アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

秋の室内ウォーキング、筋トレ、観想法+呼吸法

2023-10-21 07:26:41 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎実際にやって初めて効果を実感するもの

 

9月下旬に最高気温30度越えは一回あったが、以後20度台が続いている。肉体は秋分までの酷暑モードから徐々に切り替わってきた。散歩場所も徐々に室内から屋外へと移し、ノーマルな状態に戻そうとはしている。

ところが、6月から9月までの4か月弱、屋外ウォーキングをほぼやらなかったせいで、屋外散歩しても以前のようなスピード、距離にならないのに愕然。いつも散歩時にすれちがう老人男性も同様のようでスピードはとても遅くなっている。

酷暑の4か月は、散歩がほぼできなかった4か月であって、関東圏では老人の運動機能低下は広汎に起きているのかもしれない。

その間もほぼ毎日50分の室内散歩を行い、途中で上半身筋トレ(10分)も加えてきた。

室内散歩は確かに全身を動かして血行を促すという効果はあるが、屋外散歩に比して脚全体の負荷が小さいのではないかと思った。禅道場で行う経行(きんひん)も屋外。だが、屋外散歩がベターだが、雨の日、強風の日は、室内散歩となるのは、やむを得ない。

最近、ちと思うことがあり、白隠の夜船閑話の軟酥の観にならい、腹式呼吸と軟酥の観風の観想法を始めてみた。

これは、著効があったようだ。こんなことならもっと早くトライすべきだったと反省している。

まず腹式呼吸は、若い頃から時々やっていたが、2、3回やってもあまり効果が感じられないことからあまりやることはなかったが、20分、30分と効果が出るまで繰り返すものだということがわかった。最初から2、3回やっただけで効果が出るのは天才だけである。

軟酥の観風の観想法は、20代の頃から11月には不調になることがあり、時々試してはいた。これも最初のうちはまねびだが、習熟していくうちに効果が出るものだろうと思う。

まことに冥想法は、実際にやって初めて効果を実感するものであり、効果を実感すればますますやるもの。だが、そのやり方の絶対性は、やらずに本やネットで眺めたりしているだけでは何も起こらない、と改めて思った。

冥想法には、効果を求めるタイプの冥想以外に効果を求めないタイプの冥想もある。古神道で言えば、幽斎と顕斎の違いである。

 

参考:幽斎と顕斎

『道之大本 第三章

一.神を斎(いつ)きまつるには、顕斎、幽斎の二つの大別あり。

二.顕斎は、天つ神、国つ神、八百万神を祭祀するものにして、宮殿あり、祝詞あり、幣帛ありて、神の洪恩大徳を報謝して、敬虔の意を表するの道なり。

三.幽斎は、真神を祈る道にして、宮社もなく、祭文もなく、幣帛もなし。ただ願望するところを、吾人の霊を以て祈祷し奉るの道なり。

四.要するに顕斎は、祭祀を専とし、幽斎は祈祷を専とするの道なり。

五.真の神は霊なり。故に其至霊に対するは、霊を以て祈るべし。

六.顕斎のみに偏るも非なり。幽斎のみに偏するも亦(また)非なり。

七.ある宗教の唱ふる如く、「神は霊なり」として、霊のみに偏し、形あるものを祭ることを忌み嫌いて、顕斎の道を無みし、偶像宗教などとそしるもの、あまり偏見にして、未だ全き教理といふべからず。

八.斎きまつるには、神像必ず不可ならず。されど祭祀祈祷の大道を誤りて、顕斎のみによりて福祉を祈るは非なり。祈りは霊を以てせざるべからず。』

(出口王仁三郎著作集第一巻/出口王仁三郎/読売新聞社から引用)

※幽斎が、効果や目的を求めない冥想である。

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科挙不合格組、不登校組-2-王重陽

2023-10-20 03:48:52 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-03-02

 

王重陽は、道教中興の祖の一人で、全真教の開祖で、12世紀の人物。陝西省咸陽の出身。

最初は、高級官僚になろうとして科挙を受けたが不合格となり、28歳のころすべり止めの武官試験に合格した。しかし、咸陽郊外の甘河鎮という辺境の酒税監(酒税徴収の監督官)という閑職にしかつけなかったので、失意のうちに生活が荒れ、親戚や郷里の人々は、この様子を嫌って、「王害風」とあだ名したといわれる。47歳になっても小役人のままであった。

 

48歳の時、陝西省甘河鎮の酒楼で、いつものように酒を食らっていると、髪の毛を伸ばしほうだいにした異様な顔つきの人物(異人)が現れ、しばらく王重陽の顔を見つめたすえに「あなたこそ教え甲斐がある」と言って、内丹の一道修真口訣を授けて去った。

翌年の中秋の夜、陝西省醴泉県の通りで異人を見かけ、あわてて近寄って礼拝した。二人は酒楼に入り、異人はそこで秘文を五つ取り出し、暗記したら焼却するようにと指図して去った。

後にこの異人は、中国道教のスーパースター呂洞賓とされる。この後王重陽は妻子を捨てて修行生活に入る。

 

王重陽は、終南山の麓の南時村に深さ4メートルの穴を掘り、それを活死人墓と名付け、王害風霊位という墓誌を掲げ、その中で冥想修行した。

2年半で金丹を得た(悟った)とされるが、常に瓢箪をぶら下げ、歌を歌いながら酒を飲み、農村や野原を乞食をして歩いた。

1163年彼は、活死人墓を埋め、劉蒋村近郊で布教を開始したがうまくいかず、1167年自宅に放火した。

驚いて火を消しに来た村人に彼が言うには、「私は東方に縁があり、そちらに赴く。三年後にこの家を建て直す人が出るだろう」と。彼は山東省に行き全真教を起こした。孫不二は女性の高弟。

 

王重陽も真人である。呂洞賓も王重陽も科挙の失敗者であるのは偶然ではあるまい。

深い穴を掘って穴の底で修行するのは、丹波哲郎の本に出てくる四国のアストラル・トリッパーと同じだが、王重陽は社会的使命を帯びていたのが異なる。今道教でまともに残っているのはほぼ全真教だけのようだし。

彼には4人の高弟がいたが、いずれも一日一食でそれもうどん一杯程度の托鉢で修行したようだ。托鉢してもその程度がせいぜいだったのだろう。この時代も真剣な修行者であればあるほど、餓死のハイリスクと戦いながら、修行せざるを得なかったわけだ。

また呂洞賓は肉体でなくアストラルで法を伝授。

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科挙不合格組、不登校組-1-呂洞賓

2023-10-19 06:55:59 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-03-01

 

不思議なことに宗教界での大立者には、科挙不合格組、不登校組が多い。まず呂洞賓、王重陽、そして空海も私度僧なので科挙不合格組みたいなものだ。そして高校で不登校だったダンテス・ダイジ。

 

1.呂洞賓

呂洞賓は、唐代の人で山西省蒲坂県永楽鎮出身。大周天の大家。

呂洞賓が科挙の試験を受けに旅に出た時、超有名仙人である鍾離権に仙人にならないかと誘われた。呂洞賓はとんでもないと断った。二人は一緒にビジネス・ホテルに投宿したのだが、呂洞賓は夢を見た。

彼はやがて科挙に及第して、裕福な家庭の娘と結婚し、たくさんの子供をもうけた。子供も出世した。ついには一国の丞相となり栄達を極めた。しかしその後、罪を得て、家財没収、家族離散の憂き目に逢って、食べるものもない孤老となる。ここで高粱が煮えたという声で目を覚まし、これが一場の夢であったことに気がつく。

 

鍋の黄粱(こうりゃん)が煮え切らぬうちに、夢から覚めた呂洞賓に、鍾離権は「先の夢に、浮き沈みと栄辱のすべてが示されたであろう。50 年は一瞬であり、昇ったり下ったり、栄華を極めたり恥辱を受けたり、いろいろのことがあっても、世人の一生はまるで一つの夢に過ぎない」と語った。この話を聞いた呂洞賓は、鍾離権について救世の術を求め修行することを決心し、弟子入りする。

 

受験直前というのは、一種異常な心理状態ではあるが、機根があって準備ができている状態の人物には、パノラマ現象みたいな一生を圧縮した夢をみるほどに成熟しているからこそ、希代の勧誘があるのだろう。鍾離権は漢代の大将軍(将軍の中のトップ、軍のナンバーワン)であって、アストラル体での登場と見るべきではある。

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青春というもの

2023-10-18 06:27:24 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-01

◎青春期以降の水平の道-1

 

素直に自分の生き方を考える人間にとって、青春期の二大テーマは、異性への憧憬と神秘主義への関心である。

時期的には、高校生から二十代前半にかけてのことであって、大学受験勉強では、おそらく誰もが無尽蔵の記憶力を手に入れたいと願うことが一度はあるものではないだろうか。そうした中で、空海も実習したという虚空蔵求聞持法にチャレンジしてみたいと思うものの、何か月もかかることを知りあきらめたりする。また西洋にも古くから記憶術の伝統があることを知り、試そうと思いかけるが、実は精神そのものを結構深いレベルでハードディスクみたいにすることと知り、躊躇したりする。

そうしたご都合主義的な神仏への関心を持つ一方で、三歳の全能感とその喪失感から来るところの求道の志やみがたく、知らず知らず神聖な真正の信仰というものには常に興味を持ち続けるものだろう。

一方で肉体の成長に伴い、青春期の主たる関心事の一半は、毎度異性のことである。中学生以上はほとんどスマホを持つ時代になり、閲覧はエロ系が多く、SNSで語られる話題は異性の話題になるのは自然の流れでもある。しかし実際にセックスの極みというものを追求して行けば、女性的な自我の充足は男性と比較して容易に起こり、その一方で男性の性的快感というものは畢竟大したことはないものであって、背後にある征服欲や権力欲の充足の方が問題であることに気づくものである。

 

ところがこの時代は、こうした単純な現実認識にすら容易にたどりつけないようなマインド・コントロールが、政治、経済、教育、商業、文化、宗教などほぼあらゆるシーンで行われている。いわゆる洗脳情報は何年かたてば消えてしまうが、消える前に繰り返すことで、嘘も真実と信じ込ませる洗脳が永続される仕組がある。

マインド・コントロールは、昔はナチスや広告会社や軍部や宗教が得意だったが、いまやスーパー・コンビニの買い物から特殊詐欺にまで応用されるとんでもない時代になった。こうした精神的な悪条件下で、神仏への関心と異性への興味を持っているのが現代の青春期の現実だと思う。

 

青春期は、高校、大学と進むにつれ、自分と似たタイプの友人、知り合いができるもの。運がよければ、悟った人、聖者、正師、魂の伴侶にも巡り合う。

行動範囲の狭い思春期では思いもかけない一生の出会いが青春期にはあるものだ。その出会いは人物とは限らず、冥想道、武道・芸道 (書道、茶道、華道、香道、歌道、柔道、剣道、合気道、舞踊、ダンスなど) 、仕事など一つに打ち込んでそれを究める『道』との出会いであることもある。

 

一生の方向性は、よく25歳までに決まるとも言うが、青春期までに人生の聖と俗両面の方向性が決まってしまうというのは、自分が当事者の時期はあまり意識しなかったが、後で振り返ってみるとそのとおりだと思う。

だからライフ・ステージ別の窮極に至る道を考える場合のライフ・ステージの区切りは、青春期以降が最後となる。理想的な求道ステップは、思春期で見仏・見神・見性を経て、青春期で大悟徹底、神人合一、壮年時代は、その悟りを持って生きていくというもの。

言い古された言葉だが青春期の可能性は大きい。

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セクシュアル・メディテーション雑感

2023-10-17 07:14:51 | 冥想いろいろ

◎原担山、LGBTQ、釈迦

 

江戸末期から明治にかけての禅僧原担山は侍だったが、若くして妻帯した。そんな新婚のある日、予定外に日中に帰宅してみると、なんと恋女房が他の男と寝ていた。

これを見た原担山は、剣を抜いて間男に切りかかろうとしたが、その瞬間にすべてのことが馬鹿馬鹿しくなって、剣を振り下ろすことなく出家してしまった。彼は性愛そのものを見切ったのだ。

セクシュアル・メディテーション、性愛冥想、カーマ・ヨーガ、房中術といえば、その行為自体に何かあると思われていることが多いと思う。あるいは、オルガスムス、オルガズム、エクスタシー、絶頂というものに何かあると思われていることが多いと思う。

だが、女性の絶頂は全身的であるのに対し、男性の絶頂ははかないものだ。求道という観点で言えば、性的な男性の絶頂は大したことがないが故に、男性は自分のすべてを賭けて冥想に挑むのだということはある。逆に女性は性において程度の満足があるがゆえに冥想の極みを求めるケースは少ないのだと言える。

 

中国養生思想や酒池肉林の悪影響か、何十人もの若い女性と関係して気を得ると長生きするとかいう説も見かけるが、一方でダンテス・ダイジは、不倫だと性愛冥想は成功しないとしていることから房中術の相手は最適最愛な一人である。

そして行為自体が問題ではなく、行為の後の冥想にこそ眼目があるのではないかと思う。すなわちメンタル体離脱に至る道は様々だが、メンタル体離脱以降は共通らしい。つまりセクシュアル・メディテーションにおいても、行為の後の冥想こそ本来の狙いなのではないかと思う。

OSHOバグワンは、性愛冥想について、いろいろなことを語っているが、行為の後の冥想にはあまり関心はないようだ。サンバラ(交合図)の原理は説くが、彼の教団のフリーセックスを咎めることに彼はあまり関心を持っていなかったのだろう。

 

将来学校で冥想道を説く場合、性愛の問題は避けて通れない。特に昨今、愛と性が完全分離しているが如くなのはどうかと思う。LGBTQ全盛のこの時代だが、本来愛と性は相伴って男女関係の基礎となり、人によっては、セクシュアル・メディテーションの土台にもなっていくもの。

なお求道としてのセクシュアル・メディテーションの道は極めて困難な道であり、あの釈迦ですら、その厳しさに忌避したという。

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出口王仁三郎の脱身

2023-10-16 03:47:20 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-04-08

◎思春期の垂直の道-8

 

古神道の出口王仁三郎は、自分がメンタル体で離脱しニルヴァーナに飛び込んだなどということは、書き残していないが、それを体験した者のみが知っているいくつかの言い回しやエピソードなどで、それを推測できる。

出口王仁三郎の悟境を探っていくと、明治31年の2月の28歳の時に、高熊山に一週間の冥想修行を行った事績に突き当たる。クンダリーニ・ヨーガ的に見れば、究極に至る際は、呼吸停止、心拍停止するのだが、出口王仁三郎は六度死に、その一回目がこれなのだろうと思う。

その際に大神(天御中主神)を目撃したのか、あるいは神人合一の体験をしたかどうかは、霊界物語の本文中には出てこない。感覚の蕩尽、意念の断滅だったとは書いてあるが、松岡など神使に導かれ、多数の高級神霊に出会ったとは書いてあるが、肝心のところは書いておらず、「まことかたればきくひとはなし (宣長)」とはぐらかしている。

 

高熊山の修行直後の心境としては、

「我は空行く鳥なれや

  ○○○○○○○○○○

  遙かに高き雲に乗り

  下界の人が種々の

  喜怒哀楽に捕はれて

  身振り足振りする様を

  我を忘れて眺むなり

  実に面白の人の世や

  されどもあまり興に乗り

  地上に落つる事もかな

  み神よ我と倶にあれ」

が残されているが、これだけでは、どういった境地かわからない。

 

1.メンタル体の離脱

メンタル体で肉体を脱出する際、アートマ光の輪が頭頂にあるようだ。これを想像させる情景が霊界物語にある。

『橄欖山の神殿は鳴動し、三重の金殿は際限もなく中空にむかつて延長し、上端において東西に一直線に延長して丁字形の金橋をなし、黄金橋もまた地底より動揺して虹のごとく上空に昇り、漸次稀薄となり、大空に於て遂にその影を没して了つた。

丁字形の金橋は、東より南、西、北と緩やかに廻転し始めた。さうして金橋の各部よりは、美はしき細き金色の霊線を所々に発生し、地球の上面に垂下すること恰も糸柳の枝のごとくであつた。さうして其の金色の霊線の終点には、金銀銅鉄鉛等の鈎が一々附着されてある。これを『神の御綱』ともいひ、または『救いの鈎』ともいふ。』

 (霊界物語 第5巻 第23章 神の御綱から引用)

この回転するT字型の金橋がアートマ光の輪ではないかと思われる。その後に脱身し、霊線に沿って上昇しようとするところである。

 

2.上昇の過程

 ここでは、「神」マークのついた人間が、先に鉤のついた黄金の霊線に沿って引き上げられるとあるが、これは黄金の霊線と見えるクンダリーニのエネルギーコードに沿って、多くの人間が無数の宇宙を上昇していくことを自分も上昇しながら、その霊眼で確認したものと考えられる。

※「神」マーク:(正道に帰順する神人には、おのおのその頭に『神』の字の記号を附けておいた。されど附けられた者も、附けられない反抗者も、これに気付くものは一柱もなかつた。/霊界物語 第5巻 第23章 神の御綱から引用)

 

 3.中心太陽への突入体験

  出口王仁三郎は、中心太陽への突入体験を無我の境と表現する。偉大なる神が我であるという状態があることが日常の生活感覚での吾と全く違うことをことさらに主張することは、その体験とはいえない体験がある者だけのモチベーションから来るものだと思う。

『無と云ふ事は言霊学上、天といふ事である。我と云ふ事は霊的に見た自分、宇宙と合致したる自分。自己の肉体をさして吾と云ふ、吾のわれは五つの口と書く。鼻の穴、口の穴、耳の穴、尻の穴、小便の穴、この五つの穴を備へた肉体の自分をさして吾と云ふ。

無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態である。慾望もなく、怨恨もなく、好きもなく嫌ひもなく、自分もなく人も無く、神の懐にとけいつて、神は我なり我は神なり、神人一如の境地に立つた場合を無我の境と云ふのである。』

(水鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)

 

さらに歌集「霧の海」には、

 

霊魂の力一ぱい天地(あめつち)に

いやひろごりてめぐりにめぐる

 

天にもあらず地(つち)にもあらず現(うつつ)にもあらぬ世界に

われ生く心地す

 

以上2首は、宇宙全体、世界全体の第六身体の視点。

 

天(あめ)もなく また地(つち)もなく われもなく

有漏路無漏路(うろぢむろぢ)を超越して居り

 

この一首では、「われもなく有漏路無漏路(うろぢむろぢ)を超越して居り」ということで、ニルヴァーナに到達したと見ることができる。

以上のように出口王仁三郎は、既に神人合一を実現していたのだが、メンタル体離脱の状況については、直接的な表現はないもののおそらくは、黄金の霊線を確認していることで、メンタル体での脱身があったものと想像される。

また古神道なので、鎮魂法により、神人合一したものと考えられるが、どういうわけか、公開を神の許し給わぬところなのか、鎮魂法によってどのように究極に達したのかは明かされていない。

また古神道では一霊四魂とはいっても、メンタル体に照応する四魂があるわけでもない。ただ黄金の霊線に乗って神に到達するルートを確認したことは間違いない。

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柳華陽の脱身

2023-10-15 03:23:00 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-04-07

◎思春期の垂直の道-7

 

道教内丹の柳華陽の脱身は、時代が古いせいか、また大周天系のせいかダンテス・ダイジほど論理的に整然と書いているわけではない。

慧命経を著した柳華陽は、清時代の人(1736年生れ)。その知り得た眼目は、伍守陽先生にめぐり会って教えてもらったと書いてある。ところが伍守陽先生は、1644年に亡くなったとされている人であるので、何らかの形で200年くらい生存して、柳華陽にノウハウを伝えたことになる。

 

さて慧命経の挿絵を見ると、大周天という独特な手法による冥想であることがわかる。

慧命経では、肉体を飛び出す体験が三界(欲界・色界・無色界)を飛び出す体験であると補足してあり、その点でも真正のニルヴァーナを目指す体験を語っているように思う。アストラル・トリップでは、三界を超越できないので。

 

1.慧命経の粉砕図

道教の柳華陽においては、慧命経の挿絵の第四図道胎図から第五図出胎図において、気が満ち足りて、やがて円熟すると胎児(道胎)は頭頂より出て行き、身外に出る。これを陽神の出現とも言い、千弁の花びらがある蓮華中の如来とも呼ぶ。これがメンタル体の離脱と考えられる。

 

第六図化身図では、この陽神が妙道を通って虚無と化していくとあり、無上の垂直道ならぬ「妙道」を通って中心太陽に向かうことを言っているのだろう。

有より出て無に入るとは、文字通りアートマンからニルヴァーナへ。

第七図面壁図は、アートマンとブラフマンの合体(ニルヴァーナ突入の直前に起きる:「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP101参照」)と思われるが、「心印は空に懸り月の姿は浄い」とは、アートマンを月に見立てている。

「筏は岸に到って日光に融ける」とは、アートマンの中心太陽突入を比喩しているのだと思う。

 

柳華陽の凄いところは、この後のモクシャのところまできちんと記録しているところ。それが第八図の粉砕図である。これは「一片の光輝が法界を周り、日も月も忘れて寂浄にして霊虚」また、「不生不滅にして、無去無来」そして、「碧空に雲が散り山色浄く、慧は禅定に帰し、月輪は孤である」

 

粉砕図は十牛図の第八図と同じ一円相ではあるが、そこに到る道程は、禅などの只管打坐系メディテーションとは全く異なったものであり、その終着点もまたフツーの人々の夢にも思わない世界に隠されているのである。

 

2.禅機直論

以下は、柳華陽の修行上のメモみたいなかんじ。

『(第十二章禅機直論から)

 

<寂滅の定を久しく続けていれば、紛々とした情景が現れてくる。つまり、「雪が空に乱れ飛ぶ。」と言われる情景であり、これはまた機である。そしてその時こそ出定の好機である>

これすなわち真景である。

 

<遅滞を忌む>

速やかに出定すべし。

 

<この時、もし出定せずに胎中にとどまれば、神通変化に至ることができない。>

これでは一人の愚人に過ぎなくなる。

 

<すなわち出定すべし>

頭頂より出定する。

 

<これが「三界を超出する」ということである。さらにやすんじて、しばらく待つ。>

肉体から、一・二尺(約32~64cm)離れた状態のままでいる。

 

<それは禅である。そして一片の金光が虚空に現れるが、これまた機である。やがて(それらを自分の陽神に)収め入れ、定を行い、これまた禅をなす。こうした長く久しい定を行っていると形神はことごとく変化する。以上が禅機の説明である。>

古来より伝えられてきた禅機を今ここに漏らし尽くした。』

(慧命経/柳華陽/たにぐち書店P200-201から引用)

 

冒頭の寂滅の定とは、呼吸も脈拍も停止するものであろう。

一片の金光が虚空に現れるとは、アートマ光の輪のことかどうかは体験者に確認しないとわからない。

頭頂から脱身して肉体から1・二尺離れるというのが、メンタル体の離脱であると考える。

 

3.集説慧命経

注意点など。

『(第九章 集説慧命経から)

 

法身が出定して、凡体を離脱したなら、最初はすぐに泥丸に帰ってくるようにする。その後、まる七日間、さらにこれを養い育て、そしてまた出定する。最初の出定の際、仏祖や菩薩の姿や、美しげな情景が見えてくることがあるのだが、この時、決してこれらに心をとめてはならない。

これらは魔の変化したものであり、もしそれらに心を奪われると、魔の虜になり、魔の誘いのまま自己の帰るべき所を見失ってしまう。

これでは寂に帰すといえども、仏果はいまだ果たせず、自立して存在することができないため、必ず後世において再び生まれ変わることになる。必ず九地から十地を修し、更に十一等覚にまで修し、無色界を越える程まで心境を高めておく必要がある。

また初めて出定する際、肉体から3~5尺程まで出るようにし、驚いたり恐れたりしてはならない。やがて車輪のような一つの金光が現れるのを待ち、念をもって〔意識的に〕その光の中に入り、性の中に収め入れる。

 

〔肉体に帰ってくる。〕

これが形を変えるための微妙な基本方法である。』

(慧命経/柳華陽/たにぐち書店p134-135から引用)

※泥丸:サハスラーラ・チャクラ

※仏教の修行者(菩薩)は、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚の合計52段階の修行をする必要があるが、九地は49番目、十地は50番目、等覚は51番目の境地。等覚は、仏の正しいさとりに等しいさとり。

※「性の中に収め入れる」の「性」は心・精神を一般には指す。

 

『法身が出定して、凡体を離脱した』とは、メンタル体の離脱を言うのではないかと思われる。慧命経では、クンダリーニ・ヨーガとは異なり、大周天で気を前後(任脈・督脈)に周回させることで、身体外に陽神を作成するのだが、これがやがてメンタル体離脱となっていくのではないかと思われる。

クンダリーニ・ヨーガとは全く異なる方法で脱身するのだ。

 

だが肉体を出ると魔がお待ちかねであるので、それにかかわってはならない。拳銃と防弾チョッキの完全武装が当たり前の街に、丸腰で登場してはならないということでしょう。

そこで必要な拳銃と防弾チョッキにあたるものが、無色界を越える程の心境であり、無色界を越えるとは、欲界・色界・無色界の三界という、物質世界も精神現象の世界も超えた人間を超えた境地である。これには冥想修行を通じた魂の熟成が必要である。

慧命経では、まず有餘涅槃(サビカルパ・サマーディ、有相三昧)の呼吸がある状態があり、その後、無餘涅槃(ニルビカルパ・サマーディ、無相三昧)となり、無餘涅槃の無餘とは出入りの息がないことであると断定している。

このように臨死での冥想は、チベット密教の専売特許ではなく、道教・煉丹(慧命経)でも同じであったことに、双方とも同じクンダリーニ・ヨーガとして同根であることを感じさせられる。

 

このように死そのものを扱う超マジな技術であるからこそ、以下のような修行者は相手にしてはいけないと柳華陽は戒める。

(1)金やもうけのことばかり気にして、真の生き方にあまり関心のない人

(2)修行を初めてもすぐ飽きてしまう人

(3)心にもないうまい言葉を並べる人

(4)過度に慇懃な態度で言葉な丁寧で巧みな人(心に誠がない)

(5)先祖に徳がない者(子孫が修行しても成就しがたい)

(参考:上掲書)

 

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ダンテス・ダイジの脱身

2023-10-14 07:04:27 | ジェイド・タブレット

ジェイド・タブレット-04-06

◎思春期の垂直の道-6

 

ニルヴァーナに至る脱身について、それを開示している人物は少ない。ここでは3名挙げるが、最も詳しく書いたダンテス・ダイジですら、書かれたとおりやってもニルヴァーナに到達できることを請け合ってはいない。必ず正師について指導を受けなければ、死や発狂の危険があるからだ。

ここでは、彼のクンダリーニに関する記載を並べてみる。

クンダリーニは、最初は白色、次に銀色、後に黄金、最初は3本であってスシュムナー、イダー、ピンガラーで、後に一本となる。

 

『クンダリニー・ヨーガは、肉体から離脱して、究極のエクスタシーの中に突入することを目標とする。

死後の世界、霊界、異次元、心霊現象、バルドなどは、タントラ・クンダリニーの中間的プロセスとして自覚される。

クンダリニーとは、シンボリックに表現すれば、尾骨・ムラダーラに眠っているトグロを巻いた力あるヘビのことだが、原理的に説明すれば、絶対者なる無限の中心太陽から発出した光のエネルギー・コードのことである。』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP40から引用)

 

さらに

『クンダリニー生命欲は、肉体上のムラダーラ・チャクラの中で活動を始める。尾骨神経節は、尾骨神経叢を活性化して、食欲と肉体的活動による肉体機能を発達せしめる。この乳幼児の食欲と肉体活動とは、胃腸の食欲と栄養のエネルギー代謝としての運動ではない。肉体ムラダーラの食欲は、肉体維持の食欲ではなく、生命体自体の本能としての純粋食欲なのである。

純粋食欲と動物的運動との肉体ムラダーラ・チャクラの機能が順調に発達すれば、次の出番は性欲である。肉体スワジスターナ・チャクラは、性腺と言ってよいだろう。 食衝動から性衝動への変換である。』

(上掲書P49から引用)

 

ここでは、肉体ムラダーラに宿るクンダリーニが幼児の肉体を成長せしめ、やがて思春期には、性欲というエネルギーに変化していく次第を述べている。

 

次に彼は、脱身して六つの次元(ニルヴァーナ以前の六つの身体)を通過する。

『クンダリニーとは、ムラダーラ・チャクラ内部のエネルギーだというのが方便としての説明にすぎないことを私は知った。

クンダリニーとは、ニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための一直線の光り輝くエネルギーのことなのだ。

クンダリニーとは、サハスララ・チャクラからムラダーラ・チャクラまでに直結しているスシュームナーそれ自身なのである。

それから私は、頭のてっぺんから肉体を離脱した。

そして、一直線に金色の光線となって六つの次元を通過した。あらゆる存在形式、あらゆる宇宙、あらゆる生命形態を包含するところの霊的次元である。』

(上掲書P72-73から引用)

 

まず脱身がメンタル体だとは、ここでは書いていない。この次の段階で、彼はニルヴァーナに突入する。

 

『※16(白色光のコード)

「三つに分かたれていた白色光のコード」とは、イダ・ピンガラ・スシュムナーと呼ばれているものである。イダとは、身体の左側を司っているエネルギー・コードのことであり、ピンガラとは、身体の右側を司っているエネルギー・コードのことである。

そして、純粋意識があるレベルのチャクラに達するか、或いは肉体の外に離脱した場合には、スシュムナーという「神」から直接発出しているところのエネルギー・コード一本に統合される。又、イダとは女性的側面(内向性)を形成するものであり、ピンガラとは、人体の男性的側面(外向性)を形成するものである。

尚、ニルヴァーナへの無上の垂直道を上昇する場合には、純粋意識と、「神」から発出されたエネルギー・コードとは同一のものであることを知覚することになる。』

(上掲書P108-109から引用)

 

クンダリーニとは、玉の緒などと呼ばれ古来その存在は知覚はされていた、それが、各個々人が究極であるニルヴァーナに直結するエネルギー・コードであることを開示したのは空前のことであった。人間は、神なのである。

ここでは、脱身というテーマでその周辺について記述しているが、脱身とは実はボディを主たる問題としているわけではなく、あくまで自分が神につながっていたことを確認する方便であったことを知る。

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想念の隙間とその深度

2023-10-13 03:07:02 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-04-05

◎思春期の垂直の道-5

 

トランスに入って、脱身を目指すといっても、次に列挙するような隙間を単純に目指すわけではない。それぞれの冥想手法に応じた異なるやり方で目指していくわけだが、隙間から窮極が見え隠れしている以上は、隙間がどういったものであるかを知っておくのは役に立つように思う。

 

1.想念と想念の間には隙間がある

想念と想念の間には隙間があるとは、まずは日常の顕在意識での想念と想念の間を想定している。その隙間とは、次のようなものである。

(1)突然肉親を奪われるというような不条理。両親早世。

(2)最愛の人の死やペットロス

(3)突然の災害ですべてを失う

(4)霊能力の開顕、心霊体験

(5)アストラル・トリップ(ヘミシンク)

(6)統合失調症における変化した世界観

(7)ドラッグ

(8)くしゃみ、失神

など

 

トランスにおいては、意識の力が弱まるので、意識を清明にして起こる出来事を覚知するというのは、結構大変だと思う。それでも隙間に向かう。

 

2.隙間の深浅高低

ところが、想念と想念の隙間とは、顕在意識だけでなく、潜在意識での想念である夢と夢との間にも発生している。想念と想念の間である隙間を感知することは、見仏見神見道であって、それ自体悟りと評価されるものだが、それよりも奥がある。それが眠っている状態での夢と夢の間の隙間とでも言うべきものであって、それこそが本物の仏・神・道の深みなのである。

夢と夢の間の隙間は、深い冥想状態でも覚知できることがあり、これが世界の古伝承、各宗教で言及されている所以でもある。

 

3.想念の消し方-チベット密教

想念の消し方についてはチベット密教の「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」に参考となる記述がある。

 

湧き起こる思考(想念)の消し方は次のように三段階で進化する。(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P102)

(1)初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。

(2)中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。

(3)最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。

※思考の解脱とは、想念の消滅のこと。

 

そして、この思考の抹消作業に習熟すると、

『長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。』

(上掲書P102から引用)

これにより、隙間である見仏見神見道の意識は、平常活動時にも維持されることとなると考えられる。

 

4.想念の消し方-OSHOバグワン

想念の消し方の冥想手法としてOSHOバグワンの挙げている実例は以下のようなものである。

(1)息が出て、隙間、息が入る、という三段階を見つめる。これを繰り返す。ヴィパッサナー、呼吸覚醒。

(2)眠ろうとする時に、眠ろうとする自分に醒めている。眠ってもおらず醒めてもいない自分がある。

また眠りから目を覚ましていない状態にも同じチャンスがある。(心理学者のユングもこれをやっていた。)

(3)意識が無意識に変化する瞬間に気づいている。麻薬を投与して、意識をまさに失おうとする瞬間に気づいている。禅の師匠が弟子を殴って縁側の下に蹴り落とす瞬間(正受が白隠を蹴り落とすなど)に気づいている、など。

(参照:未知への扉/第六章 精神的な爆発/OSHOバグワン)

 

5.只管打坐と想念

想念を消すのではなく、相手にしないというやり方を取るのが只管打坐。

 

5.想念と隙間との間の移動

OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。

 

この爆発をチベット密教「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」では、patoという気合で表現しているが、実は気合でもpatoというマントラでもない爆発的不連続なのかもしれない。自分が死に自分の宇宙が死ぬ。そして宇宙すべてが自分であるという逆転を爆発と呼ぶ。「自分」にこだわった表現をすれば逆転あるいは倒立となる。タロットの吊るされた男。

 

6.想念と隙間との間の移動にかかる所要時間

想念と隙間との間の移動にかかる所要時間は一秒以下か。これを刹那という。

だが、同時ではない。想念と隙間は同時には存在し得ないのだ。『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる(葉隠)。

 

7.モクシャへ

想念は個であり、夢も個の側。そしてこの隙間が世界全体であり、仏、神、道の本体であり、七つの身体で言えば、第六身体アートマンに該当する。これは有の側であり、やがて無の側であるニルヴァーナに進む。

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トランス-微細身への通路

2023-10-12 06:16:39 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-04-04

◎思春期の垂直の道-4

 

トランスとは、変性意識状態のこと。トランスにおいて脱身が起こるが、無数にあるトランスの中で、大悟覚醒に至るメンタル体離脱に行けるトランスは、稀なものであろうと思われる。トランスに入ったからといって、かつそれが快適なものであったからと言ってもメンタル体離脱につながらないトランスはよくあることなのだろうと思う。

またトランスは、意識の働きが弱まった時に、強力に、頻繁に出現する。トランスとは意識と無意識のせめぎ合いだが、そこで何を見るべきかといえば、隙間ということになる。隙間については、後段で述べる。

トランスの中で、メンタル体離脱につながりそうなものを大まかにハイレベル・トランスとし、メンタル体離脱につながりそうでないものをローレベル・トランスと便宜的に区分してみる。

 

1.ハイレベル・トランスの例

ハイレベル・トランスとはどちらかいうと宗教体験、冥想技法の側であって、能動的に求めてトランスに入る技法が中心である。以下に代表的な例を挙げる。なお、どの宗派も単発の冥想技法でなく、複数の冥想法を組み合わせて修行しているものだ。

 

宗教体験とは神とのコンタクト一般を言うが、コンタクト手法は大別して三種ある。それは、神に出会うこと、神と一体になること、神降ろしの三種である。トランスは、冥想修行で発生している。

(1)古神道の帰神

古事記の仲哀天皇の帰神の段でも知られるように古神道では、琴で帰神に入る。

(2)チベットの託宣僧

チベットの託宣僧は観想法でトランスに入る。 ダライ・ラマのインド亡命以前は、託宣僧(ネーチュン)は、チベットの護法神ペハル・ギャルポとその最も重要なチベットへの使者ドルジェ・タクデンとの霊的コンタクトを、一日4回、毎日8時間にわたる観想法を中心とした儀式を通じて行っていた。それによりトランスに入った。

(3)古代中国の巫術(シャーマン)

会稽郡上虞県(浙江省上虞県)の孝女曹蛾の父のク(目へんに于)は琴と歌で神おろしをする巫であった。(後漢書孝女伝)

 

(4) イスラム神秘主義者(スーフィ)

円舞によりトランスに入る。

 

(5)禅

只管打坐によりトランスに入る。

 

(6)念仏、お題目などマントラ

マントラを繰り返すことでトランスに入る。

 

(5)チベット密教

観想法によりトランスに入る。

 

(6)ヴィパッサナー

呼吸を見つめることでトランスに入る。

 

2.ローレベル・トランスの例

(1)瞑想修行での魔境

幽霊の足音を聞いたり、巨大な化け猫を見たり、バリエーションは無数にある。

(2)スマホを見つめつつ前に注意しないで人ごみを歩く(自己流の催眠性トランス(無意識に落ち込んで、目の前のものが見えていなかったり、ある人物の声にしか反応しなかったり、現実に起こったことを記憶していなかったり)にはまっているようなケース)

(3)深酒による酩酊

(4)向精神性薬物によるトリップ

(5)入眠時、睡眠からの覚醒時

(6)宗教、エンターテインメント、政治などの巨大イベントでの集団心理の盛り上がり。

感動と興奮で、偏狂が起こりやすい。

 

これ以後の例は特殊だが、参考になる点がある。

(7) 酸素マスクなしで、高山の標高8000メートル級の死の地帯にいる場合。

反応が緩慢になり、思考力が鈍くなる。また一つのことしか考えられないような具合になる。ところが感情の方は、こうした中でも絶望と歓喜というかたちで残る。

(8) PTSDでの心の狭窄(意識のひきこもり)

幻覚を見るとか、実在しているものの視覚像を消すようなことをする。

(9) PTSD-児童虐待

気まぐれな親から、虐待される徴候があると、いつでもすぐ逃げて隠れられるように、子供は、絶え間ない過覚醒の状態にある。逃げられなかった場合は、虐待されるままになるが、虐待をエスカレートさせないように、心の中の動揺や興奮を表情に出さないようにする。しかし子供は意味と希望を求めて親に愛着せずにはいられない。

そのジレンマを自分一人の力で解消する唯一の手段は、自分の心の中で、世界の認識を、非現実的なレベルまで変貌させるか、または自分の肉体の認識や記憶そのものを変えてしまうという、変性意識状態になることが少なくない。

 

最後に、

トランス状態では、やや無意識の方が優勢で意識の方が劣勢となる。そうした状態で意識をきちんと保っていくことが大切。その辺の頃合いと方向性を教えてくれるのが正師ということになる。正師がなければ、発狂が起こりやすいというのは、無意識が意識を圧倒することこそ発狂だからである。

行というのは、無意識を操作すること。

よくスポーツでゾーンに入ると言うが、ゾーンもある種のトランスである。

思春期において脱身を求めると言っても、もうこの時点で正師が必要となる。

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脱身の各種

2023-10-11 03:42:51 | ジェイド・タブレット

◎思春期の垂直の道-3

◎ジェイド・タブレット-04-03

 

垂直の道とは脱身して、神人合一することである。脱身するには、トランスに入らねばならない。

このように書くと、とんでもなく簡単な道のように思えるが、過去何千年の無数の名だたる冥想修行者がチャレンジをして、成功する者は極めて稀である。釈迦が冥想修行仲間から英雄と賞賛されるのは、そうした事情を踏まえてのことである。

 

さて脱身にはいくつかの種類があるが、神人合一を目指す場合は、メンタル体での肉体からの離脱のみが可であり、それ以外のボディからの身体からの離脱では届かないとされる。

1.エーテル体離脱

エーテル体という半物質で離脱しても、いろいろと制限が多いのではないかと思われるせいか、エーテル体トリップ記というのは見たことがない。

理屈としては、19世紀イギリスの降霊会などで頻出の人型のエクトプラズムがエーテル体離脱なのではないかと思われる。

2.アストラル体離脱

これは、霊体離脱としてはポピュラーであって、ヘミシンクや坂本政道氏の体験記が有名。アストラル・トリップは、出口王仁三郎も駆使しており、関東大震災やエルサレムもこれで見聞した。ただしアストラル・トリップで見ているのは霊界であって、現界ではないと出口王仁三郎は釘を刺している。

アストラル・トリップでは、究極であるニルヴァーナに到達できないのは、この脱身手法では、見ている自分を捨てられないからだろうか。

 3.メンタル体離脱

第四身体メンタル体で離脱することで、ニルヴァーナに到達することができる。

これを唱えているのは、ダンテス・ダイジ。OSHOバグワンも父の野外での火葬に先立って父の頭頂に手を当て、父が頭頂から離脱したことを確認している。チベット密教では、死に際し頭頂サハスラーラ・チャクラからの離脱を重要とみている。

チャクラが存在するのはメンタル体まで。

 

4.コーザル体以後

個人間としてのボディは、コーザル体まで。どのようにニルヴァーナに到達するかを問題にしているが、人間は、メンタル体離脱でニルヴァーナに到達することが示されているが、コーザル体離脱というものが存在するのか。また存在したとしてそれが意味あることなのかどうかはわからない。

 

またOSHOバグワンが、生まれて初めて脱身した際に非常に驚いたという。最初の脱身では、誰でもびっくらこくらしい。

OSHOがいつものように木の上で冥想していると、冥想に入れ込みすぎて、自分の肉体が、木から落ちたのにすぐには気づかず、突然自分の肉体が地面に横たわっているのを発見した。明るい一本の線、銀色に光り輝くひも状のものが、横たわっている肉体のへその部分から出て、木にとまっているOSHOにつながっていた。銀色に光り輝くひも状のものとは、クンダリーニのことで霊線とか、玉の緒とも呼ばれる。木の上にいる自分はアストラル体のことだろう。

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垂直の道の世界観

2023-10-10 07:27:08 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-04-02

◎思春期の垂直の道-2

 

街の霊感者、霊能力者には、その予言が当たると見るや金の亡者、権力亡者、ギャンブラー、軍人などが集まって来るものだ。株価、地価、ヴォラティリティ、商品市況、出目、選挙予想、軍備動向など、予知能力を利用してやろうと待ち構えている人はいつでもどこでもいるものだ。

それと同様に、垂直の道の冥想修業の途中で霊能力や超能力が目覚める修行者はいるものだが、霊能力や超能力にこだわると、修行が前に進んで行かないばかりか、わが身を滅ぼす原因になる。その典型的な例はカルトの教祖になってしまうことで、世の東西を問わず、古来からそういう例は多数ある。地下鉄サリン事件で有名なオウム真理教はその具体例であって、海外でも人民寺院やブランチディヴィディアンなども教祖は皆超能力者であった。

破綻していない現代カルトには、教団内部に幹部ファミリーを育成し、信者からの収奪と資金繰りが続く限り、何世代でも継続できるようにしているものもある。ところが、本来覚者が中心であるべき教団がそのような形になると、永続はしないものだ。キリスト教、仏教などの世界宗教は、時代が下っても新たな覚者が教団周辺に繰り返し出て来たから命脈を保ってきたものであって、金の力で継承されてきたわけではない。

垂直の道すなわち日本密教、古神道、チベット密教、クンダリーニ・ヨーガ、道教内丹などは、修行の途中で霊能力、超能力が発現しやすいがゆえに、特に以上のような点については警告、禁戒を行ってきたものである。

 

夢の中では、現実には絶対に結ばれないとわかっている異性とでも結ばれてしまうというようなことがあり得るものだ。それは夢の世界だからできる。ところが、そういった類の願望を霊能力、超能力で実現しようとしたりする人は、ままいるものだが、それでは垂直の道で究極に達することはできない。

思春期にあっては、世俗的な願望と究極を究めることがどちらが価値があることだろうかなどという疑問を抱くものだが、究極を究めることとは、無用の用を生きることであって、価値でもって図ることはできない。

だが、聖なるものの極みは、それ自体石ころのように無味乾燥なものだが、そこから愛、真善美など、あらゆるポジティブなものが流れ出て来るものである。石ころは無用の用だが、賢者の石なのである。それはまことに不思議なことだが、思春期に垂直の道を学ぶ場合、まずこの点をわきまえないといけないと思う。

またこの点は、無用の用なのだから社会の一般人、常識人に向かって「無用の用は最高に優れたものだ」などという主張はできない。野に咲く花は、声高に自分からその美を主張しないからである。

聖者は弟子を勧誘する場合、弟子自身のため、家族のため、国家社会のため、世界と宇宙のために冥想修行を勧める場合があるが、それは「何の役にも立たないけど冥想修行をしよう」と勧めて乗って来る人はまずいないからである。だが、世界と宇宙のためにということは、既に無私であるから、そこに世界観逆転、無用の用の突破口がある。勧誘の最初は、自分のためにということで修行を始めても、筋のいい修行者は直に真の狙いどころがどこにあるか気がつくものである。

ここに石ころについての参考としてダンテス・ダイジの詩を掲げる。

『「奥深い心」

 

すでに人間はいない

あらゆるものを構え

その中でとりとめもない

人間の喜びと人間の悲しみとを持つ

そのものはすでにいない

 

人間の喜びと悲しみとから生れる

あのしみじみとした心の果てには

すでに人間はいない

 

人間にとってあるというすべてのものは

ことごとく消え果て

ただその奥深い心だけが

何の束縛もなく現前している

 

それは人間の心ではない

人間の喜びも悲しみも

その心のどこにもないのだから

人の子の悲惨な死も

甘美な恋慕も

その心には見えない

 

また その心は

石ころと人間とに区別がつかない

めくらで不人情な心だ

 

だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版P94-95から引用)

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垂直の道のエッセンス

2023-10-09 07:17:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-04-01

◎思春期の垂直の道-1

 

思春期の頃と言えば、高校受験の勉強と部活にいそしんでいた頃だが、最近は高校入試もバリエーションが増えたり、不登校が増えたりと、バブル以前とは様相が異なっているのだろう。当時、近所には、寺もあり神社もあって、盆や正月、彼岸には参拝したり、祭礼では縁日もあったりして、宗教的な雰囲気は、生まれ育った環境に既にあったが、それは少年以前の頃からの「神を喪失した」感覚とは別のものであった。

そうした宗教行事の中には、お札、魔除け、護符、おみくじ、破魔矢、お祓いなどスピリチュアルなものがつきもの。また重病にかかった近所のおばさんがお百度参りをしているのを見て驚き、木の幹に藁人形を打ち付ける丑三つ参りというのもあるらしいなどと聞いては怖気を振るったこともある。

後にこうしたオカルト系の行事、イベント、作法、風習は、大部分が広義のクンダリーニ・ヨーガ系宗教に由来することを知る。広義のクンダリーニ・ヨーガ系宗教とは、古神道、真言密教、天台密教、チベット密教、道教内丹、クンダリーニ・ヨーガなどである。

 

私の印象では、これらに共通したエッセンスについては、肉体を脱出して、神仏と合一する段階があるのだが、そこの部分だけが共通であるように見える。

ただし肉体を脱出するというのは、あまりにも社会常識からかけ離れているせいか、そこを明確に語っていない者がいるし、例外的に語っている者もいるが、少数意見すぎて相手にされていないというのが現代の大勢だろう。だが、人類滅亡を回避する数少ない手段の一つである。

そして、クンダリーニ・ヨーガ系宗教で神仏と合一した場合、なぜか彼はその言葉で語り得ぬ体験を語りたがるものであり、七つの身体のすべてを俯瞰できるものは、ニルヴァーナという窮極に達した者だけである。神仏と合一しない者も当然にそれを語り得るが、それは想像であって真実ではなかろう。

また広義のクンダリーニ・ヨーガ系冥想技法の共通点としては、霊能力、超能力を用いて、人間、人類の幸福をサポートすることも挙げられる。人は、茶を淹れるのに、水をくんで沸かして茶葉を入れる方法と超能力でもって空中から茶を出すという二つのやり方があるが、広義のクンダリーニ・ヨーガ系冥想では後者の方法をとるということ。そして両方の方法に優劣はない。

 

高校の同級生に桐山靖雄の超能力開発本を持っていた人がいて、どうしてそのようなことに関心を持つのか不思議だったが、彼はそちら方面が好みだったのだ。好みの問題ということはある。

西洋錬金術も広義のクンダリーニ・ヨーガ系行法の一つだが、冥想法だと言っているケースは少なく、黄金を作り出すという製造実験という触れ込みにしている。古代ギリシアのプロティノスも哲学をやっていたと称されているが、実は冥想をやっていたに相違ないと思う。西洋錬金術者も一生をかけて、悟りである賢者の石あるいは黄金を求めることが多い。広義のクンダリーニ・ヨーガ系修行者は覚醒を求めて、神仏との合一にすべてを捧げるのだが、その萌芽が、肉体と精神のアンバランスな思春期に起こるというのはありそうなことである。

 

思春期は、大方親のすねかじりであって、行動範囲も小さいが、クンダリーニ・ヨーガ系冥想を志すきっかけが第二次性徴の思春期にあるということに不思議はない。

何しろクンダリーニ・ヨーガ系冥想では、性の力、クンダリーニ・エネルギー、オージャスを用いると言われ、禁欲が定番なのだから。

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くそと黄金

2023-10-08 12:33:16 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎くそへ ここたくの罪を天津罪とのりわけて

(2016-12-09)

 

世の中には、巨富を持っている人がいる。マイクロソフトの創業者のデビッド・ゲイツとか、投資家であるウォーレン・バフェットとか、ジョージ・ソロスとか英国女王ファミリーとか、日本にもそういう人もいる。

彼らは、人もうらやむ年棒のプロ野球の大谷翔平の百倍どころか万倍の資産を有している。サッカーのメッシやクリスチアーノ・ロナウドなどの千倍以上でもある。持てることに満足するまで増やそうと努力するのだろう。

けれども何兆円もの個人の財産は、本人が亡くなった瞬間、彼にとって何兆トンもの糞に化ける。

フロイトの夢判断では、黄金がくそに変ずる話が出てきて、黄金がくそと同義なのは潜在意識の常識であり、神々の常識でもある。

神々が不死の霊水アムリタをおしっことして与えようとした如く、神々にとっては、糞尿に対して変な羞恥心はない。日本国の神聖なる大祓詞にも「くそへ」が登場し、その天津罪を祓うべく毎日敬虔に全国で奏上されている。

一方で話が自分の金を出すことに及ぶや貧富にかかわらず性格が急に獰猛になる人は多いものだ。羨望なく巨富を見れる人だけが、求道の道を進む。

金融教育をしないと騙される人が増える。それはそうだが、金に使役される人を増やすことが人間社会の幸福増進につながるのだろうか。

金で得た幸福は一時的なものであり、部分的幸福であり断片的幸福である。だが、そういう冷静な説を冷静にみれなくなりがちなのが貧困であり、世の中の非正規労働者は4割なのだから4割が貧困なのだろう。

イエス・キリストも貧困層だったし、釈迦も貧困層だったし、中国の禅者趙州も貧困層だったし、まともな宗教者は必ず貧困である。

ことさらに繰り返しくそと黄金の説を説かねばならぬほど世の中の迷蒙は深い。

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天津罪と国津罪-2

2023-10-08 12:32:25 | 古神道の手振りneo

◎国津罪

(2016-08-27)

 

さらに出口王仁三郎の国津罪の定義。国津罪とは、天賦の国の徳、人の徳を傷つくる罪を指す。

己が母犯せる罪、己が子犯せる罪など字面は倫理道徳的に問題のある言葉が並ぶが、実質は、祖先、祖神に対してその本来の権能を無視したり、リスペクトせぬことや、自分の子孫の権能を無視し、食い物にしたり、虐待、酷使すること。

クンダリーニ・ヨーガ系では、故意に糞尿的言葉を並べることがあるが、この主要祝詞たる大祓祝詞にそうした一見下品な言葉が並ぶのも、古神道がクンダリーニ・ヨーガ系である証左である。字面を故意に汚して、真に求道の情熱ある者だけを選別していた仕掛けでもある。

大地震や巨大台風は、「高津神の災」であり、出口王仁三郎は、これを世界中の守護神、人民の堕落が招ける神罰と見ている。

 

『△国津罪  天賦の国の徳、人の徳を傷つくる罪を指す。

△生膚断  天賦の徳性を保ち居る活物の皮膚を切ること也。必要も無きに動物を害傷し、竹木を濫伐する事等は矢張罪悪である。霊気充満せる肉体に外科手術を施さずとも、立派に治癒する天賦の性能を有してゐる。人工的に切断したり切開したりするのは天則違反で、徒に人体毀損の罪を積ぬる訳になる。

△死膚断  刃物を以て生物一切を殺す罪。

△白人胡久美  白昼姦淫の事。白日床組といふ醜穢文字を避け、態(わざ)と当字を用ひたのである。淫欲は獣肉嗜好人種に随伴せる特徴で、支那、欧米の人士は概してこの方面の弊害が多い。日本人も明治に入つてから大分その影響を受けてゐるが、元来はこの点においては世界中で最も淡白な人種である。淫欲の結果は肺病となり、また癩病となる故に白人胡久美を第二義に解釈すれば白人は肺病患者、または白癩疾者を指し、胡久美は黒癩疾者を指す。

△己が母犯せる罪  母の一字は、父、祖先、祖神等をも包含し、極めて広義を有するのである。大体において親といふ如し。犯すとはその本来の権能を無視する義也。換言すれば親、祖先、祖神に対して不孝の罪を重ぬる事である。

△己が子犯せる罪  自己の子孫の権能を無視し、非道の虐待酷使を敢てする事。元来自分の子も、実は神からの預かり物で、人間が勝手にこれを取扱ふ事は出来ない。それに矢鱈に親風を吹かせ、娘や伜などを自己の食ひ物にして顧みぬなどは甚だしき罪悪といふべきである。

△母と子と犯せる罪、子と母と云々  上の二句『己が母犯せる罪、己が子犯せる罪』を更に畳句として繰返せるまでで別に意義はない。

△畜犯せる罪  獣類の天賦の徳性を無視し、酷待したり、殺生したりする事。

△昆虫の災  天則違反の罪をいふ。蝮、ムカデなどに刺されるのは皆偶然にあらず、犯せる罪があるにより天罰として刺されるのである。故にかかる場合には直に反省し、悔悟し、謹慎して、神様にお詫を申し上ぐべきである。

△高津神の災  天災、地変、気候、風力等の不順は皆これ高津神の業にして罪過の甚い所に起るのである。災は業はひ也、所為也。鬼神から主観的に観れば一の所為であるが、人間から客観的に観れば災難である。今度の国祖の大立替に、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、その他八百万の眷属を使はるるのも祝詞のいはゆる高津神の災である。皆世界の守護神、人民の堕落が招ける神罰である。

△高津鳥の災  鳥が穀物を荒す事などを指すので矢張り神罰である。

△畜殪し  他家の牛馬鶏豚等を斃死せしむる事。一種のマジナヒ也。

△蠱物  呪咀也、マジナヒ物也。丑の時参りだの、生木に釘を打つだのは皆罪悪である。』

(霊界物語第39巻大祓祝詞解から引用)

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