アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

くそと黄金

2023-10-08 12:33:16 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎くそへ ここたくの罪を天津罪とのりわけて

(2016-12-09)

 

世の中には、巨富を持っている人がいる。マイクロソフトの創業者のデビッド・ゲイツとか、投資家であるウォーレン・バフェットとか、ジョージ・ソロスとか英国女王ファミリーとか、日本にもそういう人もいる。

彼らは、人もうらやむ年棒のプロ野球の大谷翔平の百倍どころか万倍の資産を有している。サッカーのメッシやクリスチアーノ・ロナウドなどの千倍以上でもある。持てることに満足するまで増やそうと努力するのだろう。

けれども何兆円もの個人の財産は、本人が亡くなった瞬間、彼にとって何兆トンもの糞に化ける。

フロイトの夢判断では、黄金がくそに変ずる話が出てきて、黄金がくそと同義なのは潜在意識の常識であり、神々の常識でもある。

神々が不死の霊水アムリタをおしっことして与えようとした如く、神々にとっては、糞尿に対して変な羞恥心はない。日本国の神聖なる大祓詞にも「くそへ」が登場し、その天津罪を祓うべく毎日敬虔に全国で奏上されている。

一方で話が自分の金を出すことに及ぶや貧富にかかわらず性格が急に獰猛になる人は多いものだ。羨望なく巨富を見れる人だけが、求道の道を進む。

金融教育をしないと騙される人が増える。それはそうだが、金に使役される人を増やすことが人間社会の幸福増進につながるのだろうか。

金で得た幸福は一時的なものであり、部分的幸福であり断片的幸福である。だが、そういう冷静な説を冷静にみれなくなりがちなのが貧困であり、世の中の非正規労働者は4割なのだから4割が貧困なのだろう。

イエス・キリストも貧困層だったし、釈迦も貧困層だったし、中国の禅者趙州も貧困層だったし、まともな宗教者は必ず貧困である。

ことさらに繰り返しくそと黄金の説を説かねばならぬほど世の中の迷蒙は深い。

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天津罪と国津罪-2

2023-10-08 12:32:25 | 古神道の手振りneo

◎国津罪

(2016-08-27)

 

さらに出口王仁三郎の国津罪の定義。国津罪とは、天賦の国の徳、人の徳を傷つくる罪を指す。

己が母犯せる罪、己が子犯せる罪など字面は倫理道徳的に問題のある言葉が並ぶが、実質は、祖先、祖神に対してその本来の権能を無視したり、リスペクトせぬことや、自分の子孫の権能を無視し、食い物にしたり、虐待、酷使すること。

クンダリーニ・ヨーガ系では、故意に糞尿的言葉を並べることがあるが、この主要祝詞たる大祓祝詞にそうした一見下品な言葉が並ぶのも、古神道がクンダリーニ・ヨーガ系である証左である。字面を故意に汚して、真に求道の情熱ある者だけを選別していた仕掛けでもある。

大地震や巨大台風は、「高津神の災」であり、出口王仁三郎は、これを世界中の守護神、人民の堕落が招ける神罰と見ている。

 

『△国津罪  天賦の国の徳、人の徳を傷つくる罪を指す。

△生膚断  天賦の徳性を保ち居る活物の皮膚を切ること也。必要も無きに動物を害傷し、竹木を濫伐する事等は矢張罪悪である。霊気充満せる肉体に外科手術を施さずとも、立派に治癒する天賦の性能を有してゐる。人工的に切断したり切開したりするのは天則違反で、徒に人体毀損の罪を積ぬる訳になる。

△死膚断  刃物を以て生物一切を殺す罪。

△白人胡久美  白昼姦淫の事。白日床組といふ醜穢文字を避け、態(わざ)と当字を用ひたのである。淫欲は獣肉嗜好人種に随伴せる特徴で、支那、欧米の人士は概してこの方面の弊害が多い。日本人も明治に入つてから大分その影響を受けてゐるが、元来はこの点においては世界中で最も淡白な人種である。淫欲の結果は肺病となり、また癩病となる故に白人胡久美を第二義に解釈すれば白人は肺病患者、または白癩疾者を指し、胡久美は黒癩疾者を指す。

△己が母犯せる罪  母の一字は、父、祖先、祖神等をも包含し、極めて広義を有するのである。大体において親といふ如し。犯すとはその本来の権能を無視する義也。換言すれば親、祖先、祖神に対して不孝の罪を重ぬる事である。

△己が子犯せる罪  自己の子孫の権能を無視し、非道の虐待酷使を敢てする事。元来自分の子も、実は神からの預かり物で、人間が勝手にこれを取扱ふ事は出来ない。それに矢鱈に親風を吹かせ、娘や伜などを自己の食ひ物にして顧みぬなどは甚だしき罪悪といふべきである。

△母と子と犯せる罪、子と母と云々  上の二句『己が母犯せる罪、己が子犯せる罪』を更に畳句として繰返せるまでで別に意義はない。

△畜犯せる罪  獣類の天賦の徳性を無視し、酷待したり、殺生したりする事。

△昆虫の災  天則違反の罪をいふ。蝮、ムカデなどに刺されるのは皆偶然にあらず、犯せる罪があるにより天罰として刺されるのである。故にかかる場合には直に反省し、悔悟し、謹慎して、神様にお詫を申し上ぐべきである。

△高津神の災  天災、地変、気候、風力等の不順は皆これ高津神の業にして罪過の甚い所に起るのである。災は業はひ也、所為也。鬼神から主観的に観れば一の所為であるが、人間から客観的に観れば災難である。今度の国祖の大立替に、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、その他八百万の眷属を使はるるのも祝詞のいはゆる高津神の災である。皆世界の守護神、人民の堕落が招ける神罰である。

△高津鳥の災  鳥が穀物を荒す事などを指すので矢張り神罰である。

△畜殪し  他家の牛馬鶏豚等を斃死せしむる事。一種のマジナヒ也。

△蠱物  呪咀也、マジナヒ物也。丑の時参りだの、生木に釘を打つだのは皆罪悪である。』

(霊界物語第39巻大祓祝詞解から引用)

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天津罪と国津罪-1

2023-10-08 12:12:20 | 古神道の手振りneo

◎天津罪

(2016-08-26)

 

天津罪と国津罪とは、原罪のことである。出口王仁三郎の天津罪の定義。

 

『天津罪  天然自然に賦与せられたる水力、火力、電磁力、地物、砿物、山物、動植物等の利用開発を怠る罪をいふ。前にも言へる如く、いはゆる積んで置く罪、包んで置く罪也。

宝の持腐れをやる罪也。従来は文明だの進歩だのと云つた所が、全然穿き違の文明進歩で一ツ調子が狂へばたちまち饑餓に苦しむやうなやり方、現在世界各国の四苦八苦の有様を見ても、人間がいかに天津罪を犯してゐるかが解る。』

(霊界物語第39巻大祓祝詞解から引用)

 

この大きな定義を受けて、例の「畔放ち(あはなち)」などの個別の罪の解釈をしてみせるのだが、それはいずれも学者の解釈とは全く異なったものになっている。「生剥ぎ」「逆剥」の解釈は、一般の想像も及ばぬところ。

字義にとらわれず、字義を用いるのはいわば全体の三分の一程度で、あとはインスピレーションによる。そのインスピレーションの正統性が問題なのだが、そこに出口王仁三郎の持つ至高至聖の境地が反映している。

 

『△畔放ち  天然力、自然力の開発利用の事。畔(ア)は当字にてアメを約めたもの也。田の畔を開つなどは単に表面の字義に囚はれたる卑近の解釈である。

△溝埋め  水力の利用を指す。埋めには補足の義と生育の義とを包む。湯に水をうめる、根を土中にうめる、種子を地にうめる、孔をうめる、鶏が卵をうむなど参考すべし。

△樋放ち  樋は火也。電気、磁気、蒸気、光力等天然の火力の開発利用を指す。

△頻蒔き  山の奥までも耕作し不毛の地所などを作らぬ事。しき(シキ)は、敷地のシキ也、地所也。蒔きは捲き也、捲き収める也、席巻也、遊ばせて置かぬ也、遊猟地や、クリケツト、グラウンドなどに広大なる地所を遊ばせて、貴族風を吹かせて、傲然たりし某国の現状は果して如何。彼等が世界の土地を横領せる事の大なりしだけ、彼等が頻蒔の天則を無視せる罪悪も蓋し世界随一であらう。しかしその覚醒の時もモー接近した、これではならぬと衷心から覚る時はモー目前にある。イヤ半分はモーその時期が到着してゐる。しかしこれは程度の差違だけで、その罪は各国とも皆犯してゐる。

△串差し  カクシサガシの約にて、前人未発の秘奥を発見する事。

△生剥ぎ  一般の生物の天職を開発利用する事。生物といふ生物は悉く相当の本務のあるもので、軽重大小の差異こそあれそれぞれ役目がある。鼠でも天井に棲みて人間に害を与ふる恙虫などを殺すので、絶対的有害無効の動物ではない。剥ぎは開く義、発揮せしむる義也。蚕をはぐなどの語を参考すべし。

△逆剥  逆(サカ)は、栄えのサカ也。酒などもこの栄えの意義から発生した語である。剥(ハギ)は生剥の剥と同じく開発の義。即ち全体の義は栄え開く事で、廃物をも利用し荒蕪の地を開墾し、豊満美麗の楽天地を現出せしむる事を指す。

△尿戸(クソヘ)  宇宙一切を整頓し、開発する義。クは組織経綸、ソは揃へる事、整頓する事、へは開発する事。

△許々太久  その他種々雑多の義。

△天津罪と詔別て  以上列挙せる天然力、自然物の利用開発を怠る事を、天津罪と教へ給ふ義也。』

(霊界物語第39巻大祓祝詞解から引用)

 

一般に冥想修行者にとっては、日常の勤倹節約をもって、水の一滴だにムダにしないのはあたりまえのことだが、ここではもっと大きく人間の土地や宇宙開発利用や天然資源の開発利用、動植物の利用にわたるまで、現今の科学知識の埒内では問題がないとされることまでやり玉にあげている。

全体として、広大な土地や巨額の金などを保有しているだけで社会・国家・世界のために有効利用していないことを指弾している。

また軍事力の威嚇をもって他国を植民地にしたり、経済的収奪をするのは許されざること(しきまき)であって、21世紀の今もその状況は変わらないので、今現在も「世の立替え」以前の状態にあることがわかる。

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トンレンの行法

2023-10-08 07:20:14 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎苦しみを取り込み健康や幸福を送り返していく

 

ある日、ケン・ウィルバーは、甲状腺ガンの友人に対して、どのようにがんになったかを分析、説明して友人を怒らせたことがあった。何が本当に患者の支え、癒しになるかわかっていなかったのだ。

 

ケン・ウィルバーの妻のトレヤは、乳がんで苦しんでいたが、がん患者がどのような治療法を選ぶかということは勇気がいることであって、がんが不治の病であった昔も、がんであることを受け容れることは簡単なことではなかった。

『こうした修行の中でまっさきに挙げられるのが、トンレンという名前で知られているもので、トンレンとは「取り込み、送る」という意味だ。ヴィパッサナーによってしっかりした土台を築いた後、修行者はこのトンレンの修行に移る。この訓練は非常に強力で、意識の変容を強く促すため、チベットでは最近まで秘密にされてきた。そしてトレヤが心底気に入ったのが、この修行だった。内容を以下に記そう。

自分がよく知っていたり、愛情を抱いている人の中で、病や損失、絶望や苦痛、不安や恐れといった苦しみを体験している人のことを瞑想中に観想する、あるいは思い浮かべる。

息を吸う際、彼らの苦しみのすべてを、真っ黒で、煙やタールのような、どんよりとした雲のような存在として想像し、それが鼻孔を通って自分の胸の奥まで入っていくのを想像する。そしてその苦しみを自分の 胸の内に保っている。次に、息を吐き出すときには、自分の中のやすらぎ、自由、健康、善や徳といったものすべてを、人を癒し解放する光というイメージにして、その知人に送るように想像する。

そして彼らがそれをすべて吸収して、完全な自由や解放感、幸福を味わっているようすを思い描く。 この呼吸を数回繰り返す。

それから知人の住んでいる街をイメージする。息を吸いながら、その街に存在するあらゆる苦しみを吸い込んでいるイメージを描き、息を吐きながら自分の健康や幸福を、 街に住むあらゆる人に送り返す。

次はこれを州全体に広げ、さらには国全体、惑星、全宇宙へと広げていく。

あらゆる場所のあらゆる存在のあらゆる苦しみを自分の中に取り込み、健康や幸福、徳を彼らに送り返していくのだ。

 

初めてこの修行を教えられた人たちは、普通、本能的な強い拒否反応を示す。ぼくもそうだった。黒いタールを自分の中に取り込むだって? 冗談じゃない。それで本当に病気になったらどうする んだ? 正気の沙汰じゃない、危険だ!リトリートの半ばになってカルからこのトンレンの修行 を教わったとき、一〇〇人ぐらいの聴衆の中からひとりの女性が立ち上がって、その場にいたほぼ 全員が考えていたことを発言した。

「でも、もし本当に病気にかかっている人を相手にこの訓練をして、自分が病気になってしまった らどうするんですか?」

間髪を置かずカルは答えた。「こう考えなさい。おお、素晴らしい!効果が現れているんだ!」

この言葉がトンレンのポイントだった。この言葉によって、われら「無我の仏教徒」は、みんなエゴをぶらさげたままだということに気づかされた。ぼくたちは自分が悟り、自分の苦しみを取り 除くために修行しようとしているのに、想像の中でさえ他人の苦しみを引き受けるのはまっぴらだ、というわけだ。』

(グレース&グリット(下)/ケン・ウィルバー/春秋社P44-46から引用)

※カル:カルリンポチェ。チベットの孤独な洞窟で13年修行。

※ヴィパッサナー:呼吸を見つめる行法。

 

古神道でも大祓祝詞で、天津罪国津罪を一旦唱えてそれから祓うが、それと似ている。チベット密教では、観想法とは言え、恐ろしげな修法であり、これを中途でやめたり失敗すれば、不幸な状態に陥るだろうことは想像される。まことに悟った師の指導なしでは危険であろうことが見て取れる。

また観想法そのものの作用反作用を考えれば、ヴィパッサナーに習熟した者しかトンレンをやらせないということは、最低でも見仏を経た者しかやらせないということだろうから、方向性を誤る可能性は低いのだろうとは思う。

ケン・ウィルバーもトレヤも一時期この行法が気に入っていた。それでもトレヤは乳がんで早逝した。生も死も大した差はないと言ってもケン・ウィルバー自身3年ひきこもるほどのショックだったのだ。

病を受け容れる、死を受け容れるというのは、トンレンの行法も最後は宇宙全体をも幸福にするのだから、病を忌避し健康だけを受け容れるとか、死を忌避し生だけを願うというようなものではないことがわかるはずではあるのだが。

神のまにまに。

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