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大統領夫人を乗せて飛んだ黒人パイロット〜スミソニアン航空博物館

2022-10-17 | 飛行家列伝

飛行の黎明期、アメリカ大陸を航空機で横断することは、
航空の世界の一つの金字塔となりました。

初めて飛行機による大陸横断を成功させたのは、1911年、

カルブレイス・ロジャースCalbraith Perry Rodgers、
1879-1912

ライトフライヤーEX型を使用し、
ニューヨークからカリフォルニアまで総所要時間84日間、
実際の飛行時間は3日と10時間14分でした。

カルブレイス。この直後エアショーでバードストライクによる墜落死

アメリア・イヤハートは無着陸でアメリカ大陸を横断した最初の女性となり、
ジョン・グレンは初めて超音速機で大陸を横断したパイロットとなりました。

しかし、なぜかジェイムズ・ハーマン・バニングの名前は、
大陸横断を成し遂げた飛行士として大きく記されることはありません。

それはなぜか。

彼の記録が、「アフリカ系アメリカ人として初めて」
という特殊な注釈なしでは語れないからです。

■ ジェイムズ・H・バニング



1932年、黒人飛行士による初の大陸横断飛行を成功させたのは、
優秀なバーンストーマー(アクロバットパイロット)であった
ジェイムズ・ハーマン・バニングと、彼のメカニック、
トーマス・アレンで、飛行時間は41時間27分でした。

ロサンゼルスからニューヨークまで飛行したバニングは、
黒人パイロットとして初めての記録を樹立し、
後に続く他の黒人航空記録達成者への道を開いた飛行家と称されています。


バニングとメカニックのアレン

バニングは1932年、アレクサンダー・イーグルロック複葉機で、
メカニックのトーマス・C・アレンと最初の大陸横断飛行を行いました。

この歴史的な挑戦は、黒人飛行士によって行われる
一連の長距離飛行につながっていくことになります。

長距離飛行は、アフリカ系アメリカ人パイロットが
その飛行技術を披露するための劇的な方法となりました。

当時何人かのアフリカ系パイロットが長距離飛行を行いました。
バニングらはその飛行実績をもとに、アフリカ系アメリカ人の社会において
航空への進出を盛り上げるための道作りをしたといえるかもしれません。

彼ら黒人パイロットがこうやって飛行に成功するたびに、
その技量が白人に全く引けを取らないことが証明されることになります。

そして、航空は人種に関係なく、すべての人に対して
平等に開かれたものであるべきだという考えが広まっていきました。


飛行機はアレンと共に余剰部品(スクラップ)を集めて作ったものです。

横断飛行の時に財政的支援を募らなくてはいけなかったので、
彼らは「フライング・ホーボーズ」(空飛ぶ浮浪者)
と屈辱的なあだ名で呼ばれていました。

ものもらい、という意味だったのでしょうか。
彼ら的にはオッケー・・・じゃなかっただろうなきっと。

実際、彼らは一つのフライトが終わって、次のフライトを計画しても、
その度に資金の調達に走り回らなければならなかったため、
フライトとフライトの間には最低でも21日間が必要だったといいます。


バニングは、いわゆる「航空の黄金時代」に多感な時期を過ごし、
空に憧れた「フライボーイ」の一人でした。

■バニングはなぜ墜落死したのか



「ミス・エイムズ」というのがバニングの愛機の名前です。
機体には「バニングと共に飛ぶ」と、飛行機が擬人化された文句が。
この写真は1929年、アイオワで撮られたものです。

バニングは史上最初の黒人飛行士としてライセンスを取ったうちの一人でした。

アイオワ州立大学でエンジニアリングを学んだ後、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」創設者の
(前項でお話しした)ウィリアム・パウエルとロスアンジェルスで会い、
一緒に活動を始めました。

しかしながら、歴史的な飛行からわずか4か月後の1933年2月5日、
サンディエゴのキャンプ・カーニー軍事基地で行われた航空ショー中、
ジェイムズ・バニングは飛行機事故で死亡しました。

その事故には、微妙に人種問題がまつわっていて、
実に後味の悪いものになっています。


バニングは、そのショーで、二人乗りの複葉機を使用する予定でしたが、
エアテック飛行学校の教官が、彼の飛行機の使用を拒否したため、
仕方なく、バニングは海軍機械工兵二等航海士、
アルバート・バーガート(もちろん白人)
が操縦を行い、
自分は横に乗ることしか許されませんでした。

この「拒否」の理由は少なくとも見当たりませんでしたが、
どこにも説明がないということは、白人の教官の拒否の理由はただ一つ、
彼がアフリカ系であったことしかないでしょう。

当時はそれが許されるというか、もしそうしたとしても
何ら咎め立てされるような社会ではなかったのです。

彼が操縦しないなら、何のための航空ショーかという気がするのですが、
操縦席に座れないのならば、助手席に乗って飛ぶしかありません。

おそらく航空ショーには金銭がからむので、
そんなら俺は飛ばねえ!と拒否することもできなかったのかもしれません。

おそらく、彼は助手席から主操縦席のバーガード二等兵に
自分がやっているマニューバに従い飛行指示を出したのでしょう。

ショーが始まり、飛行機は離陸して400フィート上昇した後、
失速して回復不可能なテールスピンを起こし、墜落していきました。

この惨劇を目の当たりにした何百人もの観客が
恐怖のどん底に陥ったことは言うまでもありません。
バニングは残骸から回収され、1時間後に地元の病院で死亡しました。

人種偏見から、黒人が操縦することを禁止した教官によって、
無理やり操縦桿を握らせられた(であろう)バーガードも亡くなりました。

この人にとってもとんだとばっちりですが、
この事故の責任は果たして誰が取ったのでしょうか。
誰もとらなかったんだろうな。

直接事故を起こしたのも白人だし、
事故の原因を作ったのも白人でしたから。



■ アルフレッド・アンダーソン


ローレンス・フィッシュバーンが主人公を演じた、
黒人ばかりの戦闘機部隊「タスキーギ・エアメン」を描いた映画、
「レッドテイルズ」で、フィッシュバーンの飛行機に
視察にきたルーズベルト大統領夫人エレノアが無理やり乗り込んで
操縦させてご満悦、と言うシーンがあったのを覚えていますか。

その実際の逸話で飛行機を操縦したのが、
タスキーギ・エアメンのC・アルフレッド・アンダーソンでした。


アンダーソン(左)とフォーサイス

フィラデルフィア出身のC・アルフレッド・アンダーソンは、
1930年代でおそらくは最も才能のある黒人飛行士の一人でした。

彼は、ニュージャージー州アトランティックシティの医師であった
アルバート・E・フォーサイスとチームを組みました。

パイロットとしての技術はアンダーソン、財政的支援はフォーサイスの担当。

このタッグによって、彼らはバニング-アダムスのように
「フライング・ホーボー」とならずに済んだと言うわけです。

そして彼らは長距離飛行記録の樹立によって名前を上げました。

この頃の黒人飛行士たちは、先駆者として
アフリカ系アメリカ人コミュニティで航空の関心と、
裾野を広げるなどの動きを促進するために意識して
こういった「派手な」フライトにあえて挑戦していました。

■ ザ・グッドウィル・フライト

「飛行の黄金時代」であった1920年代、30年代のキーワードの一つは
「ロング・ディスタンス・フライト」でした。

そして、大陸や海を横断する長距離飛行など、多くの挑戦が生まれます。



たとえばこの航路ですが、フロリダのマイアミからカリブの島伝いに
キューバ、ジャマイカ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、
そしてスペイン領トリニダードからブラジルへと飛ぶコース。

誰も行ったことがないコースを飛び、成功させ、名を挙げることが
当時の飛行家たちの夢となったのです。

アンダーソンとフォーサイスは、1933年、まず大陸横断飛行を成功させ、
次いで、1934年に、上のカリブ海航路を飛ぶことに挑戦しました。


バハマ到着後、現地知事の歓迎を受ける二人

このときの飛行は「The Goodwill Flight」と呼ばれました。


ここにすでに「南アメリカグッドウィルフライト」の文字が見えますが、
グッドウィルの意味を図りかねていたわたしも、これを見て気づきました。

「グッドウィル」は、フライトのスポンサーとなった

「インターレイシャル・グッドウィル航空」

のことだったんですね。納得。

さて、グッドウィル・フライトの目標は、
黒人飛行士のスキルを世界に示すこと。
そして人種への理解を深めることでした。

グッドウィル・フライトは最初ということもあってスリル満ちていました。
その頃バハマには陸上飛行機用の空港がなく、夜間到着した彼らは
自動車のヘッドライトに照らされた未舗装の道路に着陸を行いました。

しかし、彼らは冷静かつ大胆な操縦でそれを成功させたため、
地元にはセンセーションを巻き起こし、大きく報道されました。

彼らの目的は十二分に達成されたと言っていいでしょう。


黒人として初めて民間航空局で航空運送事業の免許を取得した彼は、
その後結婚して家庭を築きながら飛行の仕事をしていましたが、
黒人医師であるパイロットのアルバート・フォーサイス博士と出会い、
一緒に黒人による航空の世界への進出を切り拓く夢を共有します。

この免許は、彼がタスキーギ・エアメンに入隊する前、
ハワード大学の民間操縦プログラムで飛行教官をしていた時のものです。


大陸横断飛行に挑戦中、カンサス州ウィチタで飛行機を降り、
地図を見ているフォーサイス医師とアンダーソン。

遠くから見ても、どちらがフォーサイスかよくわかりますね。
というか、飛行機に乗るのにスーツにネクタイって。

右下の封筒は、彼らのクロスカントリー飛行の記念です。
ニューアークから故郷に宛てて出したもののようです。


ロスアンジェルスに到着し、アトランティックシティに戻るため
飛行機に乗り込むスーツ姿のアンダーソンとフォーサイス。

飛行機の状態は、白黒写真でも大変手入れが行き届いていており、
彼らの飛行が資金の調達を潤滑に行っていたことが見て取れます。

彼らの使用したランバート・モノクープは、洗練された、
かつ信頼性の大変高い民間航空機で、彼らはさらにそれを証明しました。

アンダーソンとフォーサイスは、ナッソーに飛んで、そこで
先ほどのような空港のない島に着陸することに成功しています。

■アンダーソンとフォーサイスのその後

アンダーソンはその後黒人ばかりを集めた陸軍の航空プログラムに採用され、
飛行教官のチーフを担当することになります。
彼のニックネーム「チーフ」はこの頃の呼び名が定着したものです。


大統領夫人エレノア・ルーズベルトを乗せたのもこの頃です。
せっかくですので、繰り返しになりますが、経緯を書いておきます。

1941年4月11日、その日エレノア・ルーズベルト大統領夫人は
アラバマ州のタスキーギ研究所にあった小児科病院を視察していました。

何気なく窓の外を見た彼女はそこに飛行機が飛んでいるのに気づき、
チーフ・インストラクターに会いたいといきなり言い出しました。

そのインストラクターこそがアンダーソンだったわけですが、おばちゃん、
失礼にもアンダーソンに向かって、

「有色人種は飛行機の操縦なんてできないと聞いていたけれど、
この人は飛べそうじゃないの」

と言い出し、慌てる周囲を尻目に

「あなたと一緒に飛んでみたいわ 」

とさらにとんでもないことを言い出すではありませんか。

アテンドの陸軍軍人たちも警護も畏れながらと異議を申し立てましたが、
言い出したおばちゃんはもちろんのこと、
アンダーソンもファーストレディの申し出を断ろうとはしませんでした。

40分後、空から戻ってきた乗客は、

「Well I see you can fly, all right!」
(なんだ、飛べるじゃないのあんた)

と軽〜く言い放ったと伝えられます。

この時の事件は「歴史を変えたフライト」として知られています。

なぜなら、黒人はまだその時点で陸軍航空隊で飛行したことがありません。
ルーズベルト政権は、黒人のパイロットを養成できるかどうかを
タスキーギ飛行士を使っていわば実験を始めたばかりだったからです。

この時の彼女のおばちゃん的行動とその結果が、たまたまだったのか、
それとも実は仕組まれたもので、彼女は最初からそうするつもりだったのか。

もっと深読みすれば、もしかしたらアンダーソンもその整備士も、
薄々それを何処かから聞かされていたという可能性もありますが、
まあ、今はそこまで勘繰るのはよしにしましょう。

いずれにせよ、タスキーギ・エアメンの実戦投入への過程において、
大統領夫人の気まぐれ体験が追い風になったのは間違いありません。

アンダーソンはその後、教官として、のちに黒人で将軍にまでなる
ベンジャミン・O・デイビスJr.ダニエル・"チャッピー"・ジェームズsr.
といった有名な軍用航空のパイオニアたちを訓練することになります。

アンダーソンは戦後もタスキギーで教官を行い、
多くの黒人のみならず白人の航空要員を育て上げました。

1967年には、世界で最も古いアフリカ系パイロット組織である非営利団体
「Negro Airmen International(NAI)」を共同設立し、
後進の育成に尽力しています。

アンダーソンは1996年タスキギーで静かに息を引き取りました。

生前、自分の業績に対して何の名声、評価、富をも求めず、
民間・軍人を問わず何千人ものパイロットの人生に影響を与え続けました。

フォーサイス博士はアンダーソンとのグッドウィルフライトの後、
本業に専念したのか、航空業界の一線からは姿を消しましたが、
妻となった看護師のフランシス・T・チュウは、彼の歴史的偉業を
後世に残すべく、1989年の彼の死後も尽力しました。



セントルイスのランバート国際空港には、歴代の黒人飛行家を描いた
「Black Americans in Flight」があります。



この一番左端には、バニングとベッシー・コールマン、
そして肩を組むアンダーソンとフォーサイス博士の姿が描かれています。



続く。



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