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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ちいさなポニーと馬の物語~チッチとサリー

2012-11-23 | つれづれなるままに

彼は馬。
馬としては平均身長だが、成り行き上「のっぽのサリー」から
「サリー」と名付けられた。
小さな彼の恋人は、ポニーのチッチ。

サリーはある日、トレーニングのため、千葉の馬場から
富士山ろくのこの乗馬クラブにやってきた。
厳しいトレーニングを積んで数か月。

ある日この乗馬クラブに彼の千葉での恋人、チッチの姿があった。































註:彼、マックスはこの馬房で唯一のスタリオンである。
牝馬が近くに来ようものならもう大変なのである。

















よくわからない理屈だが、サリーはこの一言で覚悟を決めた。
馬とポニー、しかも去勢された馬とポニーは決して結ばれることはない。
そんな過酷な運命もまた甘んじて受けるのもまた人生。じゃなくて馬生。

馬生というと、読者の中には馬刺しを連想する者もあろう。
この馬刺しというのは文禄、慶長の役当時、
補給線を絶たれ食料が底をついた加藤清正軍がやむを得ず軍馬を食したのが始まりである。

「腹が減っては戦ができぬ・・・・ゆ、許してくれ!」
「馬を食べるなんて外道だがやむを得ん・・もぐもぐ」
「あれ?これ意外とウマくね?」「ウマー・・・・って誰がウマいこと言えと」
「ちょ・・・・・もう一頭追加で」「くーっ、これにしょうゆとワサビがありゃあなあ」
以後、生で馬を食うという馬にとってははななだ迷惑な食文化が日本に根付くことになる。

閑話休題。
とにかく、彼はそんな諦念に至ったのである。









千葉の馬場経営、ケンは日本語がペラペラであるが、
こういうときにはつい英語になってしまうのである。
日本人読者のために説明しておくと、「Holy Cow!」は「聖なる牛」ではない。
「おったまげた!」というときにこの世でアメリカ人だけが使用する言葉で
「聖なる」の後に「神」とか「ジーサス」というのは畏れ多いのでとりあえず「牛」にしているのである。
ちなみに筆者は空港でターンテーブルから出てきた荷物があまり多いので、
「Holy Moly!」
と隣のおばちゃんに驚かれたことがある。









結局彼が車に乗ったのは一時間後のことであった。

現在、サリーは千葉の馬場で立派に仕事をこなしている。
そして馬場の隅には彼の姿を見守るチッチの姿が今日も見られるという・・・・・。




お断り この話は実話をベースにした創作です。



大和の上を飛んだ

2012-10-06 | つれづれなるままに

夢の中でこんな景色を見たことがあるような。
mizukiさんに誘われるまま、セカンドライフの旅をしました。
ヤマト・メモリアムにご招待いただき、行ってきました。

夜だったので、海面に照る月明かりがとても幻想的・・。
操作に慣れていないので、階段から墜ちてしまったため、
テレポートで艦橋の上に連れて行っていただき、上空から
大和を眺めました。

mizukiさんのお話によると、この大和は、作者さんが
「もう休ませてあげたい」というご意向をお持ちのため、
主砲も銃座も、二度と火を噴かないのだそうです。

上空から眺める大和は、それは幻想的でした。


mizukiさんがこの後フィレンツェに連れて行って下さったのですが、
先に行って呼んで下さるまでのあいだ、
軍艦旗と中将旗の入る場所で記念写真を撮ってみました。

アバターはエリス中尉です。
登録のとき何種類かのアバターから選んだっきりなので、
衣装もそのまま、何のアレンジもしていません。

mizukiさんは自衛隊風のコスチュームで登場。
いいなあ。
そのうちわたしも第二種風の衣装を見つけるぞ。

しばしバーチャル世界の不思議な空間に遊んだ一夜でした。






「その後の漢(おとこ)達」~海軍リス戦隊始末

2012-09-18 | つれづれなるままに

「完」・・・・・て、勝手に終わらすな!
「嗚呼、我等が陸戦隊」こちらが真・完結編!(なのか?)

-物語の最後に、驚愕の真実が明かされる?!


                      監修:引き続き大リス帝国海軍報道部

 相変わらず穏やかな我等陸戦隊の戦場兼訓練風景で或る。

 このところ、ぴょんきち大尉はご自慢のツァイスの双眼鏡で何かを偵察中で或る。

ぴょんきち大尉「う~ん、変だ・・・・・。おかしい・・・・・こんなはずでは・・・」

 次の日も・・・・その次の日も・・・・・

 けん太兵曹長が登場。

けん太兵曹長「どうでっか?隊長?ブログ状況に変化ありまっか?
「んー駄目だ・・・・、ブログ登場から5日も経っているのに、コメントの一つもない。
これは潔くあきらめた方がいいな」

ぴょんきち大尉「残念残念。さ、さ、訓練、訓練!と・・・・」

けん太兵曹長「あきらめって・・・・ちょっと隊長!コソコソと何処行きまんねん!
訓練場はあっちでっせ・・・、てかっ・・・」

けん太兵曹長「大金が手に入れば、陸戦隊の給料なぞはした金だ!入ったら三倍返しするから!って、
二人して行った旭日亭でさんざん高い勘定させたの忘れたんでっか!」

ぴょんきち大尉「ぬぅあにぃ~、
ブログで上手いもうけ話が有るって、ワシ等ののグッズ販売も夢やないでっせ!AKBもそのうち真っ青や!て、
最初に言いよってきたのはおまえだろ!」

※旭日亭については参考資料を参照のこと



 そして、いつものごとく・・・・始まるのである。
※エコのため、画像はリサイクルしております。ご了承ください。



けん太兵曹長「隊長、いきなり可愛い部下に向かって何すんねん!」
ぴょんきち大尉「こいつ、逆らうのか!」

※エコの為、音声もリサイクルしております。ご了承ください。


・・・・・・・・・・・・こうして、かれらの一日は過ぎていくのである。

しかし、次の日になれば争いごとなどけろりと忘れて、また、仲良く訓練・戦闘に励む彼らであった。

現在、「分身の術」訓練中・・・・

ぴょんきち大尉「けん太、右足ちょい下げ!」

けん太兵曹長「はっ!」

・・・・・その頃、一万メートルの高高度を大リス帝国へ接近する一機の機影があった。
敵機か?友軍機か?哨戒機か?はたまた輸送機か?
そして、我等が陸戦隊の運命は?

全ては来年、某中尉が彼の地を訪れることがあれば明らかになるであろう。

がんばれTO!



参考資料

※旭日亭について

旭日亭とは、ぴょんきち達がよく行く、食堂兼居酒屋兼割烹兼料亭兼甘味処のこと。



いつも海軍関係のお客で混んでいる。
特に海軍パイロットには人気のお店。
昼時なのか陸軍パイロットも一羽写っている。
用務連絡で基地へ訪れたついでに立ち寄ったのだろうか。
マスターのコメスケ 大リス帝国海軍退役軍人

(コメスケの経歴)

兵学校卒業後、短剣一本(!)で「気の向くまま」(!)に大リス帝国海軍の各艦厨房を渡り歩いてきた、
軍人にして生粋の料理人(!)であった。
軍隊組織の中で、なぜそのような勝手が許されたのかは謎。

得意料理は「軍艦巻き」と「カレーライス」。
これには秘話があり・・・・・・

彼が某国海軍との親善交流で、同国の戦艦「○△□※」を訪れた際、
深夜の厨房において内緒で同国料理(軍艦巻きとカレーライスか?)を研究中のところを、
乗員に見つかって捕まり、過日「ネズミ上陸」の「景品ネズミ」にされ、
当直士官にあやうく自慢のしっぽを切られそうになったという。

「わしの可愛い尻尾のどこがネズミの尻尾に見えるのか!
よくチューイせい!」

と行ったとか言わなかったとか・・・・・。

ちなみに、リスたちはそんなもの食べないので、作っても不評である。

また、同国海軍向け放送の人気番組
「突撃!隣の艦の晩ごはん」
「たまに行くなら、こんな艦」

でも時々リポーターをしている。

なお、退役時の最終階級は、本人?曰く「五つ星である!」とのこと。

完!

♪~そのままドン突きの三笠公園で~♪貸した金のことなど~♪
ドス黒く澱んだ横須賀の海に浮かぶ 月みたいな電気クラゲよ♪ハッ!!

製作総指揮、監督、脚本、演出、営業、宣伝、売り込み、その他全て 陰の大番長
出演 ぴょんきち大尉
    けん太兵曹長
    マスターコメスケ
    帝国陸海軍のみなさん
ナレーター 芥川隆行 
エンディング曲「タイガー&ドラゴン」 
演奏 ウィーン少年合唱団 指揮クラウディオ・アバド
編集と食事の後片付け エリス中尉
提供 TO






海軍リス戦隊 改・リスは自分の可愛さを知っているか

2012-09-09 | つれづれなるままに

                               監修:大リス帝国海軍報道部



我がリス国海軍陸戦隊隊長のぴょんきち大尉である。
今日は皆さんに彼らの戦場をご覧頂き、彼らの過酷な日常を是非ご理解いただきたい。

ここが彼らの戦場である。



ぴょんきち大尉が日影、遮蔽物を利用してほふく前進中である。
けっして「日影でぐだ~」ではない。


部下のけん太兵曹長である。
新しい迷彩柄の毛皮テスト中である。
どこに彼がいるのか判別が難しい位に迷彩効果が発揮されている。
因みに決して休憩中ではない。

突然、野戦開始!

けん太兵曹長「逃げろや逃げろ!命あってのリス稼業でんがな!」

ぴょんきち大尉「敵発見!その場に伏せ!」
※これは、後で間違いと判明。


ぴょんきち大尉「コラ!誰が逃げろと言った!」

けん太兵曹長「いかん!ばれたがな」

ぴょんきち大尉「お前のような奴は、こうだ!」
けん太兵曹長「うゎ!」

 

けん太兵曹長「隊長、いきなり可愛い部下に向かって何すんねん!」
ぴょんきち大尉「こいつ、逆らうのか!」


あっけなくやられ目を回すぴょんきち大尉
けん太兵曹長「ふぅー、口ほどにも無い隊長や」

けん太兵曹長「んん!オマケに隊長のしっぽ、くさいがな。
こら、手入れしてへんがな」

ぴょんきち大尉
「こ、こら!勝手に匂い嗅ぐな!」////

ぴょんきち大尉
「どうせ俺は弱虫な馬鹿隊長だよ・・・・」
落ち込むぴょんきち大尉。     けん太兵曹長「隊長、そんなに落ち込まんでもええやないか・・。
今度一緒に飲み往きましょ」

ぴょんきち大尉「兵曹長!おまえ、いい奴だな!」
戦場でひしっと抱き合い、友情を確かめ合う二匹であった。

けん太兵曹長「はっ!」
ぴょんきち大尉「おっと、時間だ。戦闘終わり。解散!」

補足しておくと、リス国同士の戦争は、戦闘時間朝9:00~12:00
お昼休み12:00~午後1:00、再会1:00~3:00終了

但し適宜休憩有り、早出、残業、夜間無し
週二日制、祝祭日は勿論お休み、
有給・忌引き有り その他応相談 
何の理由も無く突如戦闘有り、しかし戦況等にかかわらず常時緊急終了あり
戦闘も殺し合いなど無粋なことはせず、せいぜい「めんたん」作っておしまい。

あ、あと年末年始、春季、夏季、長期、冬季、育児の各休暇制、
又個々の経験功績等を考慮した優遇制、特別昇進有り



戦闘は終わったが、陣地周囲の警戒に余念の無いぴょんきち大尉。
祖国防衛に萌える、その視線は厳しい。
(けん太兵曹長は近所の友達のところへ遊びに行ってしまった)


おまけ:





製作総指揮・コンテ・原作・脚本 影の大番長
編集責任 エリス中尉









グルメ客船氷川丸(再掲)

2012-08-14 | つれづれなるままに

2011年の8月に掲載した記事です。
再掲載して皆さまにご覧いただきたくなるコメントを、氷川丸のシェフの子孫の方から頂きました。
そのコメントからご紹介します。

亡祖父は日本郵船氷川丸(ほか客船やタンカー)の和食料理長でした。
おそらく遠く外国の血も混ざっている為私達知っている祖父はサンタクロースのような風 貌で
(横浜から家族は祖母の実家のある四国に疎開しその後鎌倉に移住)
海亀の剥製が飾られた家に遊びに行くと美味しいロイヤルミルクティーを淹れてくれ
自分用の甘いお菓子を分けてくれて母達と台所に立っていました。

長男の父(ちなみに次男の叔父はマリンタワーに勤めました。)や
母から祖父の船乗り時代の話 を聞きますが最期は我が家で過ごしたので
本人からもっとたくさん話を聞いておきたかったと思います。
我が家は今日お盆の迎え火、祖父が呼んだのだと思いま す。

ありがとうございました。


sohogirlさん、こちらこそありがとうございます。
なにか、絵本の中の一シーンのような想い出ですね。

ウミガメの飾られた部屋。
サンタクロースのようなお爺様の指先から、魔法のように生まれる美味しいものの数々。
それらを、目を輝かせて見つめる幼い日のsohogirlさん・・・・・・・。



豪華客船として就航した氷川丸。
腕利きのフランス人コックを年俸1万5千円もの高級で雇い入れ、
さらに横浜には料理人養成所を設け司厨員勉強をさせたくらい、
氷川丸は料理に力を入れていました。
洋上の生活、何が楽しみと言って食事です。
それも、舌の肥えた世界の賓客を飽きさせないだけの工夫が求められるのですから。

「遠洋航海路線に乗っていたコック」といえば、
それだけでその実力を認められたのも無理はありません。

そして、氷川丸の食事は「こんな美味しいものは生まれて初めて食べた」
とロックフェラーをして感嘆せしめたほどの絶品でした。
そういう評判を聞いて外国人客は他の船をキャンセルして氷川丸の客になったということです。

冒頭写真は、三笠宮様に御乗艦賜ったときのディナーテーブルを再現してある、現在の展示。
この前に立つと・・・
カトラリーの触れあう音、そして幽かに人々が囁きつつ食事をするような音声が
何処からともなく聴こえてきます。
これは「そういう気がしてきた」のかと思いきや、スピーカーで効果音を流していたのでした。

それでは、本日のメニュウで御座います。

もしかしたらこのメニュウに興味をお持ちの方がおられるかもしれないので、以下日本語版を。

【オードブル】
シュリンプカクテル 塩漬けタンのサンドウィッチ トマトのコロニークラブ風 お肉の詰め物 
アンチョビペースト チャウチャウ

【スープ】
コンソメスープ か チキンクリームスープ

【魚】
スプリングサーモンのワレスカ風

【アントレ】
去勢鳥のカフェドパリ風 か 胸腺肉のトゥールーズ風 か
 白鳥のバター焼き青トウモロコシぞえ

【日本料理
】しじみ汁 柳川なべ

【ロースト】
羊のロースト 野鴨のロースト オニオンのクリーム和え ポテト スティームドライス

【コールドブッフェ】
乳飲み仔牛肉の冷製仕立て ボイルドハム

【サラダ】
きゅうりとレタス

【スィート】
ロイヤルスフレプディング アプリコット添え 
フルーツ入りペンシルバニア風ウェハース ケーキ

【チーズ】

【デザート】
ドライジンジャ―などドライフルーツ ナッツ ビスケット 洋ナシ バナナ 

【コーヒー】


ふう・・・・。
書いているだけでお腹いっぱいになってしまいました。
それにしても間に入ってくる柳川なべも謎ですが、
「白鳥のバター焼き」と「チャウチャウ」がさらに謎・・・。
白鳥って食べられるんですか?美味しいんですか?
チャウチャウは・・・まさか犬のことではないと思いますが。

(あ!mizukiさんのコメントって、これに対する突っ込みだったのか。
『チャウチャウは、青いトマトなどの野菜のピクルスです^^』
mizukiさん、ありがとうございました。今謎が《コメントの謎も》解けました)

さて、この氷川丸は日本の伝統料理を外国人に伝えるという立派な使命を十二分に果たしました。
時おりちゃぶ台を出して正座で食べる「スキヤキパーティ」はアメリカ人に人気がありました。
後に坂本九の「上を向いて歩こう」がなぜか「スキヤキ」というタイトルでヒットしたのも、
もしかしたら辿っていけば氷川丸のスキヤキに行きつくのかもしれませんね。

そして、テンプラ。
チャップリンを乗せたという話を前回しましたが、チャップリンを乗船させるのには船会社の間で
ちょっとした競争があったと言われています。
世界の喜劇王が乗った船、ともなるとそれだけで大変な宣伝になるからです。

チャップリンに乗ってもらうために氷川丸はこんな口説き文句を使いました。

「氷川丸では揚げたてのテンプラをお出ししますよ」

日本滞在中、チャップリンは初めててんぷらを食べ、その美味しさにいたく感動。
なんと一人でエビのてんぷらを数十匹分も食べたということです。
この一言で一も二もなく、喜劇王は氷川丸の乗船を決めたのだそうです。

さて、氷川丸にはこんなオリジナルがあるのですよ。
皆さんはドライカレー、お好きですか?

氷川丸のコックさんが、ある日カレー味をつけたひき肉とご飯を混ぜ合わせた
「ドライカレー」なるものを発明しました。
ウェットに対するドライ、このネーミングもなかなかのセンスです。
氷川丸発祥のドライカレー、このようにお土産で売られています。
さっそく買い求め、その日いただいてみました。

いかがでしょうか?

でも、食べてから思ったのですが、これ、ごはんと混ぜ合わせなくては
ドライカレー、って言いませんよね。
普通のウェットカレーとして食べてしまいました。



ところで、乗船見学中とっても不思議なことがありました。

機械室を抜けたところに、昔厨房だった区画があるのですが、そこを歩いていると
明らかに食べ物の有機的な匂いが何処からともなくしてきたのです。
料理をしなくなって何十年にもなるのに、その区画には昔の調理の際に壁や床に浸みついた煙や油の匂いがまだ残っているように思えました。
鼻が効く方、ぜひ氷川丸を見学されることがあったらそこで立ち止まってみてください。

かつてここで調理された豪華なお料理の匂いの片鱗がまだ残っているかもしれませんよ。




イスパノフォビア~情報戦に敗北した国

2012-08-04 | つれづれなるままに

オリンピックも佳境に入った今となってはもう旧聞に属する話ですが、
サッカーのオリンピック予選で日本がスペインを1-0で破るという波乱がありました。
「グラスゴーの奇跡」などと日本のメディアが評したのを、逆に海外、特にスペイン人には
「奇跡というのなら、試合が4-0まで点が取られなかったことが奇跡だ」
「スペインが酷過ぎたので当然の結果」
というような意見が大半で、要するに「あんな内容なら負けて当然、奇跡なんかじゃない」という
自虐的なコメントが多かった模様です。

この日本の勝利を「無敵艦隊を破った戦艦大和」などと表現していたのは中国メディアだったとか。
ちょっと待った(笑)

スペインが艦隊なのに、どうして日本が大和だけなの?
ここは「聯合艦隊」くらい言ってもらわないと、バランスが悪すぎるんですけど。



さて、その無敵艦隊ですが、無敵(invincible)であったのは、イギリス、オランダの艦隊に
英仏海峡でコテンパンに負けてしまうまでだった、と言うだけのことらしいですね。
「無敵艦隊」という呼称は、むしろイギリスの側から揶揄的に用いられたようなもので、
スペイン自身は「神の祝福を受けた艦隊」と称していたようです。

しかしとにかく無敵艦隊が無敵であった頃、スペイン帝国は史上最も繁栄の時期を迎えていました。
16世紀中期から17世紀前半までのこの80年間、この頃のことを「黄金の世紀」と称します。
そして「陽の沈まぬ国」と称えられていました。

アメリカ大陸の発見後、新しい広大な領土を得たスペインは、1521年にはアステカ帝国、
1532年にはインカ帝国を滅ぼして、南アメリカのほとんどを植民地としていました。
フィリピン、アフリカにも植民地があったため、いつも領土のどこかに陽が当たっていたのです。

しかし。
無敵艦隊も負けたように、一つの国が栄え続けたことは歴史上無い、
というこの世の倣いにそむかず、スペインはその後没落の一途をたどります。

ここでは本題でないので省略しますが、この後のスペインの凋落っぷりは、
19世紀までにスペインはほとんどの植民地を失い、世界での覇権を失うわ内戦は起こるわ、
やっと戦争が終わった現代においてもG8にも入れてもらえないと言う・・・・

G8の日本名称って、知ってます?

主要国首脳会議ですよ。
かつて陽が沈まないといわれたほどの国が世界のトップ8にも入れなくなってしまったのです。
さらに2000年代、欧州連合加盟後順調に経済成長を続けてきたはずが、
ついに2012年「スペイン経済危機」へと・・・。

いつだったかの国会で日本の経済状況を責められているとき、与党の誰かが

「スペインと一緒にしてもらっては困る。そこまで落ちぶれていない」

と言ったので思わずお茶を吹いたことがあります。
そう、それが今のスペインに対する世界の認識なのね・・・・。

今現在も欧州では大丈夫でない国の方が多いとはいえ、このダメダメぶり。
スペインの経済危機が報じられたとき、

「昔無敵艦隊とかいってすごかったのに、どうしてこうなった」

というような会話をTOとした記憶がありますが、今回の危機はバブルがはじけたため、と、
理由は欧州全土を飲みこむ流れの必然からきているとしても、
スペイン帝国時代の没落は、「はっきりとした情報戦の敗北」が原因であったと言われています。



もしかしたら皆さんの教科書にはこのような銅版画が載っていたかもしれませんね。
「陽の沈まぬ国」がいかに植民地を獲得したかを端的に表わす言葉に

「まず、商人が行く。そして宣教師が行く。最後に軍隊が行く」

そして、この絵に見られるような原住民の殺戮と迫害がはじまると言うわけです。

インディオの妻子を捕らえ、身代金を持ってくるまで水も食べ物も与えなかった。

荷を運ぶため鎖でつないで遠征に連れていき、立てなくなったら首を切断して鎖から外した。

犬にインディオを食わせてその数を競った。

インディオ同士を戦わせ、彼らに食べ物を与えずお互いを食べ合うようにさせた。


ありとあらゆる残虐な行為が、インディオを人とも思わぬスペイン人によって行われ、
その状況はこの世の地獄とでも言うべき酸鼻を極めるものであった・・・・・。


ちょっと待った(笑)


これがその通りに行われていたのかどうか、誰が後世に伝えたのでしょうか。
というか、この話、何かに似ていません?
そう、「南京大虐殺」です。
当時新聞が全く伝えていない、信じられない一般住民虐殺の様子を検証なしで本にしたのが
本田勝一というジャーナリストであることは今では有名です。
虐殺をしたと書かれた遺族からの訴えもあり、その信ぴょう性は疑わしい、ということも
今日ではかなり明らかになっているのですが、この「インディオ虐殺」における
「本田勝一」に相当する人物がいた、ということが明らかになっています。


バルトロメ・デ・ラス・カサス。


15世紀、ラス・カサスは従軍司祭としてキューバの侵攻に加わりました。
そこで見たスペイン軍の軍事行動に激しい良心の呵責を覚え、「良心的スペイン人」として、
「平和的植民活動」を行おうとするなど、インディオの人権?を取り戻すべく活動を始めます。
(この「平和的植民地」は、どういう理由でかインディオ達からそっぽを向かれてしまったようです)
ラス・カサスは次第にスペイン人たちから激しい反発を買うようになってきます。
彼は支持者の庇護の下、そこで目撃した惨事を事細かに書に著すようになり、それがきっかけで
「インディオスの報告者」「インディアンの代弁者」として彼の名は歴史に残ることになります。


ラス・カサスの情熱は、あくまでも人道的良心に基づくものであり、
インディオたちの人間としての権利を守ることでした。
ですから、その著書「インディアスの破壊についての簡潔な報告」などによる供述が、
ついつい伝聞や事実の曲解、さらに誇張やあるいは虚偽に走ったとしても、それは本田のように
「祖国を貶めるため」という目的のもとにされたわけではなかったでしょう。

あくまでも祖国による非人道行為のみを糾弾し、それを阻止する、
ラス・カサスの意図はここにしか無かったはずです。
しかし、この著書群は、ラス・カサスが全く意図しなかった方向に利用されはじめました。
本田の「中国への旅」が内外の反日勢力に利用されたように。


彼の死後、それはスペイン帝国の勢いに陰りが見えてきたころでもあるのですが、
その著作は各国語に翻訳され出版されはじめました。

スペインの敵であったイングランドとオランダはこの「告発」を歓迎しました。
いかにスペイン人が残虐な「神の教え」に背く行為をインディアスで行ったか。
両国はこの「黒い伝説」を大々的にプロパガンダとして利用するようになります。


上記に掲載した銅版画、これはスペイン自身ではなく、情報戦を戦う英蘭両国が、
「見てもいないのに見たかのように残虐行為を絵にして各国にバラまいた」ものなのです。

大衆はいつも目に見えるもの、分かりやすく「絵」今なら「写真」に目を奪われます。
日本でも死体写真を掲載した写真週刊誌が出た当初、人々がそれを道義的に非難しながらも、
掲載された写真を食い入るように見ずにはいられなかったように。
このような銅版画がそれこそ想像の限りを尽くして製作され、ヨーロッパに撒かれました。

効果はてきめん。
イギリス、オランダを筆頭にヨーロッパ中がスペインを非難するとともに、スペイン人自身が
その残虐性を恥じ、自信を失い、自国を誇ることもできなくなり虚無性に苛まれてしまったのです。

ちょうどそのころ(1588年)、無敵艦隊がイングランド海軍に敗戦を喫します。
スペインの没落は顕著となり、代わりにイングランドはアルマダ開戦の結果をなぞるように
国力をたかめ、その後七つの海を制覇する大英帝国へと発展していきます。

ヨーロッパには
「ドイツの悪口を言うのはフランス人、スペインの悪口を言ったらそれはスペイン人」
というジョークがあるそうです。

イギリス人とフランス人もかなり仲が悪いと聞きますし、一度ノルウェー人と話したとき、
フィンランド人はケチでスウェーデン人は自分勝手だ、みたいなことを言っていました。
上手くいっているように見えるアメリカとカナダもお互いを馬鹿にしあっているようですし、
つまり実質隣国と上手くいっている国というのは世界に存在しないと言っていいと思いますが、
特にフランス人のドイツ嫌いは傑出しているのでしょうか。

そういえばスペイン人の友人は、「ポルトガルには何もない」と馬鹿にしていましたっけ。
かつてスペインから独立したポルトガルですから、仲が悪いのは納得できます。
しかしそれ以上にスペインを悪く言うのはスペイン人自身であるというのです。

スペインはいつしか「自虐の国」となり、「イスパノフォビア」とそれを表わす単語までができました。
「イスパノ」はスペイン、フォビアは嫌悪とか恐怖症などと訳したりします。


スペイン人たちがイングランドとオランダのプロパガンダにまんまと乗せられて自国嫌いになり、
だから国は衰えてしまった、それは「イスパノフォビア」のもたらしたものであった、
と考える歴史家がいます。

このことについてはわたしなりに考えたことがあるのですが、それは次に予定している
「ジパノフォビア」(日本嫌い)について語るときに譲りたいと思います。



かつてワールドカップで優勝したことすらある「無敵艦隊」のスペインサッカーが、
昨日今日出てきたような東洋のサッカー後進国に敗れてしまった。
この瞬間、かつて本物の無敵艦隊が敗れた時と同じくスペイン人たちが申し合わせたように
自虐的になっている、というのは何か符号めいて見えます。

経済絶不調のスペインが、この敗退からさらに自信を失い、
国力衰退の一途を辿るようなことになりませんように。




ラス・カサスの著書に記された「スペインの残虐ぶり」ですが、検証すると、
やはり南京大虐殺の「二十万しかいない都市で三十万虐殺」や「死体がどこにも無い」
に相当する矛盾が随所に見られるそうです。

ラス・カサスが主張を通すためにかなりの捏造を加えたのはどうやら事実であるようです。








昔取った杵柄

2012-05-31 | つれづれなるままに


「昔バスケットボールやっていました」

男性ならともかく、女性がこう言うと、なんていっていいのか分からない曖昧な表情をされるので
聴かれでもしない限り公言したことはありませんが、バスケットボール部出身です。



「アメリカンフットボール以外は何でもできた」と豪語する(今にして思えば鉄板ウソ)
自称スポーツ万能の父親の「我が家の人間はすべからく文武両道たるべし」という宣託のもと、
スイミングクラブに通わされて、水泳はかなり得意、かつ走るのも速かったのですが、
個人競技である陸上部や水泳部を選ばず、団体競技であるバスケットボールを選んだのは、

負けても自分のせいではないと言える団体競技だから。

負けず嫌いというよりは「負けるのが嫌い」であったため、本能的に「結果が分かりやすい」
スポーツはやめよう、と計算をしたものと思われます。
因みにこんなわたしはいまだに「勝負事」が嫌いで、トランプすらしません。


「不愉快になるような可能性のあることはできるだけ避ける」
というのが現在のわたしの座右の銘ですが(つまんない座右の銘ですみません)、
この頃から既にこの傾向は萌芽としてあらわれていたといえましょう。

さて、延々と前置きしましたが、バスケ部では、右45度の脚を生かしたカットインプレーヤー
として、不動のスタメンとなり、我が市では常勝チームの一員として勝利に寄与しました。

ただし。

それは市内だけのこと。
ご存じないと思いますが、関西の中学女子バスケ界には
「学区地域における住宅地の専有面積とバスケットボール部の強さは反比例する」
という黄金の法則があり(比較的高級な)住宅地ばかりの我が市内では無敵を誇った我が校も、
一歩弱肉強食の阪神大会に出たとたん、N区やA市あたりから来たやたら目つきの鋭いチームに
一回戦で手もなくひねられてしまう、という井の中の蛙に過ぎなかったのです。

ともあれ、夢中になって過ごした二年半。
たった二年半のバスケットボール生活だったのですが、集中して一つのスポーツに打ち込むと
一生残るほどの強烈な濃縮した思い出となって残るものです。

このころ身につけた技術も、そう簡単に忘れるものではなく、大学の体育の時間などに
「まだまだ現役?」
と自画自賛してしまうくらい動きもよく、また、試合をしている夢などもよく見たものです。


以来幾星霜、バスケットボールとは全く縁のない生活をしていました。
ところで、朝散歩する公園に、バスケットゴールがあります。
ときどき練習をしている人や、春休みに小学生が皆で遊んでいるのを見るたび、
「ボール買おうかなあ」
と思いながら通り過ぎる毎日。

しかし家に帰ればすっかり忘れてしまうのと、わざわざボールを買いに行くほどの熱意もなく、
ずるずると年月が経ってしまったのですが、ある日、
面倒な買い物は全てアマゾンで済ませることができる!いわんやバスケットボールをや。
ということに気づき、クリック。数分後には、女子用の公式ボールを購入完了していたのです。

届いたボールを、翌日うきうきとドリブルしながらいざコートへ。
ここのコートは、片面式で、大小二種類あります。

ところが。

いざシュートしてみて愕然。
頭の中ではあんなにくっきりしていた動きのイメージに身体が全く付いてこない。
シュートすれどもすれども、思っている場所に、思った角度で飛ばない。

「これはつまり、体のコアに身体を支える筋肉が全く無くなってしまったということだな」

昔は一ミクロンもしなかったこのような「分析」だけは、めまぐるしく脳裏をよぎるのですが、
いかんせん身体がついて来ない。
最初の10分は、ゴールポストに届かないシュートなどを連発。
ふと気づけは二時間、結構日差しの強いコートで、夢中で走り回っておりました。

しんどい運動は一切お断り、いわんや息を切らせて走り回る運動をや、が座右の銘であった
(略)このわたしがですよ。

次の日。
全身の倦怠感と筋肉痛で体がぎくしゃくしていましたが、それを押してまたしても出撃。
しかし、この頃から次第に身体がイメージに追いついてきて、かなり思った通りにボールを
コントロールすることができてきました。

そして今日、6日目。
ロングシュートがかなりの確率で決まり、さらにアンダースローのランニングシュートは
ほぼ百発百中位になってきたわけですが、一つ問題が。

下半身、ことに膝が往年とは違ってかなり弱体化しているため、ジャンプが低い。
つまり、体が重いのは一向に改善せず。
これは一週間やそこらでは無理かもしれませんね。
日頃こまめに身体を動かしているつもりでも、10代の頃の自分とは勝負になりません。

わたしはシュートのとき左足で踏み切るのですが、その左のひざの裏の痛み(炎症?)が、
いつまでも消えないので、日常生活にまで若干不便をきたしている有様。

でも、昔取った杵柄は、思い出すのも結構早いことがわかりました。
夏までに頑張って感覚を取り戻すぞ。






コートの端に置いていたキャップにお客さんあり。






金環日食の恐怖

2012-05-22 | つれづれなるままに

ちょうど環の状態のときにたまたま窓を見て、たまたま撮ってみました。

息子に「見えるよ!」というと、「直に見ちゃいけないんだよ」
「曇ってるしガラス(おまけに磨いていなくて曇っている)ごしだし、大丈夫じゃない?」
「だめだって」
という会話があったにもかかわらず、負うた子に教えられても言うことを聴かない母は、
なんと写真まで撮ってしまいました。

しかし。
「数日後に症状が出ることもある。急に目が見えなくなることもあります」
などというニュースを後から見て、
「見ちゃった・・・・」と大いに焦っております。

後悔先に立たず覆水盆に返らず。
イッツノーユーズクライングオーバースピルトミルク。

でも、皆さん、日本人なら「ご来光」って見るよね?
夕陽も眺めるよね?
小さいとき太陽をちらっと見て、しばらく太陽の影が目をつぶってもある~!って遊んだことない?

そんなことを繰り返してもわたしが視力2・0をキープしてきたのは、なぜなの?

これくらい言わないと「じーっと見る」人がいるから、少し大げさに言っているのよね?
きっとそうですよね・・・・・お願い、そう言って・・・。

実はかなり怯えています。
3日後に目が見えなくなったら報告しますね。


工作船とリコッタチーズのパンケーキの日 

2012-04-30 | つれづれなるままに

   
昨日は全くいいお天気でしたね!
大型連休に入って、どこも混んでいると分かっていても、ついお出かけしたくなるような。
エリス中尉は、横浜の赤レンガ倉庫に行ってきました。

ここに、ディカプリオも常連というニューヨークのグリル、billsがあると聞き、
(と言っても今日初めて知った名前でしたがw)行ってみることになったのです。



赤レンガ倉庫の敷地は、緑のふんだんにある公園になっており、そこからはいかにも横浜!
って感じの、こんな景色が見えます。
今日は、ドイツビールのフェアをやっており、もの凄い人出。
芝生の上でピクニックとしゃれこむグループもたくさんいました。
最近、こうやって皆が幸せそうにしている光景を見ると、心から嬉しくなるわたし。
だって、ねえ・・。



向こうに見えるのは、ベイブリッジです。
早めのお昼を食べるつもりで11時に到着したところ(予約不可)、
「今からですと2時45分以降の予約が取れます」

・・・三時間待ちってことですか。

なんと、あまりに人気なので、人数制限しているんですね。
ここは、リコッタチーズのパンケーキと、スクランブルドエッグが名物なのです。
3時間待つということになってしまいましたが、そのために来たんだし、お天気もいいから
その辺を散歩しながら待ちましょう、ということになりました。

ところで、「リコッタチーズのパンケーキ」と、全くこの世の対極にあるような「北朝鮮工作船」が、
なぜタイトルになっているか、ですが・・・・・。
3時間近くの時間つぶしを余儀なくされた我々が、埠頭に歩いていくと、そこには、
おお、まるで絵に描いたようにおあつらえ向きのブログネタが。

冒頭の写真、海上保安庁の巡視船、6500トン(くらい)の、「しきしま」です。
因みに、船体に書かれたPLH31のHですが、ヘリを搭載できるというクラスを意味するそうです。

うーん、それにしても、フネというのはどうしてこのように美しい完璧なフォルムをしているのか。
写真を撮りながらふと眼を転じると、そこに格納庫のような建物が。

「工作船展示館」

ほお、これは、子供の工作した船のモデルかなんか?
工作船って、北朝鮮の?なわけないか。
と、何気なく中に足を踏み入れてみたところ。

orz  まじでした

皆さん!ここにね、展示してあるの。
北朝鮮の工作船が!
善男善女が、美しい気候を楽しむ、この観光地の一角に。
海上保安庁の巡視船とバトルを繰り広げた結果、自爆沈没した実物の工作船がぁっ!

 

こんな感じです。
右画像は、ここに小型ボートが収納されていた、船腹内。

2001年12月22日、鹿児島沖で、海保の巡視船「いなさ」は、不審な船を発見。
追跡することなんと7時間、停船命令、威嚇射撃にも応じず、海面に証拠物らしきものの
投機を始めたため、「いなさ」は予告の上、船尾に向けて射撃。



そのときの弾痕です。
場内では一部始終を映像で観ることができるのですが、人命に影響の無いように、船尾に
向かって射撃することを告知してから行いました。

巡視船二隻で挟み撃ちにしようとしたところ、船橋後部で毛布のようなものに隠れていた数名が
いきなり巡視船に対し自動小銃により攻撃をしてきました。

この攻撃により、巡視船「あまみ」の乗組員三名が負傷し、船橋内のレーダーも破壊されたため、
巡視船は正当防衛射撃を行い、三分としないうちに工作船は自爆と思われる大爆発を起こし、
沈没したということです。



そのとき銃撃に使われたと思われる、ロシア製の銃。

後日引き揚げられた遺体は金日成の顔バッジをつけており、これが北朝鮮の工作船で、
麻薬などを在日韓国人の男の手引きで暴力団に輸送してきたものだということが分かっています。
(乗組員は死亡、手引きの男と暴力団組長は検挙済み)

館内には、やはり公園内を散策していてぶらっと入ってきた散歩の客が、
いきなり水を浴びせられた面もちで展示に見入っていました。
ニュースでこのようなことをいくら見聞きしても、それは遠い世界の出来事に過ぎませんが、
こうして銃痕も生々しい工作船そのものを目の当たりにすると、日本の海の守りが、いかに
重要な国防であるかが、いやというほど分かる仕組みです。

というより何より、怖い!



その時の工作船と巡視船の戦い。

ちょうど今、尖閣の問題で、海防という事柄に関心が集まっている中、実にタイムリーに、
海保の活動について知ることができたこの日の見学者は、ラッキーだったと言えるかもしれません。

出口で一人500円ばかりの寄付をさせていただいたとき、
「ここにこういうものがあることを、知らない人の方が多いよね。もっと皆見るべきかもね」
「啓蒙という意味でもね」
などと話していると、横にいた職員の方が、わたしたちに、

「よろしかったら、皆に宣伝して下さい・・・。
海保は、宣伝にかけるお金がないんですよ」


宣伝しましょう!わたしのこのブログで!
と後半は心の中だけでお約束して、ついでに少しインタビューさせていただきました。
えー、現在、尖閣付近には、常時巡視船が二そうずつ海域をパトロールしているそうです。
こういう任務は、交代で行われ、一度出撃?したら、二週間帰って来られないそうです。

今尖閣付近はああいう状態だし、保安官達も緊張の連続であるのは当然ですが、
海保職員の家族も、毎回彼らが無事で帰ってくるまで気が気じゃないだろうなあ。

何しろ、こういう方々が、命をかけて日本の海を守ってくれているわけです。感謝。

なのに、全く民主党のバカどもときたら!(怒)



いい時間つぶしどころか、全く有益な時間だったわ、と満足しながら、それでも、お茶を飲み、
さらにウィンドショッピングなどして、ようやく2時半になったので、billsに行きました。
それでもしばらく外で待ちましたが、その時に店に来た人たちが
「次のお席は6時からの御案内になります」
と入り口で言われて、すごすごと帰って行くのを多数目撃しました。



期待が募るなあ・・・。
このbillsのオーナーは、オージーで、ニューヨークに店を出し人気となった
「アメリカンドリーム」の実現者です。
ニューヨークのセレブリティをとりこにしてきたそのお味とは・・・・。





綺麗な形のときに写真を撮るのを例の如く忘れて、お見苦しい画像で失礼します。
これがリコッタチーズのパンケーキなんですが、驚き!
アメリカのパンケーキなのに、全く甘くないの!
うっすらとかかったメイプルシロップと、上のバターに甘味がついているだけ。
アメリカ人なら「味が無い!」って暴れ出すレベルのあっさり味なのだけど、
やはりニューヨーカーというのは先端を先取りする者の自負があるから、
これが最先端の味!と言われれば「クール!」と砂糖なしの味を取り入れてしまうのでしょうなあ。

甘味が欲しければ、着いてくるメイプルシロップをどばっとかければいいのですが、
それをすると「ただのパンケーキになってしまうから、かけない方がいい」(TO談)そうです。

もう、サラダを加えたこの二皿で、お腹はいっぱいになっていたのですが、やはりデザートは
別腹!ってことで、無理やり二品頼んでみました。


苺のパンナコッタ。
これも、アメリカ人の嗜好を知っているものから見ると、薄気味悪いくらい甘さ控えめ。
苺の酸っぱさの方が甘さより勝っているくらいです。



運んで来られた途端、周りの人々の注目を集めまくっていたデザート、「パブロワ」。
パブロワ、って、あれかしら。
踊り終わるなり倒れて、医師が診察したら「もう三〇分は前にこと切れていた」って、
伝説になった、あのバレリーナかしら。
瀕死の白鳥を模しているのかしら。
メレンゲはいいとして、このカエルの卵みたいなパッションフルーツは少し見た目が、
などと様々な思いを巡らせつつ一口・・・・・・わたしは一口でギブアップでした。

まあ・・、メレンゲ、ってそもそもお砂糖の塊り(+白身)ですから・・・。

「これはアメリカっぽいよね。甘くてやたら大きくて」
「うん、日本人なら四人で一個で十分」

それにしても、雰囲気といい、お味といい、ニューヨークとほとんど同時に、同じ味が、
何の苦労もなく味わえる素敵な国、日本。

この豊かさを、日本人に生まれたがゆえに、何の疑問の無く享受することのできるわたしたち。
しかしこのような豊かな国であらばこそ、そのおこぼれにあずかろうして侵入してくる
周辺国の面々もいるわけで。

この同日に見た北朝鮮の工作船。それに乗っていた(全員遺体で発見された)工作員。
そして、同じ世紀を生きながら、ハリウッドスターの好物を同じように口に運ぶ日本人たち。
両者を分ける運命のあまりに残酷な差異に、つい

「日本に生まれてきてよかった・・・」

と、ただそうとしか思えない自分が、わずかに後ろめたく感じた日でした。







短気なご先祖さま

2012-04-29 | つれづれなるままに







皆さんは、自分の家系についてご存知ですか?
わたしの実家にも父方の家系図というものが存在していました。
まだ中学生くらいのときですが、それを見る機会があり、興味深く眺めていたとき、
妹が「あっ!この名前」というので指さすのを見ると、「千次郎」という名前が。
その何カ月か前、妹は横向きにうとうとしていたのですが、背後から大人の男の声で
「センジロウ・・・・・」と言うのを聞いたのだそうで・・・・。
そこにいた全員、つのだじろうの漫画のひとのような顔になってしまいました。
千次郎さんにもっとも近い時代生きていた祖母を除いては・・・。

千次郎さんが妹に何をアピールしたかったのかはわかりませんが、
我々がこうしてこの世に今現在存えるには、太古の昔から繋がってきた命があるわけで、
この「千次郎事件」は、みたことのないご先祖さまの存在を、なぜか実感することとなりました。


先日、インターネットで見た情報によると、士農工商の時代、
武士の割合は全体のわずか五パーセントだったそうです。
私の父方は士族の家系でした。
小さい時からその話を何となく聞いて育っていたので、自分が少数派だとは全く思っていず、
その割合を見てあらためてびっくりしました。

父の家はどこやらの何とか藩(これはぼかしているのではなく、本当に忘れた)の
武芸指南役だったそうで、殿様や若様に剣道を指導する係の家筋だったそうです。
そういう家なので、女性といえども武芸は嗜み、曾々祖母くらいまではナギナタは基本。
何とか言う武芸の流派を継承し、鎖鎌の名手であったという話を聞きましたが、
こういうことって、伝聞ですので、それを裏付ける資料でもないと、全く実感がありません。
先祖代々伝わる銘刀や鎖鎌でも残っていたら「ああそうなのか」って思うんでしょうけれども。


そこで、もう一度冒頭のマンガなのですが、これは実話なのです。
しかも、わたしの連れ合いであるTOの母方のご先祖様の話です。
TOの祖先には、「お酒が大好きで墓石を屠蘇とっくりの形にした人」あるいは、
高山彦九郎のように土下座している自分の像を作った人、
(皇居ではなく、遠くの地に離れて住んでいた奥さんの方を拝んでいるらしい)
など、なんだか一筋縄ではいかないタイプが多いように思うのですが、
もっと一筋縄でいかなかったこの漫画の主人公。

その医者は、加島隆元(仮名)と言います。
村では評判の名医とその呼び名が高く、あるとき、地元の大名がその評判を聴いて、
持病の治療をさせるため、隆元をお城に呼びました。

その当時、身分の高い大名などの診察をするとき、医師は糸脈と言って手首に糸を結びつけ、
その先を隣の部屋で握った医師が脈を見るという、随分まどろっこしいことをやっていました。
これが、隆元が御典医ではなく、一介の町医者であったからなのか、
どんな医者でもそうしていたのかはわかりません。

この殿さま、自分で呼んでおいてなぜか悪戯っ気を出したとみえ、
隆元が自室に下がっているのをいいことに、糸の先を猫に結びつけて脈を取らせました。

「して診たては?」
それに答えて隆元、
「かつおぶしでもやりなされ」

ここで終わればマンガのネタだけで(あまり面白くはありませんが)すんだのですが、
ここからが問題。
「侮辱された!」と怒り狂った隆元は、自分の屋敷に火を放ったうえ、自決してしまいます。

後味の悪いのは隆元をからかった殿様。
しかも、その後次々と災難が降りかかるように起こるに至って、
「隆元の霊のたたり」ではないかとまわりも噂するようになり、
殿様は、隆元の霊を慰めるために墓のそばに神社をたて、鎮魂に努めたと言うことです。

それにしても、この話を知ったとき、
いつも穏やかで怒ったことのないTOのご先祖にしては短気なご先祖様だなあと思いました。
いくらなんでも、からかわれたくらいで自殺して、おまけに祟らなくたって・・。

しかしこの話は、隆元が御典医ではなく、村の名医であったことにポイントがあると思います。
この糸脈にしても、こんなよくわからない方法を大名の侍医が恒常的に使うわけでなく、
「下々の」村医者であるから、この方法を取らざるを得なかったのであったとすれば、
隆元にとってもそれは不本意な治療であったと言えないでしょうか。

わざわざそういう冗談をするために呼びつけたのだとしたら悪質ですし、
わざわざ城に出向いていってこけにされたとあっては、
誇り高い人物ならば、この屈辱に対し死をもって抗議するのも当然かもしれません。


それにしても、殿様には当然かかりつけの医師がいたでしょうし、名医であったとはいえ、
わざわざ野にある医者を呼び寄せるにはそれなりの切羽詰まった事情があったはず。
にもかかわらず「殿さまジョーク」をかましたこの殿さまも、一体何を考えてたんだか、
ってことになります。

ついそういうことをせずにはいられない「いちびり」だったのか、あるいは、
平民の医師なので、侮っていたのか、それとも御典医のからんだいやがらせか・・。

とにかく、ご先祖様はこういう理由で神様になってしまいました。


地元には今でも、その墓と共に小さな祠が現存しています。








母のロマンス

2012-04-14 | つれづれなるままに

     

間黒男ことブラックジャックならずとも、
「私は母が世界で一番美しかったと信じていますのでね」
と言える人はたくさんいると思います。

わたしの母も、子供の頃のわたしにとっては世界で一番美しい母でした。
中学の時、父兄参観に訪れた母を同級生が
「美しい人よ~!」と見ていない友人に向かって説明してくれたのも、子供心に誇らしい思い出です。
客観的にどの程度美人だったかについては、よくわかりません。

「女優のマール・オベロンに似ていると言われたことがある」との証言(本人による)もあります。
一度、
「若い時に、なんかの宣伝ポスターの写真に使いたいと言って来た人がいて、モデルになったことがある」
というので、それが何のポスターだったのかかなりしつこく聞いたのですが、
「なんかよくわからないけど、窓から手を伸ばしてるポーズを取った」
と要領を得ない返事。さらに
「あんまり(ポスターの出来が)良くなかったから、貰ったけどすぐ捨てた」
などと、あまり触れてほしくなさそうだったので、後にも先にもその一度しか話したことはありませんが、
世間的に見ても少しはイケていたのかもしれません。


母は日赤出の看護婦でした。
準看で終わってしまったのはひとえに「血を見るのが怖かったから」なのだそうです。
そもそも血を見るのも怖い人が看護婦になろうとするか?
とも思いますが、どうやら彼女は祖母の愛唱歌であった戦時歌謡の

「言(こと)も通わぬ敵(あだ)までも
いと懇ろに看護する
心の色は赤十字」


という婦人従軍歌の歌詞と、さらに、というかこっちがメインだとわたしは踏んでいるのですが、
「愛染かつら」の世界に憧れ、白衣の天使を目指した模様。

(余談ですが、この歌を母が歌うと、
こーころのいーろはーせきじゅーうじー、むーかしーむかしーうらしーまがー」
と続けたくてたまりませんでした。
ついでに「広瀬中佐」にも
すーぎのーはいずーこー、すぎのーはいずーやー、さーんじーのあーなーたー」
と・・・もうその話はええ、って?)


日赤出と言えば、看護婦界のエリート。
(これは母が言っていたのをそのまま言っています。もし違ったらすみません)
同期のやり手は今頃ばりばり婦長さんよ、などと言っていたこともあります。

そんな、血が怖い準看の母が、神戸の元町付近にあった小さな診療所に手伝いに行きました。
そこを経営していた9歳年上の医者を一目見たとき、
「あ、わたし、この人と結婚する」と思ったそうです。

そう、その後エリス中尉の父と母になる二人が出遭った瞬間でした。

父の方も同じように思ったものらしく、あっという間に二人はお付き合いをはじめました。
母によると
「お父さんは前の女性と切れてもいないのに、お母さんと付き合いだしたのよ」ということで、
父~!モテていたのはいいが、二股はいかんぞー!
とそれを聞いたとき、すでに亡くなった父に向かって激しく突っ込みました。

まあ、そんなこんなで二人はその後結婚し、娘が誕生。

娘たちが結婚どころか学校を卒業するのも待たず、冥界に旅立ってしまった父ですが、
亡くなった当初はやはりがっくりと落ち込んでいた母も、
いつまでも結婚せず家にいる妹と海外旅行をしたり、ダンスや華道(師範の腕前)を楽しんだり、
まことに充実した「メリー・ウィドウ」ライフを送ってきました。

存命中は、娘たちにはわからないいろいろな夫婦の事情もあったようで、一度それを思い出したのか、
「あなたたちも、気をつけて選ばないと、お父さんみたいなハズレを掴むわよ」
などというので
「ハズレを掴むのもまたハズレなんじゃない?」
と言ってやると、黙ってしまったことがあります。

母が父との結婚を後悔していたかどうかはともかく、父は最後の日、母に向かって
「ありがとう、楽しかったよ」
と言ったそうですから、きっと母と出会えてよかったと思っていたのでしょう。


それから月日は流れ、わたしの結婚が決まったある日のこと、
実家で古い写真をあらためて見る機会がありました。
色あせた写真に収まる若き日の父は、なかなか白衣の似合う「イケメン先生」で、
まあ、これならモテても仕方なかろうなあ、と第三者の眼で見ても思ったのですが、
ほどなく娘どもは診療所の集団写真に写っている、超イケメンを発見。(画像)

「ちょちょちょっとー、お母さん、これ誰よ、これー!凄い男前なんですけどー!」
「あ、本当だ、ひゃー、かっこいい!誰?これ誰?」

父をイケメンと呼ぶならこっちをどう呼べばいいのか、くらいのレベルの違いは娘の眼にも明らか。
まるで映画スターが医者の役をしているかの如き水際立ったハンサムです。

「あ、これ?H先生。お父さんの手伝いに来てた先生」

それからというもの、娘たち、言いたい放題。
「お母さん、こんな男前がいたのになんでお父さんと結婚したのよ」
「そうよ、こっちにすればよかったのに」
「お父さんは、不細工ってことはないけど、まず美青年ではないもんねえ」
「H先生って、○○大学?・・・・じゃあねえ」
「選ぶならこっちよねー」

(T_T)すまん

「そんなこといって・・・H先生と結婚してたらあんたたち生まれてないじゃないの」
妹、「そのときはそのときよ!」
わたし「ちょっと、お母さん、結婚してたら、ってなに?その言い方。
まさか何かあった・・・・・?」

「一度映画連れて行ってやる、って言われた」
「そっ・・・それでっ?」
「えー、そんなんいいわ、って断った」

妹、わたし同時に
「なんでっ!!」

「だって、もうお母さん、そのときお父さんと付き合ってたもの」

この頃の女の人は、みんなうぶで純情だったのよ、どっちがいいか秤にかけてなんて、
そんなこと考えるようなふしだらな人なんていなかったわよ。

とよく聞かされた母の話が「いや、全員そうだったわけでもないだろう」と思えてきたのは、
いろんな話を見聞きして世間のなんたるかが分かってきた後年のことで、
昔の女の人は全て母のように純情で貞淑なものだと、わたしはずっと信じていました。

とにかく、世間平均レベルよりずっと純でウブだった若き日の母が、
ここで映画俳優レベルの美男子のお誘いにフラフラしなかったおかげで、
エリス中尉が現在、存在しているわけです。

「それなら仕方ないけど・・・・・・惜しい」
「うん、惜しい」

母「あんたたち・・・・・・・(-_-;)


H先生は母を誘ったものの、にべもなく断られたので
「なんや、せっかく誘ったったのになぁ。つれないなあ」
と冗談のようにしていたけど、残念そうだった(母談)とのこと。

H先生はわたしが結婚間近だったTOと卒業大学が一緒でした。
「Tさんのつてで大学の卒業生の名簿調べたら、H先生が今どうしてるかわかるかも」というと
妹「向こうも奥さん亡くしてたりしたら、お母さん、もしかしてーーーー!」
「きゃー」「きゃー」

「いい加減にしなさいっ!お母さんはお父さんだけでいいの!」

それはあのころ青春を送った純情な母の偽らざる気持ちでしょう。
しかし彼女の顔がなぜか少し紅潮しているのを見て、「お?」と思ってしまった娘です。
何十年前の知り合いのH先生の名前を咄嗟にフルネームで言えたんですよ。
母もまんざらでもなかった、ってことなのかも・・・・。






旅しながら淡々と写真を貼る~桜島

2012-04-02 | つれづれなるままに

鹿児島最後の朝、日の出とともに起きて、ラスト・ミニッツ砂むしに行ってきました。
Toと息子に一応声をかけてみましたが、全く生体反応が無かったので一人で出かけました。



前日七面の砂場がフル稼働していた砂むしもさすがにこの時間は閑散としていました。
10分から15分が適当、と言われましたが、隣の男性がいつまでもやめないので、
一緒になって30分近く頑張ってみました。
さすがにこれだけ埋まっていると、汗が滝のように流れました。



このホテル、白水館には「薩摩館」という美術館が併設されています。
創業者の米寿の記念、創業60周年記念事業として、この2月オープンしたばかり。



まるで壮麗な寺院のようです。
息子はゲームで製作する建物の資料として写真を撮りまくっていました。
展示場はボランティアの説明員が声をかけてきて、30分かけて説明をしてくれます。



金襴豪華なこの飾り棚、なんと金箔を貼ってあるのだそう。
薩摩焼には、本場薩摩のものと京薩摩があり、風土を反映して京は繊細、薩摩は大胆、
と作風の違いがあるそうです。
いずれにしても気の遠くなるような細かい絵付けと彩色がなされており、その美しさは、
昔、西欧の人々が「東洋趣味」として愛好したというのも尤もと思われました。



薩摩から留学生としてヨーロッパに渡った青年たち。
イケメンが多いですね。
優秀で容姿端麗、将来有望な選ばれたエリートたち。



さて、いよいよホテルをチェックアウトします。
お土産や、特攻平和会館で山ほど買った本(重くて持てない)をホテルから配送してもらう
手配をしました。

実はわたくし、岩盤浴をしたときにお気に入りの髪留めを紛失してしまい、直後に近くの従業員、
さらにホテルのフロントに絵を描いて説明し「出てきたらお願いします」と頼んでおいたのですが、
翌朝、サービスで頂けるお抹茶を出してくれたウェイトレスが、こっちが何も言わないのに
「昨日お尋ねでした髪留めが届いています」
とおっしゃるので、心から驚きました。

「どうしてこんなに宿泊客がいるのに(おそらく百人単位)我々の依頼を把握してるの?」

知り合いのホテル支配人は中国赴任の際、宿泊客の私物を(免税で買った化粧品など)
盗んではいけない、ということから教育しなければならなかったそうですし、
わたしもアメリカで、部屋の清掃後、シルクのパジャマがきっちり上下とも無くなっていて、
フロントに言うもガン無視、という経験をしたことがあります。

小さなヘアクリップやイヤリングが「そういえば無いなあ」と後で気づき、
「今にして思えば、あれは取られたのか」と思うことも何度かありました。
こんな国のほうが「普通」なのですよ世界では。

ところが、日本ってなんてすばらしい国なのでしょう。
無くしたものが当たり前のように出てくるのも驚きですが、ホテルスタッフがちゃんとそれを
フォローし、さらに情報をウェイトレスに至るまで共有しているというのも素晴らしい。
私の知る限り、日本以外で同じようなことがあるとすれば、
ホテル・リッツかフォーシーズンズ(つまり超高級ホテル)くらいではないでしょうか。

11時にホテルを出て、わたしの運転で空港方面に向かいました。
途中で桜島を観て、時間があれば島に渡ろうという計画です。

借りた車(ヴィッツ)についているナビが超馬鹿で、さらにそれをフォローするつもりのToの
スマートフォン情報が、というか、それを指示するToの要領が悪くて
(車を運転しない人のナビって、イライラしません?言うの遅いし)
結構時間を無駄にしながら、フェリー乗り場まで到着。
息子はいつも通り「スシロー行きたい」と騒いでいましたが、時間が無くなりました。



しかし、運よくフェリーに、最後から2台目の車として乗りこむことに成功。
これに乗れなかったら、あきらめるところでした。

フェリーはわずか15分の航路にもかかわらず、超豪華。
売店は勿論、麺類のカウンターもあります。
スシローに行けなかったので、お昼御飯はここのうどんになりました。



乗る時も、フェリー内でも料金を徴収しないので不思議に思っていたのですが、
船着き場に降りて島に入るには、このゲートで高速道路のように料金を払うしくみです。
車一台分に、中に乗っている人数分の料金をプラスして払います。
息子はぎりぎり子供料金でした。
4月からこいつも大人料金になってしまうのね。
全部で1000円少し払ったかな。



島について、取りあえず展望台を目指し車を走らせていると、山の向こうにもくもくと噴煙が!
息子は「大丈夫なの?爆発するんじゃない?」と無茶苦茶怯えています。
なにしろ、今警戒レベルですから。



大正の大噴火のときに埋まってしまった鳥居。
鳥居の上の部分しか残っていない・・・。
この大噴火のとき、測候所が当初「大噴火には至らない」という発表をしたため、
その後パニックになった村民が崖から落ちたり、海に入って凍死したりしました。

島内に残るこの大噴火の記念碑には
「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」
と書かれ、科学不信の碑と呼ばれているそうです。

これ即ち、自分の目と耳と直感を信じろ!ってことでいいでしょうか。
ていうか、これは大本営発表不信の碑、の方が正しいのでは・・・。



行く手に見える噴煙。
2011年12月に一万回目の噴火をした桜島、現在は警戒レベルとはいえ、
先の大噴火の時とは様相が違うとか、やっぱり危ないとか諸説あり、注視中だそうで・・・、
つまり科学不信の碑の教えだけは正しいことを裏付けていますね。


島には民家は勿論のこと、学校病院もお店や会社、銀行も普通にありました。
万が一噴火、というようなことになったときの島民避難マニュアルがちゃんとあるんでしょうね。
でも確実に何年か内には大噴火が起こることが判っているところに住むのって、どうなんだろう。
いつなんどき有事になってもどんと来い!みたいな、肝の据わった島民根性が、
古老から子供に至るまで、全島民に備わっていると思うがどうか。

因みに島の大きさは東西約10キロ、周囲約55キロ。
小一時間で一周してしまえる大きさです。

道のところどころにこのような待避壕があるのが、物々しい。
爆発が起きたら決して車で逃げないでください、という看板があちこちにありましたが、
果たして皆、いざとなったら車を捨てることができるでしょうか。



当たり前ですが、火山灰が降り積もっています。
わずかの間車から降りただけで、灰を被りました。
島ではクリーニング代が異常にかかるのだそうです。

ちなみにここは全体が国立公園なので、こういった火山灰や石(軽い)でも、拾ってはいけません。
展望台には土産物屋があり、お菓子とともにこの石を売っていました。
火山灰も瓶に入れて売っていることもあるそうですが・・・・誰が何のために買うんだろう。



この土産物屋さんも、なんだか何か買ってあげたいものだなあ、と思い立ち寄ったのですが、
全てのものが灰を被っているような状態で、何かが欲しいという気に全くなりませんでした。
警戒レベルになってから海外(中国、韓国)の観光客がぱったりと減ってしまったそうです。
まあ、怖いよね。特に外国人は。



常にどこかに噴煙の入ってくる展望台からの眺め。
地面の色を見てください。



ごもっともな注意ですが、十分注意してももうどうしようもないのではないかと。
車からも降りなきゃならないし・・・。

というわけで、ここからフェリー乗り場までとんぼ返りし、夕刻の飛行機で帰ってきました。



大正の大噴火の後、災害復興のために就航した定期航路が、
その後、この桜島フェリーとなりました。
今は島と鹿児島を結ぶ橋の建設も(何となくですが)計画にあるそうです。

この大噴火のとき、対岸の鹿児島では、例によって「津波が来る」「毒ガスが発生する」
などの流言飛語のせいで、避難しようとする人々のパニックがあったそうです。
大正時代ですらそうなのですから、ネット時代の現在、災害時にパニックに至るのは
群集心理の当然の帰結なのでしょう。

科学不信(というかお上不信)といい、流言飛語といい、人の世に起こりうることは
百年前も今も、その実何も変わっていないってことでしょうか。




砂むし温泉とイタリアン

2012-03-30 | つれづれなるままに

     

引き続き鹿児島訪問記です。
勿論メインは知覧の特攻平和会館ですが、ことのほか楽しみにしていたのが、砂むし温泉。
地熱を含む砂に首まで埋まって蒸され、体の芯まで温まる「蒸しサウナ」。
なんでも、全国ではここ指宿温泉のオリジナルらしい。

この白水館のお風呂は体育館くらいの大きさのフロアにさらに上階には露天風呂コーナーと、
広大なものですが、お風呂と中でつながっている廊下を進んでいくと、そこは砂むしコーナー。
砂むしを申し込むと、(1000円)入り口で砂むし専用の浴衣を渡されます。
下に何もつけずに着て、のれんをくぐると、そこは男女兼用のウェイティングコーナー。

長いベンチが数脚並べてあり、四人ずつ座り、前が空くと詰めて移動していきます。
我々が行った時は日曜の夕方で、いわばピーク。
ベンチに座りきれず、脇の部屋も待つ人用に使用されていました。

八人が横たわることのできる砂場が全部で七面。
この日は全面フル稼働でした。

二人三人組で来る人が多いので、時々余った場所のために
「一人だけのご利用の方はいませんか」
と呼んでくれるのですが、このおかげでわたしは二〇人くらいごぼう抜きしました。

木の高いマクラの上にタオルを乗せて、平らにされた砂の上に横たわると、
砂かけ係が浴衣の裾をぴんと下に引っ張って、合わせ目から砂が入らないようにしてくれます。
この砂かけ係は「この道数十年、半生を砂をかけることに賭けた男」みたいな年配の人は
一人しかおらず、あとはアルバイトのような若い青年ばかりでした。
危険なスコップ状のものではなく、毛のないデッキブラシのようなもので砂をかけていきます。
これ、結構な重労働だと見た。

あとで家族と語り合ったのですが、全員感想はただ一つ。

砂が重い。

皆さん。
土砂崩れの事故で埋まったとかいう事例や、昨夏起こった
「仲間が砂浜に掘った落とし穴に落ちて砂に埋もれて亡くなった」という事故、
なぜ砂くらいかき分けて逃れられなかったのか、と思っていませんか?

体の上に10センチかけられた砂ですら、重くて深呼吸もできないんですよ。
そう言った事故もむべなるかなと納得しつつ、重さに驚きながら10数分。
係の人は
「10分から15分が目安です」
というのですが、しばらく埋まっていると、じんわりと温まっていく砂は気持ちよく、
その重さも慣れればなかなかおつなもので、あっという間に時間が来てしまいました。
苦しくなければ何時間でも埋まっていることは可能なのですが、
この日は前述のように待っている人が多く、それでなくても
たくさんの人たちに埋まっているところをガン見されている状態なので、15分で出ました。

砂にまみれて立ち上がり、のれんをくぐってすぐにあるシャワーのところに全てを脱ぎ捨て、
シャワーで砂を落として、あとはお風呂を楽しみます。

埋まっている間に、カメラマンがやってきて写真を撮ってくれます。
申し込むと、赤い傘と日付の札を砂に立てて、(確かに何もなければ殺風景かも)
チェックアウトの時にわたしてくれるのです。
息子とToが撮った写真が、これ。



まあ、息子は反抗期ですから・・・。

この後岩盤浴をしたり露天風呂でボーっとしたりして、あっという間に夕食の時間。
今日は、ホテル内のイタリアンレストランに行きました。



広尾にアクア・パッツァというイタリアンレストランがあるのですが、そこのシェフのお店。

 

新鮮な生野菜をたくさん使うのがアクア・パッツァ風。
支配人は「葉っぱばっかりでなんだか馬になった様な気がしますが」
とおっしゃっていましたが、都会人はこういうの好きなんですよ、と。

メインの黒毛和牛のステーキは美味しかったですが、量が多くて食べられませんでした。
白身魚は案の定素材が今一つ。
イタリアンやフレンチで白身魚を美味しいと思うことってあまりないんですよね。
あえて言えば、呉の大和ミュージアムの近くの小さなカフェが今までで一番でした。

 

パスタは、ニョッキ。
餃子のように中に具が入っていました。
そう言えば歯触りも餃子っぽかったな。

デザートは紅茶ゼリーと桜のアイスクリーム。
全コース通じて、私が一番評価したのがこのアイスクリーム、Toはパンでした。

・・・・・・・。

しかし、温泉旅館ですから、宿泊費には朝食、夕食代が含まれています。
和食の懐石がでてきたら当たり前のように思うのですが、イタリアンのコースが出てくると
「なんだかタダで食べているみたい・・・お得かも」
とつい錯覚してしまいます。錯覚ですが。

この日は観光しまくって疲れ切ってしまったのと、次の日の朝、朝日を観ながら砂むしをしたい!
と思ったので早々に就寝することにしました。

昨日はたたみに一人、ベッドに二人が寝たのですが、今日はお願いして、
和室に川の字にお布団を敷いてもらいました。

電灯を消して豆球にすると、なんと。
天井にこのような光が浮き上がっています。




このお部屋は「萩の間」だからなのです。
粋ですね。






旅しながら淡々と写真を貼る~鹿児島

2012-03-29 | つれづれなるままに


鹿児島なう。
などと、自分の所在をツィッターで呟くような趣味はないので、全て事後報告になりますが、
またまた旅してきました。
旅と言いながら我が家の場合用事を兼ねていることが多いのですが、
これまで用事ついでに北は北海道から南は沖縄まで、結構いろんなところに行ってきました。
しかし、鹿児島は初めてです。

鹿児島と言えば西郷隆盛、芋焼酎に桜島。
そして、温泉!いやっほー!今回は砂蒸しだ!

夜鹿児島空港に到着。
宿泊するのは指宿の白水館という老舗旅館です。
訳あってToとは別便なので、空港には息子と二人で降り立ちましたが、バスに乗るのが面倒で
レンタカーを借りてしまいました。

それからToのいるところにナビで向かったのですが、それを聞いたToの周りの方から
「ええっ!鹿児島が初めてで夜、しかも雨が降っているのに車を?
スカイウェイといっても、山道で大変ですよ!分かりにくいですよ!」
と豪快&無謀奥の烙印を押されてしまっていたそうです。

ボストンから国境超えして、モントリオールまでの雪道を、スノータイヤなしのぼろいカムリで、
しかもナビ無しで往復したこともあるエリス中尉をナメていただいては困る。

というわけで難なく旅館に到着。

いきなりロビーのポスターでびっくり。
何となれば、この桑名正博さんですが、(ご存じ?)わたくし実はこの方の亡くなられた
お父様を存じ上げておりまして、なぜかカニ缶をもらったことのある仲。
お宅の庭には離れがあり、「あそこで娘が○○○を・・・」というバイヤなナシハを聞いたことも。
そういったことなどを、この旅行の前日に思い出すともなく思い出していたからです。

そのときついでに「そう言えば桑名さんって、今仕事どうしてるのかしら」などと考えたのですが、
なぜか次の日、ホテルのロビーでその答えがわかったという・・・・・。

この地方ではお雛様はひな祭りを過ぎても飾るようです。



旅館の最新館に泊めていただきました。
普通の旅館のようですが、客室がなんと自動ドア。
消火器は和紙状のものでくるんで、和の雰囲気を壊さないようにしてあるのですが、
「これ・・・・火事になってからこれを破いたり剥いたりしてる間に延焼するのでは・・・」
などと真剣に心配してしまいました。


部屋は半分が洋室、半分が和室。
息子は着くなりテレビにipod touchが繋げないかをチェックしています。
建物は近代的ですが、wi-fiはさすがにありませんでした。
辛うじてテレビの横に有線ラン用のジャックを発見。
でも、ゲームをやりたい息子と違ってわたしは温泉ではむしろネット無しで過ごしたいので
全く問題はありません。

この旅館はひとことで旅館と言っても広大な敷地内に薩摩陶器を展示する美術館もある、
文化の担い手をも自負する地元の超有名どころです。
ブッシュ元大統領も小泉会談のときには宿泊したそうです。

次の日朝食を食べていると、支配人のH氏が来られ、挨拶を交わしたのですが、
なんと、ご厚意でこの日観光案内にH氏の運転で連れて行っていただくことになりました。



どこかお分かりですか?

そう、知覧特攻平和祈念館です。
ここで観たこと、考えたこと、書きたいことが山ほどあるので、稿を別にします。
H氏はここを「皆が行く観光コースとして取りあえずお連れする」というつもりだったようで、
まさか最初のコースで我々がたっぷり2時間見学に没頭するとは思わなかったでしょう。

この記念館に続く灯篭の道脇には桜がちらほらと咲いていました。
知覧から4月6日に出撃した隊員が、遺書に
「桜の季節に往くことができるのが嬉しい」
というようなことを書いていたのを思い出し、胸に迫るものがありました。

昼食を食べに行く途中に、富屋食堂がありました。



映画でも有名になった「特攻の母」鳥濱トメさんの食堂が復元されています。
写真パネルと特攻隊員たちの遺して行ったもの、映像で往時を偲ぶ資料館です。
 

ここにトメさんを慕って足を運んだ特攻隊員たちのことは蛍になった宮川少尉を始め、
有名になった話はそちこちで目にしますが、こんな話をここで知りました。

「ある隊員は猫が怖くて、トメさんの娘が飼っている猫を抱いていると遠くに逃げてしまう。
『飛行機に乗っているくせに猫が怖いの?』
娘さんは面白がって猫を抱いたまま近づくと、「ひえええ」と後ずさった折りに
彼は階段から落ちて怪我をし、娘さんは『特攻隊員に怪我をさせた」とえらく叱られた。
その隊員はその次の日出撃していった」

悲しいのだけど、なんだか可笑しい話です。

お昼を食べたのは、ここ。



ケースの中に飾ってあるのは、映画「君のためにこそ死にに行く」の小道具のようです。
おそらくこの食堂が飾るために買い取ったのでしょう。
知覧特攻平和祈念館の敷地内にありましたが、富屋食堂の雰囲気を出しています。

しかし、この「特攻おばさん」という言い方。どう思います?
「特攻の母」じゃなくて。
細かいことですが、こういうネーミングはご本人にとってどうなんでしょう。
特攻記念館という本来慰霊のための施設を「観光の目玉」にすることの問題が
こういうところに現れてはいませんでしょうか。
これが「特攻まんじゅう」「特攻せんべい」、特攻と書いたTシャツの一歩手前、って気が
するのはわたしだけでしょうか。




でも、ご飯は美味しかったです。
これは息子の頼んだ「炊き立てご飯&ラーメン&とんかつセット」。
鹿児島はそれにしても何を食べても美味しゅうございました。

 

ほとんどが茶畑のこのあたりですが、ここに昔飛行場があって、ここから飛行機は
最後の離陸後、まず海聞岳を目指して進路を取り、沖縄への特攻に飛び立っていきました。

左右対称の美しい山で、薩摩富士という別称があるそうです。
彼らはこの威容を湛える山に向かって日本への、そして愛する人々への
最後の別れを告げたと言われています。




カルデラ湖である池田湖は、たった一度の恐竜の目撃情報以来、それを
「イッシー」と名付けてこれも一時は「観光の目玉」になっていたようです。
本場のネッシーもどうやら存在しないことが明らかになったようですが、
こちらイッシーくんも見間違いだったようだ、とトーンダウンしており、当然ながら
観光客もほとんどいませんでした。



さて、ここでいきなり国立公園に突入。
なんと、「日本一小さな国立公園」です。


つまり、この井戸だけが国立公園。
神代の昔、豊玉姫が毎日使っていたもので、日本最古の井戸だと言われています。




お次の観光地はJR西大山駅。
単線で無人の小さな駅ですが、日本で最南端に位置する駅とされています。



電車の来るのは一時間に一本弱。
最南端と黄色の関係が判らないのですが、
「幸せの黄色いポスト」があります。
ここから手紙を出せば幸せがくるようです。
実は返却するDVDをここで投函したのですが、いつもより到着に時間がかかりました。
DVDの返却には使用しない方がいいかもしれません。



この小さなの人々は、苗字を皆「鰻」というそうです。
街には地下から温泉がわき、そちこちに井戸のようなものがあります。
卵を左端に見えている麻袋に入れて湯気の出るところに置いておくと、温泉玉子ができます。
これも小さな公衆浴場があり、の収入になっているようでした。



支配人とご一緒したので、車の中でホテルの歴史や経営のこと、いろいろと
面白い話を教えていただきましたが、かつてこのあたりが新婚旅行のメッカであった頃、
この山を「ダイヤモンド・ヘッド」として、「東洋のハワイ」を謳っていたそうです。
確かに少し似ている・・・かもしれない。
宿泊客には浴衣ならぬムームーやアロハを着せていたこともあったそうですが、
ハワイが「憧れの航路」で無くなり、安いものになって「かっこわるい」とやめてしまったとか。



明るいうちに帰ってきたのは、この指宿温泉の名物「砂蒸し温泉」に入るためです。
さて、日頃たまった毒気をさっぱりと抜きますか。

・・・・・・抜けるかな?









明治村と「坂の上の雲」

2012-03-04 | つれづれなるままに

                       

京都の四条河原町、ロイヤルホテルの近くに立派な教会があります。
現在の教会が建つ前に、ここにあったものが、これです。
重要文化財、聖ザビエル天主堂
中に入るとフランス、イタリア、スペイン・・・・・・ヨーロッパの古い教会そのまま。
歴史の重厚さを感じる壮麗なものです。

市街地の四条河原町にあるときには勿論無かったこの石段。風光明媚な環境。
この教会にとって、ここが本来あるべき場所だったのではないかとすら思えます。

おまけに、ここでは教会も「現役」。

明治村には、結婚するカップルのために、ここを始め園内の三つの教会で挙式、
帝国ホテルや、三重県庁庁舎の一室で披露宴ができるウェディングプランがあるそうです。

三重県庁庁舎
なんと、鹿鳴館を模して造られた豪華な宴会場があるのだそうです。

それにしても・・・。
三重県の県庁が、現在どんな庁舎を使っているのかは知りませんが、
全国津々浦々の「お役所」のほとんどに、
いるだけで気が滅入ってくるような醜悪な建物が使用されていることを考えると
「どうしてこうなった」と嘆かずにはいられません。


明治村ウェディング、いいなあ・・・。
もしもう一度結婚式をすることがあったら、ここでしてみたい・・・・・



・・・というのは悪質な冗談ですが、

それにしても、この「建物の移設技術」って、どうなっているんだろう。
よくぞこんなものを前と寸分たがわず同じに持ってこれるものだと、これは明治村の全ての
建築物に対して感慨を持ちました。
移設にあたって、きっと耐震設備も施されているんでしょうね。



一番向こうに見えているのが、千代田区にあった内閣文庫
現在の国立公文書館ができるまで、そこにありました。

川崎銀行本店
東京日本橋の本店が昭和六一年取り壊しになった際、外壁部分の一部が移築されました。

こういう歴史的、そしてなにより趣のあって美しい建物が、
どうして日本には残せないのでしょうか。

アメリカの古都、ボストンでは、外壁に1800年代の建築であることを記した建物を、
壁を塗り替えてジムやネイルサロンに使っている、なんていうのは普通です。
(アメリカでは住人が変わるたびに壁のペンキを塗り替えます)

ニューベリーの目抜き通りは100年以上経ったアパートメントが立ち並び、そこに住むのは
ボストニアンのちょっとしたステイタスでもあるのですが、内装はいくらきれいにできても、
裏側の配管やらなんやらは、もう大変なことになっていて、
地下室では鼠が人間より先住者として大きな顔をしている、という代物だそうです。
にもかかわらず、彼らは決してそれを取り壊そうとしません。

勿論、都心のオフィスビルなどは、最新の設備を備えたインテリジェントビルですが、
オフィス街はともかく、街の景観そのものを変えてしまうことに対して、
彼らは日本人から見ると異様なくらい否定的です。

先日小牧というローカルな場所で、日本の地方都市の醜さについて少し書きましたが、
たとえ都心部でも、街の景観という点では、醜悪さにおいて大差ないと言えます。

以前、目黒通り沿いに、まるでお城の城壁のような外壁を持つ、立派な日本家屋がありました。
「どんな人が住んでいるんだろう」
などと、通るたびに妄想をたくましくしていたのですが、なんと、去年暮れに取り壊され、
跡地には集合住宅が建てられることになってしまっていました。

嗚呼、またしても・・・。

古いお屋敷が、相続税などの関係で支えきれなくなり、
分割して売られたり、マンション建設地になったりして、元の街並みがどんどんと
陳腐に変わって行く流れは、もうどうしようもないことのようです。

うちの近所も、空いた土地を三分割して、おもちゃのような、ピカピカ光る外壁の、
「建売住宅」(しかも三軒がみな同じ形)になってしまったところがあり、
その、工事開始からあっというまに立ち並んでしまった、みっともない家を眺めながら、
「こんなものに何千万も出す人がいるのね・・・」
と慨嘆したばかりです。

江戸時代の街並みを、航空写真のように高いところから撮影した写真を見たことがありますが、
整然として実に清々しい、美しいとしか言いようのないものでした。
その頃の日本人に「街の景観」を考慮するような意識は、全く無かったに違いないのですが、
それでも、もしかしたら犬養道子さんの言うように、
「日本人の美的感覚(景観に対する)は、どこでおかしくなってしまったのか」
といぶからずにはいられない現在の「変節ぶり」です。

日本で「しっかりした建物を建てて大事に使い、それを何代にもわたって守って行く」
という概念が根付かないことの原因の一つに、地震をはじめとする天災の多さがあるでしょう。
一瞬にして倒壊し、いったん火がつけば燃え広がって一角が全て焼けてしまう日本家屋。

文化や文明は、干ばつ地帯や砂漠、あるいは永久凍土の地に決して発達しません。
自然の脅威から生命を守ることが優先されて文化どころではないからです。
そういう意味では、自然災害の多い日本という国は最初からハンディが多すぎるのです。

この、決して住みやすいとも言えない国土で、それでも、
これだけの文明を発展させ維持して、独特の文化を花開かせてきた日本人。
ハンディに打ち勝ってきたことは賞賛されるべきなのでしょうが、いかんせん、
地震と戦っていくのが先決問題で、建築物の半永久保存や、ましてや街全体単位で考えた
景観の美的価値などあまり考慮されてこなかったということかもしれません。



明治村で一番新しい建築展示物、西宮市にあった柴川又右衛門邸
阪神大震災で右のように損壊し、これを機会に明治村に移設されました。
明治に建てられた歴史的建築物を保存しようにも、こうなってしまっては住み続けるわけに
いかず、ここへの移転となったのです。
 
ふすまを開けたら収納式の暖炉。



ふと眼をとめると、豆球の差し口がハート型・・・。
ここは、普段ガラスを被せて、人の目に触れない場所だったはず。
見えないところにこの遊び心。なんて粋なんでしょう。


これはしかし、幸福な一例で、うちの実家の周辺にあり「お屋敷」と呼ばれていた日本家屋が、
震災の後取り壊されて安っぽいマンションになったように、たくさんの価値ある建物が、
あの地震で永遠にこの世から消えてしまったのです。

先日、陸軍士官学校卒の建築家の方の話をしましたが、この方が長をしているプロジェクト
は、建築家や歴史家が、あの大震災で失われた歴史的建造物の記録をまとめ、
修復できるものをよみがえらせる、というものでした。



余計なもの、夾雑物の全く無い町並みというものが、いかに美しいものか。
明治村に来ると、それがよくわかります。
ヨーロッパやアメリカの古い町が、頑迷で偏執的にすら思えるくらい、
昔からの街並みを保守するのはなぜか。

ここ明治村で、時の経過に耐えた建築物が整然と並ぶこの街角に佇み、
理屈抜きにその美から安らぎと落ち着きを感じるとき、
「それが文化というものだから」
という答えが、自然と出てくるのです。



「山本五十六」もここで撮影されました。
町並みは勿論、山本家のご飯シーンも、この中の建物を使って撮影されたようですね。

ところで、今回、園内では繰り返し繰り返し、久石譲氏作曲の、NHKドラマ
「坂の上の雲」のテーマソング、歌バージョンが放送されていました。

確かに、最初に耳にしたとき「この曲は、この街並みに確かにぴったり」などと思ったのですが、
何回も何回も何回も何回も聴いていると、まるで、拷問。
特にわたしは、どんな曲でも3回以上繰り返されると、もうダメです。

昔訪れたとき、こういうBGMが流れていたかどうかは記憶にないのですが、
またまた犬養道子さんの言葉を借りると
「電車の中、街中、エレベータ、デパート、スーパー、日本人は音に対して無神経すぎる。
街に音が氾濫しすぎているのにこれでもかと押しつける・・・」
煙草の煙を吸わないですむ権利のように「音を聴かずにすむ権利を守ってほしい」

いくら「坂の上の雲」がいい曲でも、一日中エンドレスで流すのはいかがなものでしょうか。
客はそれでも一日我慢すればすみますが、おそらく従業員は苦痛すら感じていると思いますよ。

明治時代を再現するここ明治村で、電気再生音は全く無用。
当時の静けさこそを再現して、訪れる者に空想の余地を与えてくれることを心から望みます。