、こうして離れてみたときには確かに世紀の美男という貫録ですね。

美男と言えば、この映画の主人公三人、当時人気のいわゆる美男俳優で固めているのですが、
不思議なことにスクリーンの上ではあまりそれが実感されません。

映像技術や照明が悪く、それがために皆映りがかなり悪いせいだと思います。
佐野周二などは、やたらごつごつした輪郭だけが強調されて、まるでジャガイモのようですし、
上原謙もあの独特の鼻が目をひき、老けて見えます。
三人の中で、佐分利信だけは、それらしく映っています。
佐分利信、貫録のあるボスみたいな役でしか知らなかったのですが、二枚目役だったんですね。



進軍中に出会った、川に橋を架ける設営隊は、元大工だった佐久間の原隊です。
偶然この部隊のために演奏することになった軍楽隊。
園田隊長は、佐久間に花をもたせるために特にソロ演奏を命じます。
誇らしさに顔を輝かせ、クラリネットを見事に演奏する佐久間。
頑張っていれば報われる。そうだよね!



しかし、進軍する彼らは次第に激戦に巻き込まれます。
全身に偽装の葉っぱを付け、みの虫のようになって演奏する軍楽隊。
弾丸雨飛もものともせず演奏を続け、最後の一音が終わるなり隊長は

「伏せ―っ!」

軍楽隊は武器を持ちませんから、彼らはただただ身を伏せて攻撃をやり過ごすのみ。
ここで実に不思議な演出があります。



偽装の葉っぱを付け、やはり伏せたままの中国人歌手(槇芙佐子。美人)
がなぜか軍楽隊と一緒にいて、砲弾が降り注ぐ中、中国語で滔々と
「日本と中国がどうしたこうした」みたいなことを演説しだすのです。
ところが、ここに付けられている日本語字幕がかすれていて全く解読不可能。

どうやら日本軍は中国人を敵にしたくてここにいるのではなく、
我々の共通の敵は、大東亜を侵略しようとする大国である、と言っているのではないかと、
中国語字幕から解釈してみました。

この戦闘後、軍楽隊のメンバーの誰が死んだとか傷ついたとかのストーリーは全く語られぬまま、
菅上等兵が中国人の子供に歌を教えている最初のシーンをリフレインし、映画は終了。
最後は「陸軍分裂行進曲」風のテーマが流れます。


ところで、軍楽隊が演奏する「愛国行進曲」。
この歌詞に付けられた翻訳がいちいち突っ込見どころ満載なので、一行ずつ並べてみました。


見よ東海の空明けて  
      (不管風雨有多大)

旭日(きょくじつ)高く輝けば      (只要雨過天晴的話)

天地の正気潑溂(せいきはつらつ)と (戦争的男児最英勇)

希望は踊る大八洲(おおやしま)   (勇敢殺敵当先鋒)

おお晴朗の朝雲に         (為了偉大的大日本帝国)

聳(そび)ゆる富士の姿こそ      (団結一致 不畏艱難)

金甌(きんおう)無欠揺るぎなき    (敬愛的天皇)

わが日本の誇りなれ        (我メン赦忠ニン)


最後のメンは我々、という意味のにんべんに門、ニンは敬称のあなた、という意味です。

というか、日本語の内容と中国語って、全く別のものじゃないですか?
もしかしたらこれは当時日本でもあった台湾でのみ歌われていた「愛国行進曲」の歌詞?
と思って、うろ覚えの発音で歌ってみたら、ぴったりと歌えてしまった・・・・・・。

「♪ぷーくぁんふぉんゆーよーたーたー♪ちーやおゆーかーてんちんだほわ~」(←いいかげん)


実のところそうなのか、いい加減な翻訳なのかはわかりませんが、
こうして見ると、日本の軍歌が自然賛美の中に精神性を求めている美しい詩であるのに対し、
中国語のそれはまるで共産党賛歌や北の将軍様を讃える歌みたいで、センスありませんね。

ヘンなところで実感してしまったのだけど、やっぱりこういうところに現れる日本人の精神性って、
世界に誇っても良い洗練されたものと言えませんでしょうか。



そうそう、全く忘れていましたが、この映画、李香蘭こと山口淑子が、
これを最後に李香蘭をやめて日本に帰った、というものだそうです。
しかしその割には、ちょいと出てきて顔を隠しながら一曲歌って走って逃げて終わり。

あまりにブリっこしているので、てっきりデビュー作かと思ってしまいました。(笑)







帝国陸軍軍楽隊とフランス人気質

2012-07-14 | 陸軍



今日はキャトルズ・ジュイエですね。
・・・てなんだ?と思われた方。
「パリ祭」ですよ。
フランス独立記念日です。
昔、日仏学館に通っていた頃、この日にはちょっとしたパーティが行われたものです。
「踊れ」
といわれてダンスの相手をしたら、自分より背の低いフランスオヤジに、くるくるとまわされて、
「踊れないのに、わたし踊ってる~」これすなわち、
「あなたのリードに島田も揺れる~」という「芸者ワルツ」?
フランス人と踊りながら、この一節が脳裏をよぎったのは、何年前のことでしょうか・・・。

というわけで、唐突ですが、今日はフランスと我が帝国陸軍に関連した記事をお送りします。


昭和6年9月満州事変発生。
戦火は次第に拡大して13年10月、武漢三鎮の占領へと展開していきます。
本日写真は中支における日本軍軍楽隊の行進の様子。
この当時中国大陸にあった、ある陸軍軍楽隊のお話。

軍楽隊に初めて動員令第十号下命という出動命令が出されたのは、昭和12年のことです。
昭和16年には、このシナ事変で活躍する軍楽隊を紹介したドキュメンタリー映画が製作され、
南京や蘇州の各地で、ときには敵前数百メートルの位置で演奏する
軍楽隊の「戦い」が国民に紹介されました。

ありがちなことですが、この映画の題名、「戦う軍楽隊」の、「戦う」が気にいらず、
「武器も持たないのに『戦う』とは何事だ」と文句をつけてきた陸軍の馬鹿参謀がいたそうです。

しかし現に、広い中国で、軍楽隊は兵士の慰問演奏や住民の宣撫のため演奏し続けていました。
ある時は楽器を銃に持ち替え、ある時は敵陣に決死の突撃をするに至り、
文字通り血みどろになって戦っていたと言っても過言ではなかったのです。
しかし、今日お話しする軍楽隊は、外国軍を「無血降伏」させた、最強の部隊です。


中支派遣軍総司令部軍楽隊は、昭和13年10月27日、漢口に進駐しました。
当時の漢口には、イギリス、フランスの租界がありました。
その租界を接収するに当たり、日本軍はあくまでも武力を濫用することなく、
平和裡に事を進めることに注意を払っています。
「日本軍は入城すべからず」というのが軍部から出された命令で、
ひっそりした城内には、陸戦隊の一部と憲兵が入っているのみでした。

そのときフランス租界接収の交渉をまかされたのが陸軍少佐田島清
田島少佐は国際連盟の日本側随員としてフランスに5年いたことがあり、
フランス人の気質というものをはなはだ良く知る立場にあったそうです。

フランス人気質。

みなさん、ご存知ですか。フランス人の気質というものを。
フランスと言う国が文化に優れた魅力的な国であるということに異論を唱えるものではありませんが、
フランス人と言うものをわずかでも知っている人は、
こんな厄介な人種が世の中にいることもまたごぞんじかもしれません。

わたくし、大学ではフランス語を選択し、4年間日仏学館に通い、ちょっととはいえパリに住み、
少しとはいえフランス人気質を知っているつもりですが、一言で言うと

1、意地悪

もう一言加えると

2、ケチ

につきます。
あと、皮肉屋である、無意味にプライドが高い等々、
まあ、良いとこもあるにはあるけど、あくまでもそれは個人的な資質における「良さ」で、
全体としてはどちらかというと、かなりお付き合いにもスキルが必要。
それがフランス人と言うものです。

田島少佐もこのあたりは百も御承知。
駐留していたコラン領事以下、居留民たちは、日本人をもともと馬鹿にしきっており、
かつ野蛮で何をするかわからないと、恐怖におののいていたわけです。
(昔もそうですが、日本文化人気の今現在ですら、そう思っている節がありまして)
こういう人たちと交渉するには全く一筋縄ではいかないわけで、とにかく武力はちらつかせず、
根気よい説得によって

フランス租界内の通行権
軍用電線の架設権
日本側への協力要請

などと取りあえず認めさせました。
しかしながら、何の根拠もなく東洋人など一段劣る民族であると信じて疑わないおフランス人、
相変わらず疑いの白い目でこちらを見ている様子が見え見え。

田島少佐は一計を案じました。
長らくの籠城生活で娯楽、ことに音楽に飢えているに違いない彼らに、軍楽隊の演奏を聴かせて
心を少しでも和らげてやれば、ひいては日本軍に対する印象も変わってくるのではないだろうか。

コラン領事に提案してみると、喜ぶどころか
「それは困る」
フランス人ならこうくるだろうと、田島少佐は予想していなかったということでしょうか。
甘い。
先ほどの性格に

3、ひねくれている

を入れるのを忘れていました。
コラン領事に理由を問うと
「演奏を聴かせると言いながらデモ、つまり日本の国威誇示みたいなことをするのだろう」

あ、4、疑い深い

も付け加えましょう。
かてて加えて、頭から日本人を見くびっているので、軍楽隊といっても
支那の楽隊のような、サーカスのジンタかチンドン屋の楽隊みたいなものだと
勝手に決め付けているのがこれも丸わかり。つまり

5、視野が狭く井の中の蛙

なのですね。こういうところは。
そこで田島少佐、一計を案じ、提案をこのように変更しました。

「日本租界で音楽界を開きます。
その際、フランス租界を通過するので、フランス守備隊司令部前で敬意を表して、
フランス国家を演奏させていただきたい」

コラン領事、「それならばお好きにどうぞ」と、あくまでもフランス人らしく

6、お高くとまっています

さて、帝国陸軍軍楽隊の、いや日本の音楽界の名誉を担って、山口楽長以下60名、
守備隊の前でまずはフランス国歌を演奏しました。
その素晴らしさに驚く守備隊フランス人。
ぜひもう少し聴かせていただきたい、との所望に対し、
彼らがかねてから用意していたフランス音楽をサラサラっと演奏すると、
ぞろぞろとどこからともなくフランス人が集まってきました。
そして、拍手喝さいでアンコール、アンコール。
しかし、田島少佐、ここで一芝居打ちます。

「いや、せっかくのご所望なれど、
先だって、
わざわざこちらかから御慰問申し上げようと存じたのに対し
お断りを受けたわけで。

日本軍楽隊は辻芸人ではござらぬ。
さらばごめん!」


さっさとトラックに乗って引き揚げてしまいました。
田島少佐は大いに溜飲を下げ、逆に相手方は慌てます。
「前の失礼は幾重にも詫びるから、ぜひあらためて演奏会を催してほしい」
平身低頭、手をすり合わさんばかりにコラン領事は申し入れてきますが、
いや、こちらにも都合が、とかなんとかじらしにじらして、15日目に、やっと承諾。
田島少佐もなかなかに人の悪い。

フランス人倶楽部で催されたその演奏会では、
なんと、フランスの音楽学校に留学していた山口楽長が音楽解説をするというものでした。
これを目の当たりにしたフランス人の驚きは想像に余りあります。
なぜなら彼らは

7、フランス語を話せる民族こそが文明人であると信じている

からです。
彼らは実際、どんな下手でも、外国人がフランス語でしゃべりだすと、がらりと態度を変えます。
英語が判っても英語で返事をしない、という都市伝説もありますが、基本的にそれは嘘。彼らは

8、良いかっこしい

なので、英語が全く分からないということを隠すために
「英語なんて」という態度を取ってみせるのです。(体験談)

・・・・というフランス人ですから、この計らいにまず茫然。
続いてレベルの高い軍楽隊の演奏に、まさに聴衆は感激興奮の渦。
二時間にわたる演奏会の間、彼らは身じろぎもせず、神妙に聴き入っていました。
それからというもの、彼らが日本軍を見る目はがらりと変わったそうです。
これは、軍楽隊がフランス人を制圧したと言っていいのではないでしょうか。

ところで、このフランス国家ですが、余談として少し。




昔フランス語の授業で全文翻訳し、歌わされたのでいまでも空で歌えるのですが(自慢)
その際このコーラス部分の最後の一文がことに印象的でした。

「進め!進め!敵の汚れた血で 我らが田畑を潤すまで」

最後の「nos sillons」(ノシヨン)というのは田畑のあぜのことです。
君が代を歌うことを拒否した菅前首相が
「君が代は暗い感じがする。フランス国歌のようにもっと明るい歌が良いと思い」
と、いかにも教養のない言い訳をしていますが、
おフランス国歌とは、このような「軍靴の足音聞こえまくり」な内容なんざんす。(byイヤミ)

でも、妙な思想信条を振りかざし、学校の教師が卒業式で立つの立たないので大騒ぎ、
一部の人間およびマスコミもそれをいつの間にか応援しているかのような最近の日本に比べれば、

9、国旗国歌を心の底から誇りに思っている

フランスの方が、この点まし。
まあ、これはフランスに限ったことではなく、ただ日本が異常なだけなんでしょうけど。







薫空挺隊~高砂義勇隊の戦士たち

2012-07-11 | 陸軍

彫りの深い顔。意志的に結んだ口許。
力強い眼差しは何を見つめているのでしょうか。
肩に下げた不思議な形の刀は彼ら高砂族独自の武器。
彼らは日本人として戦い、そしてその命を賭して空挺特攻を行いました。

台湾が日本の植民地になったのは、1895年のことです。
当時の台湾は「化外の地」とまで言われた文明未開の地で、日本の接収に対しては住民はじめ
在台清国官兵といたるところで反抗がありました。
激戦すらあったこのような抵抗を平定後、日本政府はまずマラリヤの駆除に始まり、
台湾の治安維持、次いで教育、通信始めインフラ整備を進め、近代化を推し進めました。

このお正月に台湾旅行をしたときに感じた「台湾人の精神形成の基となっているのは、
もしかした教育勅語ではないのか」という仮定を述べてみたことがあります。

その後、このような本を見つけました。
「嗚呼大東亜戦争」 鄭春河、元皇民 上杉重雄著

驚くべき正確な日本語で切々と、日本の統治の正しさと、大東亜戦争の意義、
そして戦後の日本―ただ自虐史観に塗れ、精神の輝きを失ってしまった日本に、
もと日本人として、振り絞らんばかりの哀切の気持ちと叱咤をこめて苦言を呈している労作でした。

この本については、また稿を別に是非お話したいのですが、ここで鄭氏は、こう断言します。


日本政府は異族台湾人民を日本国並みに育て上げようと努力したことは
世界史上その例を見ない。

特筆すべきは日本人の精神生活の原点である教育勅語を徹底的に普及したことである。
我々は誠実にそれを信仰し実践した。


おそらくそうであろうと考えていたことが、現に統治下の日本国民であった台湾人によって
このように記されていたことに、わたしは強く感動を覚えました。
昭和16年に台湾で志願兵制度が導入されたとき、当時600万人足らずの人口であった台湾の
青年のうち45万人が、1000人の募集人員に対して殺到し志願しました。

このことについて、鄭氏はこう記します。

たまたまシナ事変から大東亜戦争となり、義勇奉公の時がきた。
そして時こそ今とばかり争って、陸海軍軍人軍属を志願した。
このように植民地台湾の青少年が、祖国日本のために従容として死地に投ずることが
できたのは
教育勅語の薫陶に依る外ならない。


「ほれだから教育勅語は廃止して正解だったのだ。軍靴の足音がどうしたこうした」

とサヨクな日教組などが鬼の首でも取ったように騒ぎだしそうな文言ではありますが、
戦争を起こすことと、国を守るために起こってしまった戦争に志願することの間には、
全くベクトルの違う論理が生ずるのであって・・・・・まあ、連中にはわからんでしょうが。

因みに、鄭氏はこうも言っています。

既に半世紀、教育勅語が今もなお台湾に脈々として生き続けているのも、
台湾教育五十年の成果であった。


台湾には政府の認定するだけで14の原住民がおり、その中に今日お話しする高砂族がいます。
この部族の名前も、日本が統治してから、正式な分類が始められ、命名したのも日本です。
国を統治するにあたって、異なる民族間の共通語などを制定し、日本語をも教えたのです。

クリント・イーストウッド作品、「グラン・トリノ」(名作です)には、台湾の部族の一つ、
サオ族の家族と、引退した頑固爺さん(クリント)の触れあいが描かれていましたね。

高砂族ばかり140人、それに日本人の士官、下士官、衛生の特技者を加えた特殊部隊が
レイテに上陸した敵航空の活動を抑えるために投入されたのは昭和18年12月24日のことです。

彼らは伝統的にジャングルの中の自活と戦闘法を祖先以来受け次いで来ており、
首狩りの風習さえ持っていた戦闘部族でもありました。
また、夜目が利き、素足で音もなく暗闇を駆けまわることができる身体能力は勿論のこと、
野草の食べ方や野宿の方法、全てに渡って「都会人」で構成された日本人士官下士官の
助けになったということです。

しかし、高砂族の部隊が実際に作戦決行後、どのような働きをし、あるいはどのように
死んでいったのか、全く資料が残っていないのが現状です。

昭和19年の11月の時点で、フィリピン駐在の大使が寺内総司令官から聞いた話として、
高砂部隊は爆弾を背負って敵中に突入する特攻部隊であるということが書かれているものの、
そこでどのような訓練が行われていたのかも、その文章(日記)には記されていないそうです。

11月22日、「薫空挺部隊」と名付けられたこの部隊を、
ブラウエン飛行場に強行着陸させるという作戦が下命されました。
作戦名は「義号作戦」。決行は4日後の26日です。

中重夫中尉以下40数名の薫空挺隊員は、輸送機でブラウエンに向かいました。
しかしながら、彼らの足取りがつかめているのはここまで。

この日の深夜零時、軍司令部が東方の山系を望むと、盛んに火の手が上がっているのが
見えたと言うことですし、さらに一時間後、ブラウエン上空に偵察機が侵入したところ、
いつもは撃ってくるはずの激しい対空砲火が全くなかったそうです。

これをもって彼らがブラウエン飛行場に着陸成功し、対空砲火も撃てないほどのダメージを
この部隊に対して与えた、と断定することはできませんが、米軍の記録では、
近隣の海岸付近に飛行機が二機着陸し、乗員はそのまま闇の中に消えて行った、
というものがあるそうです。

しかし、この乗員たちがその後どんな働きをしたかも、今では明らかではありません。

高砂義勇隊は7度にわたって編成され、合計1,800-4,000名の原住民が参加したとされます。
以前お伝えした、陸軍のパレンバン空挺作戦、海軍のメナド空挺作戦においても、
その成功には高砂義勇隊の力が大であったと言われています。

彼らは、先祖伝来の蕃刀でジャングルを切り開き、日本人よりも死を恐れず、
軍属でありながら軍人のように戦って、そして死んでいきました。


ここからが問題です。
戦後、台湾が日本ではなくなってから、日本政府は台湾人を戦後補償の対象から外してしまいました。
元軍人・軍属やその遺族に対して障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、
また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかったのです。

しかも、彼らは戦後「日本への協力者」として中華民国政府から厳しく扱われることになります。



今、韓国が、戦中日本軍に連行された慰安婦の数を、20万人(笑)と決定し、
日韓条約で既に決着済みの賠償を日本にさせるため、主にアメリカで運動しているそうです。

軍関与の証拠は全く無く、彼女らは民間の業者に親によって売られた、というのが実態ですが、
日本政府は「国の強制徴収ではなかった」という証拠が出せないまま、裏取引に応じてしまい、出してはいけない「河野談話」を出すことで相手にカードを与えてしまいました。

これを嵩にきて、今、韓国は次々と、国内やアメリカに「慰安婦の像」を建て、韓国政府は
「これ以上建てられたくなかったら」と恐喝までして、さらなる謝罪を要求してきています。
公式にはそれを拒否しながらも「道義的に計らう」などと、恐喝に屈してかあるいは別の理由か、
いずれにせよたわけたことを言う政治家が、この日本にはいるからでしょう。

証言もはっきりしない、年齢も整合性のとれない自称「慰安婦」、即ち売春婦です。
こんなものに払うお金があれば、日本は高砂義勇軍の生存者や遺族への補償をするべきです。

強く出るもの、声の大きなものには、たとえそれが真実でなくても腰をかがめ、
立場の弱い(台湾とは国交が無い)者にはあくまでも高姿勢で接し、見てみぬふりをする。

いつから日本はこんな卑怯な国になったのでしょうか。


そう、卑怯な、そして自虐で卑屈な国になってしまった戦後の日本。
前述の鄭氏は、はっきりこう言いきっています。

台湾近代化は日本統治50年の成果である。

しかも、戦後の腰ぬけ日本に対して鄭氏は

今こそ異国民ではあるが、当時大東亜戦争を共に闘った台湾の我々は殊更に絶叫する。
一、当時の祖国日本はそんな国ではなかった。
二、我々は侵略戦争に参加した覚えが無い。

そして、現代の日本人に対しては

明日の日本を担われる皆さんの責任は重大であることを自覚して、
祖国日本の現在を再確認し、日本国民としてどうあるべきか、
さらには歴史の真実を探求して、大東亜戦争を観直してください。

そして、心理改革、教育改革につくしてください。
同時に日教組を消滅させ、すみやかに教育勅語を復活して失われた日本精神
(大和魂)を
取り戻して下さい。

一旦緩急のときは民族の誇りにかけて祖国日本をお護りください。


高砂義勇隊の崇高なる犠牲に、戦中戦後を通して全く報いることをしなかった、日本と言う国。
烈々たる激しさで、しかし愛を以て日本を叱咤する鄭氏のような「元日本人」に対しても、
こんな日本では、到底顔向けなどできないとさえ思うのです。

にもかかわらず、台湾の人々は今や日本を許してくれている。
地震の後台湾から送られた世界一多い寄付金は、彼らの気持ちの表れだと思ってもいいでしょうか。
だとすれば、我々のすべきは、彼らの温情心の広さにただ甘えることなく、
彼らの愛してくれた「かつての立派だった日本」の姿を一日も早く取り戻すべきでしょう。


とはいえ、尖閣問題に対する関心の強さや、あるいは民主党政治や日教組、
マスコミに対する不信とその批判のなかに、「日本人の覚醒」もまた包括されてはいないかと、
わたしは一抹の期待を持たないでもありません。








義烈空挺隊~戦果と特攻の意義

2012-05-27 | 陸軍

                   
         

義烈空挺隊の特攻作戦は、当初、日本側には数の点でかなりの誤認がありました。

健軍を離陸した飛行機は全部で12機。
そのうち、4機が機体不良や不時着など、航法未熟のた引き返しています。
同行した戦果確認機は、6機が着陸コースに入ったのを見届け報告しました。

その後、健軍と知覧では、アメリカ軍が混乱している様子が生文で傍受されたため、
日本側では義烈隊がかなりの大戦果をあげたものと期待したようです。

そして、それは決して間違いとは言い切れないものでした。

確かに六機のうち実際強行着陸したのは一機だけで、後は撃墜されたり地上に激突しました。
しかし、この着陸した一機の隊員がアメリカ軍をこの日混乱に陥れました。



強行着陸した一機から降り立った7名は、奥山隊長の言うところの「訓練の通りに」、
9機の(おそらくB-29を含む)高価な飛行機を完全に破壊、29機(計26機説もある)
を大破させました。
炎上損傷38機、結局これら航空機は、全てがその後使い物にならなかったそうです。

左画像は、義烈隊員がドラム缶の集積所に火をつけ、計7万ガロンの航空燃料が爆発、
炎上した瞬間を写真に収めたもので、右は、シャワーのように見える対空砲火です。

これほどのを敵弾雨飛をくぐり抜け、とにかく一機が強行着陸に成功し損害を与えたのですから、
彼我の隔絶した当時の戦力差を思えば、突入は成功したと考えるのが妥当でしょう。

こんにちのアメリカ側の認識においても、「Giretsu Airborne Attack」
日本側が大戦中唯一成功したコンバット作戦であるということになっています。

さらにアメリカ側を驚かせたのは、この時突入した義烈の士官らしき隊員の遺体から、
航空基地の詳細な地図が発見されたことです。
その地図には、航空機の駐機場所、テントの場所に至るまで全く正確に印がつけられていました。

新聞が大々的に報じた義烈隊の戦果ですが、「両飛行場機能喪失」などという誤りが見えるものの、
何度も言うようにここまでは誇張でも何でもなかったと言えます。

しかし、義烈空挺隊の戦果は、多くを期待した大本営にとっては、
犠牲の大きさの割には僅少とされました。

前回述べたように、「義号作戦」の目的は、義烈隊が航空基地をかく乱し、敵が混乱している間に
航空特攻作戦でダメージを与えることでした。
しかし結果、陸海軍間の作戦連携がうまくいかず、義烈の戦闘だけで終わってしまったため、
これを第6軍司令官は「尻切れトンボなり」と評したのです。





この義烈空挺隊の攻撃について、終戦何周年の特別番組が作られていました。
制作はNHK、そしてフジテレビ、沖縄テレビ。

・・・・・・・この面々にいやな予感がしたあなた、あなたの予感は当たっている。

この三者がタグマッチを組んで制作したものであれば、その番組の意図はただ一つ。

「日本の始めた戦争で、無駄な作戦に命を奪われた犬死にの特攻隊哀れ」

このように最初から意図を疑ってみれば、そのナレーション、構成、カットの一つ一つに、
実に巧妙な「演出」がなされていることが、まるで楽屋裏を見ているようにわかります。

ナレーターは女性。
この女性ナレーターの読み方も「映像の世紀」のナレーションのような無機質なものではなく、
思いっきり何か―哀惜の情とか憐憫とかを―行間に込めまくった感情読み。
その切々たる声で、このようなコメントが映像と共に流れます。

若者たちは 戦争という悲運の中で
夕陽の金峰山(きんぽうざん)に向かって飛び立ち
 死地に赴きました。


「戦争という悲運」?

義烈空挺隊の編成から当日までの錬成の日々、どんな思いで彼らが激しい訓練に耐え、
自分たちの死が祖国の再生の礎になることを願って往ったか、
その遺志も、死の意義も、全てを「悲運」という陳腐な一言の中に落とし込んでしまう傲慢さ。

それにしても、この言葉を選択した制作者の語彙の貧困さは目を覆うばかりです。
取りあえず彼らを犠牲者扱いすることが第一目的だとすれば、
無難なネガティブ・ワードを並べておくことで、テレビの前で口を開けて見ている視聴者は
さらりと耳障り良くそれを受け入れ、それは達成できるでしょう。

その単なる無批判を、いつも製作者は都合よく「好評だった」と自己満足で捉えるのみ。
やり過ぎて「JAPANデビュー」のように訴えられることさえなければ、
どんな自虐捏造番組もいつのまにか自画自賛して一丁上がり。
そしてまた同じようなことを繰り返すのです。


生存者の元義烈隊員、田中賢二氏は、隊員たちの遺墨の写しを大切に持っています。
画面いっぱいに広げられたそれらに見える文字は

「斬」「断じて勝つ」「天皇陛下万歳」「撃滅」「忠勇」「武勇」「生中無生 死中有生」

これらの激烈な言葉をあたかも冷笑するように、ナレーションが入ります。

「戦争で青春を犠牲にした若者たち。
遺墨や遺書には綴れない想いもあったでしょう」


何一つ個人的な感慨、つまり「綴れない想い」も無く、戦争で死地に赴く人間が
果たしてこの世にいるとでも言うのでしょうか。

綴れない想いをあえて語らず、笑って死地に赴いた彼らの目指したものは、
自分の死によって一人でも多くの日本人が生きることであり、たとえ戦争に負けることがあっても
自分たちの特攻作戦が象徴的な犠牲となり、それが民族再生の礎を為すことだったはずです。


知覧特攻平和会館の見学を報告した時と同じことの繰り返しになるようですが、
戦後メディアというものは、どうして皆こういう同じようなギミックによる印象誘導を行うのか。
もしかして「ネイビーブルーに恋をして」というブログが目指すのは、これら左翼自虐メディアの
謀略の喝破であり糾弾ではなかったかと、最近自分でも勘違いするくらいですよ。


それにしても不愉快なのは、連中のギミックの中には必ず、
「彼らの戦果は無かった、或いは僅少であった」
といった戦略的な失敗をことさらあげつらうことが、効果として過剰に盛り込まれていることです。
特攻隊は戦争(というより日本帝国陸海軍)という巨悪の犠牲者であり、
報道の目的は犠牲者を追悼することであるとするのなら、少なくとも
その戦闘行為が戦略的に成功であったか否かは、特に語るに値しない事実であるはずなのに。

去年の暮、火を吐く勢いで糾弾したNHK制作の「真珠湾からの帰還」ですが、
あのお涙ちょうだい捏造歴史フィクションと同じ手口がここにも採用されています。

義烈空挺隊の強行着陸後、米軍の北飛行場は多数の飛行機と燃料を失い、
24日の夜から27日の午前10時まで、空港は機能停止しました。
(特攻全史 財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編纂による)


ところが米軍側の証人に全く同じことを語らせておきながら、ナレーターはそれを全く無視。
驚くべきことに、

「アメリカ側の記録によれば、飛行場は翌25日には稼働したということです」

と、事実無根の捏造までやらかしているのです。



この番組には先ほども触れた生存者の田中賢二氏がインタビューに答えています。
しかし田中氏が縷々語ったであろう、国のためにと死んでいった戦友に対する想いについては、
全く触れられてもいません。

ディレクターはおそらくこう聞いたのでしょう。
「この作戦が大戦果に結びつかなかったのはなぜだと思われますか?」
田中氏はそしてこう答えます。
「そもそもあの時期になっては、全てが無理だった」

制作者はこの言葉を舌舐めずりしながら番組の「決め文句」として採用します。
この部分の流れを書きだしてみます。

(ナレーター)
アメリカ側の記録によれば(飛行場は)翌25日の午前中には稼働したということです。
しかし、(このしかし以降が全く逆説になっていないことに注意。
おそらく、この部分を書いたライターは、その矛盾に全く気づいていないと思われる))
結果的に後に続くはずの特攻総攻撃は天候不良のため、
目的を達することができませんでした。

(空挺隊玉砕の地と書かれた標柱が映し出される。
標柱はぼろぼろで、勿論スタッフによる献花もされていない。
しかも夜間撮影され、真っ暗な中にそれが幽霊のように浮かび上がるカット。
次のシーンで田中氏が登場し、語る)
「そもそもあの時期になっては、全てが無理だった」


その昔、メディアは義烈空挺隊の成功だけを麗々しく、しかし
義号作戦自体の失敗については糊塗したままで報道を垂れ流し、
あたかもその作戦が戦局の雌雄を決したような書きぶりで国民を幻惑させました。

今、その同じメディアは、死の任務に就いた一人一人の想いを全て憐憫で塗りつぶし、
史実すら素知らぬ顔で捏造までして、作戦は失敗で全ては無駄だったと嘆息して見せるのです。

なぜか。
彼らの目的は戦死者の慰霊などではなく、ひたすら「日本」を弾劾することにあるからです。





「日本ニュース」の企画であった大峯淑生氏と、カメラマンの故藤波次郎氏。
沖縄出撃が決まってから、寝食を共にして取材していた二人の宿舎には、
隊員たちがウィスキーなどを手に、入れ替わり立ち替わり訪れてくるようになりました。

皆が、自分の生い立ち、家族構成、故郷の山川のことを聞いてもらいたがり、
遺書や遺品を彼らに託す者もあったということです。

カメラのファインダーを覗かせてもらい、
「映ってる、映ってる」
と無邪気な声をあげた士官もいました。

「隊長の訓示が終わって愛機に向かって行くときみんなニコニコ笑ってねえ。
わたしもほうぼうのの特攻隊に撮影に行ったけど、
そのような悲壮感、全然ない、この部隊は。

ずっとこう飛び立っていく、夕暮れのところをね、だーっと機が見えなくなるまで回して。
本当にね、助手も録音係も、ぜんぜん口きかないで、三分か五分か・・・
じーっと、一点、飛び立った方向を眺めてましたねえ・・」


戦後義烈空挺隊について何かを語ることができるメディアの人間がいるとすれば、
この大峯氏ら日本ニュースのスタッフを置いて他にないのではないでしょうか。





義烈空挺隊~彼らの迎えたその日

2012-05-26 | 陸軍

       


この写真に映る「義烈空挺隊」の幟は、前回義烈について書いた日の画像、
「最後の握手をする奥山大尉と曽我部大尉」の写真で、奥山大尉の向こうにも見えていました。

そこでふと考えたのですが、この幟は、何のために作られたのでしょうか。
彼らの目的は、敵飛行場内に強行着陸して、基地の破壊をすることです。
回りが米軍ばかりのそこで、この幟が味方の認識に使われるというわけではないでしょう。
考えようによっては動きの妨げとなり、目立ちやすい幟を、
まるで戦国時代の合戦でもあるように背負っていくことの意味は・・・。


昭和19年7月、サイパンが敵に占領され、B-29による本土空襲が必至と見た大本営は、
まず、それを阻止する為に飛行場の爆撃を計画しました。
11月には本格的な本土空襲が始まり、それに対して陸海軍は飛行場の爆撃を数次に亘り
行いますが、効果はなく、敵空軍の活動を封じ込めることはできませんでした。

そこでまず計画されたのが、空挺部隊をサイパンの飛行場に強行着陸させる特攻作戦です。
そして第一挺進団第一聯隊より、奥山道郎大尉指揮の126名の部隊が差し出され、
その作戦に従事することになりました。

この部隊に諜報活動のための中野学校出身の士官8名、下士官2名の計10人が加わり、
ここに義烈空挺隊と後に命名されることになる特攻隊が編成されることとなったのです。

さらに、この部隊を乗せてサイパンに運び強行着陸する飛行部隊として、
諏訪部忠一大尉を隊長とする第三独立飛行隊が指定されました。
この飛行隊はもともとサイパン攻撃のために編成された部隊で、百式司偵を改造した
爆撃機を装備していました。
これを九七式重爆撃機に機種改編し、訓練に入りました。

奥山隊が豊岡に到着すると、すでにそこにはB-29の実物大模型ができていました。
それは丸太で骨組みを作り、胴体や主翼の部分にはトタン板を貼って作ってありました。
これを使って飛行機爆破の訓練が行われます。

前述の「日本ニュース」では、この奥山隊の爆破練習が映されています。
不鮮明な白黒のフィルムではそれが模型とはわからなかったため、当初
「飛行機を爆破するなんて、そんな余裕が日本にあったのだろうか」
と驚いてしまいました。

この訓練は、敵飛行場に着陸後、誘導路を疾走し、B-29に目標を決め爆破する為のものです。
爆破には次の方法が使われました。

まず一つは、帯状の爆薬をB-29の胴体の上に投げ上げて爆破するやり方。
巨体のB-29は、地上から胴体まで4m50もあります。
ここに投げ縄のように爆薬を投げ上げるのですが、特に背の低い者には難しいことでした。
しかし、連日の猛訓練を行ううちに、帯状の爆薬の先についているおもり(砂袋状)が、
まるで自分の身体の一部でもあるかのように自由自在に扱うことができるようになったそうです。

もう一つの方法は、長さ1m50の棒の先に爆薬がついているものを、
翼の付け根に装着して爆破するやり方でした。
爆薬の上面にはゴムの吸盤が取り付けてあって、それを翼に吸着させるのです。
これは、簡単なようで、接面の形状によっては吸盤が上手く吸いつくかどうかが不安定です。

このやり方だと、失敗の可能性もあるので、
爆薬に点火した後これを持ったまま自爆するという案が出されましたが、
奥山隊長は「一人当たり最低でも5機を屠れ」と言って、自爆を許しませんでした。

誘導路上を500m全速力で走る。
目標はまずB-29。
射撃を受けても立ち止まらずとにかくそこまで走り込んだら、
爆薬を装着し、点火管の紐を引く。

点火を確認後、30m避退して伏せる。

ただ、これだけの動作を、連日激しく訓練しました。
単純な動作であっても、入魂の繰り返しを行ううちに、彼らの技術は磨かれ、
全員がその技を神技の領域までに極めていたと言われています。

このように、全員が訓練を通して士気を高めていた奥山隊ですが、それに対し、
彼らを運搬し、彼らと共に飛行場に降りたって爆破行動を下命された三独飛の隊員は、
その使命に釈然とせぬものを抱いていたようです。


飛行機乗りは生還が難しい戦場に赴くのであっても、
それが使命であれば淡々と出撃していきますが、最初から全員戦死を決定された任務、
しかも、操縦ではなく、降り立ってからの破壊行動は、操縦者である彼等にとっては
納得のいかない想いがあったからでした。

そういう意味では、連日火を吐くような猛訓練で結束も固い奥山隊と諏訪部隊では、
どうしても温度差というようなものがあったということです。

しかし、豊岡に来て、飛行隊にも新たな任務が与えられました。
それが前回も言いましたが、
「B-29を奪取して操縦して帰還すべし」
だったのです。

これなら、生還の可能性と共に、飛行隊が切り込む意義として申し分ありません。
彼らには撃墜した飛行機から入手したマニュアルを翻訳したものが与えられ、
全員の士気もこれによってあがってきました。
たとえその作戦を成功させる可能性は極めて低いと思われても。

しかし、三独飛の当初の錬度では、当時の航法機材を使ってサイパンまで飛ぶのも危ぶまれ、
19年12月の出撃中止以降、様子を見ているうちに、敵は硫黄島に攻撃を始めました。

この作戦はサイパンまで飛ぶにあたり、硫黄島で給油しなければならなかったので、
ここが使えなくなるということは、作戦自体が実行不可能になってしまいます。
奥山隊を浜松に召集し、連日待機させましたが、硫黄島には着陸することも不可能になったため
ついに1月30日、サイパン強行着陸作戦は中止になりました。


奥山隊の隊員たちは、依然特攻隊という組織のままで、宮崎県の飛行場に戻ります。
いわば全員が目標を失って傷心の原隊復帰でした。


2月になってアメリカ軍は硫黄島に上陸しましたが、激しい抵抗を続ける日本軍のため、
3月に入っても主陣地を攻略することができませんでした。
しかし、その中にあってすでに島内の飛行場は抑えられてしまっていたので、
大本営はここに義烈空挺隊を投入することを計画します。

呼び寄せられた奥山隊は、喜び勇んで馳せ参じ、またもや猛訓練に励むようになります。
サイパンと違って、今回は敵中に突入することから、前回とは戦法も変更しました。

ところが、またもや作戦は中止となってしまいます。
3月25日、栗林中将以下、最後の突撃を敢行し日本軍が玉砕してしまったからでした。

日本軍が物量の前にじわじわと侵食され、前線を後退していくのを目の当たりにしながら、
特攻隊として編成された義烈空挺隊、ことに奥山隊が、
いつになっても死に場所を与えられないもどかしい思いに、いかに身を苛まれていたことか。

奥山隊は、最終的に4機が不時着したため、戦後も隊員が生存しており、
この期間、隊員たちがどのような精神状態でいたかの証言が残されることになりました。
いわく、

「豊岡や西筑波にいて身近に空襲を体験し、激しい闘志を燃やしているときは迷いはないが、
目標を失い、その頃まだ平穏な日向の片田舎に在って、
しかも特攻隊という名を負い続けていることは、耐えがたいことだった」




昭和20年4月、敵は沖縄に四個師団をもって上陸してきました。
この頃、知覧を中心として航空特攻の数は熾烈を極めていましたが、
4月15日、選抜した戦闘機二一機で飛行場を制圧しつつ特攻攻撃をかけたところ、
それが多大な戦果をもたらしたことから、義烈空挺隊の起用が三度検討されることになります。

奥山隊は宮崎を発って熊本の健軍飛行場の三角兵舎に入りました。
宮崎を後にするのはこれで三度目です。
―三度も身辺整理のために私物をまとめ、送り先を書いて司令部に託してきたが、
はたしてこれが最後となるのだろうか―
彼らの心境はまさに「三度目の正直たれ」というものであったことでしょう。

驚くべきは、日本の戦況に自らの運命を心身ともに翻弄されていた半年の間、
奥山隊からは一人の脱落者も出なかったということです。
彼らがその間、どんな日々を送り、どんな気持ちで当日を迎えたのか、記す書物は少なく、
それはすでに想像するしかありません。

 

空挺部隊は夜襲を目的としているので、訓練は夜行い、昼睡眠をとりました。
同行した日本ニュースの社員大峯氏は、その最後の日々、
昼間皆が寝ている横で、奥山大尉と諏訪部大尉がパチリ、パチリという音をさせながら
無言で碁を打っている様子を記憶しています。

出撃予定日は5月23日。
義烈空挺隊が飛行場を制圧している間に、陸軍第6航空軍と海軍第5航空艦隊は、
総力を挙げて特攻攻撃を行うことになっていました。
ところが、激励の辞、訓示、乾杯とすんで愈々搭乗となってから、海軍から報告が入ります。
「沖縄方面天候不良につき作戦延期」

明けて5月24日。
この日が、義烈空挺隊の最初の、そして最後の特攻出撃の日となります。


前回、彼ら全員の顔を輝かせているような歓喜の表情はどこから来るのか、と書きました。
今から死にに行く人間が、一人残らず微笑みを浮かべ、嬉々と死地に赴くのは何故かと。


彼らが特攻隊として編成され、共に死ぬためと個々の想いを押し殺して訓練に励み、
あるいは覚悟と恐怖のはざまで苦悩してきたであろうこの半年、
各自に去来するさまざまな想いをまるで弄ぶかのように、運命は彼らを地上に留め続けました。

それが彼らを、胃の腑をかきむしるような悔しさと、もどかしさと、或いは、
「やるならひと思いにやってくれ」とでも言いたくなるような精神状態に陥れたことは
想像に難くありません。

「全員が喜び勇んで往きます」

奥山大尉が挨拶で述べたこの一言には、嘘偽りの無い彼ら全員の本意があったと考えます。

実際平和しか知らない我々には、その本意自体理解しがたいものであるのも確かです。
それでも、それが虚勢でも誇張でもない真実であろうことは、彼らの表情が物語っています。

冒頭の隊員のように、「義烈空挺隊」の幟を誇らしげに掲げ、
マスコットの人形と共に、まるで弾むような足取りで搭乗機に向かう彼らは、
もしかしたら、本当に晴れ晴れとした、子供のような気持でその日を迎えたのかもしれません。







義烈空挺隊強行着陸せり

2012-05-24 | 陸軍



先日訪れた知覧特攻平和会館の展示の中に、義烈空挺隊のコーナーがありました。
この突入特攻部隊についての資料の前で立ち止まっている見学者はあまりなく、
航空特攻隊の陰に隠れて、知名度の無いこの空挺特攻に対する認知度の低さを見るようで、
胸が痛みました。

ほとんどの日本人がそうであるように、アメリカ戦史の記録に残る

Giretsu Airborne Attack

の、「ギレツ」という名前をご存知の方はそう多くはないのでしょうか。


昭和20年4月1日。
アメリカ軍はついに沖縄西海岸から上陸し、二日後には飛行場の使用を始めました。
この飛行場に空挺部隊を乗せた爆撃機を強行着陸させ、破壊活動を行うのが、
義烈空挺隊に科せられた使命です。

さらに飛行隊は
「敵B-29を奪取し、これを操縦して帰還すべし」
という任務を命じられていました。

作戦名を義号とする、この決死ならぬ必死作戦のために、
奥山道郎陸軍中尉
を隊長とする義烈空挺隊(陸軍第六航空隊所属)は
その前年から訓練を積み重ねてきていました。

部隊総員は136名。
この中には着陸後の諜報活動を任務とした陸軍中野学校出身の10名が含まれます。

これら空挺部隊を運輸したのが、諏訪部忠一大尉以下32名からなる第三独立飛行隊。
この三独飛の操縦者は全員爆撃隊の出身者です。




日本ニュースで報道された義烈空挺部隊の映画タイトル。
この部隊136名は、結成期から何度にもわたって計画された突入作戦の中止、さらに
その間の訓練期間を通じて最後の瞬間まで非常に士気が高く、一人の欠員も無く決行日を
迎えたということです。

彼らは墨を軍服に塗って偽装し、さらに爆薬と爆弾を体中に纏って武装していました。


このとき、「日本ニュース」の企画であった大峯淑生氏と、カメラマンの藤波次郎氏は、
寝食を共にして取材してきた義烈空挺隊の突入の様子を記録する為、
飛行機に乗せてくれるように頼みました。

しかし部隊長の返事は
「我々の突入は十中九・九割生還を期さないものだ。
報道班員を死なせるわけにはいかない。一般人の同乗はお断りする」
というものでした。

出撃当日、訓示をする奥山大尉の様子と肉声が、今日フィルムに残されています。



奥山大尉が母親にあててしたためた遺書。
最後の文章は
「道郎は喜び勇んで往きます。
二十有六年の親不孝を深くお詫びします」



その遺書と同じ「全員喜び勇んで往きます」という言葉が、奥山大尉の出撃前の挨拶にあります。



出撃前の隊員の表情には、不思議なくらい陰りがありません。
機に乗り込む、つまりこの世で最後に踏みしめる大地を歩く皆の口元には微笑みが浮かび、
その表情は日本ニュースで『子供のように』と評されるように無邪気ですらあります。

冒頭画像は、最後の搭乗前に奥山大尉(左)と諏訪部大尉が握手する瞬間。
この写真を撮る前、カメラマンがシャッターを切りそこない、もう一度、と頼みました。
奥山大尉がその時「千両役者は忙しいなあ」と言ったので、曽我部大尉始め、
周りにいる全員がそれにつりこまれて笑っている瞬間が記録されることになりました。

彼らがこの解脱とも達観とも言える境地に至ったのには、
全員での連日にわたる激しい猛訓練による連帯感と、
奥山隊長を信頼し全員で一丸となって士気を高めてきた結果であると言われていますが、
それだけではありません。
部隊編成以来、この日に至るまで彼らがたどった道を語らずして、
この表情の表わすものを知ることはできないと思うのですが、それについては次回に譲ります。


昭和20年5月24日午後18時40分。
攻撃隊136名、搭乗員32名を乗せた12機の爆撃機は、健軍基地を離陸しました。



突入に際し、航空部隊は電探(レーダー)を避けるため、海上30メートルを這うように進みました。
これは爆撃機にとって危険すれすれの高度でもあります。
しかし、敵戦闘機に発見されたときにも攻撃を受けにくい機位でもありました。

発進して2時間30分後、知覧と健軍基地は義烈空挺隊からの最初で最後の報告を受けます。
「只今突入」
そしてその5分後、戦果確認のため同行した飛行機が
「諏訪部部隊着陸成功」
と報告してきました。

さらに20分後。
危急を告げるアメリカ軍の生文が次々と入ってきました。
「北飛行場異変あり」
「在空機は着陸禁止」

健軍を離陸した飛行機のうち4機は、故障や航法未熟で引き返し不時着。
戦果確認の飛行機は義烈のうち「計6機が着陸コースに入った」ことまでは見届けましたが、
このうち胴体着陸して、空挺隊が破壊活動をすることができたのは一機でした。
この飛行機からは10名の空挺隊員と操縦員が基地に降り立ち、

戦闘機2機、輸送機4機、爆撃機1機破壊
爆撃機1機、戦闘機3機、戦闘機22機損傷、合計26機被害
さらに
ドラム缶600本の集積所2箇所を爆破し炎上、70,000ガロンの航空機用燃料焼失

これだけの被害を与えています。


しかしながらこの戦果に対する我が方の自己評価は必ずしも高くありません。

「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、
洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。
引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」


と第6空軍司令官が嘆じたように、奥山隊の戦闘力については着陸に成功さえすれば
絶対の信頼が持てるものだったにもかかわらず、作戦を共同で企画していた海軍が、
義烈の成果を待たずして、その前日に特攻機を多数出撃させてしまっていたため、
この好機に艦船攻撃で大きな成果を上げることはできなかったのです。

この日、第6航空軍は120機の特攻機を用意しましたが、
天候不良で離陸したのは70機、
突入を打電してきたのは24機。

アメリカ側の報告によると、そのうち13機のカミカゼが12隻の艦船に命中したとありますが、
司令が尻切れトンボと称したように、義烈の奮闘と多大なる犠牲は評価されても、
義号作戦と名付けられたこの作戦全体の戦果は、期待したものより少ないものであった、
というのが日本側の認識です。




しかし、アメリカ軍にとって、2日にわたる空港閉鎖と、米軍18名死傷のこの
Giretsu Attackは、作戦として成功したものとみなされており、
日本側より、むしろアメリカの軍事関係者にも評価されています。


強行着陸した隊員のうち一人は翌日25日の昼1時、島の南で射殺されたとみられています。
また、さらに一人が敵中突破を果たし、生還して戦果を報告したという陸軍の機密情報には
残されていると言いますが、その真偽や隊員の姓名などは明らかになっていないそうです。



義烈空挺隊の兵士たちが突入して、今日でちょうど67年目になります。

それにしても彼らのこの屈託の無い表情は、いかなる精神の上にあらわれるものでしょうか。
その部隊錬成、そして突入に至るまでの彼らの日々について、稿を新たにしたいと思います。





「乙女のゐる基地」と二人の特攻隊員

2012-05-13 | 陸軍

       

昭和20年4月26日。
陸軍航空本部の監修によってこの映画「乙女のゐる基地」が公開されました。
先日訪れた知覧の特攻基地から初めて沖縄に向けて特攻隊が飛び立ったのはその一か月前、
3月26日のことです。

この映画の撮影は千葉県の下志津教導飛行師団、銚子飛行場で行われました。
若い女性が、まるで自分の子供のようにいつくしみながら手に掛けて整備した飛行機。
彼女らに感謝しつつ特攻隊員が出撃していくラストシーン。

戦士たちの尊い犠牲と、それを支える乙女たちをこの上なく美しく謳いあげて、
国民の共感を呼び、また覚悟を訴える「国策映画」そのものです。


実際に陸軍基地で撮影されているので、使われている飛行機は当然ながら実機。
実際の離着陸も、勿論のこと陸軍の搭乗員が行っているのです。

この頃の日本の経済状態はジリ貧ですから、それを反映してセットは一切無し。
外で集音マイクは使わなかったのか、セリフは全て屋外のシーンでもなぜかエコー入り。
しかも、出演者の滑舌の悪さと音響のお粗末さ、さらに当時の日本語の言いまわしで、
何を言っているのかさっぱりわからない個所多数。



訳があって、台湾で発売されているDVDを購入したので、字幕は中国語です。
分からないところはこれを見て推測していたという・・・。
因みにこれは笠智衆の演じる隊長ですね。

そして主人公の乙女たちなのですが、主演の「秀ちゃん」が、こういう人。



この娘が、近所の婚約者(佐野修二!)との結婚と仕事の両立に悩んだりします。
いやまあ、主役が必ずしも美人でなくてもいいんですが、そして、この子はこの子なりに、
可愛いとは思いますが、若いし、朗らかそうだし、なんと言っても清楚だし。



昨今のテレビや映画の女子軍団ものは、フライトアテンダントも医者も新幹線の係員も、
「こんな不自然に美人ばっかり集まってるわけないだろっっ!」と突っ込んでしまうわけですが、
(昔やってた弁護士事務所ものは酷かったなあ)
集団に一人美人がいるくらいの方が、リアリティがあっていいですよね。
ということだと理解。
この娘は準主役の美人さん。



ところでこのイケメン中尉ですが、これ誰だと思います?

答えは安部徹。
後年ヤクザ映画のコワモテだった俳優さんですが、なんとこの頃は二枚目俳優でした。
トラ!トラ!トラ!では草鹿龍之介長官役をしていましたね。


映画は、整備隊として健気に頑張る少女たちと、それを見守る基地の隊長や整備隊の
雇員(東野英治郎)、そして搭乗員とのふれあいを描きます。

隊長が「あんな仕事をさせていたらだんだん女らしさが無くなるんじゃないか」と心配したり、
「中尉殿、お靴に泥が・・・」と士官のブーツを手で拭ったり、
秀ちゃんの婚約者の父が、
「あの娘は気が強いのが難だが、まあそれくらいの方が使いでがある」と言ってみたり、
婚約者が自分の穴のあいた靴下(しかも匂いつき)を秀ちゃんに平然と繕うために渡したり、
上野千鶴子が見たら憤死しそうな表現多数。

この短い映画から当時の女性が社会的にどういう存在であったかが覗い知れます。

しかし、考えても見てください。
この頃の男性は、銃後の女性のために、死んでいったのです。
この苛烈な現実の前には、甘っちょろい男女同権だの女も男の地位をだの、
そういった「平和時の論理」など、はっきり言ってちゃんちゃらおかしく思えてきます。

そこでふと考えたのですが、
「反戦」と「男女同権」というのは根を同じくするムーブメントではありますまいか。
いや、わたしは基本反戦論者であり、男女は同権であるべきだとも思っていますがね。

ただし、この世界には、反戦を訴えていようがいまいがどうしても戦わなくてはならない時があり、
男女はそれぞれの特性に応じた権利をのみ有するべきで、何が何でも同権である必要はない、
という条件付きですが。


さて、先日訪れた知覧の「富屋食堂」の鳥浜トメさん、通称「特攻の母」の娘さんが、
戦後「ホタル帰る」という手記を書いています。
それによると、彼女、礼子さんがなでしこ隊の一員として三角兵舎で働いていた4月、桜の頃、
熊本出身の二人の少尉が、この映画の主題歌を礼子さんに教えると言って聴かず、
礼子さんは何度も一緒に歌って覚えさせられたというのです。

この映画のラストシーン、特攻隊員が整備隊の彼女らに挨拶し、飛び立っていくシーンから、
この歌は始まります。



原曲は別の調ですが、譜面を見やすくするために二短調で採譜しました。

よく有る感じの戦時歌謡調で、決してこれ自体有名な曲でもありません。
悪くはないが、どこかで聴いた感じ、一口で言ってそんなメロディなのですが、この曲を
二人の少尉は、一生懸命礼子さんに教え込み、そして口癖のようにこう言っていたそうです。

「鳥浜さん、僕らが死んだら、この曲を歌って僕らを思い出してくれよ」


この二人はまた、
「実は俺たち、この映画に出演しているから、是非観てくれよ」
とも言っていたというのです。
戦後、何十年もたったある日、礼子さんはこれを見ました。
しかし、礼子さんには二人を見つけることは出来なかったといいます。

映画には何シーンか、本物の搭乗員が遠景に映るシーンや、後ろ向きのシーンがあり、
もしそこに二人が映っていたとしても、ただでさえ不鮮明な当時の映画ですから、
認識することができなかったのでしょう。



特攻隊員が最後に飛行機に向かう後ろ、操縦席から降りてくるところ。
こういうところにもしかしたら彼らはいたのかもしれません。

 

 

 

もしかしたら、乙女らが整備をする向こう側を「轟沈轟沈」という唄を歌いながら行進している
搭乗員たち、ここにいたのでしょうか。
この映画にはこの二人だけでなく、陸軍航空隊でその後知覧から特攻出撃した隊員が
部隊ぐるみで出演したのだそうです。



乙女たちとバレーボールに興じる隊員たち。
「出演した」というからには、こういうシーンに映された可能性もあります。
しかし、現在の鮮明なDVDでも判然としないのですから、礼子さんが見たビデオテープでは、
おそらくどこにいたとしても、見分けることなど不可能だったと思われます。

彼らは、映画のカメラを向けられ、そしてその映画が特攻隊の出撃で終わることに、
並々ならぬ思い入れを持ってこの曲を歌っていたのでしょう。

まだ公開していない映画の主題歌を知っていたということは、もしかしたら、彼らは、
映画のスタッフが撮影に来ている間に、それを彼らか、
或いは整備隊役の女優たちの誰かから教わったのでしょうか。



最後の出撃する6人の特攻隊員は勿論全員役者であると思われます。
(特攻隊の役として本物の搭乗員を使うとは考えられませんから)
それにしても、このときかれらが飛行機に向かって歩いていく様子は、
演技とはとても思えないばかりか、威容すら湛えており、圧巻です。

 

愛機を整備してくれた娘に向かって最後に微笑みかける隊員。
この瞬間、二人は「愛し合っている」とも言うべき共感で結ばれている、そう思わせるシーンです。


「映画を観てほしい」
「この歌を歌って自分を思い出してほしい」

それはとりもなおさず、自分が何のために、誰のために死んでいくのか、
それを分かってほしい、そしてせめて忘れないでほしい、ということでもありましょう。

映画に出演することになったとき、二人の特攻隊員は、
自分の生のよすががこの映画に刻まれたと思い、或いは歓喜したのかもしれません。
そして、後世の人々が在りし日の自分の姿を目にすることを、
せめてもの慰めにしながら出撃していったのかもしれません。


この映画のラストシーンで、清純な乙女たちと最後の微笑みを交わす特攻隊員は、
そのまま彼らの姿でもあるのです。

たとえ彼らの姿がはっきりと映し出されていなくとも、二人の特攻隊員、
柴田秋蔵少尉と松田豊少尉がこの映画のどこかに、この光と空気の中にいたことを、
この曲のもの哀しい旋律と共に、心にとどめておきたいと思います。



乙女のゐる基地

御国を想う真心は いかで男子におとるべき
基地に咲く花 紅き花 叫べこの夢 吾が翼 
我は乙女の整備隊

ますらおなれや 生還を期せぬ門出の高笑い
神をおろがむ国のため 駆けれ吾が夢 吾が翼
我は乙女の整備隊











鈴木貫太郎と安藤大尉

2012-04-25 | 陸軍



二・二六事件の一年後、その時に反乱の青年将校の襲撃を受け、重傷を負った侍従長、
予備役海軍大将の鈴木貫太郎が、海軍士官の会合で、事件を語りました。
そのとき語った内容は、当事者の事件への証言として、あらゆる書物に引用されています。

鈴木大将は当時侍従長。
尊王討奸を掲げる反乱将校たちが、天皇の大御心の発現を妨げる根源と考えていた
枢密顧問官の地位にいたことから襲撃対象にされました。
鈴木邸を襲った部隊の隊長は安藤輝三陸軍大尉
穏やかで静かなその人柄は部下に慕われ、事件に関しては最後まで慎重だったと言われます。


今日は、鈴木大将自ら証言した事件当夜の様子と、大将から見た安藤輝三大尉についてです。


二月二十六日の夜、鈴木邸の女中が
「兵隊さんがたくさん来ました」
と鈴木に将兵の来訪を取り次ぎます。
鈴木はもうそれだけで、五・一五事件を想起しただならぬ事態であることを直感しました。

床の間の白鞘の短刀を取って抜き、中をあらためるも、役に立ちそうにないと判じ、
鈴木は、納戸にダンビラを取りにいきます。
しかし、いくら探してもそれは見つかりません。
泥棒でも入ったときに物騒だと言うので、鈴木の妻が、事件の数日前に風呂敷に包んで、
別の場所に移してしまったところだったのです。

刀を探しているうちに、兵隊がたくさん入ってきた様子を察知した鈴木は、
八畳間に再び戻り、明かりをつけました。
これは、納戸などでごそごそやっているときにもしやられてしまったら、
まるで吉良上野介のようで、まことに具合が悪い(かっこ悪い?)と考えたためだそうです。

八畳間に佇む鈴木を侵入してきた兵が三方取り囲み、銃剣を構えました。
最早これまで、と無抵抗にじっと立ち尽くす鈴木の周りで、全員がしばらく無言のままでした。

「静かになさい。理由を話したまえ」
下士官らしい男が
「閣下でありますか」
と言いました。
「そうだ。まあ静かに・・。何か理由があるだろう。話したまえ」

しかし相手は何も言わず、
「簡単でよいから話したらどうか」
と三度聞いたところで、
「時間がありませんから撃ちます」
と言うや、ピストルを構えました。

「撃ってみろ―アアお撃ちなさい」
鈴木がこう言うや、

一弾  外れて唐紙を貫く
二弾  腰にあたる
三弾  胸にあたる

四、五弾は一つは肩をかすめ、一つは頭にあたりました。

至近距離でありながら命中率が低いのは、撃った下士官の極度の緊張のせいでしょうか。
鈴木が倒れると、緊張したその体は、しっかりとたたみに手を押しつけていたのですが、
下士官は自分の掌をたたみと体の間に無理やりこじ入れて脈を見ました。

「まだ脈があるからとどめを刺しましょうか」
下士官がこう尋ねると、一間(1、8メートル)離れて端坐し、全てを見ていた妻のたかが、
「とどめだけはやめてください」
と嘆願しましたが、これに返事する兵はいませんでした。
誰もこれに対してどうなすべきかを決めることのできない者たちだったのです。

映画では、鈴木襲撃のシーンで、斃れた鈴木にたかが覆いかぶさって命乞いをする様子が
多々描かれていますが、実際はたかは端坐していたその場所から動かず、
「とどめうんぬん」と周囲が言いだしたのでそれに対し声だけをかけたようです。

誰も答えられないので一人の兵が女中部屋に走って行くと、士官が来て
「とどめは残酷だからやめよ」
と言いました。
これが安藤輝三大尉であったと考えられます。

実は、鈴木の証言と、それを聞書きした人物の表現が実に曖昧で、
ここの前後関係が、この文書からはよくわからないのです。
鈴木が倒れてからすぐに「とどめはやめよ」と言った人物が安藤なのか、そして、
安藤はなぜ鈴木を撃ったときにそこにいなかったのか。
なぜ兵が女中部屋に安藤を呼びに行ったのか。安藤はそこで何をしていたのか。


ともかく、中隊長の安藤大尉の意向により、鈴木はとどめをされませんでした。
そして安藤大尉は
「閣下に敬礼!」
と号令をかけました。

二、三十人の兵隊が折り敷きの姿勢(右を立て左足を折る銃撃用の姿勢)で捧げ銃をしました。
鈴木は朦朧とした意識の中で、安藤が、妻のところへ行き、
何かを話していたのを認め、記憶にとどめています。

このときに安藤大尉はたかに向かってこう言ったのでした。

「我々は閣下に対し毫も恨みを持つものではありませんが、
躍進日本に対して意見を異に
するため余儀ない次第であります」
「それはまことに残念に存じます。なにとぞお名前を伺わしてください」

士官は容(かたち)を改めて
「安藤輝三」
と名前だけを称し、整列して引き揚げて行きました。


鈴木貫太郎は安藤大尉と面識がありました。
「政治の革新について御意見を伺いたい」
そういって鈴木に面談を求めてきた安藤に対し、鈴木は自分の意見を率直に語りました。

軍人は政治に関与してはならぬ。
軍人は専心国防に任ずべきものである。
国防は敵国に対してなされるものである。
つまり、鈴木は今日でいうところの「シビリアン・コントロール」、政治と武力の分離を、
安藤に語ったと思われます。

「ヒトラー、ムッソリーニですら国防軍を私に政治に用いていないではないか」

このときに安藤が鈴木に語った主張と言うのは
「現下の日本は、荒木大将を総理大臣にせねば国はダメになる」。そして
「兵隊を多く出している農村であるが、これは今疲弊している。
兵が後顧の憂いを持たないように、軍隊の力で改良せねばならぬ」

これらの安藤大尉の主張に対して、鈴木の意見は
「後顧の憂いなどと言うことを考えるのは、民族として愧ずべきことではないか。
ましてや農村を軍隊の手で救わねばならぬという考えにおいておや」

鈴木は、フランス革命の際、列国は兵を以てこれを干渉しようとしたが、
フランスの軍隊は敢然と起って国境を防ぎ、敵を防いだことを引用しながら、
彼らが革命をあくまで国内の危急であり、国を滅ぼさんとするものではないと考え、
これゆえ外からの干渉を断固排除し、まずフランスを守ったことを安藤に話しました。

農村が疲弊しているから後顧の憂いがある、戦争に臨めないというのならば、
そういう民族は滅亡するのが当然である、日本はそんなものじゃない。
フランスにできて日本にできないことはない。

二時間を超す打ち解けた会話が終わり、安藤が家を辞するとき、
「非常に有益なことを伺いありがとうございました。
時々お伺いしてお話を承りとうございます」
「いつでもよろしい」
二人はこう言って別れました。

安藤大尉は鈴木の家を出てから、同行した二人(民間人)に、

「鈴木閣下は、話に聞いたのと会って見たのとでは、大変な違いだ。
今日は実に愉快に、頭がサッパリした。ちょうど風呂に入って出たときのようだ」
と話したとのことです。

安藤大尉はこの日の会話を通じて、鈴木大将に相当の尊敬の念を抱いていたのでしょう。
面会の数日後、人を通じて記念に何か字を書いてくれ、と頼んできたので、鈴木が
書を贈呈したところ、安藤はそれを事件の時まで自室に掛けていたそうです。

しかし、その話を仲間に語って、ある者からは裏切り者の如く言われたという話が示すように、
安藤大尉の置かれていた抜き差しならぬ立場では、いくら鈴木の話に共鳴したとしても、
皆を説得することは無論のこと、自分が転向することもすでに不可能だったのです。


侵入してきた兵に取り囲まれたとき、鈴木は旧知の安藤大尉を認めていません。
鈴木邸に侵入しながら、なぜ安藤大尉は鈴木と対峙することを避けたのでしょうか。
なぜ鈴木銃撃の瞬間その場にいず、女中部屋にいたのでしょうか。


襲撃した要人にとどめをさすことは、将校たちの間で規約として決まっていたそうです。
かつてその人柄に触れ、今なお親愛の情を持つ鈴木と、殺人者という立場で向き合い、
そして、鈴木がその目に自分を認め、何かを語りかけてくるであろうことが、
安藤大尉は怖かったのでしょうか。

鈴木に自ら手を下さず、下士官である部下に任せて、自分は別室でその銃声を聞いていた。
そう考えるのは、あまりに安藤大尉に甘い幻想を持ち過ぎているでしょうか。


この事件で襲撃された海軍軍人が三名(岡田啓介総理、斎藤實内大臣、鈴木)いたことから、
海軍は、すぐさま反乱軍への徹底抗戦を決めます。
陸戦隊を配備し、第一艦隊を出動、戦艦「長門」以下各艦の砲は、
全て陸上の反乱軍に向けられました。

「もしクーデターが成功したとしても、陸海軍間に深刻な対立の段階を迎えたことは必然である」
とウィキペディアは記します。


安藤大尉は鈴木邸を襲撃後去るとき、女中に向かって
「閣下を殺した以上は自分も自決する」と言い残しましたが、自ら喉元を撃ったにもかかわらず、
搬送された陸軍病院で、――裁判と処刑を受けるためだけの一命を取りとめました。

その後、7月26日、安藤照三大尉は他の反乱将校と共に刑死します。
刑までの数カ月の間に、かれは獄中で自分が止めを刺さなかった鈴木貫太郎が
命を存えたことを聞き知ったでしょう。


これも想像ですが―そのとき、安藤大尉は、ひそかに安堵したのではなかったでしょうか。







岡部さんの戦争

2012-03-27 | 陸軍

          


小さいときこの本を読んだことのある方はおられますか?
ヘレン・バーナマン作「ちびくろサンボ」の第一巻です。
大阪の偏執的な差別運動団体(というか一家族)の訴えにより、絶版された、あのシリーズ。

わたしも小さい頃これを読んで育ちました。
トラがぐるぐる回って溶けてバターに、という発想を、子供心に実に楽しく受け止め、
そのバターで作ったホットケーキを食べてみたい・・、と、心から思ったものですが、
それにしても、今考えてもこの話がなぜ「黒人差別」なのか、わかりません。

黒人を黒人のように描いてあるから?
黒人を白人のように描くことの方が問題ではないですか。
肌を黒く描くのが「差別」?
それなら黒人を主人公にした本の挿絵は一切描けなくなります。
つまり「黒人を主人公にするな」ってことなんでしょうか。
それこそが差別なんでは?

差別の意図を持って製作された諸々のものでなく、どう考えても「それは目的ではない」
という表現のものに、この団体(というか一家族)は次々と噛みつき、
悉く出版止め処分を勝ち取り、得意になっていたようです。

手塚治虫全集を、何コマかあったこの表現のために全巻差し止めにした、
という話を聞いた時には、わたくし怒り狂ったものですが・・・。
そういえばサイボーグ009にもこういう肌合いのメンバー、いませんでしたっけ。
俎上に乗せなかったんでしょうかね。アフリカ出身。
「風と共に去りぬ」は?黒人奴隷が出てきますよ。
ドストエフスキーの「白痴」、ゴダールの「気狂いピエロ」、
そうそう、ロビンソンクルーソーの挿絵もまずいぞ!
谷川俊太郎の「人喰い土人のサムサム」っていう唄、わたしはシュールで好きなんですが、
これなんか一発アウトですね。

超余談ですが、こういう歌です。ご存知ですか?

人喰い土人のサムサム おなかが空いてお家へ帰る 甕の中の亀の子を食べる
七口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム とてもさむい

人喰い土人のサムサム おなかがすいて隣に行く 友だちのカムカムを食べる
二口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム 一人ぼっち

人喰い土人のサムサム おなかがすいて死にそうだ やせっぽちの自分を食べる
一口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム いなくなった

(コメントなし)

さて、この「ちびくろサンボ」が今は復刻版で買えるようになっているそうですね。
このたびわかりました。
よかったよかった&ざま―見やがれ。

ここまでが前置きです。


で、この挿絵なのですが、本日画像にしたのは原作のフランク・ドビアスのもの。(模写よ)
このシリーズの第二巻、ドビアスのサンボ(この名前も侮辱的なんですと)くんを真似して?
そのままのイメージで描いたのが、漫画家、岡部冬彦です。
そのほかにも岡部氏は「きかんしゃ やえもん」などと言う作品で有名です。
今日はこの漫画家岡部冬彦の戦争についてお話します。


この岡部さん、東京芸術大学の美術学部図案科を卒業してすぐ学徒出陣で召集され、
陸軍の見習士官として昭和18年12月、フィリピンのセブ島に駐留しました。
図案科、というのは今のデザイン科と言うことでしょうか。

所属は暁6142部隊。暁部隊は通称で、陸軍船舶兵です。
陸軍もフネを持っていて、ダイハツと言われる上陸用舟艇はじめ、揚陸艦、駆逐艇、
一隻だけでしたが護衛空母もありました。

船舶兵器を効率的に運用するために存在した兵種で、
先日お話した「まるゆ」はこの部門の潜水艦です。
ちょうどまるゆの運用の頃に誕生しており、
海軍的仕事を海軍の手を借りずにやったる!という意図で作られた、
ある意味陸海軍間の祖語の賜物でした。

まるゆのように、連絡艇の「れ」から名付けられた「まるれ」というフネもあり、
これは正式名称が「四式肉薄攻撃艇」といいます。
文字通り後期には特攻艇として基地まで持っていたものですが、
それにしても、陸軍のフネは、ネーミングがいまいちな気が・・・。

船舶兵は非常に目立つ「ネイビーブルーの台に錨と鎖」のマークのついた
「船舶胸章」を胸につけていました。

岡部氏の所属したこの暁部隊は、任務はレイテ島への補給が中心。
戦闘には一切加わらない任務でした。
部隊の隊員はほとんどが学徒動員、しかもほとんどが東京出身の大学生。

こういう娑婆っ気の(おっと、陸軍では『地方ッ気』でしたか)ただでさえ抜けない学生連中が、
戦闘もないのんびりした島ですることと言えば。

「ほんと南の島に学童疎開したみたいな感じしかありませんでしたね。
なにしろ朝から晩までキャーキャーはしゃぎまわっていただけでしたからね」
(本人談)

・・・・なにやってんですか。

しかも、補給が任務なので、食べ物はふんだんにあり、『メシは食い放題』。
補給船がセブの浅瀬に乗り上げてしまったときは(これは・・・・事故ですよね?)
積んであったビール(サン・ミゲールビール)を皆で飲んで、朝っぱらから酔っ払っていたそうで。

学生って、今も昔も平和であればこんなものなんですよね。
いや、わたしは、お行儀の良い学校におりましたので、あくまでも近隣で付き合いのあった
某国立大学の学生のことを言っているのですが。

軍律厳しい中なれど、これが見捨てておかりょうか。
しっかりせよと抱き起こしたら、戦友は朝っぱらから二日酔いで酒臭かった、などと、
他の英霊に少しは申し訳ないとは思わなんだのか。
しかし、自戒と自省を平和時の学生に求める方が、無理。

しかもその学生が隊長だったりするので、彼らの学生気分は留まるところを知らず。
夜になるとムード満点椰子の木陰、みんなこぞってハワイアン・ソング大合唱。
ギターを奏でるのは灰田勝彦も在籍した、名門立教大学ハワイアン・クラブ出身の学生。
歌ったり、敵国アメリカの映画について熱く語りあったり、いやまったく、

「じっさい、国費で修学旅行に行かせてもらったようなものでした」

このような戦争の現場もあった、ということなのですが、驚くのはまだ早い。
岡部氏、このあと、内地帰還。
こたびは特幹隊の区隊長要員という立場で、小豆島に赴任します。

この特幹隊についても少し説明すると、正式には
「船舶特別幹部候補生隊」と言います。
さきほどの「まるレ」の要員、しかも一四歳の少年ばかり2千名が、この「肉薄艇」で、
文字通り特攻兵器となって戦うために訓練されていたというのですが、
どうも岡部氏の話を聞くと、様子が変です。

「フネがないからあそんでばかりいた」(本人談)

またですかい。
ここでも小豆島の自然の中で、魚を釣ったり、水泳をしたり。
ここには空襲も来なかったそうです。
実に不思議なのですが、こういう戦場を渡り、戦争の戦争らしさを全く知らず、
戦争に行きながら楽しい思いばかりして帰って来た人、というのもどうやらいるようなのです。

小林よしのり氏の親せきで、中国大陸に行って美味しいものを食べ、戦闘もせず、
まるまる太って帰ってきた人がいる、という話を読んだことがありますが、
岡部氏もそういう幸運な戦争従事者の一人だったということでしょう。

昭和二十年八月。
遊んでばかりの日々が続いていた岡部さんの部隊が、何故か各中隊ごとに野営に行かされます。
「奇妙なことをするな」
と思ったのですが、それが8月11日ごろのこと。
つまり、終戦の勅が渙発される直前で、上層部はすでにそれを受けた動きをしていたのです。

中隊が部隊を留守にしている間に何かあったということなのかもしれませんが、
それについては岡部氏は詳しく語ってはいません。
この時点で日本が負けていたなどとは予備士官候補生ごときに知る術もありませんでした。

俳優の池部良氏は終戦をニューギニアのそばのハルマヘラという島で迎えています。
放送の前日には噂は入ってきていて、厭戦気分に閉ざされていた兵たちが
「バンザイ」「よく負けてくれた」
などと言うのを池部氏は複雑な気持ちで聞きつつも、解放された喜びを感じたと言います。

ところがラバウルにいた将兵たちは士気旺盛で、降伏など考えもしなかったということです。
糧食武器、弾丸も手榴弾も皆手作り。
現地で何でも調達できる状態で、工場すらあり、陸海合わせて十万の将兵が
何十年でも生活できるだけのものは自分で作っていたのだそうです。
ですから、ハルマヘラのような「負けてくれてありがとう」と言ったようなことを言う者はおらず、
敗戦のショックもその分、彼らにとって大きかったということかもしれません。


さて、岡部氏のいた小豆島はどうだったでしょうか。
岡部氏、ラジオを聞いたのだけど、感度が悪く、何を言っているのかさっぱりわからない。
上層部はともかく、岡部氏クラスは敗戦の噂など夢にも知りませんから、

「はあ、これはソ連と戦え、というのだな」

などと解釈していたら、土地の人が

「負けたんだよ」

どうして軍関係者より「地方の人」の情報が確かだったのでしょうか。
とにかく、そうなると、以前にもましてすることが無くなってしまいました。
それで、少年たちと一緒に魚を釣ったり、水泳をしたり、小豆を持ってきて汁粉を作ったり・・・
小豆島だから?)

・・・・つまり、前と全く同じ生活をしていたそうです。







嗚呼陸軍潜水艦~マル秘のまるゆ

2012-03-23 | 陸軍

 



その計画を当初から海軍に秘匿して、まったく陸軍だけの手で作り上げ(ようとし)た、
陸軍潜水艦、まるゆ

まるゆというそのかわいい響きにより一層涙をそそられるのですが、
正式?には、本日画像のように丸の中に「ゆ」の字が入るのです。
マル秘記号と同じですね。
(ユニコードの出し方がわかりませんでした)orz

一部海軍の高官に対して公開実験という形でお披露目をしたものの、
世間的には全てが
鉄のカーテンの中。
というか、あまりにごく一部の部門を動員して作られたので、その存在を知る者は
一般は勿論、
海軍にも皆無と言っていいほどいませんでした。

苦難の末計画立ち上げからあっという間に完成、
いつの間にかその姿を現した陸軍潜水艦。

その後も徹底した防諜網を張ったため、その航行中、
その存在を知らない各方面から、
様々な扱いをされることになりました。


まるゆは昭和19年7月、マニラ方面に

23日の予定のところ51日かかって

到着しました。

冒頭漫画は、やっとこ着いたと思ったら、当地にいた軽巡洋艦木曽から
このような失礼な誰何されたという、実話です。
ちなみに2コマ目の木曽ですが、スケッチをして10分の1に縮尺した自信作です。
(艦だけ描き込み過ぎて他のコマとのバランスが取れていない・・・)

この航行のとき、台湾海域で、哨戒中の米潜水艦が、次のように打電しています。


「我船籍不明の潜水艦発見、南下中」
「船尾に日の丸。しかも浮上航行中」
「日本海軍に非ず。当分監視を続行する」

アメリカ軍もびっくり。軍艦旗でなく、日章旗をつけた潜水艦。
しかも、潜水艦なのに敵であるこちらに気づかず、白昼堂々と海上を浮上航行しています。
これは、まるゆの乗組員に言わせると

「潜水すると航行速度が落ちるから」


ということだったようですが、それなら潜水艦である意味が全く無いのではないかと(略)


海軍の潜水学校の関係者は

「当時笑ったのだが、航行中に木やその他でで偽装していたことである。
空襲を受けた時は海軍なら当然潜航するか、あるいは鎮座するわけであるが、
やはり陸式だなと思った」

と、呆れておられます。


このときも、もしかしたら葉っぱを乗せて海のど真ん中を
堂々と航行していたのかもしれません。

しかし、米潜水艦はこの「ヘンな潜水艦」を攻撃しませんでした。
あまりにも突飛過ぎて、どうしていいかわからなかったとも言えますし、
オトリ作戦ではないかと勘ぐって様子を観ていたのかもしれないという説もあります。

かくのごとく秘が裏目に出て、まるゆが受けた苦難は枚挙にいとまがありませんでした。
画像のようにあからさまに馬鹿にされるくらいならともかく、
まるゆの存在を知らない味方の
海軍艦艇から、何度となく砲撃を受けた、
といいますから穏やかではありません。


一度は、攻撃に対し、手旗信号、帽子や日章旗を振ったり、
司令塔の脇にペイントされた
日章旗を見せたり、陸海軍共通の暗号書をめくって

「我味方なり」

と信号しても、
つまり、何をしても海軍艦艇に信用してもらえなかったそうです。

ほうほうの体で避退して、横須賀鎮守府に厳重抗議しにいったら、

「少しでも怪しい行動がある艦艇は容赦なく撃沈せよと命じている」


・・・・まあ、日章旗は、余計に怪しまれる原因になったかもしれませんね。
まるゆは一度、攻撃してきた海軍艦艇から、
「なにゆえに軍艦旗を揚げざるや」とその点を怪しまれています。

横鎮からは

「今後とも我が艦隊の行動海面には出没せぬことですな」

と、つれなく釘を刺されたまるゆですが、訓練中適当なところで浮上したら、
行動海面どころか、
軍秘で地図にも書けない呉軍港のど真ん中に
ぽっかりと出現してしまったことがあります。

セクスタント(六分儀)の扱いが起用だったというだけで、
教官にされてしまった陸軍少尉の、
「初歩的ミス」でした。

驚く間もなく監視艇が飛んできて引っ張られ、尋問を受ける羽目になったそうです。
このとき尋問した伊潜艦長である海軍中佐はどう思ったかその後まるゆ乗員を励まし、
自分の伊潜に豪華なフルコースを用意させ、彼らを招待しました。
まるゆ御一行様は、まず伊号潜水艦のその広さ、豪華さに驚き、
西洋料理を供する海軍式に感激するとともに、
我がまるゆをかえりみて
トホホな気分になったということです。


食事の話の後になんですが、なにしろ、まるゆときたら、トイレもありませんでした。
海軍潜水艦の射出式トイレなど、作っている場合ではなかったので、

「汲み置き式」。


それ
はドラム缶や桶に溜めており、ただでさえ狭い艦内は
凄まじい悪臭だったそうです。

まるゆは前述のマニラへの航行中、人が丸太のように転がるほどのシケに遭った、
というのですが、それは、一体どうなったのか・・・。

阿鼻叫喚の艦内を想像しただけで身の毛がよだちます。



海軍の艦艇のみならず、まるゆは民間船からの攻撃にもあっています。
朝鮮半島沖を航行していた日本郵船の貨物船「伊豆丸」は、
潜航せずにただじっと浮いている見たこともない潜水艦を発見しました。

軍艦識別のためのシルエットは識別表のどこを探しても無し。
海軍からの無線情報にも該当艦はありません。

「もう逃げられない。戦うべし」


総員が配置につき、ある者はスパナやハンマーを手に、
伊豆丸は船ごとこの潜水艦に突っ込んでいきました。

おりから錨を降ろして休憩を取っていたまるゆ乗員の驚いたの何の。
一旦通過したと思ったら伊豆丸はくるりと船首を返し、
反転して再び全速力で突っ込んできたではありませんか。
衝撃と轟音のショックで寝ていたまるゆの乗員は跳ね飛ばされました。

衝突後、ここにいたってこの潜水艇が
我が国のものであることに
さすがの伊豆丸もようやく気づき、船長は青ざめて謝りに行ったそうです。


船長、機関長共に憲兵隊にさんざん油をしぼられたのですが、

今度はさらに海軍武官府から呼び出しがかかりました。
二人は重罪覚悟で蒼白になって出頭したところ、


「貴官らの敢闘精神は見上げたものだ。
止むを得ざる処置であると同時に寧ろ勇敢な行為である」

と激賞されてしまったというのです。


これはいかなることだったのでしょうか。


海軍軍人で、およそこのまるゆに接触した者は大なり小なり

「素人が無茶しやがって・・・・」
というような感慨を持ったもののようです。

ある海軍輸送船の先任将校は、ある日浮上しながら進む不審な潜水艦を発見しました。
ただちに「総員配置」を命じ、高角砲は水上弾を装填。
全ての対空機銃は仰角を合わせ、一発必中の照準を開始、爆雷は全て安全装置を脱し、
艦全ての鉄砲はこの潜水艦をターゲットに定め、総員の緊張はマックス。

と こ ろ が 。

件の潜水艦、浮上しているのに戦闘態勢を取るでもなく、そのまま通り過ぎていきます。

「あれーっ?」


とか言っていると、なんと、もう一隻があらわれ
同じようにのうのうと前を通過していくではありませんか。

はやる部下たちが「撃ち方始め」を催促してくる中、
「まあ待て、まあ待て」と首をかしげながら見ていると、

そのまま遠ざかって行きました。

息つまるような数十分でした。(笑)
あとからそれが陸軍の潜水艦でることを聞いた先任将校は、


「なんじゃあありゃあ」


とばかりにあきれるとともに、このように書きのこしています。


「それにしても、陸さんにあんな間抜けな行動を取られては、
我々は至極迷惑である!」


驚くことにまるゆは航法など全く無視し、ジャイロコンパスもまともな海図も持ち込まず、

「前の艦を抜かさぬように着いていきさえすればよい」

というような態度で操艦していたそうです。


それでも、予定の倍の日数かかったとはいえ、なんとか目的地に着いたのですから、
「怖いもの知らずというか、素人は凄いと思った」というある海軍軍人の感想が、
この全てを語っているように思います。

まるゆに体当たりした伊豆丸の艦長と機関長をわざわざ呼びつけ、
ほめたたえたこの海軍少佐は、
実は大きな声では言えないものの、

「あんなもんじゃ誤認されて体当たりを食ったとしても当然だ。

あんなヘンなものをうろうろさせている陸軍の方が悪い!」

という陸軍に対する意思表明として、あえてこちらをこうやって庇った、
ってことはないでしょうか。






参考*決戦兵器 陸軍潜水艦 土井全次郎
     陸軍潜水部隊 中島篤巳
     潜水艦気質 よもやま物語 槇幸