アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

思春期の見性

2023-10-07 06:44:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-03-05

◎見性から先へ

 

江戸時代の禅僧至道無難が、龍澤寺所蔵法語の中で、『ある頭の良い子供が「仏とはいかなるものか」と訊いてきたので、坐禅をさせたら何の心もなくなった。それを常に守ればよしと教えた。しばらくして、いろいろになった心を問うたら子供は納得して去ったという。

これについて至道無難は、『男女に限らずまず見性させてから坐禅すべきである。見性が十分にできたら、万事に対応することを教えよ。

悟ったと同時にそれを守らせよ。そうすれば悪念が出ることはない。長年この心を養えば道人となる。

悟ったと同時に万事はこれだと教えると、大方悪人になるものである。悟りばかりを守る人は、大方坐禅にとりついて律宗になるものだ。

大道を早く教えて良い場合と、早く教えて悪い場合とその人によって異なる。よくよく心得て教えなさい。誤ってはならない。』』とする。

 

この文は、至道無難の弟子の聞き書きなのだろうが、文が短すぎてややわかりにくい。

要するに、「何の心もなくなった」とは、見性のこと。見性は、見仏、見神と同義。見性は、十牛図で言えば第三図。見性は、冥想十字マップの水平サイドであって、まだ自分が残っているので、有想定または無想定。

見性は、それなりにビッグイベントだが、物事はこうなのだと固定的な教義を教え込めば大体悪人になるものであって、また、その体験にしがみつくと、戒律遵守専門家というつまらない方向に行くものだ、とする。逆に見性後に坐禅冥想を継続させ、その神秘なるものを守り育て蓄積していけば、やがて悪念が出ることがなくなり、道人(聖者)になる。

 

チベット密教でも、母の光明を見ることが見性にあたるが、これを守り育てて子の光明に仕上げて行くことが求められる。このような見性、見仏、見神体験を徐々に時間をかけて神人合一という見ている自分のない窮極に磨き上げて行く作業を聖胎長養とよぶ。

水平の道における思春期での悟りすなわち見性、見仏、見神体験は、期待されるべきステップだが、さらにそれを超えて進むべきなのだ。見性、見仏、見神体験に止まると逆戻りすることすらあり得る。

 

以下至道無難の道歌二首。

主なくて見聞覚知する人を いきほとけとはこれをいふなり

生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき

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