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ベトナム・モラトリアム対サイレント・マジョリティ〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

2021-05-13 | アメリカ

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」から、
大きな壁画で表された南ベトナムの「四つの戦術ゾーン」についての解説です。

■ ウォーフロントとホームフロント=前線と後方で

四つに分けられた戦術ゾーンには、それぞれ軍の支援をサポートするために
アメリカが構築した大規模なインフラがありました。

ベトナム戦争というとともすれば米軍と韓国軍しかイメージが湧きませんが、
実際はオーストラリア軍、ニュージーランド軍、そして
タイ、フィリピンからも派遣団が参加しています。

そして、南ベトナムとベトナム中央高地のベトナム先住民もまた、
アメリカ軍、そして南ベトナム政府軍と一緒に参戦しました。


アメリカ軍ならびに連合軍が対峙したのは、まず、南ベトナムのゲリラ組織。
これはアメリカ人にはベトコン(VC)として知られた存在です。

そして対戦相手であった北ベトナム軍(NVA)の兵士たちです。
彼らはラオスとカンボジアを経由して入国して来ました。

共産国であった中国とソビエト連邦は、アメリカの敵対側に
後方支援ならびに兵器を提供することで戦っていました。


ジョンソン大統領は北ベトナムへの侵攻を行いませんでした。
その理由は、中国との直接対決となる戦争を恐れたからです。

従ってアメリカ主導の軍隊は、南ベトナムの複雑な国土の中で戦うことになりました。

アメリカ軍の目的の一つは、敵を見つけてこれを排除することでしたが、
ベトコンと北ベトナム軍は、ホームグラウンドの地形を知悉したうえで、
戦う時間、場所を選択することにより、被害を最小限にする作戦をとりました。

アメリカのもう一つの目的は、意外なようですが、

「南ベトナムの人々の心を掴む」

ということでした。

しかしながら、この目的は、民間人を危険に晒す軍事戦術を取ったことで、
結果的にあらゆる面から困難になっていくことになります。


あるアメリカ軍の将軍がこのように指摘しています。

「戦場と呼べるものは何処にもないようで、実は全ての場所が戦場だった。
しかも、前線を識別するのは不可能で、安全な後方というのも存在しなかった」


多くのアメリカ人兵士たちがベトナムで精神をやられたことの根本的な原因は
ここにあったといわれています。

 

そして「ホーム・フロント」は?

それは戦争が深みに嵌っていくにつれて一層複雑な様相を呈していました。

今や公民権活動家や不満を抱く退役軍人などの共通のテーマとなった

平和運動は日に日に拡大していきます。

戦争は街頭での公開討論、家族内での議論、そして抗議を引き起こしました。
それだけ問題は深刻だったのです。

戦争反対と愛国心、これらはなんなのか?

市民権の論理的責任と世界情勢の中でのアメリカの権力の濫用とは?

アメリカという国はこのときこれらの根源的な問題に直面し、揺れていました。


■ 兵士と市民

ベトナム戦争の期間、18歳から26歳までの若者の10人に4人が軍服を着ました。
10人中6人は、民間の服を着ることを決してやめようとしませんでした。

ドン・フェデナックデビッド・コーンは、戦争中、徴兵制の対象となった
2700万人の男性のうちの二人です。

偶然彼らはどちらもアートスクールに進学しました。

ドンはマンハッタンのビジュアルアーツに。
デビッドはブルックリンのプラット・インスティチュートに。

その後彼らの道は分岐することになります。

この右側のはドン・フェデナックのジャングル・ファティーグ・シャツです。
彼は徴兵された後信号隊に入隊し、最初にクィーンズのアストリアにある
陸軍ピクトリアルセンター(絵画センター)で訓練のための映画を制作しました。

(ピクトリアルセンターは現在カウフマン・アストリア・スタジオと動画博物館になっている)

彼は1969年までベトナムに派遣されてそこで撮影の仕事を行っていました。

左のデニムジャケットはデイビッド・コーンのものです。

前面に散りばめられた政治的なボタンは、その時代の社会運動を支持し、
軍隊と戦争に反対するメッセージとなっています。

彼の「ベトナム・モラトリアム」ボタンは、1969年に行われた
大規模な戦争反対運動を表しています。

 

■ ベトナム・モラトリアム

「ベトナム・モラトリアム」は、正確には

Moratorium to End the War in Vietnam
(ベトナム戦争を終わらせるモラトリアム」

という大規模な反戦デモであり、ティーチ・インでした。
1969年10月15日に行われ、その1ヶ月後にはワシントンDCで行進が行われました。

 

本格的な大衆運動のレベルに達した初めての初めての反戦運動だったといわれます。

 

1969年、共和党のリチャード・ニクソンが大統領に就任したときには
すでに約34,000人のアメリカ人が、その後ニクソンの就任1年間で
さらに1万人がベトナムで戦死していました。

ニクソンは1969年に「名誉ある平和」とベトナムについて語りましたが、
国民は本質的に彼の政策はリンドン・ジョンソンのものと何ら変わることないと断じ、
若者たちは様々な方法でこれに反対を表明しだしました。

ヒッピーなどのようなカウンターカルチャーでも新左翼でもない一派が
ニクソンに訴えるための説得力のあるグループ、たとえば公民権運動、教会、大学の学部、
組合、ビジネスリーダー、政治家などの支援を募って集まったのが
「ベトナム・モラトリアム委員会」です。

この集会は大成功し、延数百万人が参加する大イベントとなりました。
後の大統領ビル・クリントンもその一人だったそうです。

ワシントンDCのモラトリアム行進に参加したのは25万人でした。


これらの運動を受け、マスコミへの声明の中で、ニクソン大統領は

「いかなる状況においても(政策に)影響はない」

と述べました。
その心は、「路上でなされた政策は無政府状態に等しい」というものでした。

ニクソンはモラトリアムに完全に無関心を装っていましたが、
個人的にはこれに激怒し、また焦りを感じていたといいます。

政府はモラトリアムのことを、

「自分たちを知識人と思いこんだ無礼なスノッブ(俗物)で女のような
(長髪ということか)一群に焚きつけられて国民にマゾヒズムが広まっている」

「より荒々しく、より暴力的な」

「筋金入りの反対者とプロのアナキストに支配されている」

と非難しましたが、タイム誌などメディアは

「モラトリアムが反戦運動に新しい尊敬と人気をもたらした」

とこれを絶賛しました。

 

■ ”サイレント・マジョリティ・スピーチ”による反論

1969年11月3日、ニクソンは全国テレビでのスピーチで、
ベトナム制作に対するサイレントマジョリティたちの支持を求めました。
これがいわゆる「サイレントマジョリティ・スピーチ」です。

この内容は、

「我々はベトナム反戦抗議者たちの目標を共有する」

しかしながら、

「米国はベトナムで勝利しなければならず、北が降参するまで戦争を続ける必要がある」

「米国が南ベトナムを支持しなければアメリカは同盟国からの信頼を失う」

であるから、

「ニクソン政権のベトナム化政策はベトナムにおけるアメリカの損失を徐々に減らす」

というものでした。
こうしてニクソンはアメリカ大多数のサイレントマジョリティ—に支持を訴えました。


驚いたことに?ニクソンの「サイレントマジョリティ・スピーチ」に対する
国民の反応は非常に好意的で、直後にホワイトハウスの回線は激励の電話でパンクしました。

この頃のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって国の半分が支持、半分が反対と、
全く国が二分されている状態だったと言われています。


■ ソンミ村虐殺事件をうけてー2度目のモラトリアム行進

1969年11月、米陸軍特殊部隊のロバート・ロールト大佐
ベトコンのスパイ容疑をかけた南ベトナム当局者の殺害を命じた罪で起訴されました。

これに続き、アメリカ国民にとってさらに衝撃的なことに、1969年11月12日、
ソンミ村虐殺事件によって指揮官のウィリアム・カリー中尉が起訴されました。

以降、ソンミ村虐殺事件はベトナム戦争の残虐行為の反戦運動の象徴となり、
これが二度目のモラトリアム行進につながっていきます。

 

1969年11月15日土曜日に行われた二度目のモラトリアム行進では、
参加者それぞれが、死んだアメリカ兵(または破壊されたベトナムの村の名前)
が書かれたプラカードを持ち、沈黙して歩きました。

デモ参加者は最終的に325,000人に達しました。

ニクソンは、彼らが手にしているろうそくを吹き消すために
ヘリコプターを送るべきだと笑えない冗談を言ったといわれます。


50万人のデモ参加者がホワイトハウスの向かいに集まり、
ジョン・レノンの新曲”Give Peace A Chance”が歌われました。

この2番目のモラトリアムに参加した有名な人の名前を挙げておきます。

レナード・バーンスタイン(指揮者・作曲家)
ピーター、ポールアンドマリー(フォークソンググループ)
ジョン・デンバー(カントリー歌手)
アーロン・ガスリー(フォークソング歌手)
クリーヴランド弦楽四重奏団

デモ隊と警察は所々で衝突し、催涙ガスが撒かれました。

モラトリアムはその後サンフランシスコ、オーストラリアでも行われました。


ベトナム戦争展の展示をもう少し紹介していきます。

■ 兵士のヘルメット

ベトナム戦争に参加した兵士たちはしばしばヘルメットにメッセージを書きました。

このヘルメットの持ち主は、ベトナム戦争中のいくつかの主要な戦いに参加しており、
その場所が書き込まれています。

「クイニョン」「プータイ」「プレイク」「フーカット」「ビンディン」

いずれもベトナムの地名です。

こちらはARVIN(Army of the Repubric of Vietnam)の
レンジャー大隊兵士のヘルメットです。
彼らは四つのいわゆる戦術地域の全てで従来型、そして対反乱作戦を戦いました。

彼らの徽章である黒豹がペイントされています。

って、これ黒豹だったのか・・・。 

  /\___/\
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l (●), 、(●)l    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
l  ,,ノ(、_, )ヽ、,,  l  < やるじゃん
l   ト‐=‐ァ'  ::::l    \_____
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/`ー‐--‐‐― ´´\

 

 

続く。


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3 Comments

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今時の若い者は (Unknown)
2021-05-13 16:35:55
ニクソン大統領の時代。第二次世界大戦で召集された人達は40代。朝鮮戦争で召集された人達は30代。ベトナム戦争に大義がないことは、感じていたのではないかと思いますが、自分達の世代は、徴兵に応じて戦ったのに「自分たちを知識人と思いこんだ無礼なスノッブ(俗物)で女のような(長髪ということか)一群」は反戦にかこつけて徴兵逃れ。愛国心よりも、むしろ「今時の若い者は」的な気持ちが国を二分したんじゃないかと思います。
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マクナマラの反省 (お節介船屋)
2021-05-13 16:54:48
ベトナム戦争を指導したアメリカの中心人物マクナマラ国防長官の反省を参照文献から引用します。
1 共産主義の脅威を過大評価した。
2 南ベトナム政府の無能と腐敗を理解していなかった。
3 北ベトナムのナショナリズムに基づく信念を過小評価した。
4 東南アジアの歴史、文化、政治に無知であった。
5 強い政治的動機を持った人間に対しては軍事技術に限界がある事を知らなかった。
6 大規模な軍事介入を開始する前に、議会や国民の間で十分な討議や論争をしなかった。
7 複雑な戦争を国民に十分に説明せず、国民を団結させることが出来なかった。
8 すべての国家をアメリカの好みに従って作り上げる権利をアメリカは持っていないことを認識していなかった。
9 国際社会が支持する多国籍軍と合同で軍事行動すると言う原則を守らなかった。
10 国際社会には解決できない問題があることを認めなかった。
11 行政府のなかにベトナム戦争を分析し議論するトップクラスの文官、武官による組織がなかった。
以上ですがなんと多くの反省点でしょうか?

また「われわれは正しいことをしようと努めたのですが、そして正しいことをしてると信じていたのですが、われわれが間違っていたことは歴史が証明している」とも言っているそうです。

マスコミの報道の仕方や考えにも翻弄された面があります。アメリカにおいても偏向報道がありましたが我が国はどうでしょうか?

現代の国際的な紛争においても当てはまる示唆があると思います。

参照文献 日本経済新聞出版社刊 野中郁次郎、戸田良一等共著「戦略の本質」
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やるじゃん (ウェップス)
2021-05-15 10:31:25
 シリアスな気持ちで読み進めていたら、最後にやられた(;^ω^)
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