◎原担山、LGBTQ、釈迦
江戸末期から明治にかけての禅僧原担山は侍だったが、若くして妻帯した。そんな新婚のある日、予定外に日中に帰宅してみると、なんと恋女房が他の男と寝ていた。
これを見た原担山は、剣を抜いて間男に切りかかろうとしたが、その瞬間にすべてのことが馬鹿馬鹿しくなって、剣を振り下ろすことなく出家してしまった。彼は性愛そのものを見切ったのだ。
セクシュアル・メディテーション、性愛冥想、カーマ・ヨーガ、房中術といえば、その行為自体に何かあると思われていることが多いと思う。あるいは、オルガスムス、オルガズム、エクスタシー、絶頂というものに何かあると思われていることが多いと思う。
だが、女性の絶頂は全身的であるのに対し、男性の絶頂ははかないものだ。求道という観点で言えば、性的な男性の絶頂は大したことがないが故に、男性は自分のすべてを賭けて冥想に挑むのだということはある。逆に女性は性において程度の満足があるがゆえに冥想の極みを求めるケースは少ないのだと言える。
中国養生思想や酒池肉林の悪影響か、何十人もの若い女性と関係して気を得ると長生きするとかいう説も見かけるが、一方でダンテス・ダイジは、不倫だと性愛冥想は成功しないとしていることから房中術の相手は最適最愛な一人である。
そして行為自体が問題ではなく、行為の後の冥想にこそ眼目があるのではないかと思う。すなわちメンタル体離脱に至る道は様々だが、メンタル体離脱以降は共通らしい。つまりセクシュアル・メディテーションにおいても、行為の後の冥想こそ本来の狙いなのではないかと思う。
OSHOバグワンは、性愛冥想について、いろいろなことを語っているが、行為の後の冥想にはあまり関心はないようだ。サンバラ(交合図)の原理は説くが、彼の教団のフリーセックスを咎めることに彼はあまり関心を持っていなかったのだろう。
将来学校で冥想道を説く場合、性愛の問題は避けて通れない。特に昨今、愛と性が完全分離しているが如くなのはどうかと思う。LGBTQ全盛のこの時代だが、本来愛と性は相伴って男女関係の基礎となり、人によっては、セクシュアル・メディテーションの土台にもなっていくもの。
なお求道としてのセクシュアル・メディテーションの道は極めて困難な道であり、あの釈迦ですら、その厳しさに忌避したという。