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ジミー・ドーリトルとスマイリング・ジャック〜スミソニアン航空博物館

2023-02-23 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館のミリタリーエア、陸軍航空のコーナーには、
歴史的なカーティスの水上機R3 C-2が展示されています。

これは、かつてあのジェームズ”ジミー”・ドーリトル大尉が乗ったものです。



機体の下には当時のジミー・ドーリトルの飛行服姿が
パネルになってお出迎えしてくれます。

東京空襲=ドーリトル空襲で有名な彼ですが、若い時は
エアレース常連の航空パイロットとして名前を挙げました。

今日は、スミソニアン航空博物館の展示から、
若きドーリトル飛行士についてお話しします。

1925年、アメリカ陸軍航空隊のパイロット、ジミー・ドーリトルは、
このカーティスR 3C-2で、シュナイダー・トロフィー水上機レースに出場、
見事一位を獲得し、翌日には世界記録を打ち立てました。

パネルには、「ジミー・ドーリトルとは?」として、

1920年代、1930年代のアメリカ最高のレースパイロット

航空エンジニア

初めて「ブラインド」フライトを行った恐れ知らずのパイロット

第二次世界大戦の国際的英雄

とそのキャッチフレーズが書かれています。

■ シュナイダー・トロフィー・レース


ノーズがハシブトガラスそっくりな(笑)カーティスR -2C3。

1925年10月26日、アメリカ陸軍中尉ジェームス・H・ドーリトルが
このカーチスR3C-2で参加したシュナイダートロフィーレースの記録は、
平均時速374kmというものでした。

翌日に樹立した世界記録は、直線コースで時速395kmというものです。

R 3Cは純粋にスピードを追求するために設計されており、
水上飛行機から地上用に転換することが可能でした。

そのため、ドーリトルはのちに陸上機としてもレースで結果を出しています。

多くの革新的な機能を持った機体でしたが、
中でも翼に組み込まれたエンジン冷却のためのラジエーター、
そしてフロートに燃料タンクを組み込んだ点が特に先進でした。


これがコクピット。
まあよくぞこれで新幹線並みの速さに人体が耐えたなと。

ちなみにレースには他にも2機同じカーティスの機体が参加しましたが、
そのどちらもゴールラインに到達することもできなかったそうです。



レースの時のカーティスR 3C-2とドーリトル。
レースはメリーランド州のチェサピーク湾で行われました。

メリーランドの天候については詳しくありませんが、
11月のレースは気候的に上空は厳しかったのではないでしょうか。


大恐慌時代のアメリカ航空界のポピュリズムは、1930年代、
エアレースという目に見える形に集結されることになります。

資金さえあれば、容易に入手できる技術を利用し、エアレーサーを投入して、
それだけで名声と富を手に入れることができた時代でした。

国際レースはコンスタントにクリーブランドで行われましたが、
他の主要なアメリカの都市もこぞってレースをホストしています。




シュナイダー・トロフィーレースというのは、1913年から1931年まで
欧米各地を持ち回りで開催された水上機のスピードレースです。

主催者のフランスの富豪、シュナイダーの名前を取ったレースで、
彼自身が水上機の将来性を見込んで、航空技術を発達させるため
私費を投じてレースを始めることにしたようです。

第1回大会、第2会大会は1913年14年と連続して行われましたが、
第一次大戦が始まってしまい、その次は1919年と間が空いてしまいました。

この後の経過が、なんというか第一次世界大戦後の世界の航空界を
ある意味描写している部分もあると思うので書いておきます。

1919 開催地イギリス 優勝:イタリア
1920 開催地イタリア 優勝:イタリア
1921 開催地イタリア 優勝:イタリア

3回連続優勝すればトロフィーを永久獲得できるというルールだったが、
他の国の準備体制が不十分であったという事情を鑑み、
イタリアは紳士的にトロフィー永久保持の権利を放棄

1923 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

アメリカ、陸軍の総力を挙げて参戦したため、他国から批判される
1924 開催地アメリカ(中止) 優勝:なし

アメリカの圧倒的な技術力に対抗出来ず、フランス、イタリアは欠場、
イギリス機も予選でクラッシュしてしまったため、
アメリカはスポーツマンシップに則って開催の延期を申し出る
1925 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

イタリア、イギリス両国、満を持して臨むも、
ジミー・ドーリトルのカーチス R3C-2が圧勝
アメリカのトロフィーの永久保持の権利3勝まであと1勝と迫る

1926 開催地アメリカ 優勝:イタリア

アメリカは軍が手を引いたところ、イタリアが国民の盛り上がりと
ファシスト党のムッソリーニ自らがこれを国家プロジェクトとして
「いかなる困難にも打ち勝ってトロフィーを獲得せよ」

と大号令をかけたのが後押しをして、その結果、

空軍少佐のマリオ・デ・ベルナルディの操縦するマッキ M.39が優勝

この大会を最後にアメリカは不貞腐れて参加を取りやめ
以降はイギリスとイタリアの一騎討ちとなる

1927 開催地イタリア 優勝国イギリス

イギリスがレジナルド・ミッチェルの設計によるスーパーマリン S.5で優勝
これ以降
イタリアはイギリスに勝てなくなる

この間主催者であったシュナイダーは、戦争で資産を失い、
1928年、貧困のうちに死去していた


1929 開催国イギリス 優勝国:イギリス

1931 開催国イギリス 優勝国:イギリス

イギリスに勝てなくなったイタリア、
やる気をなくして
これ以降のシュナイダートロフィーは行われなくなる

っていうか、もうこの頃は水上機の時代は終わっていたのかもしれません。


1925年のシュナイダートロフィーレースで
カーチスR3C-2レーサーに乗るドーリトル



■ 戦間期


第一次世界大戦中、ドリトルは飛行教官として米国に留まり、
その後飛行隊に所属しましたが、大学で本格的に航空工学を学び始め、
1922年、カリフォルニア大学バークレー校で学士号を取得します。

翌年、テストパイロットと航空技師を務めた後、
ドーリトルはMITに入学して航空機の加速試験で修士論文を書き、
MITから航空学の修士号を、続いて博士号を取得しました。

彼はこれでアメリカで初めて航空工学の博士号を取りました。

卒業後、ドーリトルはワシントンD.C.の海軍航空基地
アナコスティアで高速水上機の特別訓練を受け、また、
ニューヨーク州ロングアイランドの海軍試験委員会に所属し、
ニューヨーク地区の航空速度記録挑戦でおなじみの存在でした。

また、1922年、初期のナビ計器を搭載したデ・ハビランドDH-4で、
フロリダからカリフォルニア州サンディエゴまで一度の給油で
21時間19分という初めての横断飛行を成功
させました。

この功績によりアメリカ陸軍は彼に殊勲十字章を授与しています。

当時の国際レースで最も注目度の高かったのは、
トンプソン・トロフィー(クローズコースのレース)と、
彼の出場した大陸横断レース、ベンデックストロフィーでした。


トンプソン・トロフィーは2つのシリーズに分かれていて、この写真は
国際陸上機フリー・フォー・オール」(無制限クラス)の様子です。
スピードを競うレースですが、

ドーリトルは1931年に、

Granville Gee Bee Model R Super Sportster

という飛行機で優勝しています。


犬は飼い主に似るというけれど、この飛行機も
なんとなくドーリトルに雰囲気がそっくりな気がします。



「ベンデックス・トロフィー」は実業家、
ヴィンセント・ベンデックスの名前を冠したレースで、
その第一回大会となる1931年のバーバンクークリーブランド間を、
少佐だったドーリトルはスーパーソリューションに乗って出場し、
優勝して賞金7500ドルを獲得しています。



ちなみにベンデックス・トロフィーは、その後、
何人かの有名な飛行家が出場しています。

それがここでも何度となく扱ったお馴染みのメンバー、
ルイーズ・セイデン、ジャクリーン・コクラン、
そしてアメリア・イヤハート

女性も男性と肩を並べて出場し、優勝できるレースだったんですね。


この後の1925年に行われたシュナイダーカップレース
ドーリトルは優勝することになります。


1926年、ドーリトルは陸軍から休暇をもらったので、
カーチス航空機のデモフライトを行うために南米に行ったところ、
チリでアクロバット飛行の実演中に両足首を骨折し、このことは
「ピスコ・サワーの夜」と呼ばれる事件にもなりました。

彼は両足首にギブスをつけてカーチスP-1ホークで空中飛行を披露し、
周りを驚かせましたが、帰国するなり入院を余儀なくされました。

アクロバットパイロットとしての彼の探究心は止まず、
その後1927年には、オハイオのライト・パターソン基地で
それまで不可能とされていたアウトサイドループを初めて成功させました。



この時の彼は、カーチス戦闘機を操縦し、高度1万フィートから
時速280マイルで急降下、逆さまに降下した後、上昇し、
ループを完成させています。

しかし、怖いもの知らずの無鉄砲ゆえ、

こんなこともありました。
ってかよく生きてたな。不死身か。

クリーブランドのナショナル・エアレースのデモで見事墜落。

パイロットとしての彼は、幾つものトロフィーを獲得し、
そして契機飛行を最初に行った「パスファインダー」というべき存在でした。

前列左から三番目、ドーリトル

1934年、ドーリトルはオハイオ州デイトンのマコックフィールドにあった
陸軍航空部のエンジニアリング部門に、テストパイロットとして加わります。

この写真は当時のテストパイロット仲間と撮った記念写真です。

彼らは実験用航空機で高高度、高速飛行を行い、
エンジンターボスーパーチャージャーや可変ピッチプロペラなど、
新しく生まれてくる技術を次々と評価しました。

彼らの前にあるアヒル🦢の正体は謎です。


■ スマイリング・ジャック



ドーリトルコーナーにあった、当時人気のカートゥーン、
「スマイリング・ジャックの冒険」をご覧ください。

「やあ、カート、レースで会えるとは嬉しいね」

「スマイリン・ジャック!ははは、君うちに帰れば?」

「僕の素晴らしい飛行テクとラッキーラビットにかかっちゃ
君のチャンスはないぜ?」

「それはどうかな?」

「最後のラップとダーツはリードしている・・
彼のラビットの足が役に立ってるな」

「彼は確実に勝つ・・いや、何か変だぞ。
彼は着陸しようとしている!」

Dart`s Dart号墜落「おおおっと」

「コントロールができなくなって・・・何が何だかわからない」

「なんだ?何かがポケットから滑り落ちて
コントロールジョイントを吹き飛ばしたぞ」

「君の『ウサギの足』だよ!」

「????」

はっきり言って何が面白いのかさっぱりわからんのですが、
40年間掲載され、最も長く続いた航空漫画と言われています。

この流れから、スマイリン・ジャックのモデルはドーリトルなのか?
と誰でも思うわけですが、そうではなく、モデルは
エアレースの有名スターだったロスコー・ターナーという人だそうです。


似てるかも

流石にドーリトルはバリバリの陸軍軍人だったので、
漫画のモデルにはしにくかった、に1ドーリトル。



なぜかこんな写真も残っています。
どれがドーリトルかわかりませんが。
左上の一番楽そうな人かな?



そして、若い頃はこんなにシュッとしていたドーリトル。
この後、第二次世界大戦初期に東京空襲を指揮し、


こんな貫禄たっぷりに・・・。

戦後彼はアメリカが宇宙開発時代に突入すると、
NACA (国家航空諮問委員会)の中の人というか委員長に就任し、
米国の宇宙計画への貢献の可能性と、NACAの人への教育を期待して、
陸軍弾道ミサイル局のヴェルナー・フォン・ブラウン博士、
ロケットダインのサム・ホフマン、海軍研究所のエイブラハット、
アメリカ空軍ミサイルプログラムのノーマン・アポルド大佐
など、
委員会メンバーの人選に携わっています。

そしてアメリカ軍の人種撤廃を提唱しました。
この時彼は、

「この状況の解決策は、彼らが有色人種であることを
忘れる
ことだと確信している 。
産業界は統合の過程にあり、それが軍にも押し寄せようとしているのだ。
あなた方は必然を先延ばしにしているだけに過ぎないのだから、
潔くそれを受け入れた方がいい」

と語っています。
ちなみに彼はフリーメイソンのメンバーでもありました。

彼の二人の息子はどちらも空軍パイロットになりましたが、
第524戦闘爆撃機飛行隊の司令官として、F-101ブードゥーを操縦していた
長男のジェームズJr.(少佐)は、わずか38歳で拳銃自殺しています。

調べてみましたが遺書などは見つかっておらず、
理由は明らかにされていません。


ジェームズ・H・"ジミー"・ドーリトルは1993年9月27日、
カリフォルニア州ペブルビーチで96歳で死去し、
アーリントン国立墓地に妻と共に眠っています。

ドーリトル将軍の葬儀では、彼の栄誉を讃え、
1機のB-25ミッチェルと、空軍の爆撃機がフライオーバーし、
墓前で死者に捧げる言葉が述べられると、ドーリトルの曾孫である
ポール・ディーン・クレーンJr.がタップスを演奏したそうです。


続く。




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