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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリカ5州博物艦巡りの旅①〜出国、シカゴ、ミシガン州マスキーゴン

2022-07-17 | アメリカ

今回のアメリカ行きは、MKの卒業式旅行があったため、
例年よりも出発が後ろにずれ込んでしまったのですが、
そんな年に限ってこのお元気ですか日本列島は異常な暑さに見舞われ、
日本の湿度のある暑さに慣れていない体には堪えました。

しかしようやくアメリカに到着してホッとしたのは、日本にはない
からりと湿気の低い心地よい暑さのせいだけではありません。

とにかく今回は特典航空券で便を抑えるのが大変だったそうです。
(この辺りの手続きは皆TOに任せているので伝聞)

というのは、我々の最近の移動は全てクレジットカードの特典航空券、
つまり言うたらおまけのチケットに準拠しているので、
疫病がひと段落して旅行が可能になった国内外の移動は、
リベンジツァーの影響下、都合のいい便がうまく取れなくなっていたのです。

何度も(TOが)カードデスクと丁々発止やり合ったにも関わらず、
どうしてもピッツバーグまでうまく繋がる便が取れず、
最終的にシカゴから車で移動ということになってしまったのです。


しかし、これは実はわたしにとっては猫にまたたびのような天の配剤でした。

実は5月もそのパターンになりかけ、そこで、

「シカゴからなら潜水艦『シルバーサイズ』を見に行こう」

とひらめいて、すっかりその気になっていたところ、その後、
乗り継ぎ便が取れてしまい、無念にも計画は水泡に帰したのでした。

しかし今度は本当にシカゴまでしか飛行機は飛ばない。
これをリベンジツァーと言わずなんと言う。
そして、今後の人生でアメリカ中北部をうろうろできる機会が
(時間的にも体力的にも)またとあろうか、いや、ない。


と考えたわたしは、さらに欲張って計画を練りました。

シカゴからピッツバーグまで車でノンストップなら8時間。
この行程を5日間に引き伸ばし、五大湖に係留されている海軍艦艇を
片っ端から見て歩くという、当ブログ的豪華特別企画です。

早速、キッチン付きのホテルと近くにホールフーズがある場所に
点々と泊まり歩くような予定をガッチリと組み、渡米に備えました。

■出発



今回の航空便予約がいかに難しかったか。

それは、わたしとTOが、羽田と成田からほぼ同時刻に飛行機に乗り、
シカゴ空港で再会するという当初の予約にも表れていました。

これをTOは、

「われても末に逢はむとぞ思ふ作戦」

と名付け、それなりにうまい作戦だと悦に入っていたのですが、
当日の朝、アクシデントが発生。
わたしの乗る羽田発のユナイテッド便が欠航になったのです。

なんでも出発地のシカゴが雷雨で離陸が3時間遅れ、
羽田に着いてみれば機体不良が見つかりもう飛ばせなくなったとのこと。

そこでTOが、自分と同じ飛行機に無理やり頼み込み捻じ込んで、
(元々その便には特典航空券の席はなかったのですが)
奇跡的に同じ便でシカゴまで行けることになりました。

何という禍転じて福とナス。
今回の旅行は何だか幸先がよろしいようです。

■ 機内


今回の出国は、PCR検査が必要なくなっていたため、
過去2年の困難がまるで夢のように思われるほど簡単でした。
(つまり以前の通りに戻っただけなのですが)

航空会社もようやく底を脱してホッとしていることでしょう。

ただ、PCR検査一人一回2万円也のフィーバー状態が終わった
空港などの検査機関は、ちょっと残念に思っているかもしれません。

知らんけど。



結局ユナイテッドでなくANAになったので、
機内での夕食は迷わず和食にしました。

今回もどこかの料亭とのコラボによる献立で、普通に美味しかったです。



メインが豚の角煮というのは初めてです。



今回は後半ぐっすり寝過ぎて、目を覚ましたら朝ご飯が終わっていました。

「寝ておられたのでお声をかけませんでしたが
何かお召し上がりになりますか」

とFAさんに言われて初めてそのことに気づき、
軽食メニューの「ヘルシーカツ丼」なるものを頼んでみました。

このメニューは3月から始まった代替食材料理で、
豚カツに替わるカツ部分をおからとこんにゃくで形成したもの。

国際線ビジネスクラスの軽食でのみ提供されていて、
世界的な流れである「サステイナブル」に配慮した形です。

開発した会社「ディーツ」の名前をつけた代替肉ディーツは、
おからとこんにゃく由来で、通常の「カツ丼」1000キロカロリーを4割、
脂質は5割カット、逆に食物繊維5倍というものだそうです。

何も考えずに頼んでみたのですが、代替肉としてはよくできていて、
見た目もさることながら、肉質、食感もいい線いっていました。

しかもご飯は、こんにゃく米と白米を半々で使用したものでしたが、
食べている時には全く気付かず、今ANAのHPで初めてそうと知ったほどです。

研究の結果、「究極の配合」白飯と半々なのだそうです。

■ シカゴ・オヘア空港着



いつも何の気なしに飛行機の窓から景色を撮っていますが、
いつの頃からか、撮った景色の地名が明記されるようになりました。

これはイリノイ州のDu Page Countyの「フォレストプリザーブ」という
緑地帯で、オヘア空港の地図では左下に位置します。

さて、というわけで無事オヘア空港に降り立ったわけですが、
入国審査が空前絶後というくらいの人大杉でびっくりしました。

COVID19の頃もハブ空港のオヘアはそれなりに人がいましたが、
今回はリベンジツァー真っ最中というだけあって、
いつも並ぶ通路に人が収まりきらず、臨時にコンコースに作った通路で
地の果てまで行って帰ってきてから本来の通路に並ぶという具合。

わたしたちはシカゴが最終目的地だから関係ありませんが、
これでは乗り継ぎ便に遅れる人続出だろうと思われました。


シカゴにはもう何回も来ていますが、降りたのは初めてです。

そのため、レンタカーの乗り場がどこなのかわからず、
とりあえず表示を頼りに歩いて行ったら、斜め上の矢印を最後に
表示が消えてしまい、仕方がないのでその辺の空港の職員に聞いたら、
こいつが全くの出鱈目を教えるものだから、カートの荷物を押しながら
あっちにに行ったりこっちに行ったりを繰り返すハメになりました。

最後に聞いた人がちゃんと「トレインで最終駅まで行くんですよ」
と教えてくれて何とかレンタカーセンターにたどり着き、
ホンダの4WD、しかも走行距離600マイルのピカピカの新車を選んで、
(何を隠そうわたしはゴールドメンバーなので好きな車を選べるのである)
やっとのことでホテルに到着したのでした。


ホテルはいつもキッチン付きのレジデンスインバイマリオットを選択します。



今回はこれまで貯めていたアップグレードのプレゼントを使い、
1ベッド+ソファベッドの安い部屋から2ルームにアップグレードしました。

さすがシカゴ、極寒の地だけあって、部屋に暖炉があります。

その日は車で15分ほどのところにあるホールフーズで
ホットデリを取ってきて、部屋で食べ、明日に備えて寝ました。

■ U-505



今回、シカゴ近辺の海事遺跡を調べていて、
シカゴの博物館にU-505の実物が展示されていると知った時は、
思わず胸が高鳴ったものです。

この捕獲Uボートの実物を見ることほど今回楽しみだったことはありません。

Uボートの展示がされているのは、

Museum of Science+industry Chicago
(シカゴ科学産業博物館)

大都市シカゴの中でも特に充実した博物館で知られており、
そのほかの展示も、



航空機群あり、



テスラコイルの実演ありとすごかったです。(小並感)


このあと、博物館を出て、車の機能を確かめながら次の場所に向かいました。


駄菓子菓子、困ったことに、今回の時差ボケもかなりキツく、
前夜は明日のために眠るぞー!とメラトニンを飲んで寝たのに、
3時に目が覚めてしまい、そのあとはどんなに頑張っても眠れません。

早起きしてしまった睡眠不足のツケは翌日の昼過ぎに払うことになり、
車を運転していていきなり悪夢のような眠気が襲ってくるたびに、
PAに停めて仮眠をとりながら移動していました。

この時差ボケは最終日のバッファローまで全く解消することはなく、
それまでは途中の仮眠とスタバのオーツラテ(グランデ)が頼りでした。

■ ミシガン州マスキーゴン

Muskegon。

当初何と読むのかさえわからなかったミシガン州の、
ミシガン湖に面した港町であります。

ここに、先日当ブログでご紹介した映画「BELOW」で使われた
潜水艦「シルバーサイズ」があります。



前日はミシガン湖を地図上で見ると左岸に近いシカゴから、
車で湖に沿って走った内陸にあるグランドラピッズに宿泊しました。

もちろん初めて知る地名ですが、ミシガン州ではデトロイトに次ぐ都市で、
言うたらミシガン州の大阪という位置づけです。

到着した時から感じていましたが、さすが北の方にあるだけあって、
この辺の気候は日差しは強くとも風がひんやりして、
北海道の夏を思わせる心地よいものでした。



なぜか駐車場のコンクリの上にいたカメさん。



グランドラピッズからミシガン湖沿いの街、マスキーゴンまで40分ほど。


ここでまず昼ごはんを食べることになりました。
車で通りかかってピンときた、ヨガ教室に併設されたデリ&カフェです。

地元の野菜を使ったロールやサラダ、アサイーボウルなどを、
自分の好みでトッピングを注文することができるお店で、
カウンターの中も外も女性でいっぱいでした。



潜水艦「シルバーサイズ」は、港に係留されており、
そこに地元渾身の潜水艦博物館も併設されています。



内部も自由に見学することができました。

改めて中を見て、実際にあの中にカメラを持ち込むのは無理、
潜水艦内の映像はセットによるものだと確信しました。



併設された潜水艦博物館は、戦争博物館、そして
地元のベテランを顕彰する役割を持った、お馴染みのタイプです。

改装したばかりらしく、パネル展示が新しかったのですが、
展示室に入った途端、これにお迎えされてしまいました。



そして、そのマスキーゴンを湖沿いにほんの何分か北上すると、
揚陸艦USS.LST393が展示されています。

五大湖沿いはアメリカ、カナダ共に記念艦の展示が多いのですが、
海沿いより潮による劣化が少なく管理しやすいからかもしれません。

他にもミシガン州ヒューロン湖沿いカナダ国境のマッキノーには
その名も砕氷艦「マッキノー」が展示されています。

今回わたしは無謀にもこれを見学するつもりでいました。

机の上で地図を見ながら計画を立てているときには、
マッキノーから舌のように突き出したミシガン州の舌の先まで行って、
砕氷艦を見学したらそのまま同距離をその日のうちに
マッキノーとほぼ同じ緯度上にある宿泊地に戻れると思っていたのですが、
如何せんアメリカは広かった。

ミシガン州だけで実は日本の本州より1割大きいというくらいですから、
それは例えるなら、大阪から車で東京に行って、
その日のうちに京都に帰ってくるというような無茶苦茶なプランでした。

現地で走りながらそれを改めて実感し、砕氷艦は諦めて、
おとなしく次の街、アナーバーに向かうことにしたわたしです。


続く。





アメリカ卒業式参加旅行(帰国編)

2022-05-26 | アメリカ

わずか11日の滞在、卒業式という記念行事ということもあって、
今回のアメリカ滞在中は結構奮発ぎみのレストランが続きました。

この日は、冬滞在した時に大雪にもかかわらず突撃した絶景レストランへ。

卒業式後ディナーもここがいいんじゃない?と言ったら、MKが生意気にも
あそこは味があまり好きじゃない、というので最後まで避けていたのですが、
この日ちょうどオープンテーブルで日没の7時半に予約が取れたこともあり、
TOはまだ来たことがないし、別のメニューを選んだら?と説得しました。


結果、あの大雪の日とは打って変わって美しい初夏の景色を
日没から夕暮れまで楽しむことができて最高でした。



夏暑さが厳しく冬は雪が降るので、この時期ピッツバーグは工事シーズン。
道路も張り替えのため、あちこち通行止めになって迂回が多かったこと。

ブリッジの工事にはこんなカバーをかけて行っていました。



ここからは、カーネギー・サイエンスセンターが展示している潜水艦、
USS「レクィン」SS-481を対岸から見ることができます。

「レクィン」はコロナ下では閉鎖されていましたが、今見たら
内部の見学は再開したようなので、最後のピッツバーグ滞在となる次回、
必ず内部の見学をしてくることを皆様に約束します。



まるでケーキのようなグラスフェッド牛肉のタルタル。



この日のわたしのチョイスはマッシュルームのパピヨット(紙包み)。
各種キノコの下にはポレンタ(コーンミール)が敷いてあります。



TOのカモの胸肉いちごバルサミコソース添え。
カモにオレンジ以外のフルーツを合わせたあたりが挑戦的。



だんだん陽が暮れて暗くなってきました。
対岸の常設野外ステージでは、おりしもロックコンサート中。

写真を拡大してみると、ブラック・ストーン・チェリーという
ヘヴィメタの人気バンドでした。
全米ハードロックのチャートで一位になったこともあるということです。

そのこちら側には「ミスター・ロジャース」のブロンズ像が・・。
ミスター・ロジャースといえばピッツバーグの生んだ偉人。

「アメリカの最もいい人」としてここでも紹介したことがありますが、
帰りの飛行機でトム・ハンクスの「幸せの回り道」をもう一度観て、
あらためて嘘くささとトム・ハンクスの演技に背中がゾワゾワしました。

特にダウンタウンのレストランで、週刊誌記者のボーゲルに、

「1分間でいいから君の愛している人のことを考えてみて」

といい、ボーゲルが目を瞑ってそれを試みている間、
彼を見ているロジャースの目つきが、もう怖いのなんのって(笑)

ちなみに英語の映画サイトを覗いてみると、世間はおおむね好評ですが、
たまにわたしと同じ感想を持つ人もいて、ほとんどが辛辣です。

「フレッド・ロジャースは、かけがえのない遺産を残した偉大な人物であり
人道主義者であり、トム・ハンクスは非常に著名で好感の持てる俳優だ。
それでもこの映画は、不気味さが散りばめられた単純に不自然なものだった」


「Mr.ロジャースのトワイライト・ゾーン版を見ているような気分でしたね。
まさに『Bizarre』。
カフェでの1分間の沈黙、トムの表情、
トワイライトゾーンのテーマ曲の出番です。 :(」

評価は真っ二つで、絶賛かさもなくば否定しかない映画です。
でもかえって観たくなった方もいるかもしれませんね(笑)



さて、お待ちかねデザートは三者合議の末、キャロットケーキを選びました。
薄切りのニンジン(茹でてあるかも)をバラの花にして、揚げた飾り付き。



食事が終わった時にはすっかり暗くなっていました。
9時近かったので当然といえば当然ですが。
ピッツバーグはこの時期日の入りが8時くらいです。

ところで、メニューを調べるために検索していたところ、
このレストランに昨日トラックが突っ込んだことがわかりました。

Truck slams into side of Altius restaurant in Mt. Washington

何突っ込んでるんだよ(笑)
これ、確かトイレがあった場所だと思う。


ところでわたしの座った席からは窓の外に
POW/MIA「あなたたちを忘れない」の旗が見えていました。

レストラン隣はピッツバーグ名物ケーブルカーの駅なのですが、
その前に戦争鎮魂碑が建っていたからです。


ここは正式名「デュケイン・インクライン」(Duquesne incline)の
終点(というか上と下をつなぐ線路ですが)駅です。



昔は斜面を上り下りするケーブルカーが20以上あったのですが、
電車やバス、車の発達につれ、姿を消していきました。

最後の二つのケーブルカーも、1960年代に廃止されそうになりました。


(廃止されかかっているケーブルカー)

歴史的価値を惜しむ住民が保存運動を展開し、資金を集めた結果、
ピッツバーグのアイコンとして残されることになりました。


(存続が決まって喜ぶケーブルカー)



ケーブルカーの駅。レトロです。
チケットの自動販売機だけがタッチパネルでカード対応と最新式。



昔のままに残っているケーブルカー操作ブース。
拡大してみると中の人がレンズをものすごい凝視していました。



駅舎内では、ピッツバーグの古い写真や資料が展示されています。



フランク・ロイド・ライトにあの「フォーリング・ウォーター」を作らせた
あのユダヤ人実業家カウフマンのデパートが「カウフマンズ」です。
カウフマンズはその後メイシーズに買収されました。

その頃まだ稼働していた他のケーブルカーなどの写真も見られます。



1836年の大冠水と1845年の大火事の写真。
特に大火事は「ホロコースト」というくらいの惨事になったそうです。

一体どうなってこうなるのか、洪水もものすごいことになっています。
現在のダウンタウンの部分が水浸し。


この日は「Fig & Ash」(イチジクと灰)というレストランに行きました。
チャコールグリルが売り物なので「アッシュ」なのかもしれません。

この名前からも何やらセンスを感じるし、とにかく利用者の評判がいいので、
卒業式ディナーにぜひ行きたいと思ったのですが、全く空きがなく、
MKの友達が来てからやっと、キッチン横のカウンターの席が取れました。

実はこの時座ったカウンターテーブルのエンドに、
海兵隊員の若い男性の写真が飾ってあり、(撮影は控えました)
それがオーナー兼シェフらしい男性に顔がそっくりだったことから、

「もしかしたらアフガンかどこかで亡くなったんじゃないだろうか」

とみんなでヒソヒソ言い合いました。(当人に聞くわけにもいかないし)


この料理人は、ずっと火の前で薪をくべたり、その上に鍋を置いたり、
(時には薪の上に直にフライパンを置くなど、ストーブの扱いがすごかった)
焼き物一般を全部手がけていましたが、シェフではありません。

シェフは、キッチンを腕組みしながら見ているだけの人で、
過去、地元フットボールチーム「スティーラーズ」のキャンプで
シェフを務めた経歴があるとHPの紹介に書いてありました。

わかりませんが、シェフとしてかなり評価されているということなのでしょう。

もう一つついでに、火の前にいるのはスーシェフで、ピッツバーグ大学卒。
ビジネスの学位を取って一旦会社で働いた後、料理人に転身した人だそうです。



わたしが頼んだのはHulibut、ハリバ、日本語ではオヒョウの味噌ソース。

アメリカで白身の料理というと必ずと言っていいほどハリバです。
付け合わせはビーチマッシュルーム(シメジのことかと)とケールでした。



TOはこのマカロニ的な何か。
家族で食べに行くと全員が違うものを頼んでシェアします。



MKはハンガーステーキ。



MKの友達の女の子が頼んだポークベリーはその大きさにびっくりです。

彼女はわたしたちにも味見のため肉を分けてくれましたが、それでも
まだたっぷりある肉の塊をぺろりと残さず平らげ、驚かされました。

若いって素晴らしい。


デザートは二人にひとつづつ、合計二皿頼みました。
これはわたしとTOのフラン(プリン)。

とにかくここの料理は今回滞在の2トップに数えられるくらいで、
感動的ですらありました。



ピッツバーグ最後の夕食は、ここも人気でなかなか予約の取れない
高級タイ料理「プサディーズ・ガーデン Pusadee’s garen」へ。

これも予約が取れず、ずっとキャンセルが出るのを狙っていましたが、
MKがキャンセルが出たところをすかさず抑えてくれたのです。

昔からビール醸造所が集まっている地域にあるこのレストランは、
その一角の煉瓦造りの建物2軒をウィングで繋いで、
真ん中の部分をお店の名前通りのガーデンとしていて、雰囲気抜群です。

この日は木曜でしたが、写っているのはいずれもデートディナーの人たち。

特に右奥のカップルのアジア系女性は、社会通念上限界ギリギリに胸を露出し、
今晩中にデート相手(眼鏡に七三分けのナードタイプ白人)を籠絡しないと
家族に危険が及ぶという切羽詰まった事情があるのではないかと疑われるほど、
とにかく気合が入りまくっていました。



一度仲間で来たことがあるMKによると、何を食べても美味しいということで、
散々迷いましたが、とにかく量も多いということもあり、
基本なんでもシェア前提にオーダーを組み立てました。

テーブルには大きなURコードが貼ってあって、説明されなくても
それだけでこれがメニューだとほとんどの人が違和感なく気づきます。

日本でもこの方式のメニューが増えていますね。

これは「グリーンマンゴーのサラダ トーストココナッツ和え」。
珍しいだけでなく、真に美味でした。



アメリカ生活で初めて知ったのがこのロティでした。

ロティはナンに似たお焼きみたいなもので、全粒粉をフライパンで焼いたもの。
ナンより薄く、サクッとしています。

だいたいカレーの付け合わせとして付いてくるもので、
この日もこのイエローカレーに添えられていました。



メインは全員がタイカレーを選びました。

右からMKのスパイシーチキンカレー、真ん中はMK友達のポークベリーカレー、
左はわたしとTOが二人で頼んだパンプキンカレーでいずれもご飯付き。

パンプキンカレーのカボチャは「roasted Kabocha」となっていました。
アメリカのパンプキンはオレンジで(ハロウィーンのあれ)、
日本のカボチャのようにねっとりしておらず、まるで瓜みたいな食感です。

付け合わせのライスはタイ米ではなくスティッキーライスで、
TOはお代わりを頼んだほどでした。



この後暗くなって一層いいムードのガーデン。
初夏の夜の風は爽やかに甘く吹き渡りました。
夏に必ずもう一度来るつもりです。


わたしとTOは空港近くのホテルにすでに荷物を移しておいたので、
ここから直接レンタカーを返してホテルに戻り、次の朝出発しました、



というわけで、あっという間にピッツバーグ離陸です。

下に見えているのは全て空港の駐車場。
バスが巡回していて、どこに停めても拾ってもらえますが、とにかく広い。

空港の駐車場がビルでなく平地というのがさすが広大なアメリカです。


とにかく空港では(TOの)入念かつ慎重な準備のおかげもあって、
カウンターでも問題なく、チェックインが完了しました。

前回は予想もしていなかったため、ちょっと焦らされた、
「日本政府が要求するQRコードのダウンロード」も今回は事前に済んでおり、
係員に提示を求められてもさっとスマホから見せることができました。

しかしこんなことに慣れても、どうせ次は事情が変わってるんだろうな。



帰りの機内食もついつい和食一本槍でいってしまったわたしですが、
オードゥブルの段階からある違和感を感じたのでした。

「行きの和食は美味しかったのに、これは一体・・・」

左はトマトの下にほとんど味のないキノコの得体の知れない料理、
右はなぜか激甘のナッツ。

取り合わせもさることながら味の組み合わせも悪い。



これなど、たかが?幽庵焼きをどうしてここまで苦く作れる?
と思わざるを得ない不可思議な風味の一品となっておりました。

行きと帰りの違いは、銀座の料亭の監修のあるなしですが、
それだけでこれほどあからさまに味が違ってしまうのか・・。

それとも帰りの料理は日本から運んでくる間に劣化した?



食事が済んでからしばらくしてふと外を見ると、
ちょうどアラスカを通過するところでした。



沿岸には人が住んでいるらしく、集落も見えます。
当たり前ですが、こんなところに住んでいる人もいるんだなあ・・・。


成田に到着すると、乗り継ぎをする人(タイ航空とのシェア便だった)は
先に降りていき、残りはそのまましばらく待って、検疫に進みます。

機を降りたらあとは係員の誘導に従ってあっちに並び、こっちで紙をもらい、
唾を試験管に入れて携帯を見せ、アプリのダウンロードを確認され、と、
次々に行く先々で要求される「クェスト」を淡々とこなしていきます。

全て済んで空港の外に出たとき、到着時間から3時間経過していました。

前回と全く時間が変わっておらん。


ともあれ、いろいろあった卒業式参加旅行も無事終わりました。

とかなんとか言ううちにすぐに次の渡米が待っています。

次回は車でシカゴ近辺の海事史跡巡りをするつもりですので、
いずれその結果をここでご報告できればいいなと思っております。


終わり。


アメリカ卒業式参加旅行(アフター・コメンスメント編)

2022-05-24 | アメリカ
 
というわけで、MKの大学卒業のための渡米旅行から帰ってきて、
前回と同じく、早速アプリに所在地を見張られている毎日です。

ただし、これはわたしがワクチンをまだ2回しか摂取していないからで、
3回摂取者は7日間の自宅待機を免除されることになっています。

ちなみにこれから海外に行く人のために書いておきますと、
アメリカに滞在した場合、搭乗時間の72時間以内にPCR検査を受け、
その結果をチェックインの時にカウンターに見せるわけですが、
日本政府発行の書類には、必ず検査者のサインとハンコを押す欄があって、
アメリカの陰性証明書類にはないというのが困りものなんですねー。

アメリカで大抵の人が検査を受けるドラッグストアのファーマシストは
受験者がメールで受け取る検査結果とは全く無関係に生きているため、
前回も今回も、日本語の書類を持って「ここにサインしてくれ」
と言いにくる日本人(TO)に困惑することしきりでした(TO談)

もしかしたら適当にアメリカ人ぽいサインを偽造すればそれでいいのか?
という悪魔の囁きもこうなると聞こえてこないでもありません。

しかしうちは家訓によりそういうことができないため、
真面目に毎回ストアのカウンターに書類を持って行っているのです。(TOが)

毎回毎回方式が変わり、結果にホッと胸を撫で下ろしたり、
スケジュールの調整と書類を点検したりと、(TOが)
どうしてこんな大変な試練を受けないといけないのかと
何度二人で顔を見合わせながらぼやきあったことでしょうか。



さて、今日は卒業式の合間と済んだ後の滞在記となります。



卒業式の後、TOが「卒業式の時に三人で写真を撮らなかった」と言い出し、
そういえばそうだったと、ちょうど他州から遊びにきていたMKの友人と
キャンパスに行ってシャッターを押してもらいました。



メインの建物の前で写真を撮ろうとしたら、アジアンガールズが
お揃いの白のワンピースの上にストールと帽子だけつけて
撮影会真っ最中だったので、しばらく待っていたのですが、
終わるどころか、人数が二人から四人に増殖したので諦めました。


キャンパスの芝生は、学校が設立された時から変わっていません。
アメリカの大学ではこのようにキャンパス中央にグリーンを敷き詰めて
広場のようになっているデザインがよく見られます。



本学名物の「最も塗り替えられたフェンス」は超手抜き作品。
上海のロックダウンをテーマにしていました。
「我々は上海と共にある」みたいな感じでしょうか。

今思ったんですが、これを塗り替えるペンキってどうしてるんだろう。



本学マスコットの黒いスコッチテリア、スコッティーくんは
ちゃんとブロンズ像になって讃え祀られています。


夏にももう一度来ますが、スクールショップに立ち寄ってみました。
前から気になっている日の丸のついたストール、これは一体何?



さて、ここからはアクティビティの話。
遊びにきた友人がデザイン専攻という関係で、わたしが運転して
現代アート専門美術館「マットレスファクトリー」に連れて行きました。



わたしとMKはもうすでにここのノリについては知っていたのですが、
TOは最初から最後まで拒否感示しっっぱなしでした。


特に彼が首を捻っていたのが、この「肉を縫う」作品。
真ん中のメガネ女性が思い立って肉片を黒い糸で縫い合わせ、
その映像と結果写真をアートとしているものです。

これは前回来た時にはない作品でした。



部屋まるまる一つ使って、一人の作品。
吊り下げられた布は切り抜かれた跡があり、切り抜いた部分は・・・



これから縫い合わせるということでミシン台に畳んで積み重ねてあります。
タイトルは「アーティストの洋服」。



わたしとしては、古い住宅を使った展示場のこの電気ソケットの方が
はるかにアートとして値打ちがあると思ってしまったのでした。
少なくとも現在でも「何かの役に立っている」という意味で。

まあ、前衛アートは"Don't think, feel!" くらいの鑑賞態度でいいと思います。
素人はね。



この日はライブハウス「コン・アルマ」に予約を入れました。
以前ここでも紹介したことがある郊外のライブハウスのダウンタウン店です。

ご覧になればお分かりのように、マスクをしている人はいません。
この時のアメリカのマスク着用状況は、空港では職員、
卒業式ではファカルティと卒業生全員が着用で、
あとは努力義務という感じでしたが、レストランや戸外ではほぼ0%。

日本のように「マスク会食」などという妙な?奨励はされていません。



前にも書いたかもですが、有名なミュージシャンが、
「いいライブハウスの条件は良いキッチンを持っていること」
といったことがありまして、それでいうとここは合格ってこと。

これはわたしが注文したマグロのPOKE丼。
ハワイ発祥の海鮮丼ぶりのことですが、これは謎の植物乗せ。
紫のは和食にも使う穂紫蘇でいいとして、黄色いのは・・・菊のつもりか?



MKが予約をしていてくれたので、ピアニスト(体重1t)の横に座りました。

左の方にいる真っ白な顔の女性がこの日の歌手です。
トリオの時にはバリバリのジャズを演奏していましたが、女性歌手は
ジャズだけでなくアメリカ人大好き「I say a little prayer 小さな願い」
「アンジー」など、ポピュラーを歌って観客には大いに受けていました。



メニューが面白かったのでつい頼んでしまったノンアルコールカクテル、
その名も「ラッシュライフ」(酔いどれ人生。ノンアルなのに)。




そのメニューがこちらです。
「Lush Life」はジャズの有名なスタンダードです。
この楽譜はジャズ屋さんならご存知「フェイクブック」のコピーかと(笑)



デザートにアイスを頼んだらこんな物騒なものが出てきました。



卒業式の後の「記念ディナー」に予約が取れたのはかろうじてここだけ。
アンディウォホール美術館や球場があるノースショアのレストラン、
その名は40 North。



同じ地域にマットレスファクトリーもあり、この一帯は
アフリカ系のコミュニティとなっていますが、それとは別に
古いピッツバーグの面影を色濃く残す住居が立ち並んでいます。

ここは天井が高いビルの中身を改装して、半分が書店、半分がレストラン、
そして真ん中にはグランドピアノのあるステージとなっており、
コンサートも行われるなかなかカルチュアルなスポットとなっています。


壁にはいろんな言語の文字が意匠として書かれているのですが、
その中でもひらがなが妙にかわいらしいのでした。



料理も洗練されていました。
これはわたしが頼んだパンフライドされた虹鱒の一品。



ビーツとキャベツのスープ。
ディルを混ぜたヨーグルトとゆで卵にチリペッパーがかかっています。



ところで、キャンパスでシャッターを押してもらった友達というのは、
MKの高校の同級生だった女子です。



彼女は身長170センチ近くあるそうです。

今の青少年は皆そうなのか、アメリカだからそうなのかはわかりませんが、
彼らの友情関係に男女は関係ないようです。

以前MKは休暇の時に彼女の実家に泊めてもらっていますし、
今回もMKの部屋に泊めてやっていました。

また、同じアパートの別階に住んでいる同級生の親友?も女子です。
卒業式の時にMKと同じようにいろんなものをガウンに付けていた子ですが、
今回彼らはどちらもめでたく同じ西海岸の大学院に合格しました。

その「友達」の話をわたしたちはしょっちゅうスカイプで聞いていましたが、
現地に行って初めて、それが女の子であることを、
しかも彼らの教授から聞かされ、驚いたものです。

ちなみに教授は、二人がプロジェクトを一緒にしているのみならず、
あまり仲がいいので、付き合っているのかと聞いたそうですが、
二人とも現下にそれを否定したということでした。

「あれだけ友達の話してたのに、女の子だってことだけなぜ言わなかったの」

というと、

「聞かれてないし、別にそんなの関係ないから」

という返事でした。

いや、関係あるだろう。

彼が「友達」が日本に行きたがっているから一緒に帰るかも、というので、
もしそうなったら京都旅行をアレンジしてやろうと思っていたのですが、
女の子だと知らなかったら、二人同室にするところだったよ。

でもその時はやっぱり「友達だから」といって同じ部屋に泊まったんだろうか。

MKは男だから構わなくても、女の子と特にその男親は
大いに構うと思うんだけど、こういう考えを「古い」で片付けられてもなー。



続く。

アメリカの大学卒業式〜大学全体編

2022-05-19 | アメリカ

天気予報が外れて晴天に終わったMK学部卒業式の翌日、
全体の卒業式が本校グラウンドで行われました。
実は、この日も前日の予報は雷雨だったのですが、
ホテルの窓から見える空はむしろとてつもなく暑くなりそうな気配です。


グラウンド近くの駐車場に車を停めるために走っていたら、
学校の向かいの家(多分学生のドームになっている)に
マスコットの黒いスコッチテリアが卒業のよき日を寿ぐため、
タータンチェックのスカートを履いて仁王立ち?していました。

この大学のいいところはマスコットが可愛いことなのに、これは酷い。



MKの集合時間に間に合うように現地に着いたので、
招待客(多分OB、OG、 OLGBTQIA+)席の後ろに座ることにしました。
ここなら正面のテントの真前です。



卒業式を中継するために、こんな本格的なカメラを出動させています。
本学には全米でも有名な演劇科があり、有名俳優を輩出しているので、
装備に関しては下手な自主制作映画会社より充実しているかもしれません。



本日のメインイベントは卒業生の入場行進です。
すでに建物の影に待機の列が待機しています。


まず、会場内にバグパイプの音が響いたと思ったら、
本大学所属のバグパイプ隊が、ハウスチェックの衣装に身を包み、
伝統のケルティック音楽を奏でながら入場してきました。


  
本学開校は1900年ということになっていますが、
バグパイプ隊は1939年に設立され、それ以来学生の課外活動として
行事の折にはこのように演奏を披露します。
なぜバグパイプかというと、設立者の出身と関係あるかと思われます。
     
1985年以来、学生のクラブから正式な音楽科の専攻科目に昇格しました。
      


この人はおそらくバグパイプ隊監督だと思われます。


続いて、ファカルティと先生を先頭に立てて入場。



工学部とビジネススクールの先生が入場してきました。
先頭の女性教授、いい味出してます。

流れる音楽はもちろんエルガーの「威風堂々」。
有名な1番と4番が繰り返し全員入場し終わるまで演奏されます。


行進といっても自衛隊のとは違い、ただ歩くだけです。
ここに写っている人のほとんどは何らかのオナーソサエティに所属していて
その印であるストールをかけています。

前回「たすきは二つがけしないはず」と想像で書きましたが、
ここに写っている中には重ねている人もいます。

アフリカ系卒業生がしているたすきは、その色合いからも
アフリカ系のオナーソサエティのだとわかりますね。


MKは卒業直前にアキレス腱断裂で松葉杖になった学友に付き添って
荷物を持ってやり一緒に歩いていたのですが、会場係に別れさせられ、
なんだよー隣に座りたかったのに、と言っていると思われます。


左側の子にこの写真を送ったら、即座にこうなって返ってきたそうです。


帽子を改造してくれたおかげでどこにいるかすぐわかるMK。

そして前日はカメラの使い方を忘れていて愕然としたわたしですが、
夜にマニュアルを見ながら使い方のおさらいをしたおかげで、
この日は何とかかつての感覚が戻ってきました。


卒業生が全員入場したので、学長学部長クラスが登場。
ガウンは大変重々しくて立派ですが、そこは所詮アメリカ人、
足下からスニーカーやコットンパンツがのぞいているのでした。


あらためてバグパイプが奏楽しながら行進してきました。



テント前で演奏。
バグパイプの響きは、こういうアカデミックな祝いの雰囲気を厳粛にします。


前列左から二人目が学長、前列の四人は名誉博士号受賞者、
その右側はサイエンスの卒業生で、今年の「スピーカー」です。


まず、アメリカ合衆国国歌の斉唱。
独唱を行うのは、音楽学部の優秀卒業生と思われます。



全員が起立してスターズアンドストライプスの斉唱です。
帽子を取る人、胸に手を当てる人、どちらもしない人とさまざまですが、
わたしは外国人なのでどちらもしませんでした。

敬意を払って立つのみです。


この歌詞を見て、改めてアメリカ国歌の歌詞の内容に驚きました。
これは後半に入ったところで、

「砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中
我等の旗は夜通し翻っていた」

と言っています。
この後、

「ああ、星条旗はまだたなびいているか
自由の地 勇者の故郷の上に」


となるわけです。



続いて学長のお言葉。
学長だけがメダリオンとチェーンを身につけていますが、これは
代々の学長が受け継いできた歴史的な象徴です。

大きなメダリオンには大学の印章が刻まれ、小さなメダルのうち
二つには二人の大学創設者の肖像画があしらわれており、
さらに一つ一つのメダルは、創設者のモットーである

「My heart is in the work.」(私の心は仕事にある)

を表しています。



ここからは偉い人の話が続きます。

この人は、数学とコンピュータサイエンスで学士号を取った後、
大手で働いてその後大学に戻ってビジネススクールで修士号を取り、
ビジネスやら何やらを成功させて大学同窓会の理事をしています。



次のスピーカーと交代する時、拳を合わせる挨拶で。
最近のアメリカでは握手でなくこれがスタンダードの挨拶になりました。

わたしも昨日サラダをピックアップしに行ったら、
お店の人がこれをしてきたので、初体験したばかりです。



卒業生のスピーカーになったのはアフリカ系の女性で、
彼女は政治戦略研究所や国際開発庁などで特に
ナイジェリアミッションの外務インターンなどを経験し、
ナイジェリアのは親のいない子供のケアをする非営利団体の責任者、
若いアフリカ系指導者協会、模擬国連の会員など、
学問以外にも多種多様な社会活動を行い、スピーカーとなりました。



そして、名誉博士号を受賞したこの女性は、
ジョディ・ダニエルズ陸軍予備中尉。

わたし的には大変興味を持ってスピーチを聞かせていただきました。

現在陸軍総司令官である彼女は、当大学では応用数学を専攻しましたが、
ロッキードマーチンで先端技術研究所の高度なプログラムに関わりました。

軍人としての各種戦功賞も授与されています。

名誉博士号はこの人の他に三人、フランス系女性ノーベル化学賞受賞者と、
ポルトガルのリスボン大学機械工学の教授、
ハーバード大でアフリカ系アメリカ人研究をおこなっている女性教授です。



そしてもう一人の名誉学位受賞者、本学卒業生の俳優、歌手、監督、
作曲家、作家、劇作家であるビリー・ポーター、
この人の話がもう長かった。

スピーカーが極力短いスピーチを心がけているのに、この人だけは
全くお構いなしに延々と喋り続け、途中で歌まで歌ったからね。
(ちなみに”We shall over come”)

「ノーベル賞とアカデミー賞、トニー賞、エミー賞、グラミー賞、
この受賞者を出す一つの大学ってすごくないかい?」

みたいな話に始まり、自分の苦労話で、最低の時に
お金が一銭もないしHIVで陽性になるしで大変だった、みたいな話まで。

わたしは英語なのでぼーっと聞いていましたが、途中で確か
かなりヤバめの言葉も飛び出してましたし。



彼は特にゲイとして、黒人として人権問題に取り組んでいるので、
アフリカ系の卒業生の反応が映し出されていました。
右下にいるのは手話通訳の女性です。



12時に終わるはずの卒業式なのに、この人のスピーチが長く、
1時間くらい伸びて帽子をかぶっていない人は辛かったと思います。

最後の「オチ」はガウンを脱ぎ捨てると、そこに
VOTE(投票に行こう)と書かれた文字でした。



各種スピーチが終わると、学部ごとに立ち上がって紹介されます。
まずエンジニアリング、工学部から。

この後ビジネススクール、芸術学部、コンピュータサイエンス、
社会学部、サイエンスと続きました。



笑いを誘ったのは、学長が自ら「自撮りタイム」を要求したことです。



自撮り棒を使って学長自撮り中。
教授連が笑ってるぞー。


プログラムが全て終了し、「アルマ・マータ」の独唱となりました。
アルマ・マータはまだ本学が工科大学の頃作曲された校歌のようなものです。


本来はここで帽子投げとなるのですが、ああ非情にも、
最後の学部長の挨拶で、今年は時節柄それは控えます、と言われてしまい、
それでも投げてみたい卒業生があちこちで散発的に
帽子を投げる風景が見られました。


そんな中、締めくくりとしてもう一度バグパイプが登場。
会場を後にしてセレモニーは正式に終了となりました。


わたしも帽子投げのために連写モードにして待っていたので、
あちこちでゲリラ的に行われる帽子投げを見つけては
シャッターを切って楽しんでいました。



全体的に工学部は地味な感じですが、華やかで金髪の長い髪が多い一団、
これは将来の俳優女優も含まれる芸術学部の人たちです。
演劇科は男性も一般学生と全く雰囲気が違うので何となくわかります。


本格的な望遠レンズは海外なので持って行けませんでしたが、
タムロンのそこそこレンズでこれだけ遠距離が明瞭に写せました。



帽子の内側の字まで読めたのには驚きです。



今の光学技術ってすごいよね、と思ってしまった一枚。



肉眼では確認できない表情もしっかり写っているのだった。

ところでヘルメットを被っている人がそこそこいたけど、何だったのか。
しかもヘルメットのてっぺんに赤い房をつけてる・・・。



というわけで、炎天下の大学卒業式が終わりました。
後でMKに聞くと「面白かった」だそうです。

わたしたちも、親として初めての息子の卒業式をアメリカで体験し、
なかなか面白い体験をさせてもらったことに、改めて感謝しました。


続く。




アメリカの大学卒業式〜学部編

2022-05-17 | アメリカ

無事にアメリカに到着したのはいいけれど、時差ボケが治らない状態で
あっという間にMKの学部卒業式当日になってしまいました。
今日はその1日についてご報告させてください。

前もって入れておけば、駐車場やイベントの情報が刻々と通知されてくるという
便利なアプリをダウンロードし、前もって調べておいた
会場に一番近い駐車場に車を停めました。

アメリカの大学なんで、駐車場は普通にたくさんあるし、この日は無料です。



駐車場を出たところで野ウサギくんと遭遇。
キャンパスに至るところ自然が残っているのがアメリカの大学。



この地域で写真を撮ると否が応でも映り込むピッツバーグ大学の学びの塔。
ピッツ大の卒業イベントはもう終わっているようです。



カーネギー音楽ホールが本日の卒業式会場です。
アンドリュー・カーネギーが寄付した自然史博物館、図書館などと並んで
歴史登録財となっている建築物の一つです。


開館は1895年。
現在は地元交響楽団ピッツバーグ・シンフォニーのホームとなっています。


ホール外壁にはいやっちゅうほどたくさんの偉人の彫像があります。
バッハやシェイクスピアなどもいるのですが、こちらミケランジェロ。



地球を背負ったモチーフの地球儀を手にするのはガリレオ・ガリレイ。


早く来すぎたかと思ったら、卒業生家族が続々と入っていくので、
わたしたちも入館することにしました。

入り口に立っているのは、昔使われていた蝋燭立てに違いありません。


ロビー脇の小部屋の床は総大理石。


ロビーには卒業生が既に待機していました。



今まで来たことがありませんでしたが、素晴らしいホールです。
HPによると、石造りを計算した音響も完璧なのだとか。

夏にもう一度最後の訪問をする予定なので、その時には
ここでぜひピッツバーグ響の演奏を聴いてみたいと思いました。

ところでここでわたしはとんでもないことに気がつきました。

今回、久しぶりに一眼レフカメラを持ってきたのですが、

カメラの使い方をほぼ忘れていたのです。

重たいのとなまじiPhoneのカメラがそこそこいいのと、
そもそも自衛隊イベントの参加が無くなったせいで、
カメラを持って出撃ということがほぼ皆無になっていたこの2年間。

全盛期は何も考えずに使えていた各種システムの変更方法が
全く感覚に残っていないのに、わたしは愕然としました。

今日は学部卒業式で、会場は暗いコンサートホールで行われます。
わたし的には最も難関であるところのこのシチュエーションに、
この時になって初めて焦り出しました。



そこでわたしはとりあえずステージ上の卒業証書のテーブルを
設定を弄りつつ何回も映してにわかの練習を始めたのでした。

しかしながら、結局最後まで思い出せない部分があって、
お恥ずかしい話、自分的には最低の画質となってしまいました。

後でMKに聞かれた時、即座に「ほぼガベージ」と自嘲したくらいですが、
ましなのを画像ソフトで加工してアップすることにしました。

ちなみにこの卒業証書はセレモニーのための「ダミー」で、
白い紙を丸めてリボンを巻いてあるだけです。


わたしがカメラと格闘していると、教授が入場してきました。
アメリカの大学の卒業式がビジュアル的に素晴らしいのは、
古来から伝わるアカデミックなガウンに身を包んで場を彩る伝統です。



今年は3年ぶりに行われるライブの卒業式となり、
巷ではごく一部の人を除いてマスクをほとんどしていない状態ですが、
ファカルティ、教授、卒業生はマスク着用で臨んでいます。

ちなみに教授のガウンの色は、その人の出身大学を表します。
黄色いガウンはジョンズ・ホプキンス大学、ブルーはUCバークレー、
白いのはMITだそうですが、必ずしも出身大学のを着るわけではないとか。




まず最初に卒業生一同がアルファベット順で入場。
MKは学帽のトップにデコレーションしているので上からわかりやすい。
学帽デコレーションは何人かの人がやっていましたが、
MKは学校の機材を最後にフル活用して凝ったのを作ったため、
大変目立ちました。

おかげでどこにいるのかすぐわかって親にはありがたかったです。


まずは工学部学部長のありがたいお言葉。
ヘンリー8世チックな衣装が似合いすぎて怖い。

この後、セレモニーは各種アワードの授賞式となります。

各部門で優秀と認定される学生を認定委員会が選び、
表彰されるのですが、できるだけたくさんの人に賞を与えるため、
一人がたくさんの賞を独占することがないようにしているそうです。



松葉杖の女性はMKの共同研究パートナーで親友だそうです。
今回一緒にやったプロジェクトで、彼女がアワードを取りました。
なぜMKの名前がなかったかというと、一つのリサーチにつき
一人だけに賞を与えるということにしないと人数が増えるからではないか、
というのが「中の人」の情報です。


その次の「バーネット・プライズ」で、このイケメン教授が
コールした中にMKの名前が!!



MKはそういうことを親にいうのを極力省略するので、
全く予想していなかったわけですが、このバーネット賞、
GPA(Grade Point Average)が4.0(オールA)の学生に与えられます。



つまりMKは最優秀のトップ6だったということらしいです。

ちなみに一人を除いて全員がメダルをかけていますが、
このメダルはいわゆるアメリカのドラマなどで時々出てくる
「優等生メダル」で、GPAが3.5以上の学生に与えられます。
(この一人がなぜ何も付けていなかったかは謎)


この後は、マスター(修士号)とドクター(博士号)の部に入りました。
確かこの人はPhDのアワードを取った人だったかと思われます。


授与する教授が小さな女の人なので、ハグがこんなことに。
ちなみにこの教授はUCバークレーの卒業です。



最後に全員が証書を受け取り、退場しました。
今年は2020年、2021年、2022年卒業クラスが卒業式を行うことになり、
いつもはそうでもない工学部のセレモニーがかなり長くなったそうです。

過去2年の卒業式は、コロナのせいでライブで行えなかったため、
改めてこの日まとめて参加できる卒業生が集められました。



アメリカ人にとって、いかに大学の卒業式というのが
大事で貴重なイベントであるかということがわかった気がします。

もちろん、2年前に卒業した人も現在の住居や仕事など、
来たくても無理な事情があるため、全員が参加できるわけではありませんが、
もし万が一、全員来るという返事が来たとしても、
学校としては何とか実現させようと努力したことでしょう。



式終了後は、この壮麗な大理石造りのホワイエで、
ちょっとしたソーシャルが行われることになっています。



テーブルの上にあるバーガンディのものは、本物の卒業証書となります。

卒業式は3日間で行われ、最初の2日は、学部卒業式、
最終日が全体のセレモニーとなりますが、この日もいろんな学部が
学内のあちらこちらで式をあげていました。

アメリカの大学にしては小さいとはいえ、日本の大学に比べると
規模もキャンパスも比べ物にならないほど大きい学校である上、
今年は3年分の卒業式をやらなくてはいけないのですが、
伝統的に本学は発祥が工科大学なので、歴史が一番古く、
力関係でいっても一番いいこのホールを使えるというわけです。



ホワイエでは真面目に飲み食いする人はおらず、ほとんどが
友人同士や恩師と挨拶をし、記念撮影を行います。

お世話になった教授と。



制御工学の教授だそうです。



大きな博士課程優秀者とハグしていた小さな教授。



一通り挨拶を済ませたら、皆あっという間にどこかへ行ってしまいました。
こういう日はランチやディナーを家族で取るアメリカ人が多く、
市内のちょっと洒落たレストランの予約が取れなくなります。



ミュージックホールを少し歩くと、何だか見覚えのある場所に出ました。
ここは内部でカーネギー自然史博物館と繋がっていたのです。

確かここは古代の墓所の建築物をそのまま移設している展示室だったかと。



卒業式参加の家族が記念写真を撮りまくっていました。


ところでMKですが、何だかガウンの上に色々とぶらぶらさせているので、
何なのか聞いてもはっきりと答えてくれません。

「そのロープ何?」

「メカニカルエンジニアリングとオナーリサーチだよ」

だから機械工学とオナーリサーチの何なんだ。
まず、メダルはGPA3.5以上の「優等生メダル」これはわかった。

白いタスキは何かというと、これはいわゆる機械工学の優等生協会、
ΠΤΣ(パイタウシグマ)の会員であるという印。

MKはやはり機械工学のオナーソサエティ、
TβΠタウベータパイにも入っていて、プログラムにも名前が載っていますが、
そちらはなぜか何もくれなかったというのです。

タスキは二つかけられないので、どちらかからしか貰えないのかもですね。



MKと仲のいい学友のガウンを見ると、真ん中の女子は
女子にもらえるオナーソサエティのタスキと、
機械工学のロープを2本、メダルをかけていますが、
右側のように普通に何もない人がほとんどです。

口の重い彼が何度聞いてもちゃんと説明しないので、
夫婦でプログラムを熟読してその意味を解読したところによると、
このロープは「オナーズ」つまり学部の優等生に大学と学部から与えられるもので、
つまり機械工学科とオナーリサーチでいい成績をとったという印なのだとか。

それならそうとハッキリと言えよMK。
親にそれくらい説明してもバチは当たらんだろう。


ちなみに目立っていた彼の学帽の飾りですが、
知っている人は知っている、ゲームで有名な?ガチョウが、
「SLEEP」(睡眠)を「削って」Eを二つ、
「ENGINEER」(工学)に当てはめているモチーフでした。

誰かに何か言われたか聞いてみると、
結構みんなに写真撮られてた、ということです。


学部の式が終わり、もらうべき賞をもらってホッとするMK。



そうそう、心配した天気ですが、雨どころかこの日は
朝からずっと超いい天気に恵まれました。

雷雨の予報は一体何だったんだ。

AIやコンピュータが何でもできる現代でも未だ天気予報を100%的中させられない。
このことを皮肉にも思い知らされた工学部卒業式の日でした。

続く。





アメリカ到着〜MKの卒業式

2022-05-14 | アメリカ

早いもので、MKの大学生活もあっという間に終わりました。
4年間無事に学業をして卒業の運びとなり、
わたしはその出席のために今アメリカにおります。



今回のPCR検査は空港で受けることにしました。
検査結果が出るのに3時間は見ておかなくてはならないため、
夕刻の出発だというのに、家を出たのは朝早く。

今回は11日と滞在が短いこともあり、空港近くの駐車場に車を預けました。

今の出国は、事前にワクチンの接種などについて書類提出が必須です。
それをデータとして前もって使用する航空会社に送っておいたのですが、
それを窓口で係員がチェックするのに結構時間がかかりました。

しかし前もってデータを送っておかないと、空港窓口で職員に
ゼロから手作業で入力させることになり、時間はさらにかかるのだとか。

来るたびに空港の状況と対応が変わっているのには驚きますが、
いちいちそれに対応する空港の職員は本当に大変だと思います。

さらに空港でのPCR検査は24,000円、もし予約しなければその倍かかり、
この非常識な値段にはどうにも納得いかないのですが、仕方ありません。

しかも、結果によっては飛行機に乗れなくなるわけですよ。

わたしたちは預ける荷物を三つに分け、「第3の荷物」は、
どちらかが陽性だった場合にも無事だった方がもって行くことにして、
そこにMKに頼まれたものとかお土産、卒業式で必要なものを入れました。

ちなみにMKが今回特に持ってきて欲しい頼んできたのは、ノギスでした。
ノギスなんか何にするのと聞くと、『あると便利だし』

わけわからんが、何かを測りたいのはわかった。

世界的にも有名な精密測定機器のミツトヨのノギスがいいけど、
アメリカで買うと高いからもってきて欲しいと息子に頼まれて、
TOは、わざわざ新宿東急ハンズまで行って調達してきました。

なんでも都内ではそこに一つしか在庫がなかったということです。



PCRの検査結果が出るまで、昼ごはんを食べにモールに行きましたが、
ちょっと変わった物販店などは軒並み閉鎖したっきりになっていました。

メインの通りのいわゆるハイブランド店は復活していました。



空港のラウンジはここ最近で最も混雑していました。



便数は一時より増えているようです。



シカゴまでの便も、満席ということでした。
飛行機会社も徐々に回復して行くことを期待しているでしょう。


離陸直後の成田付近を上空から。



アミューズはパテのようなものとクッキーのようなもの。



ANAは一時に比べるとコロナが流行り出してからの方が
食事に関しては良くなったような気がします。
選んだ和食は二の膳が刺身、冷しゃぶ、ぬたはホタルイカ。

噂によると、今年はホタルイカが大漁らしいです。



これまでなかった企画のような気がしますが、和食は
有名どころの料亭と提携してメニューをコラボしているようです。

今回のコラボ先は銀座の「奥田」でした。
膳には小さなカードが添えられ、よく見ると、これを持ってきたら
ファーストドリンクサービスをするという広告を兼ねています。


飛行機の中でiPhoneを使って写真を撮ると、どうして不味そうなのか。
これは兼ねてから不思議に思っていることの一つですが、
このサワラの主膳?は写真で見て思うよりずっと美味しかったです。



降機前の最後のご飯にも和食を選んでしまうのだった。
ビーフのパスタか魚だったら日本人ならこっちを選びがち。



アメリカ大陸横断中。
今回のフライトは立っていられないくらいの揺れが二、三回来ました。

そしてシカゴに到着して気温32度の暑さに驚きました。
機内から出たときにも真夏のムッとする暑さです。

冬尋常でなく寒いのに(マイナス12度とか)夏はこの時期から暑いなんて、
シカゴって大変な気候だなあとちょっと住んでいる人に同情しました。



トランジットまで3時間あったのですが、なんとびっくり、
今回新しくいつものターミナルに寿司レストランができていました。

もちろん回る寿司とかではありませんし、カウンターの中で
中国人寿司職人が握ってくれるという(直接注文はできない)方式の店です。

ターミナルを確認に行ったらアメリカ人が皆
枝豆をボウルから摘んでいたので、ついフラフラと入ってしまいました。

枝豆はいかにも解凍したもので、味噌汁にはなぜか天かす入りですが、
まあとりあえずそれらしい味にはなっていました。
アメリカ人もスシという食べ物を普通に味わうようになり、
アメリカン寿司とでもいうジャンルとして成立している今日この頃です。


この店は、空港という配膳までのスピードを問われる場所で、
実際に寿司職人が握るという形態をとっているわけですが、
オーダーしてそう待つこともなくこの「ロール」が到着し、
ことスピードに関しては十分クリアしているかに思われました。

しかし、アボカドと鰻と海苔を内側に巻き込んだ、
(アメリカ人が黒い海苔が外にある寿司を嫌うため)
この「カリフォルニア式」の巻物、一つ一つの形が皆違い、
端っこは切り揃えられておらず、すし飯は箸で持つとぐずぐずに壊れ、
先日TOと一緒に「次郎は寿司の夢をみる」を見たばかりのわたしには
とても同じジャンルの(というか同じ名前の)料理には思えませんでした。

日本の寿司職人なら100年洗い場から出るんじゃねえ、
と即座に言い渡されそうなくらい壮絶に下手っぴーな巻きです。

しかし、不味くない。
いや、積極的に美味しいのです。なんか悔しいけど。

前にもオヘア空港で寿司を食べて美味しかった記憶がありますが、
下手な日本の寿司よりずっとまともなのがアメリカの寿司です。


3時間待って時刻通りにピッツバーグ行きが出発しましたが、
今回、コロナ前とはずいぶん変わったことがありました。

まず、入国審査にESTAの機械による自動受付がなくなったこと。
一律人間による本来の入国審査が行われていました。
これは空港によるのかもしれません。

ブースに立つと、入国の目的を聞かれ、TOは簡単に
「息子に会いに」とだけ言いましたが、それだけではいかんらしく
管理官は「学校にいるんですか」と聞いてきたので、わたしが
「卒業式なんです」と答えました。

そして、地方便に乗るためのゲート検査ですが、

ここ何年かで初めてアメリカで靴を脱がずに済んだのです!

靴を脱がなくていいし上着も取らなくていい、しかも
カバンからパソコンやタブレットを取り出して並べなくていい、だと?

一体何があったオヘア空港。

ただ荷物をそのまま預けて、金属検査の前で手足を広げて立つだけ。
わたしは金属探知機がぴーッと鳴りましたが、係官が向こうから

「ブレスレット外してください」

わたしが外して彼女に渡したものだけ通して鳴ったのを確認すると、
出た後に体を触るなどのボディ検査一切なしで通して貰えました。

アメリカの手荷物身体検査が厳しくなったのは911以降のことですが、
今時は手荷物より、検査のために人が並ぶこと、そして係官が
体に触れる検査を極力排除することを優先した結果かと思われます。

そのおかげで、手荷物検査に並ぶ人の数は驚異的に少なくなっていました。

あと大きく変わったのは、手荷物検査の前の通路の中ほどに
「K-9検査スペース」があって、そこを全員が通過していくことです。

靴や服を金属探査機に通すより、K-9に手伝ってもらって
その分検査手順を簡略化させることにしたんですね。

K-9とはここでは検査犬のことですが、その何分か前にわたしは
麻薬犬(オヘアの麻薬犬は超可愛いビーグル)を見ながら
「K-9」についてその語源などについてTOに説明をしたばかりでした。

彼はさっき知ったばかりの言葉が早速目の前に現れたので、
この偶然にことのほか感激していました。

ちなみにここでお仕事していたK-9は麻薬探査犬より大型で強そうでした。


そして時間がきてピッツバーグ行きが出発したのですが、わたしはまず、
機内のヘッドレストの小さなモニターがなくなったのに気がつきました。

ユナイテッドでは、国内便のモニターは廃止しているようです。
その理由は、ほとんどの乗員が今は自分のデバイスを持っているから。

機内のWi-Fiは全便無料になっていて、デバイスで指示された
ユナイテッドのHPに飛ぶと、そこからWi-Fiも使えますし、
HP内で配信された番組をフライト中のみ鑑賞することができます。


そして、一番驚いたのが到着してからの乗客たちの振る舞いでした。

機体が降機場所に到着して、ポーンと音がすると、
全員がほぼ同時に立ち上がって押し合いへし合い?しながら
とりあえず上からの荷物を出し、降りる順番が来るまで立って待つ、
というのがこれまでのおなじみの光景だったのですが、
ポーンが鳴っても誰も立ち上がらず、自分の順番が来て初めて荷物を下ろし、
整然と一人ずつ出て行きます。

これだと後ろの方の人はずっと座ったまま待っていられます。

特にアメリカの国内便は機内の荷物入れが小さくて数が少ないので、
自分の席より後方に荷物を入れなくてはいけなくなることが多いのですが、
この方法だと人波に逆らったりすることなく、
誰もいない通路をさっさと歩いて荷物を取りに行くことが可能です。

おそらくCOVID19流行以降、できるだけ人の接触をなくすこと目的に
このような降機方法が編み出された?のだと思われますが、
どうしてこれまでこうしなかったんだろう、と思うくらい合理的です。

日本の航空会社もぜひこの方法を取り入れていただきたいです。

疫病流行は悪いことばかりではありません。
どんな事故も、それを教訓に良い方に変わるシステムの礎となり、
時にはこんな美しい?習慣が短期間で導入されることもあります。



ピッツバーグ空港に到着したのは夜9時でした。
この時間にしてもう空港内は深閑と静まり返っています。

エスカレーター前に歴史博物館の衣装が展示されていました。



今からエスカレーターに乗ろうとしている二人は、
この(昔の)スティーラーズの人と記念写真を撮っていました。



そして次の日。
時差ぼけで早く起きてしまったので、MKを誘って、
あの伝説のカフェ、コンステレーションにコーヒーを買いに行きました。



わたしがMKに続いて入っていくと、女性のバリスタさんが
わたしに向かって、「ウェルカムバック」と手を振ってくれました。

色々あって、ここのバリスタには、

「この人たちは超コーヒー好きでしかも味がわかる」

といい方に勘違いしてもらっているらしいとは思っていましたが、
お帰りなさいと迎えられるとさらに嬉しいではありませんか。



今回、お店の名前「星座」デザインのアパレルが登場していました。



なかなか絵心のあるオーナーと見た。




お店の隣は今空き地になっているのですが、
そこは暖かい時期、アウトドアのカフェになっています。

今回初めてここでコーヒーをいただきました。



この辺の建築物も普通に築100年越えで煉瓦造りです。
地震のない地域って羨ましい。






コーヒーを楽しんだ後、いつもの公園に散歩に行きました。
夏はもうこの時間暑くて歩くのが辛いですが、
5月のピッツバーグは暑くも寒くもなく、気候は最高です。



去年あたりから地域で警戒している害虫、
「スポッテッド・ランタンフライ」駆除啓蒙看板。
(見つけたら車を)停めて、(車から)剥がして、
(足で)踏み潰してください、と穏やかではありません。

そうでもしないと、地域の植生が変わってしまうくらいの害虫なのです。



帰りの道で黒いリス発見。



この後スーパーに買い出しに行ったところ、
鮮魚カウンターでなんと鮭のハラミ(スナズリ)発見。
日本だと生で売っていますが、なぜか焼き上げ済みです。

珍しいので買ってフライパンでもう一度焼いていただきましたが、
なかなか美味しかったです。



今週末はいよいよMKの卒業式です。



今日卒業式を行う学部もあって、ガウンを着た人たちが
あちこちで記念写真を撮りあっていました。

この写真では木にぶら下がっている人を撮影しています。

コロナ禍で卒業式が行えなかった去年と一昨年の卒業生に、
普通の式で卒業させてあげたいという学校の親心?により、
今年は三年分の卒業生(希望者のみ)が式に参加する予定となっていて、
参加人数がいつもより多く、三日に分けて行なわれているのだそうです。

今日はぎりぎり晴れていますが、明日明後日と雨の予報。

アメリカの大学の卒業式はTOの時以来となりますが、
その時は滅多に降らない大雨に祟られた大変な卒業式となりました。

今度も雨なら、わたしはいよいよ「雨女」決定ですが、どうなりますことやら。



帰国報告〜2週間の見張られ生活

2021-09-09 | アメリカ

アメリカでの用事も無事終わり、帰国してまいりました。
今回はパラリンピック開催中の帰国であり、そのせいでCovid19に対する
政府の水際対策と帰国者対策も前回とは全く変わっていました。

飛行機に乗るまで、空港に着いてから、そして帰国後。
今回の体験は今までの渡航経験ではありえないくらいのハードモードでした。

もし、何らかの用事で海外への渡航を控えている人がおられれば、
今こんなことになっているということを参考にしていただければ幸いです。

■ バックトゥースクールシーズン到来

と言いながらも、一応帰国前のことをさっくりとお話ししてからにします。

帰国少し前、大学地区の周りが交通規制されていることが2日続けてありました。
1日目はこの地域最大の規模であるピッツバーグ州立大学の、
2日目はそれほどでもない規模のMKの在籍する大学の入学式があったのです。

昨年はセレモニーの全てがオンラインで行われましたが、
アメリカの大学はほとんどが通常セレモニーをキャンパスの芝生で行うので、
マスク着用の上、出席者の椅子も距離を空ける以外平常に戻ったことになります。

各大学が少し前、学生にはワクチンを「mandate」つまり義務付けていましたが、
これらもスクールイヤー開始のための準備だったということです。

そして、大学の周りは、多数の父親と母親と子供(一人のこともあれば複数の家族も)
が群れをなして歩くというおなじみの光景が2年ぶりに復活していました。

例年と違っているのは、全員が真夏の日差しの中マスクを着用していることです。


ちょうどその頃、ターゲットという生活用品スーパーに行ったら、
いわゆる「バックトゥースクール」客でレジがものすごい長蛇の列になっており、
買い物を諦めて帰りました。

前にも書きましたが、アメリカ人にとって、彼らの子供が入学した大学に行って
セレモニーに出席し、オリエンテーションに出て、子供の入寮のために引越しや
新しくシーツやなんやかやを買い整えてやる、というのは親として感慨深い追体験です。

自分の入学の時を懐かしく重ね合わせたり、子供のカレッジが自分と一緒であれば
感慨もまたひとしお、といった具合に。

そしてこの時期、フレッシュマンとその家族が大学街に溢れ、生活用品店が混雑し、
しばらく街が活気づくのがアメリカのひとつの風物詩となっているのです。

MKの大学のキャンパスにあり、ギネス記録を更新している
「最も頻繁に塗り替えられた柵」ですが、COVID-19のせいかずっと
手抜きだったのが、久しぶりにちょっと凝ったペイントになっていました。

ただし「uPNC」という文字も、大腸を思わせるペイントも、意味不明です。
まさかどなたかこの意味おわかりですか?

 

アメリカの大学は、1年=フレッシュマン、2年=ソフォモア、
3年=ジュニア、4年=シニアといいますが、
うちのMKも早くもジュニアを終え、シニアに突入します。

最終学年に向けてティーチングアシスタントのオファーもあったそうで、
親としてはぜひあと1年、悔いのないように楽しく学業してほしいと思います。

 

■ Pittsburgh生活

この時期のピッツバーグは突発的な雷雨にしょっちゅう見舞われます。

近隣に雷が落ちる大音響で、びっくりして目を覚ますくらいだった雷雨の夜が明け、
いつもの公園に散歩に出たら、そこら中に雷が直撃した木がころがっていました。

たとえばこのくらいならなんとか乗り越えることができたのですが、

ここでデッドエンド。
諦めて元来た道を引き返す羽目になりました。

しかしこの辺ではよくあることなので、雷雨の次の日は早朝から森林管理局の作業員が、
とりあえず倒れている木を切って、人の歩くところを確保し、あとは脇によせてしまいます。
木をどこかに運ぶことは決してせず、とにかく小さくカットしてその辺に転がしておしまい。

森林はそんな倒木や根っこから倒れた木も基本放置。
できるだけ自然を自然のままにしておくというのがこちら流です。

ピッツバーグの夏は朝と昼で気温差が激しいので、
今年は日差しが高くならないうちに散歩を済ませてしまいました。

朝早く歩くことの恩恵は、動物たちの朝ごはんに遭遇する率が高くなることです。

この辺の鹿は人馴れしていて、ちょっとこちらを見てびっくりしますが、
慌てて逃げることなく、のんびりと朝ごはんを続けていました。

至近距離に近寄って写真を撮ったのですが、それでもこの通り。

ウィンクまでしてくれました。

公園の掲示板に「スポッテッド・ランタンフライ」をみつけたらやっつけてください、
というポスターが貼ってありました。
左が成虫、真ん中が幼虫、右がさなぎの写真です。

日本名「シタベニハゴロモ」は中国、台湾、ベトナム、韓国、そしてアメリカで
2010年以降爆発的に増えている害虫で、樹液を吸って植物を枯らしてしまいます。

硬いところに卵を生むので、公園から車を出す前に卵が産み付けられていないか
チェックしてください、と言うようなことが書いてあります。

公園でこれを一度見てすぐ、ホテルの駐車場でひらひら飛んでいる
小さな(小指の爪くらいの大きさ)虫に気がつきました。

「あれ、これって・・・」

あの悪い虫そのものじゃないですかーやだー。
ポスターには、見かけたら報告してください、と書いてあるのですが、
なんとなく忘れて帰国してしまいました。(今からでも間に合うかしら)

「それにしても凶悪そうな虫だなあ・・」

なんでもこの虫、韓国から渡ってきて富山県などで観察されているとか。
ところで、先日アメリカの通販サイトを見ていて、こんな服を見つけました。

・・・似てるよね。

ちなみにこれシャネルです。

 

MKは夏の間大学でオナー・リサーチ(選ばれて大学院レベルの研究を行うプログラム)
と並行して報酬がもらえるプロジェクトをやっていたので、
そのお金で、兼ねてから憧れだった(らしい)ブレビルのエスプレッソマシンと
コーヒー豆グラインダーをAmazonで安く見つけて購入しました。

エスプレッソマシンはあれでなかなか粉の分量や挽き加減が難しいらしく、
届いて何回もコーヒー豆を無駄にしたようですが、さすがは理系男子、
1gずつ豆の量を変えて試行錯誤を重ね、あっという間に使いこなせるようになり、
最後の頃になると、わたしは居心地の良い彼の部屋で出してくれる
ノンデイリー、ノーシュガーアイスのアフォガードにすっかりハマりました。

 

 

■ PCR検査を二回受ける

こちらに着いてワクチンを受けたとき、まず安堵したのは
これで飛行機の搭乗手続きが楽になるかもしれない、と思ったからでした。

しかしその後、ワクチンを受けていても、搭乗予定時間72時間以内に
PCR検査を受けなくてはならないことが、航空会社からのメールで判明しました。

 

そこで、前と同じようにオンラインでドラッグストアのドライブスルー検査を予約し、
ピッツバーグ出発の72時間前ギリギリを狙って検査を受けました。

結果が出るのが通常2〜3日なので、前回も出発前夜に結果を受け取り、
翌朝飛行機に乗ることができたのですが、今回は事情が変わっていました。

1度目の検査後、前回とは違い、今回日本はオリンピック開催中もあってか、
乗り継ぎ便出発時刻が72時間を超えていても搭乗拒否されるらしいのです。

あらためてTOが航空会社に電話したところ、提出書類はドラッグストアから出る
「陰性」と書かれた紙ではなく、日本政府専用の所定用紙でないとダメとのこと。
つまり、日本語併記の書類に陰性を証明するファーマシストのサインが必要です。

どう考えても72時間前の通常検査では間に合いません。

 

そこで、これはいかん!と次の日、1日で結果が出るドラックストアに行って再検査しました。

アメリカでのPCR検査は、鼻腔に綿棒を入れる方式で、2〜3日でも1日でも、
なんならすぐ結果が出る検査も(数が少ないので店が遠い可能性あり)どれも無料です。

最寄りの1日で検査がもらえる薬局を探し、予約時間にドライブスルーに行くと、
長さ5cmくらいの付け睫をバサバサさせたカルメン系のお姉さんがキットをよこし、
鼻に突っ込んだ綿棒をそのまま綿棒の入っていた袋に入れて返せ、といいました。
おそらくこのストアは薬局内ですぐ検査ができる設備があるのでしょう。

案内では翌日結果、ということになっていましたが、結果が来たのは2時間後。
そこですぐさま同じ薬局のカウンターに行って、ファーマシストに
日本政府の所定用紙へのサインをしてもらうことができました。やれやれ。

 

ちなみに最初の検査ですが、TOの結果が出たのはシカゴから国際線に乗った後でした。
待ってたら間に合ってなかったっつの。

■ 空港

翌日、出発時刻7時の2時間前に空港に到着。

機械で自動チェックインするように指示されたのでやっていたら、
パネルに「カウンターの係を呼んでください」と表示がでました。

やってきた地上係員は、

「こちらでチェックインする前に(今画面に出ているアドレスの)
日本の厚生労働省のHPに行って、
登録を済ませてください」

と思わぬことを言い出すではありませんか。
うっわ、めんどくせー。

2時間前に来ておいてよかったよ。

厚労省のHPに登録するのは、帰国者管理のためでした。
つまり、厚労省が帰国者の帰国後の行動を見張り、追跡するためのシステムです。

わずか半年前とは全く変わってしまった手続きに驚きましたが、
それもこれも、オリパラ開催のための対策であり、このときはまだ
パラリンピックが開催中で、海外からの選手が入ってきていたからです。

変わったといえば驚いたのが、ピッツバーグ空港のコンコースの、
確か前は即席マッサージパーラーだったお店が、コロナ検査センターになっていたこと。

しかも公的機関の検査ではなく、民間らしく、PCRが129ドル、
Antigen(抗原検査、10分で結果が出る)が95ドル、両方でお得な175ドル。

そもそも、ここまで入ってきている時点で陰性証明済んでるのに、
飛行機に乗る直前に高額の検査を受ける人っているのかしら。

と思ったのですが、乗り継ぎ便出発が最初の検査の72時間以内でなければ、
不合理だろうがなんだろうが、もう一回ここで受けるしかありません。

つまりこの業者はそういう特殊な事情のニーズに合わせてというか、
悪く言えば「足下を見て」商売をしているというわけです。


現にその後、オヘア空港のANAのカウンターで、出発時間72時間以内というリミットに
書類の数字が間に合わなかったらしく、係員と揉めているアメリカ人女性を見ました。

どうやら1度の検査で乗り継ぎもできるとたかを括ってここまで来たのでしょう。
渡航先の日本がパラリンピック開催中という特殊な事情で、
地上係員もお役所仕事的にあなたは乗れません、というしかないわけですが。

「搭乗拒否されたらどうなるの」

「どこかで検査を受けてもう一度帰ってくるしかないんじゃない」

なるほど、そんな人のために空港内に民間検査場があるというわけか。

というわけで、ANAの成田行きが無事シカゴを飛び立ったとき、
安堵のため息を漏らしたわたしたち。

キャビンには相変わらず全部で4人くらいしか乗っていません。

しかし、気のせいか機内食がコロナ前より美味しくなったような気がします。
ただし、目に見えて一食のボリュームが小さくなりました。

量も、昔はよく食べる人に合わせていたようですが、今は搭乗客が少ないので、
これで足りないという人の追加オーダーにもきめ細かく対応できます。

廃棄する食品も少なくなるし、いいことだらけ。

出発してしばらくしてから窓を開けてみたらこんな景色でした。

そして出発から13時間後、飛行機は着陸態勢に入りました。
この写真はかすみがうら市(ひらがながデフォらしい)上空です。

最近はiPhoneで写真を撮ると撮った場所の地名が表示されます。

 

■ 空港での”オリエンテーリング”

着陸して降機まで、かなりの時間待たされたのは前回と同じでした。

アナウンスにより、まず乗り継ぎの乗客、それからパラリンピックの関係者
(乗ってたのか・・)が降り、最後に一般乗客の順で降機します。

降りてから検査上では一切写真撮影は禁止。

まず、誘導されてコンコースをぞろぞろ係員に着いていくと、
パイプ椅子が並んでいるので、そこに到着順に座っていきます。

前の集団がいなくなるとそこに移動していくという形で進みますが、
その間、コンコースの反対側通路を、パラリンピックに出場する
中国選手団(車椅子の人も)が、皆支給らしい透明のフェイスカバーを着用し、
マスクもつけて歩いていくのをみました。

そこから、怒涛のオリエンテーリングが始まります。

機内で記入させられた書類などの束を手に持ち、何箇所も部屋を移動するたびに
それを見せ、チェックされ、その度にパスポートを見せ、書類に何か書かれたり
押されたり、パスポート に勝手にシールを貼られたり・・・・、

そしてようやく最後に唾液によるPCR検査が行われました。
その結果が出れば、やっと放免です。

 

ところで、シカゴの空港で、地上係員にQRコードから獲得しておくように、
といわれたの
は、

これと、

この二つのアプリでした。

空港では、携帯を見せてこのアプリが入っているか、そして
位置情報機能がオンになっているかをチェックされたものです。

 

前回の渡米帰国後は、2週間の自宅待機期間、毎日地元の保健所から
メールが来て、それに発熱等の有無、自宅待機をしているか、
ということを返信するシステムになっていました。

しかし、メールに返信だけして自宅待機しない人が後をたたなかったらしく、
日本政府はその後、スマホの位置情報を利用して、帰国者の所在位置をチェックする、
という強行手段にでることにしたらしいのです。

いわば、個人の公徳心というか良心に任せていたこれまでの性善説から、
人は基本待機義務など守らないもの、という性悪説に舵を切ったといえましょう。

悪貨は良貨を駆逐するの好例ですね。

しかしそもそも、この監視態勢を確立させるためには帰国者が
全員スマートフォンを持っていることが前提になるわけです。

「スマホ持ってない人って、どうするの」

「書いてあったよ。2週間の待機期間だけ空港で借りろって」

「・・・まじか」

荷物をピックアップして(荷物は全てターンテーブルから降ろされていた)
外に出たのは到着時間から2時間半後だったと思います。

公共交通機関を使えないので、その日はレンタカーを借り、
地元で乗り捨ててタクシーで帰宅しました。

 

■ そして・・待機期間

そして今、絶賛待機期間中なのですが、生活を毎日アプリに見張られています(笑)

8時から5時までの間、アプリからアトランダムな時間に、

「現在地報告をしてください」

「健康状態の報告をしてください」

というメッセージが入ります。

すぐさまアプリを開いて「現在地報告」を押す、あるいは
「熱がありますか」などに「いいえ」とチェックして押します。

スマホの位置情報を利用しているので、登録した自宅から
離れているときに位置情報確認が来て報告を押すと、

「自宅にいないようだが今どこにいるのか」

的なことを聞いてくるそうです。
(TOが食料品を買いに出ているときに言われたらしい)

そして、もうひとつ、アプリから電話がかかってきて
それに出ると、画面中央の楕円の部分に自分の顔を写し、

そのまま30秒間じっと自分の画像を見ていなければなりません。

これら3種類の確認は毎日全く違う時間に入り、予想は不可ですし、
位置確認はもう今日は朝終わったから、と思っていても、たまに
夕方に2度目が来たりするので油断なりません。

元々家で携帯を手にする習慣のなかったわたしは、帰国以来
どこにいくにも携帯を持ち運び、pingが鳴るたびビクッとして

「来たっ!」

「来た?じゃこっちも来るかな」(同時に登録しているせいか続けてくることが多い)

などといちいち夫婦で確認し合うという緊張した日々が続いています。

 

誰が考えたかこのシステム、確かにその目的を考えれば良くできていると思いますが、
見張られる方はたまったものではなく、帰国の度にこんな目に遭うとわかっていれば、
誰しも不要不急の渡航をしようとは思わなくなるだろうと思いました。

というわけで、我が家が厚労省に見張られる生活もあと少しで終わりますが、
さて、こんな状況そのものの終わりは果たしていつやってくるのでしょうか。

 

 

 


「スピリット・オブ・エクスタシー」〜カー・オーナメント芸術の世界

2021-08-25 | アメリカ

散歩の途中でたまたま見つけた街の博物館、「ザ・フリック」。

ニューヨークの美術館「フリック・コレクション」のオーナーであった
ヘンリー・クレイ・フリック夫妻が結婚して最初に住んだ邸宅跡でもあります。

「ザ・フリック」ではちょっとしたガイドツァーが企画されており、
ガイドに案内されて敷地内を歴史的な説明を受けながら歩くことができます。

ツァーの申し込みをするのは敷地中央に建つこの近代的なビル。

ここにはミュージアムショップもあります。
時節柄、フリック・コレクションの人物画がマスクしている絵葉書などが・・・。
葉書真ん中のエリザベスカラーの女性(誰?)はマスクをしたままTシャツになっていました。

いろんな意味でこんなの誰が買うのかと思いました。

■The Car and Carriage Museum(車と馬車博物館)

前回お話しした特設展「スポーツファッション」は有料でしたが、
ここには無料の常設展、「車と馬車博物艦」があります。

今日はこの展示をご紹介します。

まず、この1931年型アメリカン・オースチンの後ろに広がる
広大な展示スペースをご覧ください。

20世紀に入って登場した自動車はアメリカの生活を大きく変えました。
この博物館では、馬車から始まり、ピッツバーグに影響を与えた最初の馬なし馬車、
20世紀初頭にさかのぼる自動車のコレクションを網羅しており、
自動車産業の発展におけるピッツバーグの役割について学ぶことができるというわけです。

 

 
 
ブリュースター&カンパニーの幌付き馬車。
前方の両輪上にローソクを灯す「ヘッドライト」があります。
これを馬が引くわけですから、照らすのは馬のお尻ということになりますが・・。
 
後部に御者の座席があるようですが、どうやって馬を制御したんでしょうか。

こちらも同じ会社の大型馬車で、1903年型だそうです。
こちらは車室の外側に御者席があります。

ここからは自動車です。

当博物館で最も有名なのがこのロールスロイス社製かもしれません。
1923年サラマンカThe Salamanca Town Car

英国ロールスロイス社と、米国マサチューセッツ州スプリングフィールドにある
同社の生産拠点との革新的なパートナーシップによって生み出された、
エレガントでスタイリッシュな車です。

その高い技術力とデザインは、現在もロールスロイスブランドの特徴である
エクスクルーシブな雰囲気を醸し出しています。

オープンカー走行と風雨から乗員を保護するよう設計されています。
ボディを製作したのは先ほどの馬車を作ったブリュースター&カンパニーです。

リンカーン スポーツ幌型自動車 Model K 202A, Sport Phaeton 1931

「フェートン」というのは二頭引きの四輪馬車のことですが、
自動車時代になって幌付きの4輪車にこの名称が使われるようになりました。

後部のナンバープレートにはマサチューセッツ州を表す「MASS」が書かれています。
魚焼き網のようなものは脚台兼異物巻き込み防止装置かもしれません。

■ ボイス・モトメーター

モトメーターという言葉をご存知でしょうか。
この車のボンネットノーズに乗っているものですが、後に説明する
フード・オーナメントと違い、こちらは実用的な道具です。

モトメーター

正式にはボイス・モトメーターは自動車のラジエーターの温度を表示する器具です。
運転席にいながらエンジンの温度を知ることができるシンプルで画期的な発明で、
同社を設立したのはドイツ系移民のヘルマン・シュライヒという人物でした。

ボイス・モトメーター社は、それから1920年代後半にかけて、
メーカーやディーラーのロゴと文字を印刷した金属製の文字盤を内蔵した
モトメーターを小型車用、中型車用、大型車・トラック用と生産しました。

このトッパーで所有者は職業、好み、ビジネス、好きなスポーツ、
さらには政治的主張を誇示するのが流行となったといいます。

その後ダッシュボードに取り付ける温度計が登場するとこの装置は市場から消えました。

ボンネットの形が先鋭的。
こういうのが当時のエアロダイナミクスの最先端だったのでしょうか。

この博物館は無料なので誰でも気軽に入ってこられますが、
フラッシュ撮影や展示物のお触りなど禁止行為を見張る係がいて、
(車の向こうのタグをかけた人)この人がものすごく神経質に
見学者の一挙一動を凝視していました。

車が発売された時にその助手席に乗っていたであろう淑女のドレスを
その横に展示し時代を感じさせるという趣向です。

総ビーズのドレスは当時パリで絶大な人気があった
アフリカ系アメリカ人ダンサー、ジョセフィン・ベーカーのイメージ。

当時のカーデザイナーは本当にこんなことをやっていたのでしょうか。



DeSoto Deluxe S-10 Sedan(1942)クライスラー

とくにこのジューイッシュ家族が騒がしい子供を連れてはいってきたとき、
警備のおじさんの緊張度はマックスに(笑)

だって、騒ぐし、ちょっと目を離したらペタペタ触りかねないし。
おじさんの注意は全部彼らに持っていかれました。

ところで、このDESOTOという車のノーズをご覧ください。

オーナメントがクリスタルです。

先ほどの「モトメーター」の流行は、そのうちモトメーターが使われなくなっても
車を装飾するオーナメントという形で残っていきました。

このオーナメントの名前は「 Flying Goddess」(飛ぶ女神)

風に吹かれている優雅な女性のモチーフは、
車のイメージである優雅さと美しさを表すものとして好まれました。

■ロールスロイス「スピリット・オブ・エクスタシー」の誕生

そこでもう一度このロールスロイスをご覧ください。

ロールス・ロイス社のマネージング・ディレクターであったクロード・ジョンソンは、
アーティストのチャールズ・サイクスにブランドのためのオーナメントの制作を依頼しました。

ジョンソンが求めたのは、ロールス・ロイスの優雅さ、洗練された雰囲気、
そして静かなスピード感を感じさせるオーナメント。

1911年に発表された「スピリット・オブ・エクスタシー」は、
1920年代初頭にはロールス・ロイス車の標準装備となりました。

女性が両手を広げて遠くを見ている姿は、ツーリングの醍醐味を表現しています。

「キャスト・イン・クローム〜フード・オーナメントの芸術」

これが車と馬車の博物館で行われていた特別展でした。

歴史の中で、フードオーナメントは、モトメーターという実用的なものから、
純粋に装飾的なものへと進化してきました。

現在では、一部の高級ブランドがその伝統を引き継いでいます。

たとえばこの右側。
昔はメルセデスというとこのオーナメントが標準装備だったようですが、
案外簡単に折れるらしく、メルセデスオーナーはよく
このマークを盗難される、という話を昔聞いたものです。

バブルの頃、何度か取られて頭に来て、針金で作ったマークを付けていたら
それも盗られたという「知り合いの知り合いの話」を聞いたことがあります。

真ん中のオーナメントはイギリスのベントレー社のものですね。

 

もともとラジエーターの温度を監視するために始まったものが、
車のステータスや個性を示す手段になっていくのを、メーカーが見逃すはずはありません。

メーカーはそれをブランディングとして利用し、自社製品、
あるいは特別モデルのために競って純正のフードオーナメントを作成しました。

アーティストがオーナメントのデザインのためのデッサン中。
このモデルさんの背筋力に驚く前に、後ろにすでに完成したデザインがあるのに注意。

これは宣伝用のいわゆるやらせ写真で、このポーズをさせた女性を
ゼロからデッサンしたというわけではなさそうです。

という感じでできた

ナッシュ メトロポリタン 「フライングレディ」

風を受ける女神というモチーフはいくつかのメーカーが好んで採用しました。

このポーズでじっとしているモデルさんも大変そう。

Chrome Flying Goddess Hood Ornament | eBayrare flying nymph winged lady 1920's cadillac ratrod car image 0

説明がなかったのでこのデッサンがどのオーナメントになったのかわかりませんが、
プリマスのフライングゴッテスか、キャデラックのフライングニンフかな。

■ 弓を構える人(アーチャー)モチーフ

弓を構える「アーチャー」も人気のあるモチーフでした。

ジャガーの有名なmurder-feline 殺人猫科動物(笑)オーナメントは皆さんもご存知でしょう。

AUTHENTIC JAGUAR LEAPER HOOD ORNAMENT, C2Z12493 | eBay

車のボンネットの先端に「相手に襲い掛かるような」
攻撃的なモチーフをあしらうことは、ジャグワーが嚆矢だったかもしれません。

ピアース・アローは、ジャグワーの攻撃的なデザインに対抗し、
マシンの前を通り過ぎる人の首の高さに向かって、弓矢を射る男を
フード・スタイリングの中心に据えました。

「間違いなく、このアローはあなたの頸動脈を射抜き、
アスファルトの上で血を流させて去っていくでしょう」

↑今にすればどうかと思うキャッチコピー

 キャディラックの「フライング・ゴッデス」オーナメント。
とても装飾的で優雅なデザインです。

左上の「レディ・イン・ザ・ウィンド」は、
M.ギラール・リヴィエールという彫刻家の作品だそうです。

イナバウアーしている人発見(左前)

動物モチーフでジャグワーと並んで有名なのはフォードのグレイハウンドですが、
ここに展示されている1936年型リンカーンもグレイハウンドです。

直立するウサギという珍しいオーナメントは、
アルヴィス(ALVIS)というイギリスの自動車メーカーのもの。
1967年まで存在していました。

右は今もバリバリ現役のダッジがかつてオーナメントにしていたラム。
ダッジはこの羊に敬意を表して、1981年に「ダッジ・ラム」を発売しました。


1939年に発売されたフォードのマーキュリー8には
ほとんどボンネットと一体化しているような抽象的な飾りが付けられました。

「マーキュリー」というローマ神話の「俊足の使者」を意味する名前は、
具現的なオーナメントの題材に格好のテーマだったはずですが、
命名者のエドセル・フォードはあえて一体型を目指したようです。

オーナメントの具体的な制作方法。

「ネフェルティティの帽子に吸い込まれる人」(嘘)


今回検索すると、フードオーナメントは盗難などで逸失することが多く、
実用的でないことから姿を消しましたが、オークションサイトでは
ピンキリの値段で売買されていることがわかりました。

それこそ、クリスタルグラスのものから、ちゃちなダイキャストのものまで、
その世界のコレクターも存在するようです。

今まで知らなかった、車のノーズ上に展開する芸術の世界。
実用品が飾りとなり、さらにはアートとなって、製造者が付加価値を与え、
市場がそれを広め、コレクターがさらに希少価値を生み出していく・・。

今ではほとんど姿を消したフードオーナメントにこんな歴史とストーリーがあったことを、
わたしはこのたび、ピッツバーグの街の一角でであらためて知ったのです。

 

 

 


ビューティフル・ドリーマー〜ピッツバーグでの「音楽体験」

2021-08-09 | アメリカ

■ MKのアパート引越し

アメリカのアパートの契約は日本と違い、年に2回の更新日があります。
2月と8月の1日にはアパートを退去する住人が一斉に引越しするので、
その日はエレベーターが大変な混雑となります。

MKも8月1日付けで部屋を退去することになりました。

アパートには一人部屋、二人部屋、三人部屋があり、MKが半年前入居したのは
二人でシェアするタイプで、ご覧のような広いリビングに個室が付いていました。

ルームメイトはMKの大学でコンピュータサイエンスのドクターを取ったインド人で、
それだけでも超優秀な人物であること決定なのですが、いかんせん、
キッチンのスペースをほとんど自分のもので占拠し、リビングも散らかし放題。

「どんな優秀か知らないけどちょっとだらしなさ過ぎない?」

ついつい愚痴をこぼすわたしにTOは、

「まあまあ。あの国では掃除などはカースト下位の仕事なんだから」

というし、MKは全く気にならない、とむしろインド人を庇い、
円満にルームシェアを行い、無事に半年の契約期間が過ぎたようです。

インド人ドクターは規定通り8月1日に出て行きましたが、
MKはこの後アパート内の部屋を移るだけなので、
しばらくここに一人で住んでいいということになりました。

そこで、この絶景リビングを心ゆくまで楽しもうと、
引越し前に押しかけ、ここでコーヒーを楽しんだりしました。

オフィスから次の部屋の掃除ができたと連絡があったのは8月4日です。
急に言われてもMKも大学で仕事をしているので、親が出動。
同じく渡米していたTOとMKが学校に行っている間、荷物をまとめ、
手作業で新しい部屋に荷物を移していくことにしました。

そしてこちらが新しい一人部屋です。
MKはむしろルームシェアをしたい派なのですが、時節柄、
同居相手の感染が気になるので、こちらの方が安心だろうと。

「学生が住むアパートなのになんだか贅沢すぎない?」

思わず夫婦でぼやいてしまうくらい、この一人部屋も広さがあります。
大型冷蔵庫に食洗機、オーブン、洗濯機と乾燥機も部屋に完備。

キッチンカウンターはアイランド型ではありませんが、
日本の家族向けマンションより下手をしたら立派で大きかったりします。

電子ピアノは西海岸に帰っている彼の友人の預かり物です。
夏の間はここにあるので、もっぱらわたしが練習用にしています。

ベッドとベッド下のタンス、机と椅子は備え付け。

昼過ぎから仕事を始め、アパートの端から端まで、
エレベーターも使って荷物を運んだわけですが、
その日の歩行数は25,000歩、距離にして18キロでした。

流石に次の日はぐったりしてしまったものです。

■ 海兵隊軍楽隊「第二次世界大戦時のヒット曲」コンサート

7月4日の独立記念日、テレビではいろんな「パトリオット企画」、
たとえばこの局は、海兵隊音楽隊による第二次世界大戦時のヒット曲コンサートを放映しました。

 

軍楽隊といえば、日本国自衛隊の誇る音楽隊は、コロナ以降演奏活動をほとんど自粛しているようです。
海上自衛隊東京音楽隊の定期演奏会はわたしが知るだけで二回直前の中止を決めました。

二回目などは参加予定者一人一人に担当者が直々電話をかけ、
口頭で中止を通知とともに謝罪してこられたので、わたしは
残念よりお気の毒なのと恐縮でなんとも悲痛な気持ちになったものです。

音楽隊の使命は儀礼式典などの演奏が第一であるとはいえ、
国民に自衛隊の存在を広報する目的がコロナのせいで失われていることは、
関係者ならずとも心を痛めていることに違いありません。

アメリカも疫病のせいでコンサートや公演が中止になっていましたが、
その代わりこのような番組が組まれて活動が国民の目に触れるわけです。

この日の海兵隊の特別番組を観て、わたしは日本でこういう番組が作れない、
自衛隊音楽隊がほとんどの国民には認知されていない理由を突き詰めると
日本という国における自衛隊の存在そのものについての問題点と、
いつもの「なんとかしなければいけないのに」という気持ちに行き着くのです。

 

ただ、今回とてもほっとしたことがありました。

先ほど女子バスケットボール表彰式で、優勝したアメリカの国歌演奏の映像に、
一瞬ですが陸海空自衛隊の制服姿が旗の下で敬礼している姿が映ったのです。

自衛官が表彰式の国旗掲揚を行っている(日常的に旗の扱いには慣れているし)
からには、当然国歌演奏は自衛隊音楽隊ということではないですか!

カメラは演奏している楽隊を映すことはないので確かめることはできませんが、
音楽に限らず、自衛隊が今回のオリンピックの運営を縁の下で支えているという
確信を持った瞬間でした。

この日の海兵隊軍楽隊コンサートでは、第二次世界大戦時に流行った曲に
当時のニュース映像などが重ねられました。

戦争遂行のためにアメリカは女性部隊を正式に編成し、
宣伝によって募集して志願者を集めました。

陸軍のWAC、女性部隊のポスターには、

「帰ってくるのを待っているくらいなら一緒に行くわ」



海上自衛隊では女性隊員をWAVEと呼ぶそうですが、
アメリカ海軍におけるWAVESは、前にも指摘したように

Women Accepted for Volunteer Emergency Service

つまり「緊急時女性志願任務遂行者」であり、「任務」を意味する
「S」が欠落したこの言葉が女性自衛官を表すというのには、
わたしは大変疑問を感じているわけです。

日本語感覚として「ウェーブス」と発音するのは語感が悪いから?
(特に最後2文字が)というくらいしか理由が思いつきません。

まあ、現在のアメリカ海軍では「緊急時任務」のために志願したわけではなくても
女性軍人はWAVESらしいですが。

ちなみにこんなのありましたー。

海上自衛隊 隊歌 WAVE(婦人自衛官)の歌

WASPsはWomen Airforce Sedvice Pilots、つまり女性飛行隊です。
女性パイロットは軍用機の輸送を任務としていました。

ポスターの、

A WARTIME EXPERIMENT IN WOMANPOWER

というのは、「マンパワー」だと

「戦時下での人材育成の試み」

となりますが、それにWOをつけて女性人材育成という造語にしています。

そして沿岸警備隊女性部隊、SPARS。
沿岸警備隊のモットーである、

"Semper Paratus—Always Ready"(常に備えあり)

のギリシャ語と英語訳の頭文字から取られた名称です。

 1939年にウディー・ハーマンが作曲したヒット曲。

「さあパーティの始まりだ 
月曜の朝から金曜の昼までストレスが溜まるけど
今夜は週末、思いっきり楽しもうよ

いい気持ちになりたきゃ今
さあパーティの始まりだ」

みたいな、ご機嫌なアップテンポの曲です。

と思ったらいきなりアイゼンハワーが空挺隊を激励している写真が出ました。
これは確かノルマンディ上陸作戦の時だったと記憶します。

続いてそのDデイの写真。

これもノルマンディ作戦の写真です。

極寒の東部戦線での一コマでしょうか。
兵士の表情が意外と穏やかで明るいのにむしろ胸を打たれます。

後ろの人が携行しているのは無反動砲でしょうか。
これも東部戦線での陸軍部隊。

この「I'll be seeing you」は、帰還した軍人と女性の恋を描いた映画の挿入曲です。

軍楽隊の男性ボーカルが、甘い声でこんな歌詞を歌い上げました。
世界共通の傾向として、管楽器奏者には歌の上手い人が多いです。

「あなたに会うだろう 懐かしい場所で
わたしの心は過ぎ去った日々を抱きしめる

小さなカフェ 道の向こうの公園
子供用の回転木馬 栗の木 願いを叶えてくれる井戸

あなたに会うだろう 素敵な夏の日に
全てが楽しくて明るいんだ まるであなたみたいに
あなたを見るだろう 朝の光の中に 
そしてやってきた新しい夜 わたしは月を見るだろう
でも、そこに見るのは あなた」

戦地で恋人を思う気持ちにぴったりと沿った内容となっています。

「イン・ザ・ムード」というグレン・ミラーオーケストラの曲を知らない人は
少なくともアメリカ人には一人もいないのではないでしょうか。

グレン・ミラー楽団の曲ももちろん何曲か紹介されましたが、
陸軍軍楽隊の少佐でもあったトロンボーン奏者のグレン・ミラーについては
飛行機事故で亡くなったあとの葬儀の様子までが紹介されていました。

ちょうど字幕に「ポツダム宣言」と出ていますが、
(なぜかドイツとイタリアについてはほぼ無視で)、
日本の無条件降伏によって戦争が終わった、というところで
戦地から帰ってくる恋人に会える喜びを歌った曲などが紹介されました。

■ アメリカでのジャズライブ初体験

MKが「授業がハードでバーンアウトしたとき友達と行ってみた」という
ジャズライブハウスにライブを聴きに行きました。

アメリカでジャズライブに行くのは、実は初めてです。
しかも、今までナイトクラヴィングに行けなかった原因であるところの
息子が成長していつの間にか母親をライブに誘ってくれるようになったとは。

店内は狭く、空いている予約の枠は5時から7時となっていました。
ライブは5時半から始まり、7時までには店を出なくてはいけません。

アメリカのジャズミュージシャンは、9時ごろから仕事を始めて
朝方家に帰るというものだと思っていたのでビックリです。

「今のアメリカのミュージシャンは10時には仕事が終わるのか・・・」

その勤務形態だと、ミュージシャンもずいぶん健康的な生活ができそうです。

MKに取ってもらった予約枠はもう最後の一つになっていました。
ジャズバーなのに店内禁煙です。
日本でも禁煙の飲食店が増えていると思いますが、
さすがにバーまではまだ禁煙ではないですよね?(知らんけど)

BGMは一番左のオーナーらしい人がアナログ盤を選んでかけます。

店名の「コンアルマ」はスペイン語で「魂を込めて」。

かつて世界的な有名ジャズミュージシャンが、

「いいライブハウスとはいいキッチンのある店だ」

と言い切ったそうですが、ここは料理も自慢で、
ウワカモーレやアサードなど、南米系のメニューは結構美味しかったです。

おそらくオーナーはヒスパニック系なのに違いありません。

ライブは5時半からとなっていましたが、始まったのは40分からで、
サックスがバンマスのカルテットでした。
生ピアノが置けないので、ピアニストはフェンダーローズ使用です。

手前の二組はどちらもデートで、音楽を聴きに来ているというより、
ジャズをバックに盛り上がりたい派に思えました。

「初デートにジャズライブっていいかもしれないね。
気まずくなっても音楽で場が繋げるから」

わたしがいうと、MKが

「初デートで話ができないライブ選ぶかな。俺はおすすめしないわ」

いや、逆に君にお勧めされてもな。


演奏は50分、曲はブルースとかボサノバの「ラウンド・ミッドナイト」とか、
「エスターテ」(夏という意味)とか、気のせいか南米風でした。

 

■ おまけ・フォスター記念堂

音楽つながりで、もう一つ。

ピッツバーグ大学の「学びの塔」の足元?に、いつも見えているこの建物。
てっきり学びの塔の一部だと思っていたのですが、近くを歩いた時、
これが「ステファン・コリンズ・フォスター記念堂」であることがわかりました。

フルネームで言われると誰かわからないという向きもあろうかと思いますが、
「草競馬」「おおスザンナ」「オールドブラックジョー」「金髪のジェニー」
などの作曲をし「アメリカ音楽の父」と言われるあのフォスターのことです。

建物はピッツ大の所有する博物館となっており、コンサートホールと
アーカイブ、フォスターのピアノや記念品が所蔵されています。

なんでも彼がペンシルバニア生まれでお墓がピッツバーグにあることから、
ここに記念堂を作るという運びになったようです。

 

フォスターといえば、昔教育実習に中学校にいったとき、カリキュラムに
その作品が出てきたのですが、その授業中、受け持ちクラスの男子生徒が

「フォスターがどんな悲惨な死に方をしたか」

微に入り細に入り語ってくれたのを懐かしく思い出します。(どんな思い出だ)

それは、1864年、ニューヨークのホテルに滞在中、発熱していた彼が
平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、
その破片で頸動脈を切断されて亡くなったという巷間伝えられる話と同じでしたが、
今回調べたところ、英語では自殺説のことも言及されているのがわかりました。

ある歴史家によるとフォスターは南北戦争中によくある自殺だったと推察しているとか。

倒れている彼を発見したジョージ・クーパーは、

「彼は裸で床に横たわり、ひどく苦しんでいました。
彼は素晴らしい大きな茶色の目に忘れられない魅力を湛え私を見上げていました。
そして『俺はもうダメだ』とささやきました」

そして肝心なのはそのとき彼が大きなナイフを持っていたと言ったことなのですが、
家族はその後フォスターが自殺したことを隠蔽したというのです。

別のフォスターの研究家も、彼は晩年死を予感させる作品を書いていることから、
自殺の可能性も微レ存だと推察しているそうです。


いずれにしても亡くなった時37歳で、所持品はわずか38セントの小銭と、
「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけ。

当時は著作権法などが整備されておらず、彼は作曲からまともな収入を得ることもなく、
つまり彼が貧困から自殺を選んだとい可能性は確かにあるかもしれません。

名作「夢路より」(Beautiful Dreamer)が発表されたのは死後2か月後のことでした。

 

 


アメリカで観る東京オリンピックとスポーツファッション史〜アメリカ滞在

2021-08-05 | アメリカ

■ 2回目のワクチン接種終了

アメリカに来て1週間後ワクチンを打ちましたが、
瞬く間に3週間後が過ぎ、2回目のワクチン接種日がやってきました。

2回目接種については、その週の始めにテキストで告知があり、
前日には再三のメールも来るなど、どんなうっかりさんでも忘れないように
何度もお知らせをしてくれます。

きっちり2週間後に行わないと効果がないのだとか。

1回目の摂取時間が夜7時だったので、2回目は自動的に
同じ時間に来るようにスケジュールされていました。

時間より少し前に同じドラッグストアに行って、
奥の調剤薬局の窓口に摂取カードと書類を見せます。

英語が喋れない人のために、各国語の同時通訳の電話番号リストが

カウンターに置いてあります。
母国語のナンバーに電話をすると、無料で通訳につながります。

2回目はIDの確認なしに店内の椅子に座らされ、
そこに注射器を持ったファーマシストがやってきて、

「1回目は熱とか痛みとかどうでした?」

と聞きながら肩を消毒します。

「2日ほど筋肉痛があっただけです」

と答え終わらないうちに接種は終わっていました。
1回目と同じく、注射そのものには痛みも何も全く感じません。

モデルナのワクチンを受けたMK、2回目は頭痛がして寝られなかったというので、
ビビりまくったわたしは念のためにこのファーマシストに聞いて、こちらでは
ポピュラーなペインキラー、タイレノールを買って帰ったのですが、
その日の晩も次の朝も全くその気配もなく、肩すかしを食ったようでした。

さすがにその次の日からは腕が熱を持って腫れ、倦怠感、頭痛があって、
打った翌々日は1日ベッドでごろごろしていましたが、(多分熱もあったと思う)
辛いとか苦しいとかいう感じは全くと言っていいほどありませんでした。

患部は注射をしたところから注射液が広がった形状そのままに腫れました。
今ではそれも退いていますが、体質的に絆創膏にかぶれやすいせいで、
針跡に貼ったバンドエイドの跡が今でもうっすら残っています。


その後のニュースで、ワクチンを二回摂取すると感染しても重症化しない、
と聞いて安心したのですが、すぐに、ワクチン摂取した人であっても
デルタ株は感染する(重症化しないだけ)らしいとわかってなんだかやれやれです。

日々の情報に世界中が右往左往させられているという感じ。

こちらのニュースでも毎日盛んにデルタ株の感染について報じられており、
オリンピックという時節柄東京での感染者数がクローズアップされています。

ワクチンを打ったからと安心せずマスクをするように、と告知されているのですが、
アメリカ人は皆もうマスク生活なんてうんざりでえ!やってられっか!と思っているらしく、
(まあ気持ちはわかるがな)少なくとも一般人はほとんどがノーマスクです。

冬の間雪道を歩いた川沿いのトレイルには、手洗い所が登場しました。
所々にあしらわれている模様はお日様・・・じゃなくてもちろんコロナですよね。

効果的な手洗いには20秒が必要、ということで、
「アメイジング・グレイス」か「ハッピーバースデイ」を歌い終わるまで、
手を洗い続けましょう、と提案しているわけですが、実際にやってみたところ、
「アメイジング」は25秒かかり、「ハッピーバースデイ」は15秒で終わりました。
つまりどちらの曲も微妙ってことです。

この話をMKにしたところ、Apple Watchに「手洗いモード」があって、
手を洗い出すと、自動的に20秒カウントしてくれるというので、
面白半分でセッティングしてもらいました。

「なんで手を洗ってるって時計にわかるのよ」

「音とか手の動きがセンサーでわかるんだよ」

半信半疑でやってみると、驚くことに勝手にカウントが始まり、
20秒経つとブルッと震えて終わりの合図をしてくれます。

「すげー!」

ちょっと感心したのですが、ちょっと不思議なのが、
終わった時に出てくるメッセージ。

「とても素晴らしいです!」「よくやりました!」

など、いえいえ、それほどのことでも、と照れてしまうくらい
激賞してくれる時があるかと思ったら、

「終わりです」「完了です」

と妙にそっけない時があって、このテンションの違いはなんなのだろうと・・。


■ アメリカで観る東京オリンピック

夏場渡米することが多いせいで、ここ何年も
自宅でオリンピックを観たことがないわたしですが、今回もまた、
自国開催である東京オリンピックを海外で観戦することになりました。

わかっているのにわざわざ酷暑の日本で夏に開催することも、その放映時間も、
全てアメリカのテレビ中継に合わせてある、という噂はかねがね聞いていましたが、
常時最低3チャンネルは朝から晩まで競技を放映しています。

ただ、当然ですが、アメリカ戦が優先されるので、
日本の試合を見逃すことが多々あるのは仕方ありません。

冒頭画像は「いわゆるオリエンタルなフォント」によるTOKYO2020番組タイトルで、
これに続きレインボーブリッジを望むお台場の空撮が続きます。

オリンピックの取材でスタッフが日本にいるせいか、
このような「外人さんが日本文化を体験」みたいな紹介番組もよく観ます。

この人は金沢に訪問し、流鏑馬をやらせてもらっております。

こちらにきてからこの手の「外人さん日本旅行」企画番組として
モータージャーナリストのジェームズ・メイが北海道から九州まで
いろんな体験をするシリーズを見ましたが、これが滅法面白かったです。
(メイさんのイギリス人らしいコメントがまたなかなか皮肉が効いていて)

マイクロソフトのCMも、屋台や庶民的な飲み屋を紹介するなど、
ディープ日本にも拘っているのがオリンピックイヤーならでは。

オリンピックに関係あるのかどうかわかりませんが、
T.J.MAXXというアウトレット衣料スーパーでこんなの見つけました。

まず右側は富士山の形がヘン。
左は富士山はいいけど「優れました」というロゴがヘン。
なぜ過去形?

THE TIME IS  NOWと「全く寝ていない」というコピー、
骸骨に三つ重なった「不滅」の文字。

これは・・・あれだな。
イギリスのsuperdry「極度乾燥しなさい」ブランドのアイデアパクリかも。

McKayla Maroney Saves The Day - GEICO Insurance

オリンピック番組のスポンサーは、こぞって選手をCMに使います。
「ガイコ」という自動車保険会社も、マッケイラ・マロニーという体操選手
(ロンドンオリンピックで口を曲げる
”不満顔”を見せたことで話題に)に、
屋根の上のフリスビーをジャンプで取ってもらい、

受け取ったとたんまた屋根に上げてしまって、マッケイラは「不満顔」という、
事情を知らなければ1ミリも笑えないCMを繰り返してやっています。

あと、パラリンピックの選手をCFに採用する企業はとても多いです。

パラリンピックの競泳競技は、泳ぎ方別に、脳性マヒ、脊髄損傷、切断、
機能障害などの身体障がい(肢体不自由)、視野の範囲や見え方など視覚障がい、
知的障がいという大きなクラス分けがあります。

さらに、肢体不自由と視覚障害は三つのクラスに分けられその中で勝敗を競います。
障害の程度によってハンディができないようにということだと思います。

「今こそ、私たちの中にある可能性を解き放つ時です」

ミニオンズネタでまた新作映画ができるようで、便乗広告。
有名水泳選手との共演です。
ちなみにミニオンはプールに飛び込んでもぷかぷか浮いてしまい泳げません。

コマーシャルといえば、大統領選挙戦当時トランプ支持で有名だった
「枕の社長」ことマイピロー社CEOのマイク・リンデル氏。

一時、民主党支持の小売業者(ベッドバス&ビヨンドとか)から
トランプ支持を理由に取引を終了されたというニュースがありました。
ちょうどその頃わたしはアメリカにいてたまたま閉店セールの「バスビヨ」に行き、
マイピロー商品が大量に二束三文で投げ売りされていたのを見たものです。

その後どうなったんだろうと思っていたら、普通に元気いっぱい
テレビコマーシャルに出て、自社製品の宣伝をしておられました。

アメリカでも通販が小売の主力販売法になっている昨今、
小売店に切られたからといって営業危機にまでは至っていないようです。

■ 富裕層の住居跡: The Frick

以前紹介したこともある、メロン財閥のお嬢様がデビュタントのプレゼントに
広大な土地の権利をもらって作ったというフリックパークという公園には
毎日のように朝の散歩で歩きに行っているのですが、あまりにも広くて
いまだにコースを全て把握できていません。

先日、新しいコースを開拓していたところ、公園の反対側に
邸宅とミュージアム、庭園があるのを見つけました。

アメリカではこういう邸宅を「マンション」と呼びます。
日本で言うマンションはアメリカでは「アパートメント」です。

この家が建築されたのは1860年代。
その後1881年にフリックという夫妻が結婚直後に購入し、
その後フリック家の人々が亡くなるまで住んでいました。

ガラス張りの温室の向こうに見えるのは子供達の「プレイハウス」。

「お遊び場」といっても、この説明によるとそこは

「友人をもてなしたり、アクティビティを企画したり、ダンスなど、
社会的スキルを練習したりと、大人になってから期待される役割の多くを実践する場」

であったとかなんとか。
特に右側のお兄さんの方は、まだ12歳くらいといったところでしょうが、
もうすでにいっぱしの紳士の自覚のようなものがその大人びた表情に見えます。

その後、フリック家の居住地域は、美術館、博物館、植物園、
カフェを備えた「The Frick」として地域の人々が憩う場所になっています。

カフェではカウンターで注文し、外のテーブルで食事ができます。
この日は湿度も低く、木陰が最高に快適でした。

ちなみに周りにいたのはほぼ全員が年配のアメリカ人(白人)ばかりでした。

アメリカン・ゴールドフィンチは日本語で「オウゴンヒワ」といいます。

鮮やかな黄色をしていますが、これは繁殖期の雄にのみ見られる色で、
平常時はくすんだ黄色になるそうです。

しつこく追いかけられて固まるリスも

■ スポーツファッション展

「ザ・フリック」のメインとなる博物館入り口。
建物よりも四角く刈り込まれた植栽に感心してしまいました。

2021年の東京オリンピックは「2020年TOKYO」という名称を変えていませんが、
とにかくオリンピックイヤーには違いないということか、
この博物館では
「スポーティングファッション」と題して、1860年代から
1960年代までの
女性のアウトドアスポーツファッション展を催していました。

赤いバイクの横に、1860年代のサイクリング用パンツスーツと、
ゴーグルに皮パンツ、皮の手袋という1960年代のバイクファッションが並んでいます。

1879年代の「ベーシングスーツ」つまり水着です。

左からゴルフ、アーチェリー、ジムでのトレーニング用、一番右はフェンシング。

どのスタイルも動きやすさより体の線をかくすこと優先。

「サブゼロファッション」、極寒期のファッションです。

1900年代の雪上ファッションいろいろ。
左の人が持っているのはいわゆる「カンジキ」でしょうか。

初期のローラースケートシューズ。
靴に二輪が着いていますが、履き(乗り?)こなすのは難易度高そう。

富豪だったフリック夫人の旅行ファッションと愛用のルイ・ヴィトントランク。
おそらく1800年代の制作だろうと思われます。
当時は富豪の旅行=船旅だったので、こんなタンスのようなスーツケースが主流でした。

1900年代になってから基本スタイルがほとんど変わらないのが乗馬ファッション。
内側に皮を張ったいわゆる乗馬ズボン、裾の長いジャケット、
そして膝までの乗馬ブーツは1912年の最新乗馬スタイル。

1800年代の女性は、乗馬の際鞍に跨らず横座りをしていたので、
下半身は長いスカートとなります。

後ろにスカートでの乗馬スタイルの絵がありますね。

右二つはアメリカでいう「ランチファッション」。
日本人なら「カウガールスタイル」というかもしれません。

目を引いたのは1800年代の「レインファッション」。
まあ、雨に濡れることはないかもしれませんが、
コートの中のスカートが水を吸ってえらいことになりそうな予感・・。

これをファッションと呼ぶのはどうかと思いますが・・。
海岸で水着に着替えるときに使用する「簡易着替え着」です。

昔は水着に着替えるのすら施設がなくて大変だったんですね。

■おまけ:アンバーアラート

滞在中必ず1〜2度は遭遇する「アンバー・アラート」。

児童(未成年者)の誘拐や行方不明が発生すると、テレビやラジオ、
最近ではSNSなどの公衆メディアを通じて発令される緊急事態宣言(警報)です。

この時のアンバーアラートはニュージャージーで発生、
セバスチャン・リオスという2歳の児童とその母親が「拉致された」
というのですが、拉致したのはテイラー・リオス、どうも
彼らの父親で夫のようです。

父親による「連れ去り」事件は案外多いらしく、昨年滞在中にも
父親が自分の子供を拉致したというアンバーアラートが入り、
高速上の電光パネルに子供の写真が大写しになっていました。

"AMBER"とは"America's Missing: Broadcasting Emergency Response"の頭文字、
そして1996年にテキサス州で誘拐・殺害された少女、
「Amber Hagerman」の名前を意味しています。

この時、誘拐の情報が早期に地域住民に知らされていれば
少女は見つかっていた可能性があったことから、事件以降、
高まったシステムの整備への要請の声を受けて成立したのが

「アンバーアラート」というわけです。

 

 


キャンパスツァーとインディペンデンス・デイ(独立記念日)〜アメリカ滞在

2021-07-10 | アメリカ

豪雨のあと、一瞬の奇跡のような爽やかな日が訪れましたが、
あっという間に最高気温33度の夏日に戻ってしまったピッツバーグです。

なので、公園の散歩はコースにまだ陽の差さない早朝に行くことにしました。

いつもなら無人のごはんタイムに乱入してきた人間に戸惑っている若い牡ジカ。

リスも朝の方が活動的です。


街を歩く人のマスク着用率は二十人にひとりといったところですが、
ホテルのある一角はピッツ大医学部病院の集中地帯なので、
医療関係者が多いということを考えると、ここではほとんどが
マスクを外し、飲食店も平常営業を始めたと言っていいかと思います。

最初に「ヌードルヘッド」という麺専門店で外食をしました。
去年は店を閉めて店頭でテイクアウトだけしていましたが、今回行ってみると
広い店内が埋め尽くされていて流石の人気ぶりでした。

いつもここにくるとこのチキンパッタイを頼み、半分食べて持って帰り、
次の日野菜を足すなどのアレンジをして頂きます。

MKは、車がないと行けない郊外のお気に入りのレストランで
このバッファローウィングスを食べるのを楽しみにしていたようです。

ここのウィングはとても肉が柔らかく、適度なピリ辛が食欲をそそります。

シェイディサイドには、アップルストアがあるというイケてる商店街があります。
ある朝そこの朝食専門フレンチ風カフェに連れて行ってもらいました。

わたしは朝食を食べないのでお茶だけです。

この日、MKが大学の「内部見学ツァー」をしてくれました。
ここにはかつて立派な研究室のビルがあったのですが、
2023年完成予定で新築工事に入っています

大学のシンボルであるタワーとその周辺の、最初にできた建物に手をつけず、
新しい建物をこの旧校舎と渡り廊下や壁などで接続していくのがアメリカ式。

古い建物を大事にするお国柄なので、この建築法はどこでも見られます。

ちなみにMKはタワーの頂上まで昇ろうとしたそうですが、さすがに鍵がかかっていたそうです。
しかも、後から、あのタワー近辺は物凄い電磁波だから近づかないほうがいいと言われたとか。

おいおい、後から知ってどうする。

学内には、最初の校舎の建築時の現場写真と設計図がパネルされて飾られています。
左手に線路が見えていますが、工事現場の写真の左側に今でもあって、貨物線として利用されています。

斜面の上に建っているので、表からみると2階建、
裏から見ると6階建というトリッキーな建築です。

まずは機械工学部から。
大学のシンボルである黒いスコッチテリアは充電でお休み中。

木工所みたいですが、何をするところかわかりません。
建築学科とかかなあ。

MKによると、その前日、教授たちが皆で片付けをした跡だそうです。
片付け=廊下にゴミを出すこと?

まだ片付いていないのかと思いきや、これが通常の状態だということです。

これがMKのワークスペースだそうで。

飲みかけの水とほったらかしておくのはいかがなものか。

壁全体がホワイトボードになっている仕組みです。
書かれた字がMKのと似ているのでこれあなたの?と聞くと、全く違う、との返事でした。

偏見かもしれませんが、アメリカ人も理系の人って字の下手な人が多い気がします。

 

創立当初の機械工学部(だと思う)。
当時の大学生は皆スーツに革靴といういでたちだったんですね。
この写真は現在の同じ校舎の廊下に飾ってありました。

説明がありませんが、おそらく1940年代ではないでしょうか。
機械のたたずまいから通信関係の研究ではないかと思われます。

アメリカの工学大に学はもちろんですが軍事研究のための予算が出ているので、
MKに言わせると、当大学にも「秘密のラボ」があって、そこでなにやら
武器兵器の研究が行われているとかいないとか。

出入りできるのはごく限られた研究員だけという噂があるそうです。

ここで一旦外に出てみます。
大学は5月から夏休みに入っているので、人影はほとんどありません。

チャレンジャーで事故死した宇宙飛行士の一人、

ジュディス・アーリーン・レズニック(Judith Alrene Resnik)

が本大学の卒業生であることから作られた碑。
このモニュメントの形は、彼女がエンジニアの名誉クラブ、
くしくもMKが先日その末席を汚すことになったところの
τβπ(タウ・ベータ・パイ)であったことを表します。

このマークは、時計のネジを巻くための鍵と橋脚の架台を組み合わせた形を
図案化しており、創設時はそれが工学への誠実と卓越の原則を象徴するものだったのです。

MKにも周りの誰にも、これが何を表していて何のためにあるのか
説明がないので全くわからないという謎の団子モニュメント。

「でもなんか可愛くない?」

「雪の日、マフラーと帽子付けてもらってたよ」

しかし大学キャンパスという地にありながら、よく今日まで無事落書きされずに来たものです。

ギネスブックにも乗っているという噂の、

「最もしょっちゅうペインティングされたフェンス」

ですが、最近の学生はどうもやる気がないらしく、今は

「一度これを塗ってみたかった」

という投げやりな文句が白地に書かれているだけのもの。
それと、π二乗=9ってこれ何なんだよ・・。

π^2=9.86960440109・・・・???

さて、この割と最近の建築っぽい建物は、コンピュータサイエンスセンター。

この日は独立記念日の休日だったため、観光客がうろうろしていましたが、
キャンパスは自由に歩けてもさすがに校舎には鍵がかかっていて入れません。

外からドアを開けようとしている家族をMKは中から開けて入れてやりました。



このビルは某ゲイツ夫妻が寄付したということで、「ゲイツセンター」というそうです。
ゲイツは本学出身ではないのですが、いろんなところに寄付することで
自分の名前を全米の工科大学にまるでマーキングするかのように残しまくっているようです。

ちなみにこのご夫婦、最近離婚されたということですが、学生の間では
ビルのどこをメリンダが取るんだろう、というジョークが一瞬流行ったとか。

それよりわたしはなぜ今更離婚などしなくてはならなかったか、その本当の理由が知りたい。

ほとんどのアメリカ人がマスクを外し始めたアメリカですが、
まだ一応最警戒時のポスターと使い捨てマスクはそのままです。

マスコットのスコッティくんが、マスクをして食べ物はテイクアウト!と宣言しています。
(アメリカのテイクアウトはこのような紙パックがよく使われる)

本学の歴史はイコールコンピュータの歴史でもあると言いたいわけですな。

ざっと要約してみると、コンピュータの専門センターが創設されたのは1956年、
最初に導入したのはIBM650、2番目がBendixG-20、AIを作ったのもうちです的な?

この前段階では、コンピュータでチェスをやったとか、人工知能とか、
まあざっとそんな感じのことが書かれています。

ゲイツビルの裏はまるでホテルのようなアクリル柵に囲まれた
ベンチのコーナーがあります。

一階の大きな窓の内側にはなにやら水槽のようなものが・・。
これは当ブログ的に大変興味深い、海軍艦船関係の研究を行うプールと見た。

しかし、たかだか大学なのにこんな設備まであるなんてすごすぎない?

もう一度機械工学科のビルに戻ってきました。
これはナノテクの研究室で、二重ドアになっており、
入室の際には必ず(コロナと関係なく)マスクとヘアキャップが必須です。

大規模な木材の加工を行うことができそうな部屋。
天井からぶら下がっている黄色いチューブはダストスイーパーかな。

さて、ジュライフォース、独立記念日の7月4日のテレビニュースです。

ブルーエンジェルス結成75周年記念、ということは、
第二次世界大戦が終わってすぐ結成されたってことですね。

独立記念日には、恒例イベントとしてアメリカは各地で花火が打ち上げられます。

しかし、アメリカでは花火は買える場所もやっていい場所も限られていて、
どうしても花火を買いたい人はわざわざ越境し、使用する期間も限定的です。

その理由は、銃声と似ている花火の炸裂音とか、大量の火薬を使うことにあるようです。

わたしが昔住んだマサチューセッツ州は全面的に花火の売買と使用が禁じられ、
唯一許されているのが独立記念日のスポンサー付きの花火大会だけでした。
花火を買いたいマサチューセッツの住人は、ニューヨーク州との州境、
インターステート近くに集中している花火屋まで行かなければいけません。


つまり独立記念日は、アメリカ人にとって年に2度だけ解禁された
(もう1日はニューイヤーズ・イブ)花火を楽しめる日でもあります。

この日、老若男女は花火の見学スポットに陽が高いうちから詰め掛け、
ご覧のように芝生にチェアを並べてビールなど飲みながら9時過ぎまで待ちます。
去年中止されたイベントなので、今年の復活は皆が喜んだでしょう。

ここはわたしが去年の夏と今年の冬泊まっており、毎日歩いた河原なのですが、
車で様子を見るのがやっとでした。

MKは友達と連れ立ってバスで河原に来て花火を最後まで見たそうです。

 

9時になりテレビの中継を見ながらホテルの窓外を見ると、
ざっと見て少なくとも二十箇所から花火が上がっているのが見えました。

どこの地域でも陸海軍の軍楽隊が中心になってパフォーマンスを行いますが、
特に凄かったのがこのリモートによる海軍選抜メンバーのアカペラコーラス。
とんでもなく高クオリティの演奏でした。

FOXニュースでは、ウェストポイントの花火を中継していました。
お行儀よく制服を着て並んで座り見物している士官候補生たちも映っています。

インディペンデンスデイの次の日は月曜ですが、恒例として
この日もアメリカではお休みとなるようです。

9時からの花火の後散々ビールを飲んだりして、次の朝から仕事、
というのはあまりに過酷だということなのでしょう。

翌日公園を歩くと、至る所に花火の燃えかすが落ちていました。

こんなパッケージも。

TNT(トリニトル・トルエン?)のWAR TIMEなる花火。
しかもパッケージには群をなして飛ぶ爆撃機・・・。

TNT Fireworks

どんな物凄い花火かと思ったら。

 

 

 

 


マスクを外し始めたアメリカ人〜アメリカ到着

2021-07-02 | アメリカ

またしてもピッツバーグに来ております。

今年はMKが日本企業にプレゼンするプロジェクトに参加するため、
夏休みも帰国しないことが決まり、わたしの渡米が前倒しになったというわけです。

 

今日プロジェクトについて聞いたところ、来週企業とのミーティングがあるそうで、
前回、MKが同じ企業とのプロジェクトに出て、

「〇〇組の社長は出ていなかった」

と言ったのに超ウケたわたしが、今回思い出し笑いしながら、

「その話日本人にしたら、全員『大手ゼネコンの社長がそんな会議に出るか!』っていうわ」

と言うと、MK、

「隣のグループはNASAのプロジェクトしてるけど、
その会議にNASA長官が出てなかった、とかいうレベル?」

「それほどじゃないけど、近いw」

「それならよくわかる」

 

ところで、こっちにきて猛烈な昼間の暑さに参っています。
夜間はとりあえず23度くらいなのですが、朝から気温がぐんぐんあがり、
昼には30度を超えるという異常さ。

去年こんなに暑かったかしら、と思ったのですが、なんでも今、
カナダとアメリカ北西部が歴史的な暑さに見舞われていて、
カナダでは45度という史上初の高温を記録し、人が死んでいるとか。

そうかと思えば、さっきからここピッツバーグでは雷雨となり、
気温だけは21度に下がったものの、鉄砲水警報が出て、しかもこれが週末まで続く模様。

いつも日本の蒸し暑さを逃れて避暑気分だったのが、今回は
日本の方がずっと過ごしやすかった、と嘆く事態になっております。

 

今回は時差ボケから立ち直るのにえらく時間がかかってしまいました。

シカゴ・オヘア空港からの国内便が機材到着遅れで2時間も遅くなり、
ホテルに到着したのが深夜12時になってしまったためです。

こんな時にはバスタブにゆっくり浸かってのち、メラトニンでも飲んで寝れば
だいたい一晩でリズムを取り戻せるのですが、メラトニンはともかく、
着いた晩お風呂に浸かることができなかったのが、敗因だと思われます。

ホテルは最初にピッツバーグに来た時に家族と一緒に泊まったところ。
そのためバスタブのことなど毫も心配せずに予約をしたのですが、
部屋に入るなりあるはずのものがないのに気づきました。

すぐにフロントに戻って部屋を替えてもらおうとすると、
なんと全てのベッド一つの部屋にはない、というではありませんか。

「それって重要なんですか?」

若いアフリカ系の女性フロント係が不思議そうに言うので、

「とっても大事なことなんですよ。なぜならわたし日本人だから」

と「日本人の風呂に対する執着」について教えておきました。
向こうにとっては超どうでもいい情報だと思いますが。

このホテルは、コロナ以降ピッツバーグ大学が借り切って学生寮にしていたのですが、
今回ダメ元で予約してみると、学生が戻ってくる8月23日までは予約できました。
学生が夏休みの間は一般客を取り込んでいるようです。

ただ、チェックイン後、
エレベーターに一緒に乗ってきてボタンを押してくれ、

「どこからきたんですか」

と話しかけてきた愛想のいい男子に聞いてみると、彼はピッツ大生で、
MKのように夏の間用事のある学生も結構残っているらしいことがわかりました。

 

ところで、ホテル側には、学生に貸し出すと、部屋を汚されたり、
傷をつけられたりするんじゃないかという懸念もあったと思うのですが、
案の定、学生がつけたとおぼしき痕跡がわたしの部屋にありました。

現場証拠

アイロンを直に床に置いた男子学生(に決まってる)がいたようです。
各部屋にはアイロン台が備え付けてあるのに、それを使わず床で仕事をした模様。

この焦げ具合からして、変な匂いがして煙が立ち昇るまで気づかなかったと見えます。
ねっからのおバカなのか、それとも家でアイロンなど見たこともなかったのか。

 

さて、三晩過ごしてなんとか体調的に立ち直り、ようやくPCに向かう気力が出てきたので、
恒例となった、出発から到着後までのご報告をします。

成田ではまるでゴーストタウンになってしまった空港でTOとギリギリまで時間を潰し、
ゲートに入った後、出発ラウンジに充電のためだけに立ち寄りました。

現在ANAでは乗客が激減しているため、ラウンジはファーストとビジネスが兼用です。

今回のチケットはまたしてもいわゆる一つの特典航空券なのですが、
無料のチートとはいえ、一応ファーストであるせいか、ラウンジに着くと、
係の方がすまなさそうに?窓際が全部埋まっているので、と、わたしだけを
ビジネスラウンジの奥から続くドアを開けて、この部屋の窓際に座らせてくれました。

どうもここが平常時のファースト専用ラウンジのようです。
水を頼んで充電するだけだったので、なんだか申し訳ない気がしました。

今回の渡米のために地元の警察署で国際免許を申請したところ、交通課の婦警さんが、

「今年ここでわたしが受け付けた初めての国際免許かもしれません」

と言い、取りに行くと、今度は明らかに職務上ではなく個人的興味で、
今海外行くとどんな感じなんですか、と聞いてきました。


今回は出国にもPCR検査の結果かワクチン接種証明が必要となっており、
PCR検査は搭乗72時間以内の結果が求められているので、つまり、
空港でお高い検査を受けるか、民間のやはりお高い検査を受けるかの二択です。
(どちらも2万5千円、予約なしで空港で受けると5万円)

わたしは、これまで何度か受けた検査が全てネガティブだったというものの、
空港で何かの間違い?により陽性が出たら大変なことになると懸念し、
新宿にある個人クリニック(ヘンな集団ダンスのCMをしているところ)で
クィック検査を受け、前日のうちに陰性証明をゲットして出国しました。

その検査とは、ハチ公前の広場でUbereatsの配達用のような黒いバックパックから
配られる検査キットを受け取り、指定された時間にGoogleデュオで看護師に指導されながら
唾液をキットに取り、それをもう一度ハチ公前に持っていって結果を待つというもの。

確かにこんな面倒くさいことをしなくてはいけないのに、
海外に旅行目的で行く人なんていまどきいるはずがないという気がしました。

 

そんな苦労をして取った陰性証明書はチェックインカウンターで提示を求められただけ。
出国カウンターでもアメリカの入国審査でもノーチェックでした。

コロナ以降、アメニティケースはずっと変更されておらず、今回もグローブトロッターです。
前回はこのケースすらぺちゃんこの明らかにコストを下げたものになり、
機内のスリッパもペラッペラの再利用不可能な材質でしたが、今回は元に戻っていました。

機体は初めて見るタイプで、おそらく新型でしょう。
窓のシェードの調整が思いっきり最新式でしたし、モニターも綺麗でした。
モニターは携帯とリンクすることができるようになっており、
座席周りのレイアウトも大変機能的にできていると思いました。

コンパートメントは完全にドアを閉めることができ、機内着に着替えた後は
CAさんがドアの裏に内臓されたクローゼットに服を架けてくれます。

この日の乗客は全部で100人弱くらいはいたと思うのですが、キャビンにはわたしだけでした。
おかげで、この隣のコンパートメントはわたし専用のベッドルームになり、
いつの間にかCAさんがベッドメイクをしてくれて、休んだあとは
着替えている間にちゃんと元通りになっているという状態。

このように至れり尽くせりなのはコロナ禍以降の数少ない「いいこと」のひとつです。
そもそも特典航空券でファーストを取るということ自体、平常時なら無理だったでしょうし。

そして、お楽しみの機内食!

前回の失敗から、今回はできるだけレンジ調理の少ない和食を選びました。

今、健康上の理由で小麦と乳製品を控えているのですが、
和食だとほぼストレスなくこの条件もクリアできます。

ちなみにこの食餌療法により、月一回はあった偏頭痛がなくなりました。
偏頭痛は低血圧の女性に多い症状で、わたしもその例に違わず、これまで
看護師がドン引きするほどの低血圧だったのが、上100の大台を越しました。



もしかしたらこれまでの人生で一番満足した機内食だったかもしれません。
これなど野菜はパリパリ、長芋はシャリシャリで、タタキも美味しかったです。

メインの黄色い物体はナスの黄身焼きだと思います。
これに取り掛かるところでお腹いっぱいになり、残念ながら残してしまいました。

そしてシカゴ・オヘア空港に到着。

空港上空に来ると、飛行機は向きを変え、いったんミシガン湖の上に出て、
そこから空港に向かってアプローチを行います。

シカゴの街は実に直線的に計画されていると感じます。

そこそこの大きさの家が連なる住宅街ですが、西海岸と違うのは、
プールがある家はあまり多くないこと。

冬には氷のトンネルができると言われる土地なので(前回の乗り換えの時も−12度だった)
プール文化は根付いていないのかもしれません。

乗り継ぎ便も特典航空券だとエコノミーで空港ではラウンジなしとなります。

今回アメリカ入国後驚いたのは、コロナ前より明らかに多い空港利用客の多さでした。
ゴーストタウンの成田から一気に人ゴミの世界へと。

 

恐竜の骨がマスク着用なのは以前と変わらず。
空港職員も利用客もここではマスク着用は義務付けられているので、

マスクのアメリカ人がコンコースを埋め尽くすという前代未聞の光景が展開していました。

ところが。

到着した夜、応対したホテルフロントがマスクをしていたため気づかなかったのですが、
翌朝買い物に付き合わせたMKはもちろん、その辺にいる人はほとんどノーマスクです。

「マスクしてない人多いね」

とMKにいうと、

「皆ワクチン受けてるから」

そういってワクチンの摂取証明カードを見せてくれました。

彼は救急隊員の公的資格を持っているので、その枠で受けたそうですが、
最近ではほとんどの人が摂取済みとして、マスクの義務がなくなっているのです。
(もしかしたらその中には実際にはまだ受けていない人もいるのかもしれませんが)

大型店の「入場制限」や「カート消毒」もなくなりましたし、
前回は中止になっていたホールフーズのフードコーナーも、
コーヒー豆のグラインダーも、ジュース絞り機も再開していました。

ただし、ホテルのフロント始め、お店の人はどこにいっても全員マスクをしています。
それはどこかでそう公式に決まっているからかもしれません。
日本のように「自粛要請」という曖昧な言葉では、アメリカ人を縛ることはできませんから。

 

ワクチンについては、当初、時期尚早すぎないかとの懸念がありましたが、
これだけ多くの人が受けており、各種疑念についても明らかにされている現状と、
MKの担当教授が、ご両親が来られるならアメリカでワクチンを受けていくといい、
と言った話に後押しされて、わたしも
今回ワクチンを受けてみることにしました。

まず、どこにでもあるドラッグストア(ウォルグリーン、ライトエイド、CVSなど)に
オンラインで予約を入れます。

ストアによってはワクチンの種類を選べない(在庫処理のため?)ところもありますが、
基本的にモデルナ、ジョンソンアンドジョンソン、ファイザーから好きなのを選べます。

時間になったらドラックストアに行き、奥の調剤薬局に声をかけると、
ファーマシストが出てきて熱を測り、IDを確認して、ちょいちょいっと消毒して、
次の瞬間上腕部への筋肉注射は終わり、となんともあっけなく終了。

摂取後はしばらく椅子に座ったまま様子を見るようにいわれ、
この時間に何かあれば(何かあったら困るんですが)対処できるようになっています。

色々と心配や懸念がある方向けに、ネットでも情報公開をしています。

そして、3週間後に二回目を摂取すれば、次からはPCR検査なしで飛行機に乗れるというわけ。
これこそわたしが今回摂取を決めたメインの理由でもあります。

アメリカ人は合理主義ですから、サイドエフェクトが起こる確率と、
ワクチン摂取による罹患回避の確率、そしてマスクの煩わしさからの解放を秤にかけて
ほとんどが摂取を選択した結果、現在の状況に至っているのでしょう。

おまけに皆が気軽に近所の薬屋で受けられ(もちろん無料で)るとなれば、
まさに受けない理由がどこにあるのか、というところなんだろうと思います。

 

 


ホームフロント〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-05-21 | アメリカ

戦争の「前線」に対して、このハインツ歴史センターは

HOME FRONT  ホームフロント

という言葉を対比させています。

戦争に兵士を送り出すのは「ホーム」であり、その最前線で

どのようなことが行われていたか、ということについては
すでに同じ言葉を使って一度当ブログで取り上げましたが、
今日は、展示場の壁一面に貼られた、このような壁一面のイラストを取り上げながら、
「ホームフロント」についてお話ししましょう。

まず、壁画は左から見ていくのが正しいと思いますので、
左上からご紹介していきます。

■ LIVING ROOM WAR リビングルームの戦争

1967年5月31日、ABCのニュースキャスター、フランク・レイノルズは、
ベトナムからのレポートを異例の方法で紹介しました。

彼は視聴者が前代未聞のものを見ていること、つまり
テレビが自分たちの居間に持ち込んでいる戦争という意味で、
この『リビングルーム・ウォー』という言葉を使ったのです。

テレビの普及でベトナム戦争は「居間で見る戦争」となりました。

彼は、

「テレビにはベトナム戦争をその恐怖も含めて全て取材する責任があるが、
その目的は視聴者にショックを与えることでも、センセーショナルな報道でもない」

といいましたが、リンドン・ジョンソン大統領は全く違った見方をしており、
テレビが戦争をどのように報道するかを常に気にしていました。

そして、執務室にある3台のテレビでニュースをモニターし、それらが
誤解を招くような一方的なものであり、(敵の残虐行為が報道されていないなど)
自分のベトナム政策に対する国民の支持を損なっていると考えていました。

ベトナムでの成功は戦場だけではなく、アメリカの家庭の
リビングルームで達成されなければならないと考えたのです。

彼がここまでテレビ報道を気にしていたのは、ベトナム戦争が、

「アメリカ人のほとんどがテレビを情報源とするようになった
最初の戦争」

であることを知っていたからでした。
今でこそ信用は奈落の底に落ちましたが、1960年代半ばには、ほとんどの人が

「新聞よりも視覚で情報を伝えるテレビの方が信憑性がある」

と考えていたのです。

言われてみるとそうですが、ベトナムでは、第二次世界大戦や、
あるいは朝鮮戦争の時のように、報道は軍の検閲を受けませんでした。

言うなれば軍は、ジャーナリズムの「性善説」の上に立っていたのですが、
ベトナムにおける軍事・メディア関係は、彼らの期待を裏切りました。

記者たちはすぐに、軍発表の信頼性を疑問視し、彼らの報道してほしいことはなく、
自分たちの伝えたいこと(自分たちの意見を反映させたもの)を報道しだしたのです。


67年半ばまでには、夕方のニュース番組は、戦争が米軍に大きな負担を強いる、
という論調で報道が行われるようになり、7月には、世論調査による
ジョンソンのベトナム政策への支持率は33%にまで低下していきました。

批判者の多くは、交渉による和解か戦争からの撤退を望むようになったのです。

 

■ GENERATION GAP ジェネレーションギャップ

第二次世界大戦が終わった後、アメリカにも第一次ベビーブームがありました。

その頃の多くの親は、若き日をトラウマ、不安、そして戦争の中で過ごしましたが、
戦後アメリカは人類史上最も裕福な国となり、好景気、安価な住宅、そして
戦後補償などの政府の援助によって、いわゆるアメリカン・ドリームを生きる機会を得、
自分の子供たちに幸せを買うこともできるようになりました。

しかし、物質的な繁栄と安全は必ずしも幸福を保証するわけではありません。

平和な時代はそれなりに、子供たちは「不幸」「不満」を見出すものです。
ニキビができたとか、プロムに誘う相手がいないとか、あるいはもっと深刻な理由で。

そこで起きてくるのがジェネレーションギャップです。

戦争を体験した親は子供のニキビ問題について、それが彼らにとって
生きるか死ぬかの問題であることがどうしても理解できません。

さらに、アメリカの戦後の子供たちは、自国は地球上で最も偉大で
自由な国であると教えられて育ちました。

しかし、彼らが自分でものを見、考えるようになってくると、
教えられたことと現実の間に矛盾があることに気がつくのです。

自由と平等の国ならば、なぜアフリカ系アメリカ人はあんな目に合うのか。
アメリカ人のほとんどが聞いたこともない世界の果てに若者を送り、
殺したり殺されたりするほどの価値が「共産主義との戦い」とやらにあるのだろうか。

そこで第二次世界大戦を経験し、戦後の世界でアメリカは偉大であると
思い思わされてきた世代の欺瞞を感じる、そこにまた、家庭という単位より
広い意味でのジェネレーションギャップが生まれていったというわけです。

 

■ FOR INDUCTION 入隊のために

アメリカでは1948年から1973年まで徴兵制が導入されました。
自主入隊だけでは足りない人手を軍に供給するためのバックアップシステムとしてです。

1969年12月1日、この日1942年以来初めての徴兵制抽選会が行われました。

写真は政府代表を務める下院議員が、366個のカプセルの入った透明のケースに
手を入れて抽選を行う様子です。

ケースには1月1日から12月31日までの日付が記された紙片をおさめたカプセルが入っています。
この抽選で、1944年1月1日から1950年12月31日までに生まれた男性の入隊順を決めるのです。

The Draft Lottery- Vietnam War

音声がありませんが、議員が最初に引き当てたのは9月14日でした。
9月14日と書かれた紙が、1の数字の横に貼られています。

これは、9月14日生まれの20~25歳のアメリカ人男性が
ベトナム戦争のために徴兵されるリストの最初に載ったということです。

議員は続いて4月24日、12月30日、最終的には195日の生年月日を引きました。
これは、たとえば1950年生まれだとすれば、この195日以外の誕生日の男性は、
その年一年は徴兵されることがないということになります。

この方式による抽選は1975年まで行われましたが、
1973年以降は実際に徴兵されることはなく、志願兵制度に移行しました。

右下の政府や議会などがどのように戦争遂行していくか、
話し合っているイラストには、

SELLING THE WAR

とあります。
これを的確に訳すのは我ながら無理だと思うのですが、あえて言えば、
国の首脳が戦争を遂行するために行ったこと、というところでしょうか。

マスメディアと広報のコントロールで国民をいかに動かし、
世論を誘導して結果に結びつけるかといった戦略についてのスキームです。

 

■ SPRING MOBILIZATION 春のベトナム戦争終結動員

1967年4月15日、アメリカ史上最大規模のベトナム反戦平和デモが行われました。
これがこのイラストに描かれた

VIETNUM MOBILIZATION(春のベトナム戦争終結動員)

と呼ばれるものです。
ペンタゴン行進を含むこれらの運動に参加した有名人には、

ノーマン・メイヤー(小説家)
ベンジャミン・マクレーン・スポック博士(小児科医師)
アレン・ギンズバーグ(詩人)
エド・サンダース(ノンフィクションライター)
アビー・ホフマン(活動家、青年国際党『イッピー』主催)
ジェリー・ルービン(左翼主義活動家)

そして、

マーチン・ルーサー・キング・ジュニア博士

が含まれていました。

動員、略して「The Mobe」ザ・モーブにはサンフランシスコで約10万人、
ニューヨークでは12万5000人以上が参加しました。

画面下方に4人の男性が腕を組んで歩いていますが、この左から2番目は

おそらくマーチン・ルーサー・キングJr.博士であろうと思われます。

キング博士はセントラルパークから国連ビルまでの行進を指揮し、
さらにそこで演説を行いました。

演説を聞く一人が持っているプラカードにはこのようにあります。

「死ぬのが怖いんじゃない ただ人殺しをしたくないだけだ!」

春の総動員は、反戦活動家の全国的な連合を形成し、
平和デモの新時代の幕開けとなりました。

動員の行われた1967年春までには、365,000人以上がベトナムに派遣され、
犠牲者はすでに6,600人を超えていました。
そして戦争に対する世間の関心と監視は急激に高まっていったのです。

■ SUPPORT OUR MEN PARADE

この映像は、出征兵士を支援するパレードの様子です。
支援といっても、彼らの立場はもちろん国のために死んでこい、ではなく、
兵士たちを文字通り「守るためのデモ」で、これはつまり
退役軍人たちを中心とした側からの戦争反対デモということになります。

Support Our Men in Vietnam Parade


ナパーム、毒薬の投入、そして増兵をやめ、
北ベトナム、南ベトナムでの爆撃を無条件で即時停止し、地上での停戦を行うこと。

ベトナムにおける外国人基地を禁止し、すべての外国軍を撤退させること。

ジュネーブ協定を実施すること。

ベトナムのことはベトナム人に決定させること。

言い換えれば、我々の男たちを生きたまま家に戻せ!!!

ということが彼らの主張です。

 

これがシビリアンではなく、ベテランが中心となった運動である、
ということにこの運動の特異性があります。

たとえば、朝鮮戦争の司令官、リッジウエイ将軍らはこのように言いました。

"現在の状況や我々の規範の中には、アジアの小国を石器時代に逆戻りさせるような爆撃を
必要とするものは何もない、というのが、私の確固たる信念である"ことが彼らの主張です。

 ウィリアム・ウォレス・フォード将軍

"着実に拡大する戦争に、盲目的に、そして文句を言わずに従わなければ
非国民と呼ばれるような事態は打ち砕かれるべきだ”

 ハグ・B・ヘスター将軍 

"ベトナム戦争に反対である。
なぜならば、ベトナム戦争は米国憲法と国連憲章の下での
米国の条約義務に違反して行われているからだ。
ベトナム戦争は自衛のための戦争ではなく、一般的な自衛のための戦争でもない.。
これは違法で、不道徳で、完全に不必要な戦争である"

アーノルド・E・トゥルー陸軍大尉

"我々は、
(1)戦争の主要な当事者としてベトコンに対処し、
(2)ジュネーブ協定を実施し、
(3)我が軍を撤退させ、
(4)ベトナム人に自分たちの問題を解決させることによって、
ベトナムの大混乱を不名誉なく終わらせることができる


ベテラン高級軍人たちの中には、
自分たちは軍人であるから、
ことが起こればいつでも馳せ参じる、といいながらも、

この戦争には大義がない、ましてや徴兵で男たちを戦地に送るべきではない、
という考えの人がいたということを表しています。

 

■ VIETNAM MORATORIUM モラトリアム行進

次にホームフロントで起こったのは、以前にもお話しした、
ベトナム徴兵反対運動、「ベトナム・モラトリアム」です。

まず、画面右真ん中で、徴兵カードを燃やす人々がいます。

セントラルパークを埋め尽くした若者や反戦運動家は、
輸出業組合や音楽・美術専攻高校の学生という名で
それぞれ戦争反対を表明しています。

「ヤンキーゴーホーム」をもじった「ヤンキー・カム・ホーム」で
アメリカ人を国に戻せ、と主張する人、アメリカの全部隊を
南西アジアから撤退させよというプラカードも見えます。

ベトナム・モラトリアム、正確には

Moratorium to End the War in Vietnam
(ベトナム戦争を終わらせるモラトリアム)

が行われたのは1969年10月15日と1ヶ月後です。

「ベトナムはベトナム人のもの」

「我々の息子はダメ あなたたちの息子もダメ 彼らの息子もダメ」

「子供たちは燃やされるために生まれたんじゃない」

「今すぐベトナムから撤退しろ」

■ COMING HOME (帰国)

ベトナムから帰国して来た軍サービス従事者が
この壁画の右下(つまり最後)に描かれています。

ある者は生きて。
ある者は負傷して。

そしてある者は星条旗に包まれた棺で。

 

続く。

 


ベトナム・モラトリアム対サイレント・マジョリティ〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

2021-05-13 | アメリカ

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」から、
大きな壁画で表された南ベトナムの「四つの戦術ゾーン」についての解説です。

■ ウォーフロントとホームフロント=前線と後方で

四つに分けられた戦術ゾーンには、それぞれ軍の支援をサポートするために
アメリカが構築した大規模なインフラがありました。

ベトナム戦争というとともすれば米軍と韓国軍しかイメージが湧きませんが、
実際はオーストラリア軍、ニュージーランド軍、そして
タイ、フィリピンからも派遣団が参加しています。

そして、南ベトナムとベトナム中央高地のベトナム先住民もまた、
アメリカ軍、そして南ベトナム政府軍と一緒に参戦しました。


アメリカ軍ならびに連合軍が対峙したのは、まず、南ベトナムのゲリラ組織。
これはアメリカ人にはベトコン(VC)として知られた存在です。

そして対戦相手であった北ベトナム軍(NVA)の兵士たちです。
彼らはラオスとカンボジアを経由して入国して来ました。

共産国であった中国とソビエト連邦は、アメリカの敵対側に
後方支援ならびに兵器を提供することで戦っていました。


ジョンソン大統領は北ベトナムへの侵攻を行いませんでした。
その理由は、中国との直接対決となる戦争を恐れたからです。

従ってアメリカ主導の軍隊は、南ベトナムの複雑な国土の中で戦うことになりました。

アメリカ軍の目的の一つは、敵を見つけてこれを排除することでしたが、
ベトコンと北ベトナム軍は、ホームグラウンドの地形を知悉したうえで、
戦う時間、場所を選択することにより、被害を最小限にする作戦をとりました。

アメリカのもう一つの目的は、意外なようですが、

「南ベトナムの人々の心を掴む」

ということでした。

しかしながら、この目的は、民間人を危険に晒す軍事戦術を取ったことで、
結果的にあらゆる面から困難になっていくことになります。


あるアメリカ軍の将軍がこのように指摘しています。

「戦場と呼べるものは何処にもないようで、実は全ての場所が戦場だった。
しかも、前線を識別するのは不可能で、安全な後方というのも存在しなかった」


多くのアメリカ人兵士たちがベトナムで精神をやられたことの根本的な原因は
ここにあったといわれています。

 

そして「ホーム・フロント」は?

それは戦争が深みに嵌っていくにつれて一層複雑な様相を呈していました。

今や公民権活動家や不満を抱く退役軍人などの共通のテーマとなった

平和運動は日に日に拡大していきます。

戦争は街頭での公開討論、家族内での議論、そして抗議を引き起こしました。
それだけ問題は深刻だったのです。

戦争反対と愛国心、これらはなんなのか?

市民権の論理的責任と世界情勢の中でのアメリカの権力の濫用とは?

アメリカという国はこのときこれらの根源的な問題に直面し、揺れていました。


■ 兵士と市民

ベトナム戦争の期間、18歳から26歳までの若者の10人に4人が軍服を着ました。
10人中6人は、民間の服を着ることを決してやめようとしませんでした。

ドン・フェデナックデビッド・コーンは、戦争中、徴兵制の対象となった
2700万人の男性のうちの二人です。

偶然彼らはどちらもアートスクールに進学しました。

ドンはマンハッタンのビジュアルアーツに。
デビッドはブルックリンのプラット・インスティチュートに。

その後彼らの道は分岐することになります。

この右側のはドン・フェデナックのジャングル・ファティーグ・シャツです。
彼は徴兵された後信号隊に入隊し、最初にクィーンズのアストリアにある
陸軍ピクトリアルセンター(絵画センター)で訓練のための映画を制作しました。

(ピクトリアルセンターは現在カウフマン・アストリア・スタジオと動画博物館になっている)

彼は1969年までベトナムに派遣されてそこで撮影の仕事を行っていました。

左のデニムジャケットはデイビッド・コーンのものです。

前面に散りばめられた政治的なボタンは、その時代の社会運動を支持し、
軍隊と戦争に反対するメッセージとなっています。

彼の「ベトナム・モラトリアム」ボタンは、1969年に行われた
大規模な戦争反対運動を表しています。

 

■ ベトナム・モラトリアム

「ベトナム・モラトリアム」は、正確には

Moratorium to End the War in Vietnam
(ベトナム戦争を終わらせるモラトリアム」

という大規模な反戦デモであり、ティーチ・インでした。
1969年10月15日に行われ、その1ヶ月後にはワシントンDCで行進が行われました。

 

本格的な大衆運動のレベルに達した初めての初めての反戦運動だったといわれます。

 

1969年、共和党のリチャード・ニクソンが大統領に就任したときには
すでに約34,000人のアメリカ人が、その後ニクソンの就任1年間で
さらに1万人がベトナムで戦死していました。

ニクソンは1969年に「名誉ある平和」とベトナムについて語りましたが、
国民は本質的に彼の政策はリンドン・ジョンソンのものと何ら変わることないと断じ、
若者たちは様々な方法でこれに反対を表明しだしました。

ヒッピーなどのようなカウンターカルチャーでも新左翼でもない一派が
ニクソンに訴えるための説得力のあるグループ、たとえば公民権運動、教会、大学の学部、
組合、ビジネスリーダー、政治家などの支援を募って集まったのが
「ベトナム・モラトリアム委員会」です。

この集会は大成功し、延数百万人が参加する大イベントとなりました。
後の大統領ビル・クリントンもその一人だったそうです。

ワシントンDCのモラトリアム行進に参加したのは25万人でした。


これらの運動を受け、マスコミへの声明の中で、ニクソン大統領は

「いかなる状況においても(政策に)影響はない」

と述べました。
その心は、「路上でなされた政策は無政府状態に等しい」というものでした。

ニクソンはモラトリアムに完全に無関心を装っていましたが、
個人的にはこれに激怒し、また焦りを感じていたといいます。

政府はモラトリアムのことを、

「自分たちを知識人と思いこんだ無礼なスノッブ(俗物)で女のような
(長髪ということか)一群に焚きつけられて国民にマゾヒズムが広まっている」

「より荒々しく、より暴力的な」

「筋金入りの反対者とプロのアナキストに支配されている」

と非難しましたが、タイム誌などメディアは

「モラトリアムが反戦運動に新しい尊敬と人気をもたらした」

とこれを絶賛しました。

 

■ ”サイレント・マジョリティ・スピーチ”による反論

1969年11月3日、ニクソンは全国テレビでのスピーチで、
ベトナム制作に対するサイレントマジョリティたちの支持を求めました。
これがいわゆる「サイレントマジョリティ・スピーチ」です。

この内容は、

「我々はベトナム反戦抗議者たちの目標を共有する」

しかしながら、

「米国はベトナムで勝利しなければならず、北が降参するまで戦争を続ける必要がある」

「米国が南ベトナムを支持しなければアメリカは同盟国からの信頼を失う」

であるから、

「ニクソン政権のベトナム化政策はベトナムにおけるアメリカの損失を徐々に減らす」

というものでした。
こうしてニクソンはアメリカ大多数のサイレントマジョリティ—に支持を訴えました。


驚いたことに?ニクソンの「サイレントマジョリティ・スピーチ」に対する
国民の反応は非常に好意的で、直後にホワイトハウスの回線は激励の電話でパンクしました。

この頃のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって国の半分が支持、半分が反対と、
全く国が二分されている状態だったと言われています。


■ ソンミ村虐殺事件をうけてー2度目のモラトリアム行進

1969年11月、米陸軍特殊部隊のロバート・ロールト大佐
ベトコンのスパイ容疑をかけた南ベトナム当局者の殺害を命じた罪で起訴されました。

これに続き、アメリカ国民にとってさらに衝撃的なことに、1969年11月12日、
ソンミ村虐殺事件によって指揮官のウィリアム・カリー中尉が起訴されました。

以降、ソンミ村虐殺事件はベトナム戦争の残虐行為の反戦運動の象徴となり、
これが二度目のモラトリアム行進につながっていきます。

 

1969年11月15日土曜日に行われた二度目のモラトリアム行進では、
参加者それぞれが、死んだアメリカ兵(または破壊されたベトナムの村の名前)
が書かれたプラカードを持ち、沈黙して歩きました。

デモ参加者は最終的に325,000人に達しました。

ニクソンは、彼らが手にしているろうそくを吹き消すために
ヘリコプターを送るべきだと笑えない冗談を言ったといわれます。


50万人のデモ参加者がホワイトハウスの向かいに集まり、
ジョン・レノンの新曲”Give Peace A Chance”が歌われました。

この2番目のモラトリアムに参加した有名な人の名前を挙げておきます。

レナード・バーンスタイン(指揮者・作曲家)
ピーター、ポールアンドマリー(フォークソンググループ)
ジョン・デンバー(カントリー歌手)
アーロン・ガスリー(フォークソング歌手)
クリーヴランド弦楽四重奏団

デモ隊と警察は所々で衝突し、催涙ガスが撒かれました。

モラトリアムはその後サンフランシスコ、オーストラリアでも行われました。


ベトナム戦争展の展示をもう少し紹介していきます。

■ 兵士のヘルメット

ベトナム戦争に参加した兵士たちはしばしばヘルメットにメッセージを書きました。

このヘルメットの持ち主は、ベトナム戦争中のいくつかの主要な戦いに参加しており、
その場所が書き込まれています。

「クイニョン」「プータイ」「プレイク」「フーカット」「ビンディン」

いずれもベトナムの地名です。

こちらはARVIN(Army of the Repubric of Vietnam)の
レンジャー大隊兵士のヘルメットです。
彼らは四つのいわゆる戦術地域の全てで従来型、そして対反乱作戦を戦いました。

彼らの徽章である黒豹がペイントされています。

って、これ黒豹だったのか・・・。 

  /\___/\
/ ⌒   ⌒ ::: \
l (●), 、(●)l    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
l  ,,ノ(、_, )ヽ、,,  l  < やるじゃん
l   ト‐=‐ァ'  ::::l    \_____
\  `ニニ´ .:::/
/`ー‐--‐‐― ´´\

 

 

続く。


My 600 lbs- Life 「リアリティ番組の現実」〜アメリカのTV番組

2021-03-06 | アメリカ

アメリカの超肥満減量番組、「My 600lbs-Life」、後半です。

ヨウナン・ナウザラダン博士はイランのテヘラン大学医学部で博士号を取りました。
肥満と腹腔鏡検査の専門医です。

博士が肥満者に行う胃バイパス手術などの外科処置は大変危険なもので、
だからこそ博士は手術前に患者に自力で可能な限り体重を下げることを要求するのですが、
それでも何件かの医療訴訟が起こされたことがあります。

● 術後1年で死亡した女性患者の家族から、リスクについて説明がなかった

●術後亡くなった男性患者の遺族から、患者の重症度を適切に診断できなかったとして

●麻酔医がチューブで結腸に穴を開けたとして

●腹壁形成術を失敗し、痛みを伴う腹部の変形が起こったとして

●72歳の女性が、ステンレス鋼のコネクタとチューブを彼女の中に残したと主張

しかしこれらはいずれも最終的に告訴取下げとなっており、情報を見る限り
ナウザラダン博士が医療過誤で法律的に罰せられた過去はありません。

さて、脚部が異常に肥大してしまい、炎症を起こしてしまっている
トレイシーさんに、ナウザラダン博士はさらなる減量を命じました。

生活、とくに食生活の立て直しが急務なので、彼女には番組から
栄養士が派遣され、生活指導が行われました。

病院にいる間、炎症でたいへんな状態の脚部に手当てを受けます。

メディカルディレクターということなので、患部を診察する医師でしょうかね。

問題の脚部の治療について方針を決めるドクターです。
とにかく目標は、患部の「水分を除去すること」。
炎症を起こすようなリスクをできるだけ取り除くことです。

 

最後の診察の時、彼女の体重は471パウンド(213kg)でしたが、
ナウザラダン博士はあと30パウンド減らさなくては手術に適応しない、
といわれていたのです。

というわけで、439パウンド。
ねらったようにギリギリ30パウンドの減量にこぎつけました。

やったねトレイシー、手術ができるよ!

「心配だし不安」

といいながら、彼女の表情は晴れやかです。

どんなことになっても今までの惨めさから比べれば悪くなどなりようがない、
と信じているかのようです。

彼女が最初にナウザラダン博士のクリニックにきてから1年が経っていました。
手術に至るまでに、減らした体重は200パウンド(90キロ)。

もちろんこんなところが目標ではありませんが、彼女はこれが
自分の「新しい人生」への道につながるポイントであると知っています。

ただ、いかに腕のいいと評判の医師も、神様ではないので、
当然失敗するかもしれないということです。

そして手術開始。
普通ナウザラダン博士は患者に対し腸バイパス手術を施しますが、
彼女の場合はどうやら違うようです。

こちら手術の間その成功を祈り続ける夫のアンソニーさん。

「大きな塊を完全に取り除いたぞ」

これは・・・どこの大きな塊なんでしょうか。
脚ですね。

 

「巨大な塊」とおっしゃいますがたったの4.5キロしかありません。
彼女の体重全体からは微々たるものです。

しかし、ナウザラダン博士の博士のとった方法は、彼女の体重が集中していた場所から
余分な脂肪を取り除き負荷を減らすことで、リンパ浮腫の腫れを減少させ、
そのことが結果的に体重そのものを落としていくというものでした。

そして術後退院の日がやってきました。

つまり、彼女が受けたのは大きな肉の塊を物理的に取り除く手術だけで、
「上半身は普通」の彼女には腸バイパス手術は行われませんでした。

患部を取り除き、生活改善をすればとりあえず最悪は避けられる、
とナウザラダン博士は判断したということでしょうか。

この時点で彼女の体重は388パウンド(176kg)。
最初からトータルで99キログラムを減らしました。

脂肪切除とダイエットでこれだけ減ったのですから、
この時点ではまあまあの成功ということなのでしょうか。

しかし彼女にとってこれは大きな変化をもたらしました。
なんと、車の助手席に座れるようになったのです。

荷物のようにトランクで運送されることはもうありません。

二人はヒューストンからの帰り道、このようなところにやってきました。
オハイオまでは大陸を縦断することになるので、これはおそらく
無理をしてテキサス州の海岸に寄った(寄らされた)のではないかと思われます。

「わたしは多くの人生を無駄にしてきました。
もう一秒でもそうしたくありません。
人生を楽しみたい。アンソニーと家族と一緒に。

このプロセスそのものがわたしたちにとって大変なストレスであり、
わたしとアンソニーの関係は、少しの間、難しくなったのは事実です。

でも手術以来、彼はわたしのためにすべてを犠牲にする必要もなくなり、
そのことがわたしたちを新しい方向に成長させ始めているような気がします。

それで、わたしはもう一度未来に、そしてわたしたち二人に興奮しています。
そのためにこの旅を続けることになんの躊躇いもありません」

「わたしのための未来にワクワクしているわ」

というトレイシーさんと彼女を支える夫が海岸にたたずみ互いを抱き寄せて
番組は終わります。

めでだしめでたし、といいたいところですが、しかし、わたしには
彼女の、というより彼らの今後について懸念を感じずにいられません。
優しいことは優しいけれど、彼女が望むことを彼女に必要なことより優先させて
何も考えずに与え続けてきたこと。

彼が今後彼女の食生活を改善させていくような知恵を持った男性かというと、
残念ながらあまりそんなふうには見えないのが問題です。

トレイシーさんも、誰が見ても深刻な状態にいる自分のことを
正常性バイアスからたいしたことはないということにしてしまい、
ナウザラダン博士の言いつけを嘘までついてごまかし、

「こんなにがんばっているのになぜ減らないんでしょう」

などというような自分への甘さというか脆さが、物理的に取り除いた体重に
安心してしまい、元の木阿弥となってしまうのが目に見えるようです。

 

彼女がこの手術を行ったのは2019年ごろのことだそうですが、
番組によってその後がフォローされていないかを検索してみたところ、
大変残念なことがわかりました。

彼女が手術の甲斐もなくまた元に戻ってしまったのかって?

じつはそうではないのです。


彼女は番組スタッフによるフォローアップとしてではなく、
「番組の裏を告発する人」としてインタビューを受けていました。

結論から言うと、トレーシーはいまだにリンパ浮腫に苦しんでいます。
わたしは驚いてしまったのですが、手術によって切除した脂肪の塊は「ひとつだけ」だったのです。
せめて両足公平に施術すべきだと思うのはわたしだけはないでしょう。

術前のダイエットとこの5キロの塊を切除したことによって脚は少し小さくなり
彼女は以前よりも体を動かすことができるようになり、それには感謝していますが、
彼女自身はもう少し他のやり方があったのではと考えずにいられないそうです。

不思議なことにナウザラダン博士は

「皮膚を除去した後は痛みがないはずだ」

と言い放ったそうですが、そんなはずないでしょう。
事実、彼女曰く、それは今までに経験した中で最悪の痛みだったそうです。

 

トレーシーマシューズ

彼女の「暴露」によると、出演者は1,500ドルの「タレントフィー」を受け取ります。
治療の関係でヒューストンに引っ越す要がある場合、番組からは2,500ドルの手当が出ます。

しかし、これらのフィーは、出演したエピソードがテレビで放映されるまで
支払われないので、それまでにかかる経費は全て持ち出しとなるのだそうです。

「オハイオからテキサスに移動中、部屋を確保しなければならないと言われたので
予約をしましたが、初日はそのホテルの近くに到着しなかったので
ホテル代を無駄にした上、別のホテルをこれも自費で取りました。

ヒューストンに着くまでに、所持金は13ドルになってしまい、
食料品や他のすべてを手に入れるのに苦労しました。

車はヒューストンに着いた数日後に故障しましたが、
もちろん補償はなく、撮影が終わったら、一部を請求できただけでした」

トレーシーはまた、ショーの再放送についての長年の神話を暴きました。
たいていこれらのショーは何年にもわたって再現なく再放送されますが、
出演者にはこれに対し報酬はまったく支払われません。

次にわたしもこれにはびっくりしてしまったのですが、
番組制作はほとんどの医療費を払ってくれないのだそうです。

支払いが番組から行われるのはナウザラダン博士の手術に対してだけで、
トレーシーは2万ドル以上を自分で支払っています。

移動費、ホテル代、家賃、それらは全て自分で賄わなければなりません。

出演者が財政的に不安定な状況に置かれれば、それだけドラマが生まれる、
というのがどうやらプロデューサーの意図するところのようです。

「ドラマ(困難)が増えれば評価も上がる」

といったところでしょうか。

こういったリアリティ番組が主張するのは全て「現実」ではないことは
誰でも知っているし、現実にこの番組を訴える出演者は
引きもきらない、と言うレベルで次々と現れています。

それにも関わらず、劇的に痩せた人たちには「ファン」がつくなど、
この番組が悪評にも関わらず人気があるのも事実です。

出演者には大変失礼ですが、尋常ならぬ太り方をした人間の体は、
それだけで人々の興味を引くのに十分であり、昔は堂々と行われていた
「フリークショー」のような位置づけがされているといえます。

そのために番組は、出演者のシャワーシーンを必ず取り入れます。

トレーシーによると、

「数分間のシャワーシーンのために、わたしは1時間以上撮影されていました。
それはわたしの人生でも最悪の経験だったといえます。

誰が裸になってシャワーを浴びるのを知らない男に撮影されたいと思いますか」

 

歴代の出演者の中には番組を訴えたり、減量がうまくいかずに自殺したり、
出演後(これは撮影のせいではありませんが)肥満による疾患で亡くなってしまったり、
とかくネガティブな「怨念」がまとわりついているような印象もありますが、
それでもトレーシーは彼女の全体的な経験を振り返り、
悪い面も良かった面もあった、と率直に語っています。

少なくとも彼女はベッドの上だけの生活から歩き出すことができました。
つまり、苦痛を耐え忍ぶだけの価値はあったと信じているのです。

「ショーに参加するのはとても大変でしたが、わたしの出演が
少なくともひとりくらいの誰かを救うことができたと信じたい。

体重が5〜700ポンドの人生なんて惨めで意味がありません。
そう、自分の身体を世界に曝して人生の物語を伝えるのは辛いことですが、
最終的に得られる結果はそれだけの価値があると思います。

ショーに出演した非常に多くの人々が新しい人生を送っています。
彼らには自由が戻ってくるのです。
一日中ベッドに閉じ込められる代わりに、自分の行きたい場所に行って
何かをすることができるのはとても素晴らしいことなのです」


自分の弱さと怠惰から堕ちるところまで堕ちてしまうような人々は、
リアリティショーという毒にも薬にもなりうる劇薬の力を借りないと、
ダイナミックな人生の切り替えができない、というのも悲しい現実なのです。