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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

台湾を行く~金美齢さんと蔡焜燦さん

2013-01-28 | 日本のこと

基本的に

「世界はあまりに広くそして人生は短い。
できるだけ死ぬまでにいろんなところを見たいので、
旅行で訪れる場所はどんな素晴らしいところでも一度だけ」

と決めていた我が家が二年連続で台湾を訪れた理由が、金美齢さんです。

昨年、金さんとはある講演会で初めてお会いし、その後「遊びにいらっしゃい」と
お声をかけていただいていたのですが、ご縁はそれだけではありませんでした。
うちのTOが、その後ある地方の仕事先で金さんとばったり再会したのです。

「この運命的な出会いで、独身の男女同士なら恋に落ちるのでしょうが、
残念ながら彼(TO)には素敵な奥様(わたし)がおられまして・・・」

金さんが人に語ったという再会の様子です。
そのとき、台湾旅行から帰ったばかりだったTOがその話を彼女にすると、

「来年のお正月台湾に来るならご馳走してあげるわよ」

この言葉を聞いて、誰が再び台湾に行くことをためらうでありましょうか。

しかも、台湾という国についてその歴史も深く知らず、
「地震でたくさん寄付してくれたお礼の意味を込めついでに美味しい台湾料理」
程度の目的であった前回とは違い、金さんの講演から知りえた日本と台湾の関係、
日本が統治時代を通じて台湾に残したものをできるだけ感じる旅にしよう!と、
向学心と探究心を掲げ、満を持しての再訪です。

え?

その割には台湾に着いてから「どこに行こう」なんていってなかったか、って?

エリス中尉、自分が自分に対して認められる数少ない強みがあるとしたら、それは
「実行力とそれを遂行するための企画力」ではないかと僭越ながら思っています。
よく言えば。
悪く言えば「思い付きを熟考せず行動に移す考えの浅さ」ともいう果断即決は、
ときとして後々のトラブルを生む結果となり、「やめりゃよかった」
と思うことも過去にないわけでもなかったのですが、まあその話はさておき(-_-)

今回の台湾旅行は、この会合だけが最重要にして重要目的であったわけで、
そのほかのことは全く「おまけ」。
つまり後のことはすべてこのわたしの実行力と企画力に委ねられていたというわけ。

この会合が旅行の前半にあったことが後半の行動に大きく影響を与えることになったのですが。


この会合には、その影響のもととなった「サプライズ」が待ち受けていました。

 

指定されたレストランは、都心の一角にある普通の中華料理店。

名前からもお分かりと思いますが、ここは「鶏専門店」。
台湾っ子にも有名な美味しい鶏料理が食べられる家だそうです。



ここは金さんのお気に入りのお店だそうで、
しかも、この日私たちのために珍しい烏骨鶏を予約してくださっていました。



金さんは時間通りに店の前に現れました。
皆で店の奥の個室に入り、二つのテーブルに分かれて座ります。
勿論、メンバーは皆初対面。
個人参加であるわたしたちにはよくわからなかったのですが、
金さんの「私塾」や、あるいは「李登輝友の会」の人々であるように思われました。

テレビによく出演しておられるので皆さまのほうがご存知かもしれませんが、
実際に見る金さんは、小柄ながら実にオーラのある人物で、
お肌もつやつやして実にお美しい。
これで御年79になんなんとするとは、知らなければ誰も思わないでしょう。



おまけにこのお洒落なこと。
白髪と色白の肌ににエルメスオレンジのストールが映えて粋です。



金さん、どうやらエリス中尉と同じくエルメスファンと見た。
バッグもストールと同色のエルメス、右の紙袋は、金さんの定宿で、
台湾の家のように支配人以下全従業員に迎えられるというシャーウッドホテルの紙袋。
ちなみに被っておられるお帽子もエルメス製でございました。



型通りのあいさつの後、金さんが紙袋から出してくれたのは、
エビアンのボトルに詰めたホテルのオレンジジュース。

「ここのは美味しいので、お酒の飲めない人のために持ってきたの」

ということで、それはわたしたち家族のためってことですか?
台湾は果物が美味しいので、フルーツジュースも美味ですが、
それをわざわざ持ってきてくださるという金さんのお心遣い。
こんなところにもこの女性が多くの人を惹きつける秘密が垣間見えました。

皆が席に着いた頃、金さんが
「今日はサプライズゲストを呼んでるのよ」とおっしゃったので、
一同ワクワクして待つことほんの少し、そのゲストとは、



タイトルでもお分かりのようにそれが蔡燦坤さんでした。

蔡燦坤(さい・こんさん)

もしあなたが司馬遼太郎の「街道を行く―台湾紀行」を読んだことがあるなら、
その文中、「老台湾」と司馬が称した「元日本人」、蔡さんのことが書かれているのを
ご存知かもしれません。

あるいは、小林よしのりの「台湾論」で、金美齢さんとともにその漫画に登場、
この漫画の中で語られている日本統治から戦後国民党の支配に変わった台湾が、
いかに蒋介石の元で大陸からの支配により荒廃し、白色テロによる戒厳令で
圧政に耐え、日本時代と日本精神の素晴らしさを懐かしんだかと言ったストーリーは、
全てこの蔡さんの著書

「台湾人と日本精神(リップンチュンシン)―日本人よ胸を張りなさい」

からそのほとんどが取られていることをご存知かもしれません。
わたしは実はこの本をそのとき読んでいませんでした。
度々その題名を目に止め、読みたいと思いながら機を逸していたのを
このときほど後悔したことはありません。

その後帰国と同時にこの本を注文し、第一空挺団の降下始めに持参し、
降下および訓練の始まるまでの待ち時間を利用して、立ったまま読破しました(笑)

そして、この本によって、今回台湾で見学した歴史的な痕跡、建築物や記念館や、
あるいは現在残る国民党政府の「聖地」など―と史実が見事につじつまが合ったというか、
絡んだ糸がほどけたような、「そうだったのか」と合点がいったような気がしました。

それについてはまた写真を挙げながらお話ししていくつもりです。

とにかく、その伝説の「元日本人」「老台湾」そして「愛日家」、蔡焜燦氏が、
今まさに目の前に、しかもすぐ近くに座っているのです。



「みんな僕の本読んだの?」

わたしは勿論、テーブルの誰一人として読んだものは無かったらしく、
皆きまり悪そうに俯きました。
今まで何度も読もうと思っていただけに、ここで「読みました」
と言って差し上げられなかったのが今でも悔やまれます。

ところで、参加者は二つの卓に別れ、こちらには蔡さんが、向こうには金さんが、
と、その後もずっと動かずに食事が進行しました。
こちらでは蔡さんがいかに普通の日本人より知日であるかに驚かされっぱなしです。

しかも、かつて体育の教師でもあった(体育だと戦後公用語となった北京語を使わなくて済む)
という蔡さん、いきなり、
「西郷隆盛が自害した時に介錯したのは誰だったか?」
というような「日本人なら誰でも知っているべき」小ネタを先生口調で問いかけ、
「知らんのか。しょうがないなあ」と講釈が始まります。

ちなみにこの話がどういう流れであったかというと、金さんが開口一番

「わたし、今はなんといっても安倍さんとラブラブだから」

と言って一座を笑わせたことから始まった話。
つまり別府晋介の晋と、安倍晋三の晋が一緒の字である、ということが
おっしゃりたかったのではないかと思います。

「西郷隆盛は最後に『晋どん、ここらでもうよか』と言ったんだよ」



わたしは蔡さんのなさった質問に『ハイ!』とこれもつい生徒のように手を挙げました。
そのうち蔡さんは
「そこの別嬪さん(強調)、あんたは何をしているの」
「ハ、ピアノを弾いています」
それからというもの、何かというと円卓の中の紅一点だったわたしに

「皇太子殿下のお誕生日はいつか?」
「知りません」
「美智子さまのお生まれになった日はいつか?」
「知りません」
「肉弾三勇士の名前を知っているか?」
「(全く)知りません」

と、日本人でもほとんどが知らないような質問を・・・・。orz




時折このようにメモを出しては字を書きつつお話は続きます。
この写真を拡大したのは、蔡さんの使っている万年筆を見ていただきたく。
いかにも昔の文人が愛用したような、ただものではない万年筆。
金さんの持ち物に目を奪われるように、蔡さんのこの筆記具にも、
「昔の日本人」を見るようで、わたしは手許を凝視してしまいました。

「みんなだめだなあ、本当に日本人なの?」
「ここにいるだれも俳句はしないのか?」

蔡さんはしょっちゅうこのように皆に問いかけ、その都度一同下を向くのですが、
それはわたしたちに呆れているというより、いかに自分が日本人であったか、
そして日本をよく知っているかを日本人、ここに集まった若者に伝えたくて仕方がない、
そんな蔡さんの無邪気な自慢の発露であるように思われました。

つまり、この人はたいていの日本人の知らないことを知っているだけでなく、
元日本人として日本を評価し、熱烈に日本を愛してているのです。

ちなみに「建国記念日」は紀元節、「文化の日」は「明治節」に戻すべきだ、
とおっしゃってもいましたよ。

蔡さんは18歳まで、日本人でした。
台湾に志願兵制度ができたとき、志願して陸軍整備兵となり、奈良教育隊で終戦を迎えました。
日本が負けたとき、蔡さんはじめ台湾出身の兵隊は、皆泣いたそうです。

戦後、日本の統治政府が去った台湾に戻った蔡さんは、他の台湾人と同じく、
大陸からやってきた国民党の無教養で野蛮で、略奪や汚職を何とも思わない民度に愕然とします。
そしてそのあと、2,28事件などを経て、李登輝総統によって民主化がもたらされるまで、
台湾の暗黒時代、いわゆる「白色テロ」の時代を通じて、自分が日本の教育によって
その骨肉を作られている「元皇民」であるということをいつも実感し続けてきたのでした。

この日、その蔡さんの口から聞く「歴史的証言」について、
思い出す限り何かの折に触れて書き残したいと思いますが、
とにかく、蔡さんは「日本人の心を持つ、台湾人」、
まさに司馬遼太郎のの言う「老台湾」そのものでありました。

蔡さんの独演会の合間に、向こうのテーブルでは金さんが、

「娘が言うのよ。
わたしがもう七十八歳で無かったら、安倍さん安倍さんなんて言っているのを
ヘンな風に勘違いされてしまうからよかったわねって」

「安倍さん、三回も電話くれたのよ。
総裁選のとき、解散のとき、選挙の後。
『総裁選立候補しました』『総裁になりました』『選挙勝ちました』って。
いちいち報告してこなくても、こっちは知ってるのにねえ」

などと皆を笑わせています。
ご存知かもしれませんが、金さんは第二次安倍内閣の成立を念じ、
東奔西走してその力になっていた一人です。
このときには安倍氏が新内閣の総裁として選挙に勝ち、金さん言うところの
「日本人のための政治をする内閣」が成立したことに対する一方ならぬ感激が
まだ尾を引いているのではないか、と思われました。

さて、そんな和気藹々とした?会話の中、テーブルには

  

黒っぽい肉が金さんが特にレストランに頼んで出してくださった烏骨鶏。
じつに滋味あふれるお味の肉でした。

蔡さんは、テーブルでひとしきり話をしたと思ったらつと立って、
そこにいる全員に前置き無く、話をひとくさり始めます。



詳細を忘れてしまったのが残念ですが、ある文書か書籍について
「これをあんたの事務所で皆に送ってもらってだね」
と蔡さんが金さんに言うと、金さん、言下に
「やーだよー!」

皆大笑い。
というようなやりとりに二人の厚い友情?も垣間見ることができました。
ちなみに、蔡さんはその著書で金さんのことを
「台湾のジャンヌ・ダルク」だと絶賛しています。

同じテーブルに(詳しくは自己紹介しなかったので会話から想像するだけでしたが)
わかっただけで新聞記者、中学校の先生などの方がおられました。
台湾からの義捐金に対する感謝イベントを企画したと思しき人もいました。
李登輝友の会から来ている人もおられたようです。

興味深かったのは、北海道から来た中学の先生たち。
エリス中尉、例の「コスタリカ事件」で家庭教師をクビにしたばかりで、
その話をごくごくかいつまんでさせていただきました。
ところで、北海道と言うと別名「赤い大地」。
日教組活動が盛んで、北教組による民主議員への裏金工作事件もありました。
「北海道というと・・・・・」
それを思い出し、ついこれだけ言ったところ、そのうちの一人の方が、

「そういった教育を何とか変えようとしているんです」

とおっしゃいました。
金美齢さんを囲む会に出ている方であるからには、当然そうなのでしょう。
具体的にどのような活動をしているかとかいうことまでは聴きませんでしたが、
帰りに金さんがその先生たちに向かって、

「わたしはさ、ほら、何を言ってもある意味大丈夫だけど、
急にいろいろとやると、反動(だったかな)がどうしてもくるから、
気持ちはわかるけど、その辺は焦らずにね」

というようなことを言っているのを聞いて、
その冷静沈着かつ賢明なことにあらためて感銘を受けました。
この言葉により、わが身の果断即決に流れ易きを反省した次第です。

さて、何回目かに皆の前に立った蔡さん、なぜかいきなりわたしの名を呼んで
「こっちに来なさい」
言われるがままに隣に立つと、

「あんたピアニストなんだから歌いなさい。『十五夜お月さん』。
♪じゅ~う~ご~や~お~つきさ~ん」

いきなり歌いだす蔡さん。
「せ、先生、キイが高いです」

以降、蔡さんが三番まで歌詞を朗読し、それについてわたしが
全曲この歌をみんなの前で歌うはめになったのでございます。

十五夜お月さんという歌を台湾人の蔡さんがが一言の間違いもなく覚えている、
というのも不思議な話ですが、エリス中尉がが小さいとき、もちろん覚えていませんが、
聴くといかなる時も涙を流した、というのがまさにこの曲なのです。

父がうまくもない自分の歌で赤子が泣くのを面白がって繰り返すため、
母が怒って「いい加減にして」と文句を言ったこともあるという思い出の曲でした。

不思議、というほどではないにせよ、縁というものを感じた一瞬でした。

TOはあとで「君があんなに蔡さんにいろいろと話しかけられていたのに、
僕は存在すら気づいてもらえなかったらしいのが印象的だった」
と拗ねていたのですが、まあそれはほかの男性陣も似たようなもので^_^;


「老台湾」と「台湾のジャンヌダルク」を囲む、若い世代の日本人たち。
この二人の台湾人より日本の文化に詳しく、この二人の元日本人より
日本を本当の意味で評価している日本人はいないのではないか、と
最初から最後まで圧倒されるがままと言った感のある一夜でした。




お開きのあいさつをする金さん。
「向こうのテーブルばかりでこちらにお構いもできずにごめんなさいね」



この日の食事はお二人にごちそうしていただきました。
金さんによると「何日にもわたる酒池肉林」のうちの一日だったとか。



皆でお見送り。

最後のあいさつのとき、金さんが
「台湾は人が暖かいでしょう」
と誇らしげにおっしゃいました。

実はこんなことがあったのです。
皆が到着してしばらくした時、タクシーの運転手が店に来て、
「さっきここで降ろした人が座席に携帯を忘れていった」と持ってきました。

すぐさま蔡さんが出て行き、どうやらお礼のいくばくかを握らせたようです。

帰ってきた蔡さん、携帯を忘れた人に「手を出しなさい!」
その手を軽くぱしっとたたいて、
「あんたが忘れ物などするから、わたしが御礼をした」
その人は頭をかいて恐縮し、皆、台湾のタクシーの運転手が、
まるで日本並みに誠実で親切であることに感心しました。
ところがこの話はここで終わらなかったのです。

そのお金を受け取った運転手は、自分がそれを取らずに、
車の中に待たせている客にそれを渡そうとしたらしいのです。

というのは、もともと携帯を見つけたのは次に乗った客でした。
その人は車をレストランの前まで戻ってこさせ、さらに
運転手に携帯をレストランに届けるように頼んだのだそうで、
さらに蔡さんから預かってきた運転手の出すお金を
「そんな御礼などいらない」
とわざわざ返しにこさせたというのです。

よく「忘れ物が必ず帰ってくる国」日本が、訪れる海外の人々に驚きとともに
絶賛されているようですが、台湾もまたこうなのです。
蔡さんに言わせればこれも「いまだ残る台湾人に根付いた日本精神の証拠」。

運転手と乗客、二人の台湾人の行為に一同が感心して嘆声を漏らすのを、
二人の日本精神を体現する台湾人は実に誇らしげに眺めていました。



 


台湾・烏山島ダムを行く~日台の桜

2013-01-24 | 日本のこと

烏山島にダムを作るという計画は、技師八田與一が土地を選定しました。
「ここなら大規模なダムが作れる」

あまりにも対象となる土地が広大すぎるため、
予算が膨れ上がることに台湾総督府は難色を示しました。
なにしろ、総督府の総予算の三分の一、予算の一年分が必要だというのです。

もともと総督府が台湾に治水工事をし、米を作るというのは、
内地(日本)のコメ不足をここで補おうという、いわば
「植民地統治国としてのまっとうな搾取」を目的としていました。

ですから「治水によって水が流れる地域を半分に削減したとしても
それは目的には十分かなうし、第一費用も工期も半分で済む」
そう総督府は考え八田にそのように提案しました。

しかし、八田は「それでは全ての平野に水か行き渡らない」と食い下がりました。
同じ土地でありながら水のある地域と無い地域ができれば、地域格差が生まれてしまう。
治水工事はそこに住むすべての住民を幸福にするものであるべきだ。
これが八田の考えでした。

台湾の統治を「日本が搾取するための植民地経営であった」(だから悪である)
と言い募る人たちに聴きたいのですが、もしあなた方の言う通りであったなら、
このとき後藤新平ら台湾統治責任者が、この八田の案にOKを出したでしょうか。

この工事が為ったことそのものが、八田のみならず、台湾総統府、
そして日本政府が台湾を「日本の国の延長として当然のように豊かにしていく」
と考えていたことの証左であるとわたしは考えるのですが、いかがでしょうか。



八田の業績や生涯を紹介するビデオを見た記念館の前の道。

バイクが止まっていますが、これはわたしたちのために来てくれた
記念館の係が、わたしたちが出て行ったので「もうしばらく用事ないし」
とばかりに帰っていく様子。
合理的といえば合理的です。

誰も来ないのにどんな場所にも一日人を座らせておく日本式とは少し違います。



もしかしたらこの苔むした煉瓦の壁は往時のものでしょうか。
タクシー運転手の王さんは、「ここをあがるんやで」と階段を指さしました。
(台南地方は日本で言えば大阪みたいなものなので、王さんは関西弁)
まったく言葉が通じなくても、本当になんとかなるもんです。



コンクリの剥げたところからここにも煉瓦が顔を出しています。
これもおそらく昔からのものでしょう。
八田與一もこの階段を踏んでここを上ったのに違いありません。



階段を上るとそこに広がるダム湖。
日本政府はこの工事のために5414円を出資しました。
八田は、このダムの建設の際、地質は勿論、地震が起こることも考えて、
その工法(セミハイドロリックフィル工法)を考え出したということです。

余談ですが、朝鮮戦争当時、アメリカ軍は北朝鮮にある水豊ダムを空爆しました。
ダム空爆は、イギリス軍がドイツルール工業地帯ののダムを空爆して打撃を与えたように、
戦況を有利に運ぶためにしばしば計画されましたが、アメリカ軍は結果として
このダムを決壊させることはできませんでした。

なぜか。

水豊ダムという名前からもうすうすお分かりかと思いますが、
これは統治時代に日本が作ったもので、建築技術が優れていたため、
数度にわたる空爆にもびくともしなかったのです。

「朝鮮半島に対する過酷な植民地支配」
とか言っている人たちには、日本がこういうダムまで支配地に作ったことを
どう解釈するべきか、是非論理的に説明していただきたいものですね。




ここが100年前はただの砂地であったなどと信じられないほど、
湖はなみなみと青い水を湛えています。
水系の全長1万9千キロ。
これは地球を半周するのと同じ長さになります。

ここにも、護衛艦の縁にあったような謎の物体が。



2012年に完成したばかりの、八田公園への道。
昨日お伝えした「八田住居村」があります。
ここの資料館はなかなかモダンな展示がされていましたが、
テレビ画面にずっと八田の紹介ビデオが流されていました。



ちょうどここに書かれている事故は、トンネル内に満ちたガスによる引火爆発です。
この事故で50人以上が死亡しました。
八田は犠牲者の家庭を一軒ずつ回って、頭を下げました。
その真摯で悲痛な様子に、人々はむしろ心を打たれたと言います。

もともと、労働環境を整えたり、日台の関係者を分け隔てなく扱い、たとえば、
アメリカから来た人種侮蔑的な技術者に対しても「白人の鼻をあかしてやろう」
と一緒に戦うことを口にしてきた八田です。

日本が関東大震災に見舞われ、そのあおりで工事の予算が縮小されることになったときも、
八田がまず首を切ったのは台湾人ではなく優秀な日本人技術者からでした。
その理由は二つ。

「日本人技術者で優秀なものであれば再就職先はいくらでもある」
「このダムは台湾人のためのものである」


工事が再び順調に進められるようになったときには、
八田はクビにした日本人技術者をもう一度現場に呼び戻しています。



タクシーの運転手王さんが「ここにいけ」と示した階段の一つ。
この急な階段を上っていくと、このような景色が開けます。
放水口から流れ出る水が作る疎水です。





樹齢100年は軽く越していそうな大木。
二本の木が一体化してしまっています。
どうやらここを多くの鳥が住処にしているようでした。



洋風のような台湾風のような建物があります。
誰もいないようですが、事務所か何かで、この日はお休みだったのかも。




その隣にあるのがこの工事慰霊碑。
ダム工事が完成した時、このダムにかかわって命を失った人々の名前が、
一人残らずここに記され、顕彰されています。



碑の正面にある感謝、並びに追悼文は、八田與一本人の筆になるものです。
そのきっかりとした几帳面な文字は、技術者であり、緻密な計画を
全て細々と書き残した八田らしさに溢れています。

この追悼文の残り三面にわたりびっしりと、その人名がしるされています。



そのうち一面がこれです。
見ていただきたいのですが、日本人名と台湾人名が、
それこそ順不同で並べられています。

これは、性別民族関係なく、「死亡順」なのです。
ガス爆発事故で亡くなったのは50人でしたが、10年に及ぶ工事期間、
亡くなった関係者の総数は136名に及びました。

名前の中に女性名が混じるのは、この中に「病没」をも含むからです。
とくに正面に八田の書にもありますが、日本からわざわざ台湾に来て、
異国の地で亡くなった関係者の魂をも、八田は顕彰するべきだとしたのです。

工事関係者の「労働組合」もあったようです。
この写真の左から二行目に
「事故死没者 組合外」
とあるのは、組合員ではない、おそらく臨時雇いの工夫たちのことでしょう。

「なんで八田さんは俺たちを日本人と同じように扱ってくれるんだ」

この記念館で買い求めた虫プロ製作の「パッテンライ!八田與一」というアニメで
劇中、台湾人の阿文(おそらく本名は文一字。阿は阿Qのような接頭の君付け)
が八田に聴きます。
八田の答えは

「海に国境があるか?
俺たち土木屋は、その土地に住む人々を幸せにするために働くんだ」

というものでした。




前回お話しした桜の横には、まるで神社のように絵馬を掛けるところがありました。
台湾の人も願い事を書いたものを木に吊るらしいことを去年の旅行で知りましたが、
ここでは日本からの観光客だけではなく、台湾人もまた絵馬を吊っています。

しかし、明らかに日本人名なのに日本人ではないような文が散見されます。
「事故らない」と書いているのはどうも李さんという台湾人のようですが。

もちろん、四文字熟語でお願いする中国語絵馬も多し。
日本語が書けると、ついこういうところでは日本語でお願いしてみるのかな。



「台湾の人がもっともっと大好きになるような日本にしていけますように」

鈴木さん、わたしもそう思います。
まずは中国にへつらうあまり台湾を軽視、無視してはばからない政府と、
なによりマスゴミを何とかせねばなりませんね。



三つとも日本語を使っていますが、台湾の人ですね。
一番左の人は「ここから仙台に愛を」と書いているのかな?



もしかしたら台湾から親の転勤が終わって日本に帰る小学生でしょうか。
絵馬の表側には、八田夫妻の肖像が印刷されています。
もしかしたら「縁結び」の神様のような扱いでもあるのでしょうか。



さて、すべての見学が終わり、隆田駅に向かいます。
灌漑後に創られた道なので、どこまでもまっすぐ。



道のわきには水を湛えた水田が続きます。
それもこれも、八田與一という日本人がいなかったらなかった光景。
最近読んだ台湾人の書いた本に

「もし、台湾が日本ではなく、未開のまま中国国民党に最初に統治されていたら、
おそらく海南島のような貧しい国のままで近代化はありえなかっただろう」

とありました。
何かと植民地支配という言葉をネガティブにとらえ、
まるでそれが悪いことのように言う人たちもいますが、
台湾の人々は実はこのように評価しているのです。
そして、そのような評価の証拠となる光景が、ここにあります。



大きな酒瓶を看板替わり。
見るからに大規模なお酒の会社もありました。
良質の水がなくてはありえない業種です。

この辺で取れるコメは蓬莱米といい、日本のコメどころと同レベルの、
非常に美味しいものなのだそうです。



隆田駅前に付きました。
客待ち中のタクシーの運転手さんたちが、碁をしています。
二人がこちらを見ているのは
「なんでこんな光景を写真に撮るんだ?」と不思議がっているから?
寝そべった犬や、誰も携帯を見たりしていないのがいかにも台湾の風景。
今回の旅行で結構気に入っている写真の一つです。


先に「謝謝」といって車を降り、後から勘定を終えて出てきたTOに
「いくらだった?」と聞くと、
「700元(2100円くらい)だった」
「チップ上げた?」
「あげた。100元プラスしてあげた」
「安いねえ」
「おっちゃんも高めに言ったんだと思うけど、それでも安いよね。
彼らにすれば、6000円もらって、チップが1000円ってかんじ」

あまり張り込むと、日本人を今度乗せたときにもう少し吹っかけてみようかな、と
おっちゃんが考えてしまう可能性もないではないですが、それより、
日本人はちゃんと対応してあげるとそれなりに謝意を表明するものだと分かれば、
次に来た日本人にかれはより一層気持ちよく接してくれるでしょう。





ここにあった「絆の桜」は、日本と台湾の人々が力を合わせ、
大事業を成し遂げたということの象徴のようです。
ほとんど同じ大きさで、お互いその枝を相手に絡ませるようにしながらも
決して交わることなくしっかり向かい合って立っている。

花が満開になるとき、この木はまるで二本で一つの桜の木のように見え、
その花びらはお互いに伸ばした木の枝の間を舞いながら散るのでしょう。






台湾・烏山島ダムを行く~八田與一という人

2013-01-23 | 日本のこと

八田與一が今日も台湾人に尊敬され愛されているのは、
かれが優れた頭脳とともに、誠実でかつ公平な視点を持ち、
愛情あふれそまた人に分けるだけの人間性を供えていたからでしょう。

大事業を成し遂げるのには人を動かさねばなりません。
しかし、自分の元で働くものを自分の道具と見なして、その人格を軽んじたり、
ましてや統治国の住民だからと奴隷扱いしては、うまくいくものも行かなくなる。

日本の台湾統治は決して搾取するものではなく、教育を与えインフラ設備をする、
世界一寛大なものであったというのはもう歴史的にも証明されていますが、
それでも統治前まで「化外の地」(これは大陸の中国人がそう呼んでいた)
であったこの台湾の住民は日本にとってあくまでも「二等国民」。
一般に日本人が台湾人と親しく交わったり、飲食を共にすることはなかったと言われますし、
単純労働者として雇った現地人を対等に扱わなかった日本人もきっといたでしょう。

八田は工事にかかわった同じ仲間として、決して台湾人と日本人を区別しませんでした。



台南の人々は今でも八田與一を「嘉南大しゅう(土へんに川)の父」と呼びます。
その父に敬意を表し、功績を駈り継ぐため、彼らはその住居群を日本風庭園とともに
ここに復元する計画を立てました。
日本の、八田の故郷である石川県の協力を得て、それは2011年に完成しました。
当時の建築の名残が残る、公園の芝生。
いかにも植えられたばかりで枝ぶりの落ち着かない木々が、
かつてのように生い茂るのはどれくらい先のことでしょうか。



しかし、かつての居住区があったころからそこにあった木は、
このように当時のままにその枝ぶりをとどめています。
この部分は、かまどらしきものだけが残された住居跡。
煤で黒くなったかまどだけが、往年の人の気配を感じさせます。

 

公園の中には真新しい展示室がありました。
パネル展示とともにこのような八田の遺品が飾られています。




またこのようなかつての居住区を再現したジオラマがあります。
昭和初期において、テニスコートが居住区内にあったというのも驚きます。
労働環境を健全に整えようとする意識の表れでもありましょう。
八田はここに働く人たちのためにお祭りや映画などの娯楽を企画し、
それを日本人だけでなくすべての者が楽しむことのできるようにしました。

なにより八田は、工事のための人間を集めるとき「その家族も一緒に住めるように」
ということを重要な条件としたのでした。
日本人は勿論、台湾人の人夫についてもです。
その理由は、

「この工事は長きにわたる。
その間彼らが家族と一緒に住み、精神的支えを持つことが労働意欲の源となる」

働くものすべての心を安寧に保つことこそこの大工事を成功させることにつながる、
それが八田の考えたことでした。



この公園内には資料館のジオラマどころか(というかこちらがメイン)、
かつての実際の住居が実物どおりに復元されています。
これら八田家始め何軒かの日本式住居は、すべて台湾芸術大学と識者が、
日本からの技術指導を受けて作り上げました。



日本人にとっては、「少し田舎に行けばどこにでもある古い家屋」ですが、
中国人、特に大陸からの観光客には珍しいらしく、
ガイドに連れられた団体がこの赤いテープを外して家に上がっていました。

しかし、わたしは「ふーん」と思ったものの、わざわざこのピカピカの
(古い感じを出すためにわざわざそういう木を使って作られているのですが)
室内の中まで入ってみる気にはなれませんでした。

写真で見ましたが、長らく残っていた彼らが実際に住んでいた家屋は、
経年劣化ででおそらく改築することができず、(日本人ならきっとできたと思いますが)
仕方なく壊して、わざわざゼロから作り上げたということのようです。

しかし、本当に住んでいたわけでもない家を上がって見てもねえ、
と思ってしまったのはわたしが日本人だからでしょうか。



座卓の下の煙草盆、酒器などは、実際に日本で集められたもの。



まっさらな畳、座布団にちゃぶ台、お正月なのでちゃんと注連縄(しめなわ)飾りも。

しかし、惜しい。

注連縄を付ける正しい場所まではかれらにはどうやらわからなかったようです。
日本ではいくらなんでも引き戸に正月飾りを付けたりしませんよね。
注連縄とは厄払いのために、つまり「結界」の意味を持つわけですが、
戸のような開けたり閉めたりするところにはその意味を考えても付けないのが普通です。
そもそもこんなところに付けていたら、開け閉めで落とす心配が・・。

それから、当時の家はこんな鍵をこんなところにかけなかったのではないかと。
まあ、これは単なるセキュリティのための鍵なのかもしれませんが。



そして、彼ら渾身の製作、日本風庭。
日本文化を学び、それをここに再現しようとしてくれた台湾の人たち。
ありがとうっ!

しかし・・・・・違う。

何が違うのかわからないけど、これは違う。
石畳の配置、池の周りの囲い、灯篭の位置も、獅子脅しの場所も、
こうして全く違う配置をされて初めて、日本人としては
「何が違うのかはっきりわからないけど、でも全然違う気がする」
と思ってしまいませんか?

やはり日本人に生まれてそれ以来そういうものを見てきて、
DNAにも組み込まれている視覚の記憶というものは、
指導を受けて再現した外国人の造ったものに違和感を感じてしまいます。

台湾の人々の気持ちと八田與一に寄せる思いがわかるだけに、
不愉快とか腹立たしいなどとは断じて思いませんが、
文化が違う、って、つまり越えられない壁みたいなものなんだなあ、と、
あらためて感慨深く認識した次第です。



立派な桜の木が寄り添うように二本立っています。
この前に、まだ石の色も新しい石碑があります。
桜が満開の季節、この木の下に立ってみたいものだと心から思いました。



おお、元内閣総理大臣、森義朗。
「日本は神の国」と発言しただけでマスゴミと左翼に引きずり降ろされた
森元総理は、(今にして思うけど、何が悪かったんです?)石川県出身。
八田與一と同郷であることからこの揮毫となった模様です。

先日、うちのTOさんがあるところで森元さんと奥様に会い、
職場に直筆サイン入り著書を送ってもらったそうです。
持って帰ってくれと再三言っているのにTOはずっと忘れています(-_-)

台北には海部元総理の揮毫をありましたが、総じて元総理というのは
こういう依頼をしょっちゅう受けるようですね。
TOがお会いした会合もいわばそういった「顔」としての元総理出席でした。
政治的活動ではないが、象徴としての親睦や記念行事に顔を貸す仕事。

そういえば、先日、中国政府は何を思ったのか鳩山元総理を呼びつけて、
現防衛大臣のいうところの「国賊行為」に及んできたわけですが、
鳩山氏もまた自分が必要とされている!と張り切ってしまったんでしょう。
むしろ、元総理にできることは「顔貸し」程度のこと、と百も承知の上で
我が方に有利な発言を引き出そうとしたあの国のやり方に、
なんとなく藁をもすがる、という言葉が思い浮かびました。

もしかしたら、かなりあせっているのでしょうか?


それはともかく、この二本の桜の意味するものは、揮毫の「絆」という字に伺える通り、
「台湾と日本」であるというのは疑うべくもないところです。



ここの売店には、中国人の団体がぞろぞろ入っていくものの、
皆何も買わずに出ていってしまっていました。
だからというわけではありませんが、日本人としては、
ここに働いている売り子さんたちのためにも、売り上げに協力させていただきました。

これはプリン味のアイスキャンデー。
ちゃんと先はカラメル、黄色い部分はプリンの味がしましたよ。

 

そしてこの二本のDVD。
どちらも1000円くらい。
右側は「八田来!パッテンライ!」という虫プロ製作のアニメ。
ホテルで観たのですが、これが侮れなかった。
実に見応えがあり、どうも劇場公開用に作られたようです。
主題歌は台湾出身、一青窈。(ひととようで一発変換できてしまった。びっくり)
このDVDについても、またそのうち・・・とりあえず一通りお話が終わったら、
また紹介する日もあるかと思います。


さて、かつて八田與一は工事の責任者として日本人も台湾人も分け隔てなく扱いました。
それは決して「事業推進上の建前」などではなかったのです。
次はそんなことからお話ししたいと思います。









台湾・烏山東ダム~八田與一の妻

2013-01-22 | 日本のこと

            


烏山頭ダム、学術名八田ダムを設計し建設した台湾統治政府の
土木技師、八田與一は子沢山でした。
なんと妻外代樹のとあいだに二男六女の八人の子供を設けています。
ダムが着工して10年、完成したのは1930年と言いますから、
この写真が撮られた1935年、八田は仕事を完成させその名声は高く、
いまなお美しい妻と健やかに育った子供たちに囲まれ、
おそらくは台北で幸せの絶頂にあったのではないかと思われます。

10年後、この夫婦がいずれも不幸な死を遂げることを誰に想像できたでしょうか。



誰もいないので人相は悪いが気のいいタクシー運転手の王さんが、
携帯電話で八田與一記念館の係員を呼んでくれ、中に入りました。
ここは2001年に完成したそうです。
記念館といっても、四方に写真が張られ、大型テレビで説明ビデオ(日本語)
を見るだけのスペース。

しかし、アウトラインをわかっていない見学者には、非常にわかりやすくできたビデオです。
この写真もその記念館に飾られていました。



見れば見るほど美しい、八田の妻、外代樹さん。
どういうわけか、彼女の学生時代の通知表なども飾られていました。

 

年度が上がるにつれどんどん成績が良くなり、
何と卒業時には乙から一等の特甲に。
外代樹さんに何が起こったのか。
彼女は石川県金沢の開業医で、県議も務めた米村吉太郎の娘。
(小村になっているのは、母方の姓を継いだため)
しかも最初から性質は怜悧、勤勉、明瞭、沈着、端正、温良・・・。
考えられる限りのほめ言葉が彼女の人間性を物語ります。

八田與一にとってこの美しく賢い女性は最高の妻であったと思われます。

前回書いたように、1942年、八田はフィリピンに派遣されて向かう途中、
米潜水艦の魚雷により乗っていた太平丸が撃沈し、かれも死没します。

その遺体は一か月後に漁師の網にかかって、台湾に帰ってきました。



しかし、外代樹はそれを知ってすぐさま後を追ったのではありません。
彼女は戦時中、子供たちを連れて烏山島に疎開しており、
終戦までを悲しみにおそらく耐えながらじっと過ごしました。
その間、息子が学徒動員で戦地に赴いていたのです。

戦争が終わりました。
8月31日、長男が戦地から戻ってきます。

息子の生きてかえってきたのを見届けた翌9月1日、
外代樹夫人は送水口に身を投げました。
黒い着物の正装で、飛び込んだ場所には草がをきちんと揃えてあったといいます。



ここです。

戦時中、任務で「戦死」した夫の死を悲しむことは、
他の幾多の未亡人たちがそうであったように
彼女にも許されることではありませんでした。

しかし、戦争が終わり、息子も無事で帰ってきたというのに、
どうして彼女は死なねばならなかったのでしょうか。
戦地から帰ってきて、母を支えようと思っていたであろう息子は、
この母の死にむしろ呆然としてしまったのではないでしょうか。

愛する夫の後を追ったこの日本女性の鑑ともいえる外代樹夫人の死は、
内外に衝撃を与え、今なおその夫婦愛を称賛する声が溢れています。

しかし・・・・、と言っていいのかどうかわかりませんが、わたしには
この外代樹夫人の死はむしろ「緊張の糸が切れた」、あるいは
「これからどうして生きていっていいかわからなくなった」、つまり、
敗戦の混乱とこれからの生活の不安、
ことに夫と暮らし慣れ親しんだ台湾、
夫が心血を注いで作ったダムのある地から去らねばならないという・・・
そういった混沌とした戦後の事情が彼女の不安定な気持ちを
死の彼岸へと後押しした結果ではないかという気がします。

もし、息子が戦死していて、それを知り死を選んだのなら、理解はできます。
夫もいない、息子も失われた、それなら生きていても仕方がない、
そう思ったとしても、ある意味自然なことです。
しかし、息子は現に生きて戦争から帰ってきたわけですし、
さらに彼女には、夫との間に生まれた7人の子供たちもいたのです。
写真を見る限り、彼女が自殺した昭和20年当時、
末の子供はまだ学齢期だったのではないでしょうか。

「それほど彼女は夫を愛していたのだ」と多くの人は言うでしょう。
そして、その愛の深さに今日多くの人が感動しています。
この、夫婦愛の象徴ともなっている彼女の死に今さら物言うつもりはありませんが、
考えれば考えるほど「彼女はなぜ死なねばならなかったのか」
は、重たい疑問を心に残さずにはいられません。

八田與一がそれを知ったらどう思ったかということも含めて。



相当な樹齢を経ているらしい桜の木。
彼女がこの放水口に佇み、その奔流に身を投げたときも、
この木はここにあったと思われます。
この桜の木の下で68年前にそれは起こりました。

彼女自身の魂のために、心から祈らずにはいられません。
彼女と彼女の夫もまた、あの戦争の犠牲者なのです。



台湾~台南・烏山頭ダムを行く

2013-01-21 | 日本のこと

さて、台南でどこに行こう?

のんきな我が家は台湾についてからそんな相談をし始めたわけですが、
そのときわたしはかねてから知っていた「八田ダム」に行こう、と提案しました。

日本が統治するまでは文明の及ばない「化外の地」であった台湾。
原住民が住んでいるものの、農業などはとんでもない、
そもそもこの地には作物を作るにも水がなかったのです。

ここにダムを造り、この地方を水で潤し、田畑はもちろん貯水池や養殖池の
いたるところに見られる肥沃な土地に変えたのは、
他でもない、統治していた国日本の土木技術者、八田與一でした。

日本人にはあまり知られていない、しかし台湾南部の人々の、いや台湾の恩人、
この八田さんの造ったダムを観に行こう!

一も二もなく提案は決議され、最後の滞在の日、ここを訪ねることになりました。
台南から車で二時間はかかるだろうといわれたので、
最寄りの駅まで行って駅前からタクシーに乗ることにしました。



これがダムの最寄、隆田(ロンジン)駅。
ところでこの隆田といい、高雄、新竹、空港のある松山、
台湾の地名は、なんとなく日本っぽいと思いません?
それもそのはず、これらの地名も皆日本人が付けたもの。
たとえば高雄ですが、地元の人間が「打狗」(ターコウ)、つまり
「犬を叩く」という音を聞いてそれに充てた地名だと言われています。
日本人が「たかお」と読むのを台湾人は「ガオション」と発音します。
松山は「ソンシャン」ですが、「マツヤマ」といっても通じます。



隆田の駅前。
このひとつ前の駅で間違えて降りたのですが無人駅だったので、
駅前にロータリーがあってタクシーが留まっている程度には開けた町のようです。
日本にもこんな町ありそうですね。
何かが違う、と思ったら駅前にパチンコ屋がないことでした。
台湾にもパチンコ屋は無いではありませんが、ごくわずかです。

さて、この画像の左に写っているタクシーに乗り込むことにしました。
そうではないかと思ったけど、運転手は全くと言っていいほど、
英語は勿論日本語もわからない人でした。
しかも、こちらが中国語がしゃべれないのがわかっているのに、
確信的配慮の無さで中国語をためらいもなくしゃべり続けます。

わずかとはいえ中国語を勉強したことがあるエリス中尉ですが、
これだけべらべらと(しかもたぶん訛りあり)しゃべられては、
単語の一つも聴きとることができません。
おっちゃんの言うことは無視して、とにかく、地図を指さし、
「ここへ行きたい」=「ウォーシャンチウチャーリー」攻撃をただ繰り返すのみ。
すると、おっちゃんうなずいてまた平常のスピードでペラペラやりだします。

これは後から考えると
「お客さん、どこに行きたいんかは分かったっちゅーねん。
もしダムに行って観光するんやったら貸切料金でええんかて聞いてんねん。
そーやーかーらー、もうそれはわかったっちゅうに」
みたいなことを大阪弁で言っていたのではないかと思います。

まあしかし、日本人の親子三人が来てタクシーに乗りダムに行きたいと言えば、
それは観光に違いない、と常識で考えればわかるというもの。
おっちゃんも全く通じないままに「じゃ貸切ってことでええんやな?」と納得したようです。

ま、つまり観光は言葉なんて全くわからなくても何とかなる、ってことですね。



車窓からの景色。
おっちゃんはガッツ石松の弟、って感じの、どちらかというとコワモテの風貌で、
はたしてこの人に人気のないダムなどに連れて行かれても大丈夫なのかどうか、
疑うわけではありませんが、ふと今まで聞いたことのある「外国旅行での犯罪例」
などが頭をかすめました。(失礼だな)

それはTOも同じ思いだったようで
「このおじさん、大丈夫かなー、少し人相悪いんだけど」
などと、本人の横の席で、わからないと思ってこんなことを言います。
言葉が通じない同士って、お互い何を言われているかわかったもんじゃありません。

ダムと言うからには山の中にあるのだと思い込んでいたのですが、
行けども行けども(といっても駅から10分くらい)こんな平地が続きます。
すると、写真に取り損ねましたが、大きな車専用のゲートがありました。



どうも病気らしい毛がボサボサの犬が、首輪をしてうろうろしています。
ここでまたゲートのおばちゃんが全く配慮の無い超ハイスピード中国語攻撃。

「ここで入場料払うんだって言ってるんじゃない」
「それだけ言うのになんでこんなに大騒ぎしているの」
「うーん、運転手の分も払えとかかな」

そうこうしていると業を煮やしたおばちゃんが電卓に金額を打って見せるので、
(一人105元?)
「最初からこうしてくれればいいのに」
とこちらも日本語で言いながらお金を払いました。

タクシーのおじさんは、ここでもらったパンフレットを指さし、
「ここと、ここと、ここに行けばいいんだろ?」と念押ししています。
ここで、相変わらず車に関することにかけては先の読めないTOが、

「帰ってもらって歩いて回ろうか?ホテルみたいなのがあるからご飯食べて、
帰るときにはさっきのゲートのおばちゃんにタクシー呼んでもらえばいい」

と、まるでここが箕面のハイキングコースであるかのように言うので、

「そんな簡単に歩いて移動できるとも限らないし、
タクシー呼ぶのにまた、あのおばちゃん相手に大騒ぎすることになるから、
このタクシーにずっと回ってもらった方がいいと思う」

とそれを止めました。
結果的にはあまりに広く、移動にも車がないと無理だったので、
広大なダム敷地内を車で移動しながら、またもやわたしがTOに

「ね?だからあの時車を帰さない方がいいって言ったでしょ」

と威張るはめになりました。
わたしだって、威張りたくて威張っているわけじゃないんですけどね。



最初の見学コースがいきなりお墓と八田與一の銅像です。
さっき供えたばかりと言った風な花と煙草、お菓子など。
いったいどんな人がこのようなお供えをするのでしょうか。
外代樹というのはとよき、と読み、八田與一の夫人です。
夫亡き後、ダムに身を投げて後を追いました。
なぜ墓石の文字が赤字なのかはわかりませんでした。



八田夫妻の墓の横にあったのは、この小さな墓石。

「技師中島力男氏の分髪」

と書かれています。
中島技師は、東京農大出身で、八田の引いたダムによって
穀倉地帯となったこの地で、計画給水による蓬莱米の生産に
その力を注いだ、やはり日本人でした。
かれは終戦後もここに留まり、台湾のために尽くしました。

嘉南地域の人々は、この中島技師に対する感謝も忘れてはいません。



そして、TOが墓石に額づいてお祈りしていますが、
その墓石の手前にこのように八田像があるというわけです。
なぜか、赤い「立ち入り禁止」のラインが両側に立てられていました。
中国人が台座に乗ったり、像に手をかけたりして写真を撮るのでしょうか。

あの連中の写真を撮るときのナルシストぶり、ご覧になったことあります?
思いっきりポーズを決めて、まるで映画スターみたいに表情を作って、
傍で見ているだけで日本人は恥ずかしくて目をそらしてしまうのですが、
・・・まあ、両手でピースサインしないと写真が撮れないらしい日本の女の子も、
かなり外国ではバカにされていそうな気もします。



クリスマスシーズンのせいか、いたるところにポインセチアがありました。
八田與一の像はここを見下ろす場所に座っています。



この蒸気機関車はベルギー製。
ダム建設のために購入されたものですが、
八田がダム計画を進めるにあたって最重要視したのは、
このような最新の高価な機材を海外から確保することでした。
それは総予算の一割を必要としたと言います。
土木機材のすべては八田自身がアメリカに行って自分の目でそれを確かめ、
全てを購入してきました。

この蒸気機関車は砂、資材、および作業員、住民を運ぶための交通手段でした。



はった、ではなく「はた」と書いてあります。
虫プロの制作した「パッテンライ!」(八田が来た)というアニメの
DVDを買って帰りましたが、それによると
台湾人は八田を「パッテン」と呼んだようです。

そういえばわたしの知り合いで中国駐在の方も、面と向かっては
日本読みで「ナカタ」(仮名)と呼ばれているけど、従業員同士では「チュンティン」
らしい、と言っておられました。



烏山島ダムは1920年に着工され、1930年に完成。
実に10年の年月をかけて出来上がりました。
このダムは「セミ・ハイドロリック・フィル工法」という、
八田與一オリジナルの工法で造られています。
八田が偉人と称えられるのがここで、この工法は、

「コンクリートを土台の一部だけに使い、その上から土砂を掛け、
そこに水をかけ続け、こうやって細かい土砂を下に落としていき、
ダムの基底を落ち着かせて固める」

という独自の方法でした。
この工法の利点は、底にコンクリートを使わないため、
ダム内に土砂がたまりにくいことだということです。
八田が、この地方の地質を知悉(一応シャレ)したうえで編み出した工法で、
これはのちにアメリカの土木学会に論文が認められています。

このダムは、正式名称「烏山東ダム」、しかし、学術名が「八田ダム」
とされるゆえんです。
アジアで、この工法で造られているダムはここだけ。
台湾の国宝に指定されており、さらにはいま世界遺産に申請中だそうです。



巨大な土木機材の一つ。
なにしろこの工事は、かかわったものが最初は戸惑うほど、
気宇壮大なもので、当初は皆機材をどうやって使うのかさえ
わかっていなかったといいます。

アメリカから派遣された技師は、総じて有色人種を蔑んで、
技術指導のためにやってきながら、ろくに使いかたを教えようとしません。
八田は日本人と台湾人の部下をこう叱咤しました。

「覚えるのは簡単だ。外人の鼻をあかしてやれ」



ダムの堤。
堤防の幅は9メートル。
標高66,66メートル、(低いですよね)
長さ1273メートル、高さ56メートル(標高と10メートルしか差がない)
ダムの底幅は303メートル。

このダムが、嘉南平原を水の無い荒れ地から穀倉地帯に変えました。



わたしたちが堤防を見学している間ぶらぶらしている運転手さん。
ここを観終わって、連れて行ってくれたのが、八田與一記念館。



この記念館は2001年に完成したそうで見学コースの一つ。
入ろうとしたら、誰もいなくて鍵がかかっていました。
すると、運転手さんは携帯で電話して、係を呼んでくれました。
ドアに貼ってある紙に
「御用事の方はここに連絡してください」と書いてあったようです。
おっちゃん、ありがとうね。



待っている間、その横にある貯水口を見ました。
アニメ「パッテンライ!」では、主人公の台湾人少年が、
ダム完成の際、八田技師に勧められてこの貯水口のハンドルを
開けるシーンがありました。



ダム放流の際、ここから非常に激しい勢いで水が噴き出します。
そのことからここは珊瑚飛瀑とも呼ばれています。
1997年に新送水口が完成し、ここは現在使われていません。



噴水のように聳える美しい尖塔は、
送水管内の水圧を安定させるために造られました。
この先からまさに噴水のように水を出して調整しました。

 

記念館の入り口のガラスのモニュメントには、
八田與一が夫人の外代樹と最後に撮った写真が使われています。

八田はダム工事完成の功を認められ、勅任官の地位を与えられていました。
武官で言うと、中将、少将が与えられるのと同じ高等官待遇です。

1942年5月、八田は南方開発派遣要員として、フィリピンに向かいます。
この写真は、軍服のような高等官の制服を身に着けた八田が、
おそらくは台北の自宅を出るときに夫人と撮ったのではないでしょうか。



八田が乗った「大洋丸」。
八田はフィリピンの綿作のための灌漑に必要なダム建設のために、
その適地を調査する役目を帯びてこの船で現地に向かったのでした。

しかし、1942年5月8日、出港してすぐ五島列島沖を通過中、
「大洋丸」はアメリカの潜水艦に撃沈されました。
八田の遺体は一か月後の6月13日、沈没現場からはるか離れた
山口県萩市沖合で漁師の網に掛かって発見されました。

享年56歳でした。



八田の葬儀の模様。
八田は外代樹夫人との間に二男六女の八人の子供をもうけています。
それにしても、外代樹夫人はじめ、白装束に身を包んだ
八田につながる女性たちの美しいこと・・・・。

夫人は日本が敗戦した直後の昭和20年9月1日、
夫がその心血を注いで作り上げたダムの送水口に身を投げ、自殺します。

次回、その外代樹夫人のことをお話しします。




台湾の先生が描いた飛虎将軍漫画

2013-01-09 | 日本のこと



















飛虎将軍廟でいただいた、漫画のパンフレットを全部掲載しました。
勿論安慶国小学校の劉先生の許可は取っていませんが、
おそらくこのような媒体で多くの人の目に触れることは先生にとっても
望むところであろうと判断したからです。

ここ台南は、水田や養殖池が広がる農耕地域でもありますが、
この地水を八田與一という日本人技師が行ったこともあり、
特に日本と言う国に対しては親しみを持ってくれている地域でもあります。

とはいえ、もう日本統治を実際に知る人々が少なくなってきており、日本のしたこと、
台湾の人々にとって功もあれば罪もあったと思われるのですが、それそのものは
人々の中からだんだんと薄れていきつつあります。

しかしこの海尾寮村は、今でもこの日本人を「郷土の恩人」として顕彰し続けます。
こうして子供たちにその逸話を語り継ぐことは、恩人に感謝を捧げることとともに、
飛虎将軍こと杉浦茂峰飛曹長が示したような「自己犠牲によって他を生かす心」
を理解し、またそのようにあるべしと教えることにほかなりません。



先日エリス中尉が家庭教師をクビにした話をしました。
あの件でその先生が「あれ」だったのは勿論ですが、そもそも稿末で

「心に平和の砦を築くとはどういう意味だと思うか」

などという質問をする国語の教科書(光村図書)というのがかなりオカシイ。
国語というのは日本語の言語的学習並びに、小説、詩、評論などの作品を
観賞するための力をつけるための学習科目であって、決してこのような
議論の場ではないはずです。

ましてや生徒の考えに対し、先生が思想誘導を行うなどもってのほか。
この教科書は、ここにあえてこのような設問をすることで、
日教組教師の独断場である「平和憲法礼賛」などの偏った考えを
披歴し押し付けるための機会をわざわざ設けているとしか考えられません。


この飛虎将軍の話を、それを顕彰している台湾の人たちの話を、
この地方にダムをもたらした八田與一の話を、そして世界で活躍する偉人の話を、
どうしてこのような日本人の話を、教科書に載せないのか。
(まあ、作る会であんなに大騒ぎしているのだから、その理由はわかってますが)

台湾の先生たちは日本に昔統治されたとか、そういうこととは全く関係なく、
「素晴らしい人の行為を称え、その精神を子供たちに学ばせたい」
という純粋な思いでこのような漫画を作ったりお芝居を企画したりするわけです。

子供たちには、人を思いやる気持ちや、その気持ちに感謝する心をまず育てる、つまり
土台になる土を耕すことがまず行われるべきで、平和の在り方や他の国の情報などは、
その耕された心を以て自分の頭で考え、知るべきことです。

子供たちのまっさらな心に先生が「軍隊なんか持つから戦争が起こるんです」
などと一見もっともなことを吹き込んだり、「お隣の韓国と言う国について調べましょう」
「日本は悪いことをしたけど、これからは仲良くしていかねばなりません」
などと言われれば、当の向こうが反日教育をしていることも知らずに子供たちは
「韓国には頭を下げ続けても仲良くしてもらわなければいけない」などと思うでしょう。

安倍新内閣は教育の根本的な改革を掲げていますが、それはとりもなおさず
「日教組の解体」となるべきで、ならねば教育の再生はありえません。

わたしは今回、この先生たちのことを知り、
正しいことを正しいと教えることができる教育ができるこの教育者たちを、
そんな教育を受けることのできるこの子供たちを心底うらやましく思いました。

そして、このような「まっとうな」教育が
日本に帰ってくることをこれからの日本のために強く願うものです。



飛虎将軍廟と台湾の子供たち

2013-01-08 | 日本のこと

1971年に建立され、地元や日本からの観光客の崇敬を集めた
台湾、台南市にある「鎮安堂・飛虎将軍祠」訪問記の続きです。

村の人々の命を守るために壮烈な戦死を遂げた海軍搭乗員杉浦茂峰飛曹長
この私を捨て公の義に死んだ侍は、戦後「神」となって人々に愛されてきただけではなく、
その存在そのものが日本と台湾の友情の架け橋となってきました。

1993年に朝皇宮管理委員会(この地方、海尾の守り神「保生大帝」のこと。
飛虎将軍はこの神様の同属として管理されてきた)は、
このわずか4坪の小さな祠を、広い廟に建て直すことを全会一致で決議し、その後
信者からの奉納により、50坪の土地に台湾風のきらびやかな廟が落成の運びとなりました。



この横断幕には

「台湾人 元日本兵軍人・軍属英霊 顕彰の族
日台の生命の絆
日華(台)親善友好慰霊団」

と書いてあります。
このような団体がここを訪れ、友好の象徴ともなった杉浦少尉に祈りを捧げるのです。
冒頭の写真の何人かは海軍の略帽を被っていますから、
おそらく杉浦少尉と同じ予科練出身の元軍人ではないかと思われます。



建て替えをしたときには台湾の新聞でも報じられました。

わたしが見た記事は、飛虎将軍、杉浦少尉のことが
「歌になり、近くの小学校でそれが訓話にもなって教えられている」というものでした。

この廟所蔵のアルバムには、その近くの小学校、安慶国小学校
学校劇としてこのストーリーを取り上げた様子が残されています。
アルバムの写真を撮影させていただきましたので、ご覧ください。



子供たちが皆戦闘機の羽をつけて飛行機になっています。
こちらは零戦のパイロット、杉浦飛曹長です。



こちらはアメリカ軍、グラマンF6Fのパイロット。
なんだか一人ずつ状況説明をしているようですね。



スタンバイ中の戦闘機群。
女の子も零戦に乗ってます。
がんばれ。



パイロットと言えど女の子、
出待ちの時には身支度を整えます。
この道具はすべて子供たちの手造りによるもの。
皆がそれらしいヘルメットを被っているので「?」と思われます?

ここ台湾では誰もが自転車よりスクーターに乗って移動します。
二人乗りは当たり前、子供を前に乗せるのも違法ではない模様。
スクーターの足元に荷物や犬を乗せているのを見たこともあります。
というわけで、子供でも必ずこのようなヘルメットを持っているのです。



こんな店が町にはたくさんあります。
日本よりずっと安い値段で買えるようですね。



壮烈な空中戦の情景・・・・・・・・ということなんですが、
・・・・・・かわいい・・・・・・(^.^)

こんな感じで、子供たちのに劇はこのあと「杉浦飛曹長の戦死」
「幽霊目撃話」と続き、



「飛虎将軍廟の建設」にいたるまで、
丁寧にこのいきさつが盛り込まれています。



この劇は安慶国小の先生が企画し、脚本を書きました。
このお話を語り継ぎ、この搭乗員の勇気ある戦死に感謝し、
そして皆さんも人を思いやる飛虎将軍のような心を持ちましょう、
と子供たちに教えてくれているのです。
日本人でもこの話を知らない人間がたくさんいるというのに。


後ろ姿で「農民役」「飛行機役」がわかりますね。

戦前の日本なら、この話はきっと教科書に載るでしょう。
というか、日本の教育は、どうしてこういう人物の話を子供たちに教えようとしないのか。
君たちの国は戦争を始めた悪い国だった、それというのも軍隊なんか持つからだ、
などとしか教えようとしない教育から、「人を思いやる気持ち」を知る心が育つでしょうか。
全く、日教組の××教師どもにはこの先生方の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
この際無理やり口をこじ開けてでも・・・おっと、この話はまた。



「飛虎将軍の心に感謝し、人を思いやる心を皆さんも持ってほしい」
とスピーチする校長先生。
このお芝居はクリスマス会の出し物として行われたようです。
サンタさんの格好のままでこういうお話をする校長先生に萌え~。



課外授業でここの見学ももちろん行われました。
皆、手に手に資料らしきものを持っていますね。
若い女の先生のしぐさにも萌え~。



こうやってお祈りするんですよ、と先生。
神仏に対する礼拝の礼儀を小さいときからきっちりと教える。
素晴らしい教育ではないですか。

全く、生徒のための卒業式で国歌を歌うの歌わないので大騒ぎ、
自己発現のデモンストレーションで政治活動をする日教組教師には
この先生の爪の垢でも(略)



そして説明員のお話を聞いています。
リュウTさんが本読みのボランティアをなさっているという話がありましたが、
この人もそのような立場の方でしょうか。
子供たちの心に、この飛虎将軍のお話はどのように響いたのでしょうか。




台湾には、昔統治時代に台湾の人々に慕われ、尊敬された結果、
この飛虎将軍のように「神様」になった日本人が何人もいます。
その人生をかけて荒れ地だった土地に治水工事をした人物。
村人のために献身的に働き、税金を免除してくれと上告したが「住民煽動」
の疑いをかけられ、抗議の自殺を遂げた警察官。

民族的ナルシシズムや国威発揚とは全く関係なく、
日本人にはこんな人物もいたと言うことを知るとともに、
なぜかれらが「神様」として愛され続けているのかを知ることは
今の日本の子供たちにもっと必要な教育なのではないでしょうか。

それは、その時代に生きていたわけでもない子供たちに「過去の反省」を強いるより、
結果的にはずっと確かな平和教育となりうると思うのですが。








改憲派からの手紙~ノンチックさんの言葉

2012-12-30 | 日本のこと



「日本は戦後偉大な発展を遂げた。これは日本が成功したということで、

とりもなおさず憲法に日本人が体を合わせてしまったということでもある」

あなたが憲法は改正するべきではない、と言う理由の一つです。
結果論で、日本が経済大国になったということが「憲法は正しかった」
ということの証明であるとおっしゃっているのですね。

おっしゃるように日本は戦後、奇跡と言われるほどの発展を遂げました。
勤勉な国民性、創意工夫に富んだ技術とそれを真摯に追求する真面目さ、
そして熱心さ。
これらの美点がそれらを可能にし、さらには憲法で保障された安全がそれを後押しした。
おそらくあなたはこうおっしゃりたいのでしょう。

しかし、戦後日本の発展には、まれにみる後押しがあったとわたしは思っています。

「運」です。


韓国は戦後、日本からの賠償金名目の援助金を軍事政権が使い込んでしまい、
さらに日本とアメリカの技術指導と援助によって経済発展を遂げました。
それを自ら「漢江の奇跡」と称揚していますが、
日本からの援助があったことをいまだに国民に知らせていません。

日本の発展は、ただ日本人が優秀で勤勉であったから成し遂げられた、
ましてや憲法がそれを可能にした、と考え悦に入るのは、
日本の援助を知らされていないほとんどの韓国国民と一緒で、
実におめでたいと言わざるを得ないというのがわたしの意見です。

勿論、日本人の努力と、その能力を否定するものではありません。

中でも戦争から生きて帰ってきた人たちの、「死んで行った戦友に顔向けできない」
という痛切な思い、日本を建て直そうとする力、これらが、
日本の驚異の発展のパワーの源泉であったことは、疑うべくもないでしょう。

しかし戦後、東西対立の構造の中で起こった朝鮮戦争の特需などが、
日本の経済発展に利する状況となったこと、これが実は最も大きな日本の蘇生と
その後の発展になったというのが歴史から見る冷徹な現実でもあります。

ましてや「日本の発展は憲法のおかげ」などというのは我田引水も極まれりです。


あなた方の世代は、平和しか知らず、アメリカ文化に憧れて育ち、
あるいはその一方「日本は悪かった」という刷り込みをもっとも受けた世代です。

高度成長期の、もっとも日本が激変した時代に多感な時期を過ごし、
そして、右肩上がりの物質的な豊かさを日々享受しながら人生の充実期を迎え、
あのバブルの時代を、社会の最も中核にいる世代として迎えたのです。

バブルはいかがでしたか?
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」
と詠った藤原道長の絶頂期のように、
日本人である限り世界で怖いものはないというくらいの、あの国民総お大尽の日々。
OLがブランド買い物旅行に出かけ、学生はパーティで稼ぎ、不動産屋は超高級車を乗り回す。
毎日が狂乱の中に踊っているようなあれが、日本が戦後最初で最後に体験した
「愚者の平和」そして「虚栄の市(バニティ・フェア)」の最たるものであったと思います。

あれほど日本人が形骸化した、物質主義の極致であった時期は、
日本の長い歴史の中にもなかったのではないでしょうか。
全ての精神的なものを置き去って、ただ発展を続けた社会。
国を愛することが恥ずかしいと思っているくせに日本人であることで信用の恩恵を被り、
経済的な繁栄を享受してきた日々。

それが今、跡形もなく崩壊し、物質的豊かさは何も意味を持たず、
むしろあのバブルの頃に見られた馬鹿騒ぎに象徴されるような精神の荒廃を
生むだけだったと皆が気付いたのではないですか?

あなたは、厳密にはいまだにそうは思っておられないかもしれません。

あなたの世代は、日本人であることに誇りが持てなくなった、しかしそれでいながら、
日本の経済力が何よりも世界を圧倒すると信じている、典型的な「団塊の世代」です。

勿論、衣食足りて礼節を知るの言葉通り、最低の精神的生活のためにも経済は必要です。
貧しいよりは豊かな方がいい、清貧などは絵空事だ、そう思われるでしょうか。

「でも、今の世の中、誇りやプライド、名誉で食っていけるのでしょうか・・・?」

あなたはこうおっしゃいました。
実に「らしい」一言です。
誇り高きベトナムの話はあなたの心には響かなかったようです。
おそらく、最貧国であっても過去を誰の責任にすることもなく独立の道を歩んできたベトナムより、
プライドを捨ててでも、やくざのような民度の低い国、しかも内心皆が見下している国との商売を成功させ、
外貨を稼ぐ国のほうが実は「したたかで強い」国なのだとおっしゃりたいのでしょう。


自分たちが占領下で与えられた憲法と、隷属の平和を与えられ、むしろそれに
安住しているような国民は、国と国の付き合いにおいて、相手が礼節を持たずとも
それに対し何とも感じなくなるのでしょうか。

大使が公用車の国旗を盗まれたことに対し、あなたはわたしに向かって
「自分たちには関係ないしお前の激高するようなことでもない」とおっしゃいました。

国の象徴である国旗を盗る、と言う行為は単なる窃盗行為ではありません。
あからさまにその国を侮辱しようとする行為です。
しかし、これに対し丹羽大使はなんの声明も出していません。
おそらく、国旗など取られてもこの人間には何の痛痒も感じなかったのでしょう。
あなたのようにです。
そういう意味では、この国旗を奪った中国人は「全く襲う相手を間違えた」と言えます。
そして、日本政府の対応も相変わらずの「遺憾の意」でしたね。

ところで、この事件に対し日本人として「怒る」のは、中国と言う国に対して嫌悪を持つのは、
あなたにとっては恥ずかしいことなのですか。
日本国旗を「象徴」であるとすること、それを盗まれる行為にそれ以上の屈辱を感じること、
もしかしらあなたにとって、こういうのは「かっこ悪い」ことだったりするのでしょうか。

押し付けられた憲法を「何があっても守らねばならない」と語り、さらには
「自衛隊で十分だ、何かあったらアメリカが守ってくれる」などという、
あなたのこのような隷属精神のほうがよっぽど「恥ずかしい」と思うわたしのような人間は、
あなたから見ると滑稽に見えるのかもしれません。

あなたの世代を特徴づけるものは、高度成長期に仕事を覚え、
日本をその壮年期に経済大国にし、そして日教組教育のもっとも強い影響を受けていることです。
トヨタ、ホンダ、ソニー、シャープ、NEC。
皆、団塊の世代とともに発展を遂げ、日本の経済発展に寄与した企業です。

あなたの発言に見えるのは、良くも悪くもこの団塊世代に於ける典型的な傾向で、
経済至上主義や、あるいは日教組教育によって刷り込まれた贖罪史観です。
二回に亘って述べたように、占領国アメリカのプログラム、社会実験が、
悪い意味で功を奏した世代ともいえますが、もちろんこの世代が日本を
世界第二の経済大国にのし上げたことも事実です。
あなたたちの父親、つまり戦争に行って帰ってきた人々がその文字通り「贖罪意識」
(この場合は亡くなった同世代に対する)から凄まじい勢いで日本を高度成長させ、
あなた方の就職の際には「金の卵」と言う言葉が若い人に対して使われました。

あなたたちは「過労死」するほど仕事にまい進し、家庭を顧みない「企業戦士」として
滅私の精神で働き、「エコノミックアニマル」とやっかみ半分の蔑称を
世界はあなたたちに捧げたと聞きます。

そして今、あなたたちは、第一次ベビーブームの人たちを先頭に、少しずつ、
社会の第一線を退きつつあります。

あなたたちの残した日本社会は、今どのようになりつつあるでしょうか。

あなたたちの価値観、あなたたちの教育によって、これからの日本の子供が
育っていっても、はたして盤石だと思えるような精神的基盤が、
今の日本にあるでしょうか。

今の若い人たち、インターネット世代の人たちが、教育によって
日本を愛せなくなってしまった大半のあなたたちの世代と違い、
「自分の国を愛したい」と、むしろ洗脳的に行われる日教組先生の教育に
逆に反発し、振り子の振れのようにあなたがたとは反対の方向に
その針を振っていることにお気づきでしょうか。

8月15日の終戦記念日、もしあなたが靖国神社に行けば、
そこにたくさんの若い人たちの姿を見るでしょう。
鳥居をくぐるとき、直立して一礼する学生風の若者が、
もし平日そこに行けば必ず一人や二人いるのを知るでしょう。

あなた方にとって、これは「かっこ悪い」ことでしょうか。

ここに一冊の本があります。
靖国神社で買った、「日本人よありがとう」という本です。
この本の序文にマレーシアの元上院議員、
ラジャー・ダト・ノンチック氏が、日本人に向けてこのような詩を載せています。
最後に、この詩をあなた方にお贈りして、
わたしからの手紙を終わることにします。

 ちなみに、2012年9月、毎日新聞の世論調査で、「改憲すべきである」
と答えたのは全体の65パーセントで過去最高となったそうです。
ネット調査ではなく、改憲に反対意見を多く出すこの新聞社の調査です。

ご参考までに。

かつて 日本人は
清らかで美しかった
かつて 日本人は
親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも自分のことのように
一生懸命尽くしてくれた

何千万人もの 人のなかには
少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて
いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない

でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや
不愉快さを超えて
おおらかで まじめで
希望に満ちて明るかった

戦後の日本人は
自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも
そうだとしか教えなかったから
まじめに
自分たちの父祖や先輩は
悪いことばかりした残酷無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ

だから アジアの国に行ったら
ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと
言えばよいと思っている

そのくせ 経済力がついてきて
技術が向上してくると
自分の国や自分までが
えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では
済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの
自分本位の 偉そうな態度をする
そんな 
今の日本人が 心配だ

本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちには
今は いつも 歯がゆくて
くやしい思いがする

自分のことや
自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと
身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか

自分たちだけで集まっては
自分たちだけの楽しみや
ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを 
さげすんだ眼で見たり
バカにしたりする

こんなひとたちと
本当に仲良くしてゆけるだろうか
どうして
どうして日本人は
こんなになってしまったんだ









改憲派からの手紙~コスタリカとカルタゴの平和

2012-12-29 | 日本のこと

「憲法を改正すべきでない」というあなたの考えに対して、
わたしの意見をさらに述べる前に、少しご報告があります。

つい最近ですが、息子の家庭教師をクビにしました。

わたしは息子には目上の人に正しく敬語を使えるようになってもらいたいので、
オンラインでスカイプを使ったチューターを契約しています。
先日の授業は、息子が学校からもらってきた、写真の教科書についての宿題でした。

「平和について考える」
という、広島の原爆資料館を保存する運動のことを述べた内容で、宿題の最後は

「心に平和の砦を気築くとはどういうことでしょうか。あなたの考えを述べなさい」

というものでした。

わたしは息子の向かいで作業しながらずっと最初から最後まで聞いていますが、
スカイプですので先生の言っていることは聞こえません。
あくまでも息子の返答から先生の言っていることを想像するだけです。

その問題に彼らが取りかかったとき、わたしは手を止めて聞いていました。
息子はどうやら「あなたはどう思いますか」と質問されたらしく、
「えー、国と国があれば戦争は起こるからー・・・・」「それは仕方がないっていうか」
「やめようと一人が思ってもやめられないし」
などと拙い言葉で答えています。
すると先生が息子に向かって何か話し出しました。
それをひとしきり聞いてから、息子が言葉をはさみました。

「コスタリカ、ですか?」

「代わって」

わたしは息子のその一言を聞いた途端、言いました。
「え?」
「いいからママに代わって。先生にお話があるから」

怪訝な顔でヘッドセットを渡し、息子は別室に退場。
わたしはモニターの裏に座って先生に切り出しました。

「あの、お母様、姿が見えていないのですが」
「モニターの反対側に座っているので見えないのです。
それより、今息子にコスタリカとおっしゃいましたね。なぜですか」
「それは、息子さんが最後の設問に『国があれば戦争は起こるものだ』と
言いましたが、やはり、これは質問ですから、答えを書かないといけないので・・。
でも、息子さんが自分で考えなくてはいけないので提案として申し上げたんです」
「なぜコスタリカですか」
「コスタリカと言う国は、軍隊を持たない国なんですが・・・」
「存じております。
しかし、コスタリカはほとんどアメリカに軍備を依存する関係です。
つまりアメリカの軍事力の傘に守られており、機構に組み込まれています。
そして、軍隊は持ちませんが、その大きな理由は平和のためではなく、
あのあたりの国は軍があると軍部がすぐにクーデターを起こすからです。
ご存知でしたか?」
「いえ・・・」
「思想を誘導するのはやめていただきたい。
しかも、よく御存じでもないことを印象でおっしゃるのは問題外です」

エリス中尉、脚色でもなんでもなく、言文一致でこう言いました。

「そして、ご自分の思想を国語の時間に押し付けるのもおやめください。
戦争や平和についてはわたしはいつも息子と話し合って考えています。
それに、息子は『国があれば戦争は起こるものだ』と言いましたね。
平和の砦を心に築いたところで、起こるものは仕方がない、これが息子の考えです。
この宿題は『あなたの考えを述べなさい』とありますが、これじゃだめなんですか」

さすが長年教壇に立ってきたらしい中年の女性教師だけあって、
このような意見には決して異を唱えません。

「わかりました」

そう一言だけ答え、息子には「お母さんと一緒に考えてください」と言ったそうです。

次の日、派遣会社にわたしはそのことをそのまま報告しました。
「公立学校で今回のように親の目が届かないのをいいことに、
自分たちの思想を子供に刷り込む日教組先生と付き合わずに済むからこそ、
わたしは息子を私学に入れているのです。
家庭教師を頼んでこういう先生に当たるとは思いませんでした」

そういうと、社長は
「わたしもアメリカの学校に通い、生徒の意見を尊重する教育を受けましたからわかります。
そのように先生が意見を誘導することはかなり問題であると考えます。
すぐに先生を交代させますので」

わたしは決して先生をクビにしようと思って電話をしたわけではありませんが、
向こうが自主的に先生の交代を申し出てきたというわけです。


おそらくこの先生は現役の間もしょっちゅうこういう機会をとらえては
「軍備を持たない平和なコスタリカと言う国があります。
日本も、軍隊など持たなくても平和憲法さえあれば戦争をせずにすむのです」
と、九条礼賛をやっていたのに違いありません。

コスタリカの「平和憲法」が「有事の際にはそのために徴兵制を敷く」
となっていることなど知りもせず、また知ろうともしないで。

コスタリカも日本も、近年戦争に巻き込まれることもなく、平和の状態が続いています。
しかし、コスタリカの平和と言うのは完全にアメリカの一部として組み込まれた平和であって、
内実は麻薬と犯罪が横行する、実に不安定な国情であること、
そして日本の平和は、言わば「カルタゴの平和」であることを考えてみるべきです。

カルタゴの平和。

この言葉をご存知でしょうか。
カルタゴは今のチュニジアに紀元前6世紀ごろ繁栄を見た都市国家でした。
第二次ポエニ戦争でローマ帝国に負けたカルタゴは、戦後、武装を解除させられていました。
しかし、貿易で国を建て直したカルタゴは勇将ハンニバルの経済立て直しによって
平和と繁栄を享受するまでに復興を成し遂げ、人々はその中ですっかり
「非武装でも平和は守られるのだ」と平和ボケしていました。

戦後賠償もあっと言う前に終え、さらなる発展を見そうなこの優秀な国に対し、
ローマ帝国は脅威を感じ、この国の殲滅に乗り出しました。
ハンニバル将軍は国民にローマ帝国の脅威と国防の必要性を説きましたが、
平和ボケの国民は聞く耳を持たず、ついにハンニバルは
カルタゴの民の手によってローマに売り渡され、自殺します。

自国の危機を訴えて軍備を説いた愛国者を、いわば自らの手で殺めたカルタゴは、
その後、ローマからの無理難題にようやくその真意を悟りますが、時すでに遅く、
ローマはこの国が二度とよみがえらないように、侵攻し徹底した虐殺を行いました。
そしてわずか三年後、カルタゴはこの地上から跡形もなく消えてしまったのです。


この話を日本とどこかの国に置き換えることはできませんか?


戦勝国であるアメリカもまた日本に対し、ローマ帝国がカルタゴを殲滅したように、
二度とアメリカに逆らえないように「精神的な殲滅を謀った」のだとしたら?

そして、軍備の必要を説くハンニバルを疎んじて「お前は戦争がしたいのか」
と駆逐したカルタゴの民は、どこかの国の国民に似ていませんか?

戦後レジームからの脱却を唱える安倍首相を「戦争がやりたい人」などと叩き、
「おなかが痛くなって辞めた人」などと侮辱し、
政権に着く前からその経済政策のアラを探しては大騒ぎし、果てはあなたのように、
その財の元が「アヘン」であるから、そんなダーティな人間の唱える「改憲」には絶対反対、
などというレッテル貼りまでして否定する。


メディアと、そしてあなたがたの安倍叩きには実に凄まじいものがあります。
朝日新聞は「安倍叩きは社是」だといいましたし、産経新聞以外の大手紙は勿論、
NHKも他のテレビ局も横並びで安倍首相をヒステリックに非難しています。
なぜですか。

安倍首相がかつて「戦後レジームからの脱却」に着手したからですか?
憲法の改正を示唆したからですか?
カルタゴの将来を憂えて軍備の必要を説いたハンニバルのように。

思うに、日本人をカルタゴの平和という暗愚の闇に閉じ込めておきたい層、
つまり戦後レジームから脱却されると「よっぽど困る層」がいるのです。
この層が、前回マスコミを使って安倍氏を引きずりおろし、
また、帰化日本人だらけの政党だった民主党を第一党にしたのではないですか?

日本人が戦後レジームから脱却しては困る人々とは誰でしょうか。

それは日本の中の日本人ではない人々であり、日本人に目覚められては困る売国者であり、
そして、平和憲法とアメリカによってのみ日本が守られていると信じ、
カルタゴの平和の中に安住している、あなたがたなのです。





明日に続きます。



改憲派からの手紙~団塊の世代のあなたへ

2012-12-28 | 日本のこと

          

このブログについて端から端までいつも目を通してくださっている、と言う方以外は、
最近、エリス中尉とある読者の討論がコメント欄で繰り広げられたのを
あるいはご存知でない方も多くおられるかもしれません。

そのやり取りそのものについては、ご本人の了解も得て、今まで隠していたコメントを
皆オープンにしていますので、もしその経緯がお知りになりたければ、
「白洲次郎」あるいは「不思議の国のダレス」のコメント欄をご覧ください。


さて、わたしがこれまでいろんな本や資料、映画映像、インターネット言論に至るまで、
そういった媒体から取り入れてきたことは、ある程度傾向を持ち、このブログに表されています。
もしそういった考えを読めば、わたし自身の思想信条なり、現政権や自衛隊、そして外交にいたるまで、
そして日本はどうあってほしいかと思っているかということも、読者の皆様にはお分かりでしょう。
ご自分と考えを同じくするからこそ読んでくださっている、そんな方もおられるとわたしは思っています。

しかしながら、ここに、全く異質の考えを持つ方が、コメントを下さるようになりました。
異質、というのは、つまりわたしの思想信条に対し異なる立場意見を持っているという意味です。
それがその読者の方であったわけですが、これは雑談の時にはわかりませんでした。
「そのような話」のときには決してコメントしてこられなかったからです。
これはパーティで政治思想の話はタブー、という話のようなものですから、不思議ではありません。
思想が違っても趣味が同じなら、何の問題もなく付き合えるのと同じです。

意図的にその話題に触れることさえお互い慎めばですが。

わたしは今にして思うのですが、この方はわたしの思想信条については
その個所をあえて読むことなくコメントしてきておられたのではないでしょうか。
そしてある日均衡が崩れました。
冒頭のこの挿絵、「不思議の国のダレス」のために描いたものですが、
この記事に対するコメント欄から「全てが始まった」というわけです。


この「不思議の国のダレス」は、その方ののリクエストともいえる
「白洲次郎」のいわば傍論として、ちょうど左翼学者で元防大校長の五百籏頭氏の講演の後、
氏の「意図的な間違い」を突っ込みついでに、憲法改正における吉田茂と白洲次郎について、
その経緯を説明しながらお話しさせていただいた稿です。

吉田も白洲も、日本が独立するときに政治の第一線にあり、その行方を決定した人々です。
とにかく日本は7年間、占領されていた。独立国家ではなかったのです。
その状態からどういう独立の形を勝ち取るのか、それは彼らの手腕にかかっていました。

この方は彼らをその点において最大に評価しておられました。
そして彼らの作った憲法を改正することは「間違いだ」とおっしゃいました。

そうでしょうか。

彼らの成しえた「独立の形」は、最良のものだったのか。
そして「日本」は真の独立国として立ちえたのか。

わたしは、その答えは「NO」だと思っています。

これから、その方に手紙を書きます。
しかし、これはこの個人に対する手紙ではありません。
ですから、反論や批判などはご無用です。
この方の世代、つまり日本が独立した昭和27年ごろ生まれた団塊の世代の、
同じのような考えの人たちへの提言であるとご理解ください。


ここでわたしは、自分の考えを述べようと思います。
これはあくまでもわたしの考えであり、あなたがたには相容れぬことも多いかと思います。
しかしそもそもおそらくわたしと考えを異にする人々はこのブログは読まないでしょう。
人は自分と同じ考えのものだけを目にしたいと思うものだからです。

つまりこの方は否定なさいましたが、自分の思想を吹き込もうという
「オルグ活動」を目的にでもしていない限り、そのような考えの方は
このブログの愛読者などにはならないのではないか、
わたしは非常に残念ながら今でもこのように思っております。


前にも一度書きましたが、健全な国体にとって一番恐ろしいのは全体主義です。
ですから、必ずある思想にはそれに相対する思想があり、右と左のバランスが
取れていることが望ましい、とわたしは今まで信じて参りました。
ですから、わたしはこの方のお考えをも否定するものではありません。

しかし、この国が今直面しているもっとも懸念すべき問題の一つとして
「愛国」が「右」とされ、「左」は「自虐」「反日」はなはだしきは「売国」として
対極に存在するという構図かあります。
なぜなのでしょうか。


そんなことからお話ししてみようと思います。

あなたは、昭和27年に生まれました。
(これは実在の個人に対して言っているわけではありませんから、
本当にそうでもそうでなくてもいいのです。ご了解ください)
この年、日本はサンフランシスコ講和条約によって独立国となったのです。
日本は戦争に負けて、7年間の間、主権がなかったのです。

そんなことは知っている、馬鹿にするな、とおっしゃるでしょうか。

日本は敗戦後7年で主権を取り戻した。
しかしこれは、戦勝国からその権利をもぎ取ったのではありません。
日本人がその力で独立を勝ち取ったわけではないのです。
アメリカが考えるところの独立を「与えられた」のです。

アメリカは日本との戦争に勝ちました。
これからの日本をどう料理していくか。
「日本の侵略」を食い止めるというアメリカの戦争に対する建前と、
大戦後大きく変わった国際的な「道徳的規範」から言っても、
これまでのようにこの国を「植民地」にすることはできない。
しかし、少なくとも戦勝国としての最大限の利益をここから得ねばならぬ。

アメリカはマッカーサーのGHQを介して丹念に吟味し、
この国を自分たちの都合のいいような国にリセットしようとしました。

そしてまず執り行ったのが「儀式」です。

遡及法であり、戦勝国が敗戦国を裁くという、国際法上違法の東京裁判。
アメリカはいったい何のためにこれを行ったのだと思います?
ラダビノッド・パル博士はこのような意見を述べました。
「これは裁判の名を借りた復讐であり、占領政策のプロパガンダに過ぎない」

つまりすべてはアメリカが日本を「これから統治するためのイニシエーション」だったのです。

そして占領下にあった7年の間、東京裁判に始まり、アメリカは着々と日本人の「精神性」を、
つまり、これまで日本人が心の支えにしてきたものを尽く破壊しました。
神道を追放し、教育勅語を廃止し、「軍」にまつわるものやことはすべて打ち壊しました。

敗戦で打ちひしがれぺしゃんこになってしまった日本人に、
「全ては軍が国民を騙してきたことで国民は被害者だ」というスローガンを与えました。
格好の「怒りのやり場」として「軍部」を日本人の前に投げ出したのです、
東条英機ら国家指導者をそのための生贄として処刑し、さらに「日本の悪」を繰り返し宣伝し洗脳しました。

これを「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と言います。
きっとあなたはご存知ですね。知識の上では。

そんな占領政府の下で日本は独立したのです。
これが、日本にとって健全な独立だったとお思いでしょうか。
ただ常識だけで考えてもわたしにはこのような結論を出すことはできません。

そんな中で行われることになった日本の独立。
吉田や白洲が、GHQと折り合いつついかに日本の意志を通し、
また一日も早く独立を成し遂げるかに腐心したか。
彼らの中には常に苦衷があり、それはまさに「戦い」であったとわたしは思います。

しかし、国民はそうではありませんでした。それどころではなかったのです。
しかも昭和25年には朝鮮戦争が起こり、日本は「特需景気」に沸いていました。
人々は今日を生きるのに精いっぱいで、日本が占領下にある非独立国であることなど、
我がこととして考えている余裕もなかったのではないでしょうか。

だからこそ、GHQの行った「日本人の精神殺戮」、
ウォーギルトインフォメーションプラグラムは、非常に巧妙に、
しかし確実に日本人に浸透していったのです。
それが着々と功を奏すのと同時に日本人は経済的な成功の道を突っ走り始め、
不満や疑問は経済的成功の甘い味に糊塗されてしまったからです。

アメリカがやったのは、まさにアメとムチのやりかたでした。
その頃、アメリカがこれ見よがしに見せつける、アメリカ式物質文化への強烈な憧れから
「アメリカのすることは何でも善」とまで洗脳された日本人は少なくなかったと聞きます。


アメリカは、敗戦国―自分の手に入れた国―に対して、一度叩きつぶしリセットしてから
あらたにリフォームをするという壮大な「社会実験」を日本に対して施しました。

そしてそのリセットの象徴たるものが「日本国憲法」だった、とわたしは思っています。

あなたは日本国憲法がいつ制定されたか言えますか?
昭和22年、なんと終戦二年後なのですよ。
おかしなことだと思いませんか?

昭和22年と言うと、まだ日本は被占領まっただ中です。
主権を持たない国家が憲法を持たされたのです。
誰によって?
主権を持たない占領下で、まさに占領国アメリカによって「持たされた」、
これが、現在も日本国憲法であり続けている憲法なのです。

あなたは憲法は絶対に改正するべきではないとおっしゃいました。
その理由はなんでしょうか?
わたしの読み取る限りお答えは二つ。
ひとつは

「戦後日本は発展し世界第三位の経済大国にまでなった。
とにかく結果が良かったということは、憲法も間違っていなかったということだ」

そしてもう一つは

「改憲によって中国の怒りを招き、それによって在中企業に『不測の事態』が起こりうるから」

・・・・・まあ、二つ目の意見については、わたしがわざわざ手をくださず?とも、
このブログを読んでいる方のほとんどは、個々に何らかの感想をお持ちになると思いますので、
あえて何も申し上げません。

しかし、あなたの
「戦後日本の発展と平和は憲法が間違っていなかったという証左である」
という考え方、これはいかがなものでしょうか。

その内容のいかんにかかわらず、わたしはまずこの憲法が

「戦勝国、さらに占領国の都合で作られたものである」

というところに重大な欠陥と、改正するべき大きな理由があると思っています。
国民の総意を結集したわけでも、国民の手で作られたものでもない憲法。
憲法作成にかかわった当事者である白洲次郎が
「監禁されて強姦されたらアイノコが生まれたィ!」とまで吐き捨てた憲法です。

白洲は、その中でも、日本のために最後まで最善を尽くそうとしたのでしょう。
しかし、いかに彼がその中に心血を注ごうと、しょせんそれが
「占領国の都合のいいように作られたもの」であったことに変わりありません。

アメリカは、二度と日本が自分に対し牙をむかないように、
「守ってやるからお前は二度と軍隊を持つな」という意図まで憲法に盛り込みました。


あなたは「自衛隊を国防軍にするのは反対です。星条旗が守ってくれますよね?」
とおっしゃいましたね。

独立に際してアメリカが日米安保条約を結んだ第一義は、
はたして本当に日本のためだったでしょうか?
「かつて自分に逆らった(しかも結構苦しめられた)敵を無力化して自分の配下に置く」
ことを周到に計画したにすぎないのではないですか?

国家と言う単位のすることに無償の「善意」無償の「親切」を求めるばかりか、その行為が
その表れであることを信じるなど、それこそおとぎの国の住民並みのお目出度さです。
アメリカのすることはアメリカにしか利することはない、こんなことは当然ではないですか。

しかし今や当のアメリカすら戸惑うくらい、日本人は見事にプログラムされ、
平和憲法とそして米軍によってわが国の平和は守られている、と無邪気に信じる
「おとぎ話の国の住民」がたくさん生息しています。
そう、あなたのような人たちです。

あなたは今、アメリカは日本のために率先して血を流してくれると思いますか?
アメリカの議会は日本を守るためだけにに若者を戦地に送ることをためらわないと思いますか?
アメリカの若者は、日本を守るという大義のために喜んで死んでくれるでしょうか?
そしてあなたは、日本に何かあったら、そのアメリカの若者に
「日米安保があるのだから日本のために死んでくれ」とおっしゃるつもりですか?

わたしは、日米関係はこれからも良好であるべきと思っています。
この両国が緊密な友好関係であることは、世界にとっても望ましいことで、
間違っても民主党がやらかしかけたように「喧嘩別れ」などするべきではありません。
しかし、当のアメリカが日本に対して「もうそろそろ一歩踏み出した防衛をするべきだ」
とサインを送ってきていることも視野に入れるべきです。
つまり「円満な離婚」(別れても友達)の可能性を模索する時期なのかもしれません。

日本が自分たちを守ることのできる体制を作り上げながら、緩やかに。
なぜなら、日米安保を存続したまま憲法を改正することは理屈が合わない部分もありますし、
さらにアメリカの戦争に巻き込まれる懸念もないではないからです。


独立国になるということは、自分で自分を守る、つまり場合によってはあなた方の嫌いな
「血を流す」義務も伴うことでもあるとわたしは思っています。
どうして日本だけがその国家としての義務を丸投げしたままで許されているのでしょうか。
とにかく、いつまでも「アメリカが守ってくれるから平和憲法死守」とか言っている人たちは、
わたしには「守られる権利」だけを主張し、義務に対する対価を払おうとしていない、
わがままな子供のように見えてしまうのですよ。

いまの憲法にはもうひとつ重大な欠陥があります。
つまりいざ何かーたとえばどこかが攻撃してくるとわかっていても、
「まず真っ先に日本の誰かが死ぬまで何もできない」と言うことでもあるのです。
日本の国土が先にやられて初めて、自衛隊は動けるのです。
日米安保もそのときには恙なく発動するでしょう。
アメリカの軍事力を持ってすれば、どこであってもおそらく一日もあれば
相手を制圧し事態は平定するに違いありません。

しかし、その頃に日本は、日本の国土は、その混乱に乗じて起こってくると予想される
さまざまな「火事場泥棒現象」によっていったいどのようになっていると思いますか?
その「最初の一撃」が他ならぬ首都圏直撃の核ミサイルであったら、どうなると思いますか?


「憲法を改正したら戦争ができる国になるので、徴兵制が施行される」

これもあなたのお言葉ですね。
今コメント欄を見たら、リュウTさんが「選挙の次の日に聴いた小学生の言葉」
についてご報告くださっていますが、これと全く同じ言葉です。
つまり昭和27年生まれのあなたは、小学6年生と全く同じ発言をなさったことになります。

リュウTさんによると、この地域では民主党議員が当選したとのこと。
このようなことはいかにも先生が言いそうですが、彼らの親であった可能性もあります。

「憲法改正」=「徴兵制」は、あなたに言わせれば「極論」だそうですが、
わたしに言わせれば、これは極論でもありかつ典型的な左翼オルグお定まりの殺し文句です。

何度も言いますが、日本には徴兵制にはなりません。
インターネットでは「米国は世界支配の野望の足掛かりとして日本に憲法改正させ、さらには
徴兵制にしてアメリカの戦争のために働かせようとしている」と言っている人などもいますが、
(アメリカは確信的利益のために戦争をするかもしれないけど、「世界支配」ねえ・・・・)
あなたは勿論、アメリカが徴兵制でないこともご存知ですよね?


ところでこの際ですからわたしの考えを言わせていただきましょうか。
わたしは、日本は憲法を日本が独立した昭和27年、
つまりあなたの生まれた年に改訂するべきだった
と思っています。

現行憲法ができて、今年で何と66年。
もう少しで67年ですよ。
これだけ経てば時代の変化と国際情勢の激しい変化の実情からずれてくるのが当然です。
しかしこの長きにわたって、しかも主権の無い状態で作られた憲法を後生大事に守り続けている。

やはり日本はいまだに「不思議の国」です。

選挙前、共産党のCさんが公約で「平和憲法を守り抜く」と言っていたのを見て
少し笑ってしまいました。
共産党って、反アメリカ、反米軍ですよね?
そのアメリカに押し付けられた憲法をまるで聖典のように守る決意を語る党首。
できの悪い風刺漫画を見ているような気分になりました。


白洲次郎は戦後日本国憲法に対し「いいものはいい」と言いました。
確かに、いくら古かろうと憲法のすべてを変える必要はありません。
中にはこれからも大事にしていきたい条項もあります。
しかし、中にはこれでは日本の国益が損なわれる、と思われるものもあります。

以前も言いましたが、一つ一つそれを検討し、残すべきものは残す、
あらためるべきは改める、そしてとにかく、それを徹頭徹尾

「日本人自身の手で行う」。

それをするべきだと申し上げているのです。
なぜなら日本には「自分たちの手で作った憲法」がいまだに無いのですから。

主権の無かった時代、つまり日本人が日本を否定され自らも否定されていた時代。
この67年前の憲法を頑迷にそれを守り続けることは、まさにこの時代の暗黒に
自らを閉じ込め続けているようなものではないか、これがわたしの考えです。


長くなりました。
明日に続きます。





真珠湾攻撃最後通告の「真実」 遺族の戦い

2012-12-18 | 日本のこと

日本の最後通告は真珠湾攻撃が始まって一時間後、
予定の時間「攻撃開始30分前」に1時間半遅れて手交されました。

アメリカ政府は実は日本が先に攻撃を仕掛けてくるのを待っており、
日本の動きを逐一報告させていました。
外務省と大使館の通話は筒抜けであったことが今では明らかにされています。

何度も出してきている12月8日日経新聞記事の表ですが、
今日はこの、記事の内容にはあまり関係のない(笑)
「米軍による傍受」という部分を見てください。

お分かりのように(なぜかここだけ米国時間なのでわかりにくいのですが)
外務省が電文を打っていずれもほとんどが約30分で傍受されています。

最後通告の13部までを受け取った米軍は、少なくとも攻撃の始まる14時間前には
外務省から電文が大使館に送られていることを知っていました。
翻訳にかかった時間を考慮しても、902電文の第1部が送られた時点で、
米軍側はそれを順に解読していたことは間違いないと思われます。

つまり、アメリカは日本がこれを以て
「日本が米国に対して外交交渉を打ち切る覚書を送付している」
=「いつ日本が軍事的に進行してきても不思議ではない」に突入したことを
知っていたと断定してもいいでしょう。



ところで、この記事で「日本の計画的無通告攻撃であった」ということを主張する
三輪(助)教授は、この表における時間の経過を「初めて」発見したということです。

しかし、この「新事実」が実は新事実ではなく、単に米国公文書記録管理局にある
記録文書を初めて日本人が見たに過ぎない、という事実に注目してください。
つまり、アメリカ側はこの記録をいつでも見ることができたということです。

アメリカは、日本大使館の最後通告が真珠湾攻撃の後になったことを
「国際法違反だ」とし、世論を戦争に向けるために大いに利用しました。
当時、それは「卑怯なジャップのだまし討ち」として国内に喧伝され、
国民は「リメンバーパールハーバー」に簡単に同調しました。

戦後、「大使館の怠慢と無能のためのミスで通告が遅れた」という説が出て、
今日それがほぼ既成事実化―アメリカでも一応―されています。
しかし、もし通告の遅れが意図的であったことがこれらの資料によって証明されるのなら、
資料を持っているアメリカはなぜそれを今までしなかったのでしょうか。

「日本の先制攻撃はやはり国家的に仕組まれたものであった」

これを証明することは当初の主張が正しかったことを裏付けることになり、
やれない理由もまた考えられないのですが、それをアメリカはしようともしなかった。

考えられる理由は2つ。

1、とにもかくにも通告が遅れたことは事実であるから、その理由などはどうでもよかった
2、通告の遅れは日本が意図したものではなかったことを傍受によって知っていたから

おそらくこのどちらもが正解で、さらにはもう一つ重大な理由があるとわたしは思います。


それは最後に回すとして、どちらにしてもこの日経の記事を見て不思議なことは、
日本の陰謀説を主張しているのが日本人であるということです


以前「ひめゆりの塔の怖さ」という項を書いたとき、沖縄戦について調べていて、
「近頃あの戦争を讃美する動きがあるが」
という、いわゆる左っぽい人の言論を見つけたことがあります。

太平洋戦争は日本の自衛のための戦争であり、そして、
「卑怯な騙し討ち」になってしまったのは大使館の人為的ミスによる遅れが原因だった。

このように評価することをイコール「讃美」と非難する言論人にとっては、
通告の遅れはミスではなく、やはり日本の軍部が関与した意図的なものだったのだ、
というこの新聞記事の「新事実」は非常に歓迎すべきものであることは確かです。

つまり、編集者は「日本の戦争を自衛のためのものであった」という見解に
「卑怯な陰謀説」で水を差すのが目的だったのかもしれません。
そして、その目的に沿った主張をしている井口氏の「身内のための戦い」を引用したのです。



わたしは汚名をきせられた父親の名誉を回復しようとするこの井口氏を見て
真珠湾攻撃の全責任を問われたキンメル少将のことを思わずにはいられません。
キンメルは大将から引責降格されました。
たまたまその瞬間、責任を負うべき立場にいたがために、
未来永劫、歴史的な咎を受け続けなければいけない不運さにおいては、
アメリカ太平洋艦隊司令長官と大使館員という立場の違いはあっても同じです。

そして、どちらもの身内がその名誉のために今も戦い続けているのです。

http://pearlharbor911attacks.com/

「アメリカは日本の真珠湾攻撃をを知っていた」という通説が各種研究によって
年々信憑性を増しているにもかかわらず、
ハズバンド・キンメルの名誉は遺族による運動によってもいまだ回復していません。
その名誉回復決議は上院で一旦採択されましたが、歴代大統領は署名を拒否しています。

遺族の主張が「アメリカは攻撃を知っていてあえて真珠湾をスケープゴートにした」
という説に基づくものである限り、国家としてはこれを認めるわけにいかないからでしょう。

日本の打電を傍受していたことについても、アメリカ側は
「傍受はしていたが、すべてを解読したときにはすでに攻撃は始まっていた」
という見解を一貫して主張しているようです。

先ほどの「三番目の理由」がこれです。

公文書の記録を解析して「日本の陰謀」を暴こうとすれば、自分たちの動き、
そのとき何をどう察知していたのかということをも同時に明らかになってしまいます。
キンメルの犠牲を見て見ぬふりを続けてでも国の公式見解を守ろうとするアメリカが、
今さら藪を突いて蛇を出すような真似をするとはとても思えません。


翻って今回の日経記事に登場した人々は、
すべての責任を押し付けるのに格好の対象として「陸軍」を選びました。
戦後の多くの「日本誤謬論」が今は亡き「日本軍」にその責任を問うているように。
しかしいかんせんそれを証明するにはあまりにも状況や証拠が曖昧です。

遺族にはお気の毒としか言いようがありませんが、わたしには
大使館員の「汚名返上」は今後も不可能なことに思われます。
キンメル少将の名誉が、おそらくこれからも回復されないであろうのとは違う理由で。


だいたい、大使館の館員はこの件について公的には何の処分もされていないんでしょ?
だったら、むしろ黙っていた方がいいんじゃないか?と他人事だと思って軽く言ってみる。

(このシリーズ終り)




真珠湾攻撃最後通告の「真実」 こうして記事は作られた

2012-12-17 | 日本のこと



12月8日付、日経新聞文化欄の記事についてしばらくお話をしています。

この記事がその見出し通り「大使館怠り説を覆す新事実の発見」だったとしましょう。
今までの定説を覆す新事実が発見されたら、それは大ニュースのはずです。
しかしそれはなぜか12月8日、真珠湾攻撃の日に合わせ、文化欄において報道されています。


歴史的なことが起こった日、メディアは人々の関心が向くことを期待して
何らかの関連ニュースを掘り出したりしてその当日の紙面を飾ります。
「広島に原子爆弾が投下されてから今日で何年目であるが」
「あの列車事故が起こって今日で何年経つが」といった風に。

それはあくまでも新聞の紙面作りの定石、つまり「お約束」で、それを考えれば
この日経新聞の記事もいわば「12月8日のお約束」。
つまりこの「新事実の発見」にはなんらニュース的緊急性はないとすでに察せられます。

つまり簡単に言うと、日経は証拠のない不確実なことを記事にしているわけですが、
(どう不確実で証拠がないかは三回にわたって検証してきましたのでお読みください)
タイトルに「大使館怠り説覆す?新事実」「外務省の故意か」
と疑問符をつけたのは、まだしも編集委員の一片の良心と言えるかもしれません。

それでは、どうやってこのような記事が掲載されたか、その経過を想像してみることにします。

12月8日、この日に合わせて日経新聞編集委員の松岡資明記者が
何か真珠湾関係の記事を文化欄に書くことをデスクに命じられたとしましょう。
松岡記者は、インターネットで検索し、

大使館の怠慢、無能によって最後通告は遅れたとする定説に対し
外務省と、さらに陸軍の関与により通告は意図的に遅らされたという説

を唱えている井口氏と何人かの学者の名を発見しました。
そして、(どちらが先かはわかりませんが)
米国公文書図書館の当時の資料を見ることに成功した?九大の教授という名前も
検索にかかってきました。

ここであらためて説明しておきますが、

「陸軍の某が騙し討ちを計画し、外務省に関与させ故意に電文送付を遅らせた」

そう主張しているのは、実は「九大教授」(データバンクによると助教授)の三輪氏ではなく、
今は一般人であり、当時の日本大使館員の息子である井口氏です。

しかし日経編集委員は、紙面を作るに当たり、この「メインの主張」をしている井口「氏」ではなく、
タイトルに旧帝大である九大の教授(データバンクによると助教授)という文字を掲げる必要がありました。

なぜか。

紙面作りの主張は常に権威によって真実味を補強されます。
(うちのTOが出演したTV番組のように)
この記事においても4人の「識者」が登場し、かわるがわる、
いまさら検証のしようのない主張と推論を繰り返し「記事の意図するところの結論」を補強しています。

つまり一般論ですが、ある新聞、テレビが「こういう記事、番組を作りたい」と思えば、
言論の自由が保障された今の日本において
「その意に添う主張している学者、識者等」はたちどころに見つけられるのです。
TOもまたその一人として駆り出された、ということですね。

さらにみなさん、驚くべき事実をお教えしましょう。

大使館無実説を唱えているのが実は井口館員の息子であることを
この日経の記事はまったく報じていないのです。

なぜだと思いますか?

おそらく、編集記者は、井口氏の主張が歴史学者による学術的研究によるものでなく、
父の名誉を挽回するための息子の「復権活動」であることが、
この「新事実」にとって客観性、さらには信憑性を損なうと判断したのでしょう。

エリス中尉は検索によってこの事実を知ったとき、思わず噴きだしました。
そして、日経新聞編集者の姑息な(その場しのぎという意味で解釈してください)
記事づくりに、心の底から呆れました。


さて、この新聞社がこの記事のために担ぎ出した学者、識者4人。
前回触れなかったその最終4人目、ラスボスである(笑)東京大学の渡辺昭夫名誉教授は

「通告の前に攻撃が始まったという問題の本質は変わらないと思うが

隠されていた事実を明らかにし、政策決定における問題を研究するのは
学問的に意味がある」と評している(記事より)

と語ったとされています。

どうやら最後に、権威の最高峰である東大名誉教授のお墨付きが欲しかったんですね。
まあ、簡単に言うと、「こんな権威がこの事実を肯定している」という印象付けとしては、
九大(助)教授だけでは少し与えるインパクトが弱い、と記者は考えたのかもしれません。

しかしながら、この名誉教授、文章をよく見ると
「新事実」を裏付けるようなことは一言も言っておりません
それどころか、どう見てもこの意見、取ってつけたようでしかも投げやりです。
少なくともこの新発見を学問的に評価しているようには思えません。

「政策決定における問題」

とんちんかんな感想ですね。
全く本論と関係がないような気がするのですが。

「本質は変わらないと思うが」

これが名誉教授のこの「新事実」に対する評価でしょう。

しかしどんな小さなことでも史実を研究するのは学問的に意味はある

記者がなんとか引き出せたのはごもっともな一般論です。
しかし、はっきり言ってこの内容にとって何の意味もないのも事実です。


というわけで、この日の日経新聞の記事は、
証拠のない、ほとんど推論だけの「一部の関係者」が主張していることを
いかにも「事実」であるかのような紙面作りで報じようと思えば、
このようにすればいい、という見本のようなものであるというのが結論です。


反論があれば受け付けます。







真珠湾攻撃、最後通告の「真実」 東郷外相の保身

2012-12-16 | 日本のこと

日経新聞12月8日の記事で、すっかり
「最後通告は意図的に遅らされたのだ。やっぱり日本は卑怯な国だったのだ」
と思ってしまった皆さん。
お分かりいただけただろうか。

エリス中尉がこれまで述べたことを思い出していただきたい。

国際法的には海軍の攻撃予定の30分前通告は「十分すぎるほど合法」
海軍はぎりぎりの時間に布告し、効果を最大に上げるつもりだった
もとより日本政府は通告を遅らせることは全く考えていなかった
なぜなら国際社会に批難を与える隙を作りたくなかったからである
それは天皇陛下の御意志でもあった

しかしながら、実際には最後通告は交戦開始後になった。

これは、今のところ、大使館というより外務省の無能の結果である公算が強い

ちょっとハードに始めてみましたが、今までのまとめです。
無能、とはつまりぶっちゃけ「英語力のなさ」です。
当時はベルリッ○もアル○もありませんから、ただでさえ英語の苦手な日本人、
外務省関係者であってもその英語力は今よりかなりレベルが低かったのかもしれません。


そして大使館の不手際の責任を負わされた館員井口貞夫氏の子息である井口武夫氏が、
父の名誉挽回のためにその真実を追っている、というところまでお話ししました。

確かに事実を眺める限り、外務省が覚書を全て送るのに時間がかかり過ぎです。
陰謀論が入り込んでも仕方がないくらいの時間です。
しかしそれでは、大使館には、井口氏が主張するように責任はないのか?




またもや日経から転載。
902号の覚書最終部分(14部)が送られたのは7日のPM4:38。
大使館がコーデル・ハル長官に通告を手交したのは8日のAM4:20。

なんと、大使館は外務省の電文を受け取ってからタイプして
ハル長官に手交するのに12時間もかかっているのです。


そこで疑問です。

外務省は覚書のミス訂正に15時間かかりました。
この時間を、その長さから
「これは意図的なもので、通告を遅らせるためである」と決めつけた三輪(助)教授は、
どうしてこのまるまる12時間の経過に言及しないのでしょうか。

15時間。
この時間は、覚書が15部に及ぶ長大なもので間違いは157箇所以上あったことと、
さらに深夜であったことなどを考慮すれば、存外なものではありません。

しかし、出来上がった文章をタイプするだけにもかかわらず
大使館は受け取ってから手交までに12時間もかかっている。
こちらの方がよっぽど不自然な時間の経過であると思えるのはわたしだけでしょうか。

今仮に、井口氏や三輪(助)の仮説が正しいとしましょう。

もし陸軍の関与とやらがあって、外務省が意識的に電文の送付を遅らせ、
最後通告の手交を遅らせて攻撃を効果的にせんとする意思があったとすれば、
外務省はもっとぎりぎりまで時間を稼いだのではないですか?
どう大使館員が頑張ってタイプしても到底間に合わない時間まで。
大使館に12時間ものタイプのための猶予など与えないのではないですか?

不思議なことに、大使館がタイプを仕上げるのに12時間もかかったことについては、
この記事に登場する人々は誰一人として語っていないのです。
それが怠慢だったのか無能の結果だったのか、はたまた不幸な事故だったのか、
この辺の説明もありません。

唯一、「アメリカで客死した大佐の葬儀に出席していたため」という
これまで言われてきた理由の一つについて、なんと長崎純心大学とやらの塩崎教授が
「遅延とは無関係だった」なんて言ってしまっているのです。

葬儀が関係なかったのなら、つまり12時間もかかったのは、ただ単に大使館の無能と
間抜けにも電報が来ないので帰宅してしまった大使館員のせいってことが確定しますが。

つまり全く大使館員の弁護になってませんよ。塩崎教授。

父の名誉のため「大使館には落ち度はない」という結論を求めて長年研究を続けてきた井口氏ですが、
残念ながら長年主張してきたことは今のところ、公的には全く取り上げられていないようです。

思うに、外務省のせいだけにするには、大使館に与えられた12時間という長さが微妙すぎるからでしょう。
ちゃんと仕事していれば、間に合う時間ですよね?


さらに三輪(助)教授は、大使館怠慢説否定のために、
東京裁判における東郷茂徳外相(当時)の裁判記録、しかも弁護方針を引っ張り出してきて、

東郷外相が重い罰を科されないようにするために大使館に不手際の責任を押し付けた
(日経記事本文)


とまで主張しているのです。


東郷外相については昔「嶋田大将最後の戦い」という項で、嶋田繁太郎海軍大将が、
東京裁判においてどのように「戦った」かを取り上げたときに触れたことがあります。

この元外相が、戦犯として自分の保身をするのに汲々として、他の被告、
かつての国家指導者たちから「総スカン」を食っていた、という話です。

実は東郷は開戦の際、外相として「無通告攻撃」を主張していました。

しかし裁判でそのことを問われた東郷は、
「海軍が無通告攻撃を望み、わたしは脅されてそのように言った」と主張し、
さらに、自分があたかも軍国主義者と対決していたかのように語ったため、
海軍の名誉を重んじる嶋田大将との間に法廷で激しい応酬がありました。

「海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのか」と弁護人が問うと、東郷は
「嶋田と永野(修身)から口止めの脅迫を受けた」と答え、海軍関係者を激怒させます。
被告たちも一様に「かれの保身は見苦しい」と判じ、中には
「他人に責任を押し付ける根性は劣等だ。そもそもあれは帰化人の胤であるから」
(東郷の父は帰化朝鮮人)などと切り捨てる者すらいた、という一幕があったのです。

自分の命を守るためになりふり構わず同じ被告を敵に回してのけるこの人物が、
大使館に外務省の落ち度をなすりつけることにも痛痒を感じるはずがありません。
それは裁判において東郷個人を弁護するためのいわば「方便」でしたが、
これが結果として既成事実化されたものではないでしょうか。
したがって、公的には外務省の目を覆うような不手際は糊塗され、それに代わって
大使館の怠慢不手際だけが史実として残ることになりました。

ですから「外務省が大使館に責任を押し付けた」という部分に関しては
この記事、そして三輪氏の説は正しいということになります。
つまり実際は、
「外務省と大使館、どちらも事務処理能力に問題あり過ぎワロタ」だったのです。


しかし井口氏は、責任を外務省に問うことをここでやめてしまいます。
そしてなぜか外務省の不手際をまるでかばうかのように
「陸軍が関与し外務省は協力させられた」という説に固執しだすのです。
その理由は・・・・・わかりませんが、井口氏が外務官僚であったことと
何か関係があるのかもしれませんね。(棒)

わたしは氏の著書を読んでいないので、その主張していることの真偽について
今は何とも評価できないのですが、著書を読んだある人の感想を覗いてみましょう。

対米通告を14時間も遅らせたのは瀬島であると指摘している。
(中略)
指摘は推測の域を出ない。
瀬島の名が出るのは、真犯人を突き止めないと冤罪が晴れない、というような
名前の選択であるような気がする。
瀬島という名前は、その理由はあえて述べないが、
こういう場面に使いやすいのも確かだ。

瀬島、というのは開戦時聯合艦隊の作戦参謀であった陸軍の瀬島龍三のことです。
この人物(伊藤忠の立役者で後に会長)については興味があれば調べていただくとして、
まあ、要するに井口氏の研究とはこのような印象であるらしいです。

というわけで、つまりこの日経新聞が引っ張り出してきた人々は、確信的に
「真珠湾攻撃は国の意図しただまし討ちであった」
と、日経新聞編集が持っていきたい結論を裏付ける人々ばかりであることがわかりました。

それでは、日経新聞は「15時間あったからそれは故意だ」と理由なしで結論付ける学者や、
親の不名誉を返上したい孝行息子を利用して何が言いたかったのか?


次回はこの日経新聞の記事がどのように書かれたか、推理してみることにします。





真珠湾攻撃、最後通告の「真実」 誰のための戦い?

2012-12-15 | 日本のこと

日経新聞の一記事を、その裏も読み解こうとする試みです。
この記事についての詳細は昨日のログをお読みください。

さて、三輪(助)教授が、発見した「新事実」とは、

「外務省から大使館に送られた最後通告の最終にあたる14部の送信が、
13部が送信されてから実に15時間も後であった」

その15時間の間にどんなことが起こっていたのか全く記録は無いようです。
ただわかっているのは、この間外務省は訂正文を作成し二通に分けて打ったという事実のみ。
三輪(助)教授はこの事実から
「発信の大幅遅れは陸軍参謀本部のみならず外務省も関与していたことを示す証拠」
(日経新聞の記事より)だと主張しているのです。(前回のあらすじ)



確かに、この非常時にこんなにもたもたしているなんて外務省ともあろうものが怪しすぎる。
意図的に通告を遅らせる意思があった、と疑えば疑えないこともありません。
記事では「大至急」を「至急」に書き換えた電文もあった、という文言すら謀略の証拠である、とあり、
これも疑えば疑える材料です。(その電文の内容にもよりますがね)

しかし常識的に考えてみましょう。
外務省の役人が「完璧な英文も作ろうと思えば作れるのに、わざと間違えて」
あるいは「間違いの訂正ににかこつけて時間稼ぎをし」そんなやりかたで
公電を送るのを引き延ばすなんてことすると思います?

そして三輪(助)教授、なぜかここで一気に
「陸軍参謀本部の関与があったからだ」という推論をぶちかまします。

・・・・ん?陸軍?海軍ではなくて?

やるからには効果的に最初の一撃で叩きたい、これは海軍の悲願でした。
ですから、できれば通告とほとんど同時に「奇襲」をかけたい。
しかし、国際社会からのそしりを受けぬよう、宣戦布告は行いたい。
この真珠湾攻撃の作戦はそれを第一目的として立てられたはずです。
今さら通告を遅らせてわざわざ国際法違反をさせる理由がありますか?


皆さんの中には「奇襲」を「だまし討ち」と同義に考える向きもありましょうが、
奇襲そのものは世界の歴史でも決して特別なことなどではありません。
世の中のおよそ戦争と言える戦争で、宣戦布告をしてから相手が臨戦態勢になるまで
ただひたすら待つような紳士的な開戦をした国がこれまであったでしょうか。
あれば逆に教えていただきたい。
当の米国は中国戦線で義勇軍という名の抗日戦線を張りとっくの昔に日本と戦っていましたが、
(フライングタイガースですね)この際「アメリカも参加しますから」なんて一言も断っちゃいません。

ちなみに、国際法学者の田岡良一「国際法」によると

18世紀以降の戦争の歴史を見ても、
宣戦布告が武力行動に先だってなされた例はまれである

宣戦布告は慣例法で決められていますが、実際はいきなり武力侵攻するのがほとんど。
つまりほとんどの事例でほとんどの国は国際法に違反しているのです。
しかも、この宣戦布告には時間などの取り決めはありません。
ハーグの会議で一度「24時間前告知」という案が出されましたが、否決されました。
つまり、たとえ1分でも事前なら国際法上合法ということになるのです。
さらに国際法で言うなら戦争そのものも合法です。


開戦に先立ち、天皇陛下も山本聯合艦隊司令長官もこの宣戦布告が
武力行使の後になったりしないように憂慮していた、という話があります。
このとき、国際法にあくまでものっとって戦争を始めようとした日本というのは、ある意味
世界的に見て超律儀かつ紳士的に戦争を始めようとしていたという言い方もできます。

残念ながら結果的にはそうならなかったわけですが。

海軍は最大限の効果を上げるための奇襲として、最後通告を30分前に設定しました。
30分なんて事前通告になるのか、というくらい直前ですが、
これが日本の指導者たちの考えた「ぎりぎりの時間」だったのでしょう。

三輪(助)の説によると、ただでさえぎりぎりの設定である30分前をあえて攻撃の後に遅らし、
アメリカに日本への批難のきっかけを作らせたのは陸軍だったということになりますが、
これをなぜ陸軍が独断で行う必要があったのか、
その納得できる合理的な理由については何ら述べておられません。
そもそも「陸軍が関与した証拠」というのも、見たところ明確ではないように思われます。


さて、ちょっと寄り道をしますが、昔、うちのTOは何かのはずみで
エネーチケーのクローズアップゲンダイという番組に出演したことがあります。
「何々問題に詳しい何々のTOさんにお越しいただきました」
と女性アナに振られて、詳細は言えないのですが、とにかく
「犬が西向きゃ尾は?」「東なんですよ」
「それでは風邪をひかないように家に帰ったら・・・」「うがいをした方がいいです」
みたいな(本気にしないように)話をするために出演したのです。
あとで、「あんなわかりきったこと言うのに、なぜTOでなきゃだめなの?
その辺のおじさん連れてきて一言仕込めばすみそうなのに」
「いや、形だけでも権威は必要なんだよ。何を言うかじゃなくて誰が言ってるかってことが」

その肩書き付き人間が「権威」として出演することで番組の内容に真実味が加わると。

それがメディアの「報道の作り方」なんですね。
新聞も同じです。
その伝で言うと、この日経記事には「権威」がなんと4人も登場しています。
一人目がこの三輪九大(助)教授。
そして、長崎純心大学(初めて聞きました)の塩崎弘明教授。
この塩崎教授は、

「米国で客死した大佐の葬儀に大使が参列しミサが長引いたほか、
届かない公電を待ちくたびれて帰宅、翌朝になって出勤したため、
米政府に手交する通公文書作成が遅延した」

という「大使館怠慢説」の中の、
「大佐の葬儀は遅延には無関係であること」を研究によって明らかにした、
ということを言うためにだけ登場しています。

そして三人目。
元外務官僚で退官後に東海大学などで近現代史を教えた井口武夫氏

この人物が、14部の遅延は陸軍参謀本部が関与、外務省が協力した、
長年訴え続けているようなのです。
この記事が「新事実」として三輪(助)の発見を謳いながら、実の目的は、この井口氏の
長年の研究」を裏付ける目的であることを、わたしはすぐに察知しました。

そこで検索してみると出てくる出てくる、この人物が長年にわたって研究し、主張した
「大使館怠慢否定説」。
この人物の研究により「陸軍の関与」というのが浮上し、三輪(助)も、言葉は悪いですが
確たる証拠はないけど井口氏の長年の研究の尻馬に乗ってみたという構図かもしれません。

新聞記事によるとこの井口氏、このように語っています。

「真実を歪曲した開戦物語が独り歩きして国民に誤った印象を与えている」

ふーん、なんだか妙に感情的ですなあ。
やっぱり学者ではない人間というのは歴史を単に事象として捉えられないものか、
と思いつつ、この人物そのものについても検索してみました。

なんと。

この人物、開戦当時日本大使館で駐米大使、
しかも館務統括責任者として責任を問われていた
井口貞夫氏の息子じゃありませんか。

つまりあれなのね。
これは、「大使館怠慢説」で名誉を貶められたご尊父の汚名を漱ぐため
一生を賭けた息子の戦いであったのですね。

開戦の際、日本の不名誉となりアメリカに批難の付け入るすきを与えた
「通告の遅れ」。
その責任を一身に負わされた大使館統括責任者の父。
父は黙して語らず、すべてを墓に持って行ってしまったけど(想像)
その父の名誉を息子である私が挽回してみせる!

わかります。
わたしが井口氏でも、そうするでしょう。
そして、間違いだらけの覚書を、しかもでれでれと訂正して何時間も送ってこなかったくせに、
全て大使館に、しかも自分の父に責任を押し付けてのうのうとしている外務省に対し、
その欺瞞を暴くと同時に外務省責任者にその責任の所在を・・・・・・・

・・・・・・え?違うんですか?


波乱を含んで次回に続く。



真珠湾攻撃 最後通告の「真実」 15時間の謎

2012-12-14 | 日本のこと

12月8日付の日経新聞文化欄に、このような記事が出ていたのを
お読みになった、あるいはインターネットで見たという方はおられますか?
エリス中尉は富山旅行中、TOの読んだ後の新聞を読んでいて記事に気付きました。
後から検索したらインターネットでも記事になっていたようです。


新聞を取ることに「新聞紙の再利用」以外の価値を認めないわたしは、
いっさい新聞の勧誘のたぐいは今まで「日経新聞取ってるので」
という撃退文句(これが効くんだ)で追い帰してきました。
本当は、仕事で必要なTOが職場で取っているだけです。

新聞を一社のものだけ読みそれを真に受けるがどれだけ危険なことか、というのが
最近ネットの普及で一般の認識となってきている気がしますが、
そういう一般認識をあえて見て見ぬふりをしながら、現在も既存新聞社の多くは
「社是」に従った報道という名の「思想啓蒙による世論誘導」に汲々としているようです。

メディアにとっては、インターネットを敵視しなければならないくらいやりにくい時代になりました。
昔はよかった。(メディア的に、ですよもちろん)
インターネットで検索されることもなかったので、世論誘導はやりたい放題。
朝日、毎日が「政府弱腰」などと煽って国民を戦争に焚きつけたのを我々は今や知っていますぜ。

おっと、エリス中尉に、特に最近のマスゴミについて語らせたらとんでもないことになってしまうので、
今日はこれだけにしますが、しかし実は今日お話ししたいことの問題の根本は
「世論の誘導」よりもっと悪質な「歴史観の修正」をしようとするマスコミの姿勢なのです。


まず、この新聞記事の内容ですが、

「大使館怠り説覆す?新事実」

真珠湾攻撃の際、日本大使館の手渡した最後通告が攻撃後になった。
アメリカはこれをもって「だまし討ち」と日本の攻撃を位置づけ、
「卑怯なジャップに仕返しを」と大統領が演説することで

「リメンバーパールハーバー」の大義を得、国内世論は日本との戦争を支持した。

しかし、最後通告は意図的に遅らせたものではなく、
大使館の事務的ミスと、職務怠慢によるものらしい、という説が
「日本はだまし討ちをしたのではない」という論拠となってきた。


しかし、ある学者が米国公文書館で新たな記録を発見。
それを解析したところ、通告の遅れは大使館の怠慢ではなく、
本国、陸軍参謀本部と外務省が関与して、意図的に遅らせたもので、
攻撃を効果的にするためにそれは作戦として行われた。

ということを主張している学者がいる。

まとめればこのようなことになろうかと思います。

これをただざっと読んだだけ、あるいはインターネットで立てられたいくつかの
スレッドに目を通した方のなかには、
「認定された新事実であり、大使館の職務怠慢説は覆された
と認識したうえ多くは事実として認めてしまったかもしれませんね。

ちょっと待った。(笑)

みなさん。
マスコミは信用できない、と日頃言っておきながら、こんな手に騙されてはいけません。
こんなことには全精力を傾けるエリス中尉が、この記事の欺瞞を暴いて差し上げます。
この新聞記事を子細に眺めると、それはそれは面白いくらい

「日経新聞の編集委員と、この新事実を訴えたい人」

の、実に恣意的自己利益誘導的なに満載されているトリックの数々が見えてくるのです。
あまりにも露骨すぎて、実は検索途中で声を出して笑ってしまった事実すらあったのですが、
それは後のお楽しみ。


まず、中身を詳細に検討するより先に、大まかなところから参ります。
この記事は、ご覧のとおり、「文化欄」に掲載されています。
・・・・・・文化?

歴史について言及している記事だから、文化欄?
いやしかし、既存の「大使館怠慢説」を覆すほどの、重大な新事実でしょ?
これほどの重要な内容なら、せめて三面に載せるべきなのでは?
事実(ファクト)としての記事の「重要度」がここでかなりトーンダウンする気がするのは
わたくしだけでしょうか。

そしてもう一点。
冒頭写真の記事「タイトルとアオリ」。
見てください。

「大使館怠り説覆す
「修正指示は半日後 外務省の故意

わたしが大きな文字で打ったように、これは「事実として認識されたもの」ではなく、
「このようなことを主張している学者がいる」
という記事なので、あくまでも断定を避けています。
本文にも
「通説に一石を投じそうだ」
という願望的予想の一文が見えるあたり、つまりこの記事とこの学者の意図は、
通説を持説に書き換えたがっているらしい、ということは理解できるものの、
それはあくまでも「現時点では史実として認められていない」ということを意味します。

それでは、内容を検証していきましょう。
この検証は彼らの「研究結果そのものの検証」ではありませんので念のため。

この新聞記事をリアルタイムで読んだ方、あるいはインターネットで記事を目にした方、
正直なところいかがでしたか?
通信記録が新たに発見された。それを検証したら「大使館の怠慢ではない」ことがわかった。
記事にはそのような結論だけが記載されていますが、では具体的に、
その記録がどのような外務省関与の証拠になっているのか、読んだだけでは

さっぱりわからなかった、

そのように感じられた方が(わたしを含めて)ほとんどだと思うのですがいかがでしょうか。
しかし、みなさん、ここで考えることをやめてはいけません。
彼らの押し付ける結論だけをうのみにしてはならないのです。

頑張って検証してみますので、どうぞお付き合いください。




不親切で全く意味の分からない表です。

開戦直前に外務省がアメリカ大使館に向けて送った公電には、
一通ずつ番号がついています。
それが901号に始まり、全部で11部あります。

このうち、いわゆるアメリカの最後通告であるハルノートに対して、
「これ以上の交渉を打ち切る」とした覚書は、902号に記載されています。
そしてそれ以外はすべて
誤字脱字訂正、暗号解読機破壊のための命令が記載されました。

上の写真ですが、わざわざ表にするから何かと思えば、これは
日本が打電した電報を、米軍が傍受したのが何分後だったか、
というはっきりいって本文の主張とは全く無関係なことをそれらしく付けたして、
ものごとをより複雑に見せかけているだけにすぎません。

上から

902号13部 33分後
903号    1時間5分後
906号    43分後
902号14部 32分後

と、ほとんど一時間以内に日本からの公電を米軍が傍受していた、と。
で、それが何か?
皆さんのためにお断りしておくと、米軍がいつ傍受していたかということは
この彼らの主張と何ら関係ありません。

この新聞記事でこの「新事実」を発見したという学者は
九州大学の三輪宗弘教授
学者のデータバンクで検索すると現在は「助教授」となっていますが、
まさか日経の記事でタイトル詐称をするわけがないので、これは何かの間違いでしょう。
東京工業大学出身でありながら、専門が科学社会史、日本史という学者で、
学会で引用されている論文は無いようです。

さて、この三輪氏が「外務省が遅延を意図的に行った」と主張しているわけですが、
これを新事実とする三輪氏の論拠は、なんだと思います?
上の表による

「902号13部が打たれてから902号14部が打たれるまでに15時間も経っている」

それだけです。

驚きましたか?
三輪氏に言わせると、
15時間もの時間がかかったことが、外務省関与の論拠なのです。

いや・・・・これ、全く論拠になってませんよ助教授。・・・あ、教授でした?失礼。

通告の内容を記した902号の公電は、長いので14部に分かれていました。
13部までが時間通りに来ていたのに、最後の一部が15時間後になった。
この事実だけで「意図的に遅らせた」と決めるのは、すこし無理筋ではありませんかね?

ここで、新聞記事を少し抜粋してみます。

「(略)14部は15時間以上遅延した。
しかも902号電報には多くの誤字脱字があり、
外務省は175か所に及ぶ誤字などの訂正を

903号、906号の二通に分けて大使館に送信した」

この助詞「しかも」の使い方が全くおかしいですね。
「しかも」ではなく175か所の誤字脱字があった「から」15時間遅れたとは考えられませんか?

誤字訂正のための二通が送られたのは、最終電である14部が送られる前。
このあたりをいつものようにエリス中尉の想像力でもって説明してみます。


そのとき外務省は最後通牒を14部に分けて次々と打電していた。

ところが、別の部署でチェックをしていた外務省の役人が
真っ青になって叫んだ。

「やべ!この14部、これ間違いだらけじゃん!こんなの送ったら日本が馬鹿にされるし。
今まで送った13部全部の間違いもチェックしなきゃ

「ええっ、もうだいぶ時間も経ってるんすよ?やばいっす」

「ダメダメ、それ送る前に今までの文章を全部訂正する電報打つからちょっと打電待って」

ところが、英語の苦手な日本人、このチェックと訂正、さらに深夜(1時半)であったため、
寝ている上司を起こしての許可を取ったり、意見を聴いたりしているうちに刻々と時間は過ぎた。
そしてようやく175か所以上にも及ぶ間違いを探し出し、訂正し、

13時間後に903号(最初の訂正指示)送信

「じゃ14部送っちゃっていいすか~?」
「やっべ~~!さっき気づかなかった間違いがあるよ!
待って待って、もう一回訂正箇所最終チェックするから」

さらに一時間後に906号(訂正指示二通目)送信

「もうすごい時間経ってるんですけど早く送らないとやばいっす」
「だめだ!間違いがないか、もう一度確認だ!日本人のプライドにかかわる!
まだ攻撃開始予定まで13時間ある。
12時間もあれば大使館もタイプする時間は十分だ!」


一時間後、ようやく覚書の最終分である14部送信完了


・・・・・ってことじゃーないんでしょうか。

上のエリス中尉の駄文を
「何をふざけてるんだ!こんな思い込みで見てきたように断言するな!」
と、おそらく関係者は真っ赤になって切り捨てようとするでしょう。
わたしも、これが真実だったなんて断言するつもりはありませんよ。

ただ、三輪助教授が、いや教授が言うところの
「15時間遅れたからそれは外務省が意図的にやったことだ」
という一足飛びの「結論」を裏付ける証拠も、またどこにもありませんよね?

皆さまは公平に見て、三輪(助)教授の結論とエリス中尉の想像、どちらが現実的だと思います?


それでは次回、彼らがいうところの「意図的遅延」は、誰が何のためにどう仕組んだのか、
そして、それを主張する彼らの真の目的について迫ります。


ところで。
「あれ?これって外務省が無能だったんでは?」と思った方。
あなたは鋭い。
しかしこの件にはさらに
「大使館も外務省も悪者あるいは無能にしたくないある人物」がかかわっているのです。

とにかく、次回でその謎を解き明かしますのでこうご期待。