アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

科挙不合格組、不登校組-4-ダンテス・ダイジ

2023-10-23 07:29:48 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-03-04

◎日の国の純粋なきらめき

 

ノストラダムスの見た日の国の純粋なきらめきとは、ダンテス・ダイジのことであるとも言われる。

 

ダンテス・ダイジの意義は、ちゃんと理解されているとは言い難い。彼の講話を今読んでも彼独特の言葉の定義や概念はふんだんに散りばめられており、なかなか彼の宗教観、人間観の全容をつかむことは容易でない。

そうした中で、ダンテス・ダイジの事績をいくつか挙げてみると、

 

第一の事績は、クンダリーニ・ヨーガの窮極とそのプロセスの概要をイラスト入りで世に伝えたこと。(著書:ニルヴァーナのプロセスとテクニック)

これは巻頭に、クリシュナムルティがちゃんと世に聞き入れられれば、この本を出す必要がなかったとあるが、要するに20世紀後半にもっと悟る人が続々と出現すれば、出版する必要はなかったということ。

 

第二の事績は、只管打坐の身心脱落とクンダリーニ・ヨーガの中心太陽への合一を両方達成した釈迦以来の人物であり、人類救済の冥想の方向性として、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガ両方を推したこと。

これは冥想十字マップ的宗教観、冥想観に連動している見方。

禅では大悟小悟、見性などというが、ダンテス・ダイジ自身一生のうちに二回大悟するのは大変だみたいなことを言っている。二回も大悟する必要があるのかという疑問がまずあり、たとえば一回身心脱落(大悟)した道元が二回目にチャレンジしたかった風だったのはどうなのかという疑問すらある。クンダリーニ・ヨーガ系の真言密教の覚鑁は、9回も虚空蔵求聞持法にチャレンジしたというが、毎回大日如来(ニルヴァーナ)に合一したのかという疑問もある。また古神道家の出口王仁三郎は6回死んだが毎回神人合一できたのかという疑問もある。なお、神人合一時には、呼吸停止脈拍停止の肉体死が起こるとされる。

そうした困難さがある中で、ダンテス・ダイジは、只管打坐の悟りである身心脱落という体験とは言えない体験を経て、当時の愛人に「ちょっと、醤油を買いに行く」と言い残してインドに渡り、大聖ババジに道端で出会いクンダリーニ・ヨーガの窮極を伝授された、というのが二回目の大悟。

一人生において只管打坐とクンダリーニ・ヨーガの大悟を別々に体験せねばならなかったのは、トースとダンテスの合体をわが身で具現せざるを得なかったのだろうか。

 

第三の事績は、冥想の全体俯瞰図として冥想十字マップを残したこと。これは水平の悟りと垂直の悟り両方の道がわかって初めて理解できる。組織宗教・大衆宗教がトース系であり、個人あるいは少数グループの宗教がダンテス系とされるが、トース系が禅を含む只管打坐系かといえば必ずしもそうではなく、垂直の道である密教系(クンダリーニ・ヨーガ系)にも組織宗教・大衆宗教がある。またダンテス系にも、只管打坐系も密教系もある。

冥想十字マップを見れば、水平の道の最終段階である無相三昧と垂直の道の最終段階ニルヴァーナは同じなのだろうと思うが、それを交点としないで、「愛」を交点としたのが、人間への愛優先の教えが窺える。釈迦が四禅から涅槃に入ったのも同じ消息。

 

第四の事績は、霊がかりを排していこうという動きを始めたこと。これは戦後の大本系の新興宗教(生長の家、世界救世教など)隆盛の時代にあってはエポック・メイキングなことであった。

世の中には、ともすれば、霊能力者個人やカリスマを備えた個人を崇拝することで事足れりとする宗教信者、カルト信者が多いのだが、それを婉曲に否定している。

ダンテス・ダイジの基本姿勢は、誰か有名宗教家や他人の修行法について、まず否定はせず肯定するのが常だった。『それでも、いつかは窮極に至ることはできる』などと云って・・・・。真言立川流とか、宗教ではないが国家を邪境化する共産主義には否定的だったが、それは例外的である。

つまり彼は、その修行法が間違っていようが、彼の目からは誤った修行法に打ち込んでいる人も既に神であり、またそんな修行者も何生か後には大悟するという遠大なサイクルの下にそう言っているのだろうと想像される。

 

第五の事績は、出口王仁三郎と縁があり、鎮魂も修していたこと。その他「ご神業」みたいな凡俗には知りえないことも多々あったに相違ないが、知る由もない。

 

ダンテス・ダイジは、高校に入学したが学校に行くのがいやになって中退した。猛烈な読書や冥想の日々の中、さる古代ローマ時代のキリスト教の映画を見ていたら、あるキリスト者の殉教のところで、「それでも私は神を愛する」という言葉を契機に絶対愛に目覚めた。漫然と不登校だったわけではない。

 

生涯に二度大悟するということは二度死んだということで、もう文字通り生死出入自在だったということ。大悟すれば再度人間として転生することはないのだが、ダンテス・ダイジは、生前から残った寿命の半数を残して、残りをフロリダのビミニ沖に浮上するネオ・アトランティスにおける人生で使うと言っていた。

果たしてそのとおりに、ダンテス・ダイジは、37歳で坐脱。残り37歳をネオ・アトランティスで生きるのだろう。ダンテス・ダイジは自殺したわけではないことは、以上のような人生航路を知ればわかるのではないか。

 

ダンテス・ダイジは、現代日本を駆け足で走り抜けた超弩級の聖者であって、見る目のある人が見れば、日の国の純粋なきらめきだったのだ。

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